ベトナムの旅2008.1   −ハノイ・フエ・ホーチミン−

 

 20081月、ベトナムのハノイ、フエ、ホーチミンを訪れ、史跡を歩いた。以下はそのまとめである。

     ハノイの街

ハノイ市街の北をホン川が流れる。ハノイは漢字で河内と記すが、ハノイはこのホン川(紅河)のデルタにできた都市である。市内の各地にホアンキム湖などの湖が数多くあり、河口には港湾都市のハイフォンや世界遺産であるハロン湾がある。ハノイは11世紀はじめに李氏による大越国の首都となって以来、1000年の歴史を持つ。

ホン川の北にある飛行場から市内に向かうと日本企業の工業団地があり、ヤマハやホンダ、三菱などの看板が並んでいる。日系企業の進出ラッシュだ。

ベトナムの近現代史を見ると、19世紀中ごろからのフランス帝国主義の侵略によって、1883年に保護国とされ、1887年にはフランス領インドシナが成立している。ハノイにはフランス総督府がおかれた。このフランスの支配は1940年から45年にかけての日本の侵略をはさんで、1954年まで続いた。100年ほどのフランスの植民地支配とのたたかいがあった。

その後、アメリカが介入し1965年からは北爆によってベトナム戦争が激しくなるが、1973年にはアメリカは撤退した。1975年にサイゴン解放、1976年にはベトナムの統一が実現した。フランスの撤退後、ベトナムの統一に向けて20年余の歳月がかかった。北ベトナムの首都だったハノイは、統一ベトナムの首都になった。

ベトナム戦争でアメリカが使用した爆弾量は1600万トンといわれ、アジア太平洋戦争で日本に投下された爆弾量の100倍という。また、枯葉剤などの化学戦による大地の汚染は今も深刻な戦争被害を生んでいる。その後、ベトナムによるカンボジアへの侵攻や中国との紛争もあった。ベトナム戦争が終わって30年の今日、ベトナムは植民地支配と戦争による収奪の傷跡を越える復興の歩みのなかにある。

ハノイの街並みにはフランスの植民地支配を示す建築物が数多く残っている。ベトナムと中国と洋風が折衷されたような民家もある。新経済政策であるドイモイによって、外国資本が導入され、町には多くの商品があり、メイドインベトナムのソニーやパナソニックの最新の電化製品も店頭に並ぶ。ビル工事や道路工事も盛んである。ラッシュ時には交差点に450台のオートバイが並び、なかには子どもを乗せての4人乗りもある。排気ガスと埃が狭い街路に充満する。マスクをしているオートバイ運転手も多い。街頭では店先で人々が食事を取る。ベトナム帽子を被り天秤竿を担いで行商する女性の姿もある。数十年間が凝縮されているような風景だ。

 

     ハノイ・歴史博物館

歴史博物館周辺にはフランス式の建築物が多い。それはこの地域が1874年にハノイで初めてフランスへと割譲されたことによる。この地は1910年までフランス領事館・総督の公邸として使われ、その後フランス極東学院の博物館となった。現在の建物は1932年の建築であり、東洋と西洋が折衷されたインドシナ様式のものである。1954年のフランスの撤退によって歴史博物館となった。

この博物館の1階は旧石器時代や紀元前の青銅の銅鼓、装身具、甕棺などの展示から始まり、10世紀までの中国支配とその後に独立した呉王権をはじめ李・陳といった王国の歴史が展示されている。13世紀の3次にわたるモンゴルとの戦いを示す絵もある。紀元前5世紀頃のゴックルー銅鼓の文様はみやげのTシャツのデザインとしても採用されているが、太陽を中心に民衆の生活が描かれたものである。ベトナム北部の青銅器文化は紀元前2000年頃からはじまり、日本よりも2000年ほど早い。

2階には15世紀に明から独立したレロイの石碑の展示から始まり、複製だが17世紀のホイアンの交易図や千手観音像が展示されている。展示は阮氏の政権からフランスの植民地支配と続き、1945年の独立で終わる。骨で作ったムチも展示されていた。

2階の一角にはチャンパ王国の石彫が展示されている。チャンパはチャム族によるベトナム中部の国家であり、2世紀末から17世紀まで続いた。石彫はインド文化の影響を受けていて、踊るシバ神像や女性像などの曲線が美しい。

 これらの展示から、ベトナムでの民族と文化の形成と侵略との抵抗の歴史を知ることができる。近代の抵抗の歴史については革命博物館に詳細な展示がある。

 この歴史博物館の近くには植民地時代の建築である革命博物館、地質学博物館、市民劇場などがある。歴史博物館の横にある国防省の迎賓館は日本軍占領期には日本軍の司令部とされていた建物である。

 ハノイの大教会は1886年に寺院跡に建てられ、1900年に改築されている。清仏戦争によってフランスが清からベトナムへの支配権を奪い、フランス領インドシナを形成していくなかでの建設だった。この大教会は植民地支配の象徴である。

 

     ハノイ・革命博物館

革命博物館の建物は、かつては財務省の建物として使われていた。この博物館の設置は1959年のことである。館の展示は3部・27室にわかれている。第1部は1858年から1945年までのフランスの植民地支配との闘争の展示であり、日本の植民地支配下での餓死事件の展示もある。第2部は第2次大戦後の1945年から1975年におけるフランスとアメリカとの戦闘についての展示である。第3部は統一後のベトナムの国家建設を展示している。

 印象に残ったものは、フランス植民地支配下での民衆の抵抗闘争と弾圧、ベトナムでの民衆運動の人物像、日本の支配下での飢餓の写真、19458月の革命の状況、ベトナム戦争での爆撃の写真や実物などである。

 独立を求める人々や蜂起して捕えられた人々にかけられた首枷の写真や処刑されて首を切られた人々の写真はフランスの植民地支配の実態を物語っている。フランス革命以後の人権の歴史は植民地支配を示すこれらの写真とともに表現されねばならない。ハンボンチャイやリートゥトングの記事や1930年のゲチィン蜂起の展示などからは、独立や革命を求め、その夢を果たすことができずに死を強いられた多くの人々の姿を知ることができる。

1940年代前半の「フランスのコロニアニズムと日本のファシストとの闘い」という展示表現は、インドシナでの日本とフランスによる共同支配状況を的確に示す表現である。当時のベトミンの活動を示すチラシや旗、独立宣言文が展示されている。

 ベトナム戦争についてはボール爆弾・マグネット爆弾などの投下爆弾やガスマスクなどの展示がある。197212月などの北爆の写真も展示されている。

展示から抵抗と革命に生きた人々の足跡を知ることができる。

ベトナムでの近代の戦争を示す書籍としては『VIET NAM CUOC CHIEN 18581975』(ベトナムでの戦争・2001年)がでている。図版を中心に英語も併記され、110年余の抵抗の歴史を概観できる本である。なおベトナムの近現代史については、古田元夫『ベトナムの世界史』にその経過が要領よく記されている。

 ベトナム戦争で最大の北爆は19721218日から29日にかけておこなわれた。この12日間の空襲はハノイやハイフォンに大きな被害を与えた。爆撃は平和協定案が引き延ばされるなかでおこなわれたが、翌年127日にはパリで協定が結ばれた。アメリカは北の人民軍の撤退を要求せず、停戦とアメリカ軍の撤退や捕虜の解放が約束された。

 ハノイへの爆撃によってカムティエン通り、アンズオン住宅区、バックマイ病院などが大きな被害を受け、1300人以上が死亡した。カムティエン通りでは19721226日の爆撃では住民577人が死傷し1700戸以上が全半壊するなど大きな被害を受けた。カムティエン通りのバス停の近くに小さな公園があり、死者を追悼する母子像が建っている。爆撃を記した記事が入口にある。

 人の波とバイクの喧騒のなか、追悼碑の母子像は木々に囲まれ、陽の光を受けていた

 

● ハノイ・ホアロー収容所博物館

ホアロー収容所はハノイ駅から300メートルほど東にあった。この収容所はインドシナ総督府によって1896年に建設され、フランスの植民地支配に抵抗する人々を収容したものであり、北部では最大のものであった。フランスによるこの収容所の使用は1954年まで続く。1899年には500人を収容したが、1950~53年にはその数は増加し、2000人を収容した。ここに民族の解放や革命を求める数千人の人々が収容されて拷問をうけ、なかには処刑された人々もいる。ここは植民地支配のテロルの拠点だった。

フランスの撤退後、ベトナム戦争時の1964年から73年にかけてアメリカ軍の捕虜が収容された。

現在では収容所の一部が保存され、博物館になっている。監獄跡には収容者の人形が置かれ、拘禁具の足枷や処刑用のギロチンなどが展示され、屋外には脱獄跡の展示や追悼のレリーフがある。また、収容され処刑された人々の名前を記し追悼する部屋もある。

収容所で出している冊子によれば、この収容所にはハンボイチャウ、ホータンマウ、ロンバンカン、グエンチュエン、グエンルォンバンといった運動の指導者が拘束され、後の共産党の幹部になったグエンバンチュー、トゥロンチン、レドゥアン、グエンバンリン、ドムオイなども収容されていた。ギロチンで処刑された人のなかには、1930年のエンバイの蜂起の指導者でベトナム国民党のグエンハイホックや1931年に19歳で殺された共産主義青年同盟のグエンアントンらがいた。拘束状況の改善などの抵抗運動も取り組まれ、1932年、45年、51年には脱獄も実行されている。

追悼のモニュメントには、吊るされ、足枷や手鎖をはめられ、首を斬られ、獄中でやせ衰えた人々を想起させる姿が刻まれている。収容所で生を終えた人々の名簿がフランス領インドシナの真の歴史を物語る。歴史は彼らのまなざしから描かれなければならない。モニュメントはそのような想いを語りかけているようだった。

 

     ハノイ・200万人餓死追悼碑

過酷だったのはフランスの植民地支配だけではない。1940年から45年までの日本軍支配期に起きたベトナム民衆の飢餓も深刻な戦争被害である。いわゆる「仏印進駐」という日本の侵略は日仏共同支配の形をとりつつ、フランスを日本の収奪の下請けにした。19453月にはフランス軍へのクーデターによって日本軍が直接支配をおこなうようになる。このクーデターの際にはアンソンで多くのフランス兵が日本軍によって処刑されるという戦争犯罪も生まれた。収奪の強化はベトナム民衆に飢餓をもたらした。死者数は200万人という。

このときの死者を追悼する碑がハノイの南方のハイバーチュン区のハプティン(合善)墓地にある。墓地はキムグー通りを南下し、路地に入った奥にある。

ここに市民有志によって追悼碑が建てられたのは19514月だった。現在では市街地になっているが、当時は農地であり、この地に多くの人骨が埋葬された。2003年には碑の横に記念館が建てられた。記念館の中には追悼のための壇が置かれ、死者の骨や埋葬状況を示す写真も展示されている。記念館の追悼文には日仏の支配の中で200万人が餓死したことが記されている。

日本によるインドシナ支配に対しベトナム独立同盟(べトミン)が出した1941年のアピールをみると、「フランス侵略者の牛馬であることに加えて日本人略奪者の奴隷となった」という一節がある。日本の占領により日仏共同支配の形をとりながら、米・とうもろこし・大豆・ジュート・ゴム・亜鉛・石炭・マンガンなどが収奪された。二重の搾取により、ベトミンがいうように、ベトナム民衆の奴隷化がすすんだのである。

1945年の飢餓はこのような搾取の中で起きた。凶作に際しても米の収奪がおこなわれ、ジュートの強制栽培による米作耕地の縮小と南からの米の輸送の途絶のなかで、農民が餓死を強いられたのである。ベトミンは「日本軍の食料庫を襲撃しもみを取り返せ!一粒のもみも国賊どもに渡すな!日本軍に動員されている同胞はすぐに脱出せよ!」と呼びかけている。北部のタイビンなどで餓死の被害が多かったが、日本の敗戦以後の8月革命につながる民衆蜂起はタイビンからという。

200万人餓死の研究書を記したバンタオさんの話を聞く機会があった。バンタオさんは82歳、ベトナム歴史研究所の教授をつとめた。1947年の独立闘争期からの共産党員でもある。バンタオさんは東京大学の古田元夫さんと1990年代前半に餓死の共同調査をおこない、『NAN DOI NAM 1945 O VIET NAM』(ベトナム1945年の飢餓)という本を1995年に出版した。この本は2005年に装丁を変えて社会科学出版局から再版された。バンさんたちは各省の村々での死亡状況を調査し、当時の写真や死者の名簿も収録した。

バンタオさんはいう。

飢饉は、日本の収奪、凶作、爆撃による鉄道破壊、フランス軍による収奪、ゲリラ拠点弱体化のための食糧収奪によるものという。農民は飢餓の原因がわからなかったが、ベトミンの宣伝で自覚した。女性や子どもの死者が多い。飢餓状況の中で人肉食さえ生まれ、汚物や馬の糞のとうもろこしまで食べるものもいた。日本軍兵士のなかにはベトナムに残り、ベトミンと行動を共にした人もいた。

1983年に来日したときにはベトナム政府から賠償の話はしないようにいわれた。広島などを訪問し日本人の反戦意識を知った。日本人のベトナム反戦運動はよく知っている。日本は敗戦後努力し先進国になった。帰国して学生に経済成長を呼びかけた。日本に留学する学生も多い。しかしIT技術のほうに目が行き、歴史に関心がなくなる傾向もある。機会あるごとに政府は歴史を宣伝している。ホーチミン主席が言ったように、互いに理解して団結することが大切だ。

この本を出版するとBBCなどが取材し特集を組んだ。日本によるベトナムでの学校や病院、橋や発電所の建設もすすんだ。日本では戦争を賛美する動きがあるが、日仏の共同統治が飢餓を生んだことをみれば、この戦争がアジア解放のものでなかったことは明らかだ。歴史は認めるか認めないかの問題ではなく、事実なのだ。

ベトナムは中国・インドの文化の影響を受け、フランスやアメリカと戦争をしたが、いいところは学んだ。日本からも学んでいる。今ベトナムは歴史上10回目の大きな経済改革のなかにある。

以上がバンタオさんの話の要約である。

日本はフランス総督府を下請にして安価で強制的に米を買い付け、ジュートなどの戦略物資栽培のために米の作付面積を減らした。そこに凶作や輸送線の寸断が重なり、多くの飢餓者が生まれた。その死亡状況をバンさんは現地調査で明らかにしている。

1992年の調査報告は古田元夫「ベトナムの一村落における1945年飢饉の実態」の形でまとめられている。この報告は地方史研究の進展をふまえて地域での飢餓の実態を明らかにする試みであり、ハノイ南東のタイビン省タイルオン村ルオンフーでの1945年での各戸ごとの家族数と死亡者数を復元している。

この調査では、ルオンフーの1379人の内594人が死亡し、これは人口の4割以上となる。死者の多くが飢餓によるものである。ルオンフーでは従来の1割程度という秋作の不作と米の強制買い付けが飢餓を増やした。他の地区では、タイオルン村トゥオンのチャイでは130人中103人、チュンティエンのボイスエンでは231人中139人が死亡している。タイルオン村全体の死者は村史では3968人である。タイルオンでの対フランス、対アメリカとの30年の戦争での死者は511人であり、1945年の日本支配下での飢餓での死者の多さがわかる。地方史の研究ではタイビン省全体では28万人、ハイフォン市とキエンアン省で6万人、ハナムニン省で30万人の死という。

この問題では、日本では早乙女勝元『ベトナム‘200万人’餓死の記録』があり、古田元夫「ベトナム現代史における日本占領」(『東南アジア史のなかの日本占領』所収)には共同調査での23ヵ村の死亡状況の表が収められている。しかし、これら以外の資料は少なく、各地での実態調査がいっそうすすみ、それが日本でも紹介されることを願う。

なお、20058月にはホーチミン市の永厳(ビンギェム)寺などで追悼会が持たれている。

ドイモイによる経済改革は外国資本の流入、建設ラッシュとバイクの波をもたらした。このグローバリゼーションとの結合による現代化はあらたな階級格差を生んでいる。ベトナムの「経済成長」はこの矛盾をはらみながら、新たな人間の運動を形成していくことになるだろう。

 

●ハノイ・平和村

ハノイのタンシャン(青春)区の自然科学大学・社会人文大学の近くに平和村がある。平和村は子どもの枯葉剤被害者を治療するケアセンターである。

ベトナムの南北分断の中で南の解放運動への支援路として「ホーチミンルート」が建設されたのは1959年のことだった。アメリカは196111月、このルートを破壊して解放勢力を攻撃するために枯葉剤の撒布を決断した。翌62年から南ベトナム各地で枯葉剤の撒布が始まり、1971年までに2万回の空襲がおこなわれた。それにより南ベトナムの20パーセントにあたる600万エーカーの土地に枯葉剤が撒かれた。被害を受けた村落は3118箇所以上、被害民は210万人から480万人という。ベトナムでは枯葉剤由来の患者が480万人、100人が高度の被害にあり、内70万人が障碍を持つ子どもという(ミードアンタカサキ「ベトナムの枯れ葉剤・ダイオキシン問題・解決の日はいつ」による)。汚染の激しかったクアンチーのカムロでは障碍児は4倍、コンソム省では40万人中8000人近い被害があるという。

アメリカでは293千人という元アメリカ兵が訴訟に立ち上がり、大統領クリントンが枯葉剤による被害を認めたのは1996年のことだった。1978年のアメリカ兵士の訴訟では1985年に1万人の原告に薬剤会社が1億8千万ドルを支払っている。ベトナム人がアメリカ企業に賠償を求めて訴訟に立つとアメリカ司法省はかつての敵から提訴され開廷すると「大統領の戦争遂行権限に対する危険な脅威になる」とし申立、裁判所は訴えを棄却した。

ベトナムには平和村がたとえばホーチミンとハノイにあり、ハノイ近郊に友好村、フエにもケアセンターがある。平和村は南に5箇所、北に3箇所の計8箇所にある。活動は市民団体や宗教団体の支援基金によるものが多い。

ハノイの平和村では院長のフォンさんと医師のダンさんに話を聞いた。

この平和村はドイツのNGOの支援で1991年に設立され、政府からの支援もはじまった。日本人の団体は設備拡充や治療維持のための資金や文具などの学習用具の支援をおこなってきた。松本マサ子さん(ベトナム・ハノイ「平和村」枯葉剤障害児支援の会)の支援で新たな治療室ができたところだ。日本に来て治療を受けたガーちゃん(早乙女勝元『枯葉剤とガーちゃん』でも紹介)はここで暮らしている。いまスタッフが45人、子どもたちは200人が生活している。治療だけではなく音楽やパソコンなどを教える教室もある。寮があり、近所の子は週末に帰宅し、遠隔地の子どもはここに住んでいる。すでに3000人がここで生活し、四分の一が社会に復帰した。

受け入れに当たり、父母が兵士であったとき被散布の体験があるか否か、親が被害によって得た治療の領収書類、血液のダイオキシン濃度のチェックなどをおこなっている。ダイオキシン濃度が通常と比較して300倍もあるケースもあるという。

子どもの生活は朝6時に起きて部屋を掃除、7時に朝食を食べて8時から授業となり、午後は知能や運動の回復訓練をおこなう。小学校のプログラムを終えると近くの中学校で半日学習し、その後平和村に戻って治療をする。現在の平和村の生徒の70パーセントが脳に障碍がある。医者が地方に出張して治療することもある。地方で治療しつつ、看護士にリハビリや治療方法を教えている。大学の学生が実習に来ることもある。他国のボランティアの学生も来る。

枯葉剤の影響は世代を超えていまもあり、その被害者は多く、その治療費用を政府は負担しきれない。家族は田舎暮らしで貧しい人々が多く、他者の支援が必要である。大変な症状の子どもは死亡した。研究者はこの枯葉剤の影響は数十年続くとみている。資金が足りないときには子どもを家に帰している。

 このような話を平和村で聞いた。

最後に院長のフォンさんは「平和の大切さを皆さんに伝えてください。苦しむ人々を助けてほしい。お金だけではない支援の活動を。古いものといって捨てないで送ってください」と語った。フォンさんの知的で真摯な姿勢が印象に残った。平和村への寄せ書きを渡し、子どもとさよならの握手をし、平和村を出た。

ベトナムでは『VI NOI DAU DACAM』(枯葉剤の被害)が2006年に出ている。この本は枯葉剤被害者の現状を示す写真集であり、枯葉剤の散布から現在に至る経過と現状を知ることができる本である。枯葉剤という化学戦によるベトナムでのアメリカの戦争犯罪に対する謝罪や賠償はまったくおこなわれていない。考えてみれば、原子爆弾の被害や劣化ウラン弾でも同様だ。日本もアジアの戦争被害者には個人賠償を拒否している。

旧敵国の戦争被害者への個人賠償に対応することが、大統領の戦争遂行権限を危険にするものであるというアメリカの主張は、戦争の本質を示すものである。21世紀を、戦争被害者への個人賠償を実現させ、「国家の戦争遂行権限」を民衆の鎖でがんじがらめにしてしまいたいと思う。被害者にとって戦争は今も続いている。

平和はベトナム語で「HOA BINH」(和平)と書く。平和とは戦争の終結だけではなく、相手国の戦争被害者に対するケアの実行からはじまると思う。

 

●ハノイ・ホーチミン廟と烈士墓

タイ湖(西湖)の南にはホーチミン廟がある。ここにはホーチミンの死体が保管され、人々がそれを見る。ハノイの一角にこの大きな建物があり、公園になっている。ここはインドシナ総督府がおかれた場所であり、独立宣言がおこなわれた場所でもある。廟に入るには鞄を預け、所持品検査を受ける。4角の暗い小さな部屋にホーの死体は横たわっている。その4角に警備兵が銃剣を持って見張っている。ホーの顔は白く、赤い色の光で彩色が加えられている。そのまわりを人々は手を伸ばして無言で歩いてまわり、外に出る。外には「偉大なホーチミン主席はわれわれの事業をいつまでも」「ベトナム社会主義共和国万歳」の字の入った赤い垂れ幕。

ホーチミンは死後の火葬と分骨土葬を求めたが、共産党官僚はレーニンの遺体の保存方法に学び、米軍の撤退後の1975年にバディンからここに運んだという。おかれている体は偽者という噂もある。廟の近くにはインドシナ総督府の建物が残る。その近くにホーチミンが暮らしていた建物が残されている。

ホー自身は個人崇拝につながる志向は薄かったとみられるが、現在ではホーチミン思想が宣伝され、貨幣にはホーの顔が並ぶ。ソ連崩壊とドイモイの政策のなかでこの「ホーチミン思想」が宣伝されるようになっている。共産主義や社会主義はその思想と運動において個人崇拝を否定するものであると考えるが、このような装置をみているとかえって「共産主義」への違和感が増幅する。

ホーチミンについては記念館が日本語の『ホーチミン主席、経歴及び活動』を出している(2007年)。ラディボートンの『HO CHI MINH A JOURNEY』(2007年)はホーチミンとベトナム民衆の抵抗を記した英文の図録であり、写真や地図などを多く含むわかりやすい書籍である。

ハノイには戦争で死んだ人々を追悼する「烈士墓」がある。大きなものは郊外にあるが、小さなものが西湖の西側にあると聞き、タクシーに乗って探した。ひとつは大きな道路沿いにあり、ひとつは狭い道路に入ったところにあった。道路沿いにあった碑は2002年に建てられた屋根の付いた追悼烈士墓であり、氏名・生年・入隊日・死亡年が記されている。1946年から1984年までのフランス、アメリカ、中国との戦争での死者60人ほどの名が記されている。もうひとつの烈士墓地には功績を祖国が記す旨を刻んだ塔があり、屋根のある建物の中に同様の3つの墓石が置かれていた。各地の村や郡にこのような墓石があるという。

烈士墓については最近、住村欣範「ベトナムにおける戦争の記憶とトラウマ」(『トラウマ的記憶の社会史』)が記されている。

500万人を超える独立と統一にむけての戦争死者のうえにホーチミンの存在はある。継承されるべきは、戦争死者一人ひとりと遺されたものたちの数えきれない想いでなければならないと思う。

 

●非武装地帯・クアンチー・ベンハイ川・ヴィンモックトンネル

1954年のジュネーブ協定によってベトナムは南北に分断され、1955年にはアメリカのテコ入れで南にベトナム共和国が作られた。南北分断により北緯17度線のベンハイ川を境に分断線が引かれ、幅10キロ、全長60キロに及ぶ非武装地帯(DMZ)が設定された。この非武装地帯周辺はベトナム戦争期には激戦地になった。

今回は、クアンチーの戦争遺跡と烈士墓、ベンハイ川のヒエンルーン橋、住民が避難したヴィンモックトンネルをみた。これ以外の戦争史跡としては、激戦地のロックパイルやラオス近くのケサン基地跡などがある。フエから非武装地帯に行く途中、烈士墓が数多く道路沿いにあり、不発弾による被害の注意を促す看板もみられた。

クアンチーの町は1972年には激しい戦闘がおこなわれた。原爆8個分という爆撃がおこなわれ、枯葉剤被害も多い。多くのベトナム人が生命を失った場所であり、烈士墓が数多く点在し、枯葉剤被害者をケアする平和村もある。

1972年にはクアンチーで81日間の攻防がおこなわれたが、そのときの戦闘の激しさを示す建物がロンフン教会である。壁にはいくつもの弾痕が残り、窓や壁は撃ち抜かれている。立てこもる解放軍への攻撃がおこなわれた跡という。ボデー(菩提)小学校の建物も1972年の戦闘を物語る遺跡である。小学校の鉄骨は折れ曲がり、コンクリートに大きな穴が開き、窓は吹き飛ばされ、屋根にも銃弾の貫通痕が残る。今では廃屋が造園用草木の店舗に利用されている。タッハン湖畔には記念碑が建てられている。ドンハの町を過ぎると通信兵の大きな記念碑がある。

この地域は当時のアメリカの国防長官の名をとってマクナマラ・ラインと呼ばれ、地雷や榴弾砲、電波探知機など多くの兵器が設置されていたという。

 クアンチー近くの烈士墓には多くの墓石が並んでいる。中央に追悼の塔が立ち、右前方には無名戦士の墓石が数多く並ぶ。戦争によって名前も奪われた人々も数多い。塔の近くには1940年代後半の活動で死亡した共産主義者の墓石も置かれている。墓石をみていくと1972年の戦闘で死んだ人々が多く、皆若かったことがわかる。一つひとつの墓石は語り尽くせない数多くの個々人の歴史を示し、中途で断ち切られた生の可能性を語りかける。想像しきることができないその歴史の重さは訪れるものに厳粛な想いを与える。

分断線であったべンハイ川のヒエンルーン橋は1967年に米軍の空爆で破壊されたが、1973年に再建された。今では古い橋の横に新しい橋がある。南側には国連軍の監視塔が残り、北を望む大きな母子像が建てられている。北側には宣伝塔、トーチカなどが残り、宣伝用大型スピーカを置いた記念館もできている。統一を記念した大きな円形状の建物があり、上には赤地に黄色い星のベトナム旗が翻っている。建物の周辺には抵抗する民衆が描かれている。

今では自由にトラックやオートバイが橋を行き来している。平和な風景が広がっているが、見学者を見つけて商売にきた子どもの指には枯葉剤の影響がみられた。枯葉剤の撒布地図をみると軍事境界線に沿って多量の枯葉剤が撒布されていることがわかる。枯葉剤や強力な兵器は独立や解放を求める人々の心を変えることはできなかった。しかし枯葉剤の汚染はいまも人々に深刻な被害を与えている。

べンハイ川の北側にはヴィンリン地区がある。この地域は南に対面する前線であり、南への支援の拠点であった。そのため、米軍による激しい空爆にあった。人々はトンネルを掘りめぐらせて抵抗した。海岸近くには住民がアメリカの空爆から逃れて掘削したヴィンモックトンネルが残っている。このトンネルは1966年から67年にかけて掘られ、距離は延べ2キロほど、深さは10メートルを超えるところもある。13の出入り口を持つこのトンネルは住民の生活用に使われ、手術室や学習場、集会場もおかれていた。

トンネル入り口には記念館があり、周辺のトンネルの地図や当時の写真、生活用具が展示されている。売店には「VINH LINH」「QUANG TRI」「HIEN LUONG」の冊子があり、そこには英文の記事もあり、ヴィンモックトンネル、クアンチーの戦闘、ヒエンルーン橋とベンハイ川の状況を知ることができる。これらの冊子は2005~7年の刊行であり、新しいものである。

トンネルの周辺には空気穴、防空壕、塹壕、被弾した木、投下爆弾の残骸なども残されている。トンネルは暗く深い。そこはベトナム民衆の抵抗精神の強さをもの語る遺跡である。

 

     フエの歴史遺産

フエはベトナム中部にある。19世紀以来、阮氏の政権の拠点となったところであり、王宮や皇帝廟が置かれている。王宮がある旧市街と新市街の間をフーン()川が流れる。

19世紀はじめから20世紀前半までに13人の皇帝がでた。最初の皇帝はザーロン(嘉隆)2代目はミンマン(明命)という。この頃はキリスト教を弾圧するなど権力が強かったが、4代のトゥドゥク(嗣徳)の頃からフランスによる侵略が強まった。ベトナムが「保護国」になる時期の1983年から84年には、1年ほどで皇帝が4人も替わるなど、支配は混乱し、フランスによる植民地化がすすんだ。8代のハムギ(咸宜)は奥地に立てこもって抵抗して流刑となり、フランスは9代ドンカン(同慶)を立てた。ドンカン末期の1878年にフランス領インドシナが成立する。1011代のタインタン(成泰)、ズイタン(維新)は第1次世界戦争でのフランスの弱体化のなかで抵抗計画を練って流刑となっている。その後、12代のカイディン(啓定)13代のバオダイ(保大)と続く。

フエには皇帝廟があるが、権力の絶頂期の2代ミンマン(明命)廟はベトナム風の建築であるが、フランスの支配下にあった12代カイディン(啓定)廟はフランス様式を反映する建築である。

王宮は中国の紫禁城を模倣して建設され、フランスの城郭の影響を受けながら、ベトナム独自の建築様式が採用されている。当時の面影を残す建築が入り口の午門である。正面中央の入口は皇帝だけが使用した。この午門はバオダイが1945年に退位を宣言したところでもある。19681月末からのテト攻勢によってフエは一時解放軍が占拠し、米軍との激しい戦闘が繰り広げられ、この王宮の多くが破壊された。門から奥にすすむと建物が崩壊した跡が数多くある。銃撃の跡が壁に残る。古くからの建物と再建された建物が混在している。未再建の箇所も多く、修復と再建が望まれる。

沢田教一の写真集には19682月のフエでの戦闘を写したものが収録されている。そこには瓦礫のなかの兵士、破壊された民家、傷ついた市民の姿がある。

ティエンムー(天姥)寺は王宮から4キロほどのところにあり、歴代阮氏が修築・増築をおこなってきた寺である。伝承によれば、老女が「王が現われ、国家の繁栄のために仏寺を建てる」と予言し、それを伝え聞いた初代阮氏が1601年に寺を創建したという。正面には7層8角の福縁塔があり、その横には歴代皇帝による塔がある。奥には仏殿があり、「広運慈心」「神道智勝」「霊鷲高峰」といった文字が掲げられている。来訪者が平和や家族の幸せなどさまざまな願いをそこで念じている。寺の中には、南ベトナム政権による仏教弾圧に対し、19636月にサイゴンで焼身して抗議した僧クアンドゥク(広徳)が使用した車と当時の写真も展示されている。クアンドゥクはフエのこの寺の僧侶だった。

寺の階段を下りると、フーン川の船着場があり、そこから市街へと観光船が行き来している。舟に囲いをかぶせた小さな数人乗りのベトナム船が漁をし、土砂を運ぶ船もある。老女が地鶏を乗せたものもある。

フエの書店には『HUE XUANAY』という戦争犠牲者の本やフエの世界遺産の写真集があった。フーン川の静かな流れを前に、フエの歴史に思いを馳せた。

 

     ホーチミン市・戦争証跡博物館

ホーチミン市は熱帯にあり、冬でも気温は20度、人口は700万人といわれ、ベトナム最大の都市である。人口増にともない各地でインフラ建設がすすんでいる。オートバイや車は多いが、ハノイに比べ道路は広い。タンソンニャット新ターミナルは日本のODAで建設され2007年の8月から国際空港として使用されている。ホーチミン市では戦争証跡博物館と統一会堂などを見学した。

ホーチミンの街には大聖堂、郵便局、市役所などインドシナ総督府時代の建物が多く残る。統一会堂は1962年の建設であり、南の大統領官邸だった。地下には秘密の軍事施設、屋上にはヘリポートが作られた。1975430日、解放軍はここに戦車で乗りつけ、南ベトナム政府は崩壊した。現在では政府が使用し、半分ほどが見学地となっている。

戦争証跡博物館は8つのテーマで展示されている。1はベトナム侵略戦争の歴史・真相、2は「回想録」として戦場で死んだ134人の写真家の写真を展示し、3は戦争犯罪と後遺症を300万人の死と枯葉剤や虐殺などで示し、4は投獄状況をギロチンや「虎の檻」などで示し、5は石川文洋と中村梧郎の2人の写真の部屋、6はベトナム人民への国際的支援、7は子どもたちの絵、8は屋外でのアメリカの武器の展示である。

2の「回想録」では、銃弾が貫いた一ノ瀬泰造のカメラの写真をはじめ、沢田教一、ラリーバローズ、ダナストーンらの写真が並ぶ。従軍しながらも、戦争の真実を写し取り、それを世界に発信しつづけた人々のまなざしは、民族を超えて共感を呼ぶ。

3の戦争犯罪での展示では枯葉剤による汚染状況を描いた地図が展示されている。クアンチーからフエ、国境のホーチミンルート、南部の森林地帯に大量に撒布されたことがわかる。顔や体の形を伝える情報を破壊されて生きることができなかった子どもたちは数多い。ホルマリンに入れられて展示されている2体はそれらの多くの失われた命に繋がっている。それは見るものに戦争の責任を問い、終わることのない民衆の戦争被害への取り組みを呼びかけているように思う。

4では、フランスの植民地支配で使われたギロチンがその後も使用され、監獄での戦時での激しい拷問を展示している。5の部屋の2人の日本人写真家の展示では、2人へのベトナムの人々の敬意を感じる。それぞれの誠意ある表現活動が国境を越えて理解されている。6には国際的な支援運動について各国のポスターや寄せ書きが展示されている。

ベトナム戦争では、燐光弾、ナパーム弾、ボール爆弾、釘爆弾など、殺害のためにさまざまな兵器が開発され使用された。屋外には米軍の戦車や攻撃用ヘリとともにBLU82 ,CBU55も展示されている。BLU82はデイジーカッターなどとも呼ばれ、半径500メートルを吹き飛ばし、平地にする6,8トンの巨大な爆弾だ。生物を窒息させ内臓を破壊しなぎ倒すこの爆弾は今も使われている。CBU55は燃料気化爆弾であり、可燃性の液体を撒布し起爆させることで周辺の空気を焼き尽くし衝撃波をもたらす。それにより直撃をさけた人間にも被害を与えるというものだ。ともにその使用は大量殺戮につながるものである。

展示写真や実物には迫力がある。ここに展示されているものよりも強力な兵器が開発され、ベトナム戦争時のような報道がないなかで、さらに大きな破壊と殺戮がイラク・アフガン戦争ではおこなわれている。多くの展示物は、情報が操作されてみえないなか、想像力を持って現実を読み解き、現代の戦争を止めていく意思と行動を呼びかけているように思った。

                           2008.1(竹内)

以下、参考文献

古田元夫『歴史としてのベトナム戦争』大月書店1991年、古田元夫『ベトナムの世界史』東京大学出版会1995年、古田元夫「ベトナムの一村落における1945年飢饉の実態」(『歴史と文化』18・東京大学教養部1994年)、古田元夫「ベトナム現代史における日本占領」(倉沢愛子編『東南アジア史のなかの日本占領』早稲田大学出版部1997)、早乙女勝元『ベトナム‘200万人’餓死の記録』大月書店1993年、早乙女勝元『枯葉剤とガーちゃん』草の根出版会2006年、沢田教一『ベトナム戦争』くれせんと出版部1997年、『ベトナム戦争の記録』大月書店1988年、中村梧郎『戦場の枯葉剤』岩波書店1995年、ミードアンタカサキ「ベトナムの枯れ葉剤・ダイオキシン問題・解決の日はいつ」(『東西南北2006』和光大学総合文化研究所年報2006)、住村欣範「ベトナムにおける戦争の記憶とトラウマ」(『トラウマ的記憶の社会史』明石書店2007)、伊藤千尋『観光コースでないベトナム』高文研1995年、『現代ベトナムを知るための60章』明石書店2004年、十菱駿武・菊池実『続・しらべる戦争遺跡の辞典』柏書房2003年、

VIET NAM CUOC CHIEN 18581975』(ベトナムでの戦争)民族文化出版局2001年、バンタオ・古田元夫『NAN DOI NAM 1945 O VIET NAM』(ベトナム1945年の飢餓)社会科学出版局2005年、『VI NOI DAU DACAM』(枯葉剤の被害)ソンタン出版2006年、『ホーチミン主席、経歴及び活動』文化情報出版2007年、ラディボートン『HO CHI MINH A JOURNEYGIOI出版2007年、『VINH LINH』、『QUANG TRI』、『HIEN LUONG』、『HUE XUANAY2007年、他。