コスタリカの旅  2008.8

 

 日本からアメリカまで13時間、アメリカから4時間の飛行で中央アメリカにあるコスタリカに着く。以下はコスタリカの旅のノートである。

 

1 サンホセの街

 

 中央アメリカにあるコスタリカは北緯8度から11度に位置する熱帯の国である。コスタリカは16世紀にスペインの植民地となり、グァテマラ軍務総監領に編入された。植民地化のなかで先住民族は抵抗し、その後、激減した。コスタリカは中米連邦の1州として1821年に独立した。その後メキシコ帝国に中米連邦は併合されたが、コスタリカは1838年に連邦から離脱して独立し、1848年には共和国を宣言した。その後、近代化と自由主義化がすすみ、市民の権利意識も高まった。1930年代には社会主義運動や労働運動も盛んになり、1940年代前半に社会改革もすすめられた。

2次世界戦争後の内戦を経て、コスタリカは軍隊を廃止した。1980年代にはコスタリカは非武装中立政策をとり、中米の和平を呼びかけた。民主主義の歴史的蓄積が平和と人権を支えるが、それは民衆の思いを反映したものである。

コスタリカの首都であるサンホセはスペインの殖民都市であり、その歴史は1737年にさかのぼる。サンホセは1150メートルの高地にあり、気温は20数度で涼しい。このサンホセはタバコやコーヒーの取引で発展した。19世紀に建てられた古い建物も残っている。

早朝、古い教会であるメルセー教会の中に入った。ステンドグラスが朝日を受けてさまざまな色を内部に放っていた。そこで人々が祈りをささげる。内部は静謐であり、内心を澄ますことができる場となっている。

ラテンアメリカの教会からは民衆の神学が生まれたが、このような場で民衆と交流し民衆の側にたった思想と運動がうまれていったのだろう。

街の中央には国立劇場がある。建設は1890年から1898年にかけてであり、コスタリカで民主主義が高まり、新たな憲法が生まれた時代である。文化を創り、交流する場をこの地の人々は求めた。大理石による建築はヨーロッパから技師を招いておこなわれた。中に入ると踊りと歌の女神像が置かれている。

天井にはコーヒー栽培と収穫の絵が描かれている。この絵が記された古い紙幣もある。西欧風の衣類を着用させてコーヒーを積む女性を描くなど、実際とは違う風景が描かれている。それは書かれた時代の意識を反映し、スペイン系農園経営者を中心にしての社会統合を示すものである。

この会場はさまざまな活動の場として使われ、1983年のコスタリカの中立宣言もここでおこなわれた。

この劇場の前には宿泊用のグランホテルコスタリカがあり、この建築も古いものである。また、郵便局の建物も古いものであり、内部には先住民族の像が置かれていた。この建物の前には建国を象徴する碑がある。

国立博物館の建物は、かつては軍の司令部の建物であった。内戦による軍隊の廃止にともなって今では博物館に転用されている。見張り用の塔には内戦時の銃撃の跡が残っている。軍隊の廃止を宣言したフィゲレスは大きな鎚で建物を破壊するパフォーマンスをここでおこなった。この建物は内戦とその後の軍隊の廃止を示す史跡でもある。

 博物館内には蝶と植物の園やコスタリカの歴史展示があった。ここの歴史展示は、先住民族の風俗と鳥・蛙・蛇・ハチドリなどを形象した金細工、先住民族とスペイン人との闘争の絵、植民地の形成状況、入植受刑者への足枷、1821年の独立章、コーヒー生産、鉄道敷設の経過、1940年代の社会改革、フィゲレスの武装蜂起、先住民族の居留区などがあり、わかりやすい展示だった。とくにコスタリカの独立章から軍隊の廃止以後に槍や砲などの武器が消されたという経過が興味深かった。

 

2 軍隊の廃止の経過と中立政策の展開

 現在のコスタリカの政治的基礎は、1948年のフィゲレス派の蜂起とそれによる革命評議会の成立と憲法制定によるものであり、その延長に中立政策が生まれている。この経過についてまとめておこう。

コスタリカでの20世紀の社会改革の動向はつぎのような経過である。

1919年に、ティノコの軍事独裁へのホルへボリオ神父らの武装蜂起があった。ホルへボリオはキリスト教社会主義者であったが、改革党を組織し、労働者にも影響力をもった。1927年にこの改革党が分裂し、左派は1931年の共産党の結党に合流した。1940年に民族共和党のカルデロン政権が成立すると、共産党は人民戦線の立場からこれを支持、カルデロンは国立コスタリカ大学の設置、社会保障制度、団体交渉権の保障、貧農救済、協同組合運動の奨励などの社会改革政策をとり、ドイツなどの枢軸国に宣戦した。政権を支持していた共産党は1943年に人民前衛党になった。

 このなかで、フィゲレスは1942年にカルデロン派とカトリック教会、共産党のブロックをいつわりの同盟として非難し、弾圧されてメキシコに追放された。恩赦で戻ったフィゲレスは民主行動党を組織、1945年には知識人グループと合同し社会民主党を結成した。1948年の大統領選挙では保守派のウラテと共和党のカルデロンが対決し、ウラテが得票で勝つとカルデロンは選挙の不正・無効を訴えた。カルデロン派の強い議会は選挙の無効を宣言したが、これを機に武装蜂起の準備を整えていたフィゲレスは国民解放軍の名で蜂起した。他方、人民前衛党は共和党の政府側にたち労働者の武装軍を組織して抵抗した。

アメリカの反共の圧力とカリブ軍団の介入によって共和党政府は屈服し、フィゲレスを議長とする革命評議会ができた。フィゲレス派とウラテ派によるこの評議会は人民前衛党とコスタリカ労働者委員会を非合法化し、旧政府幹部の資産を没収し国外に追放した。他方、カルデロン政権の改革路線を継承して、女性の参政権やアフリカ系市民の権利を認め、民間銀行・保険会社を国営化し、軍隊を廃止した。1949年に新憲法が制定されることで常備軍の廃止が確定し、ウラテが大統領になった。

フィゲレスは社会民主党を核に国民解放党を結成し、ウラテを批判し、1953年に大統領となった。フィゲレスは権力を握り、ウラテの国民連合党との2大政党制のもとでコスタリカの政権が維持されていくことになる。共和党が合法化されたのは1961年、選挙への参加は69年のことである。フィゲレスは1975年にCIAとの関係を認めている。この内戦の過程で2000人が生命を失った。

このような経過から、軍隊の廃止は蜂起したフィゲレスらの権力維持のためであったことがわかる。しかし、このアメリカの力を受けての軍隊の廃止は新たな平和の志向を生み、コスタリカを不武装中立主義の方向へと向かわせることになった。

1974年に大統領となった国民解放党のオドウベルは外交政策を転換し、キューバとの外交を再開、人民前衛党を合法化し、ニカラグアのサンディニスタを支持する側にたった。

コスタリカの経済は悪化し、1981年に対外債務の利払いを停止しIMFの管理下に入った。アメリカは経済支援と引き換えに「防衛協力」を強要した。コスタリカの国境地帯はニカラグアへの反革命軍の拠点となった。コスタリカ領からニカラグアへと反革命のコントラが出撃するようになり、アメリカは国営の銀行業務の自由化も要求した。

このようなアメリカの圧力と軍事介入の中で、1983年にモンヘ大統領はコスタリカの永世、積極的、不武装の中立に関する大統領宣言を出し、それを国民投票にかけて支持を得た。このモンヘの後を受けて、1986年に大統領になったのがアリアスである。アリアスはアメリカと対決する姿勢を示し、コントラの拠点となっていた国境近くのジョンハル農場の封鎖を通告し、市民警察が農場を捜索してガソリンを押収し、滑走路も閉鎖した。そしてアリアスは1987年に中米和平構想を提案し、和解のための対話と戦闘の停止などを呼びかけた。それによって中米の内戦は終息に向かう。

 しかし、1990年にアリアスの国民解放党政権は経済政策の失政を問われて敗北した。対外債務が返済不能という状況下で、カルデロンが大統領となり、IMFの緊縮計画を受け入れた。1994年にはフィゲレスが大統領になった。ここでのカルデロンとフィゲレスはともに息子の代である。フィゲレスは新自由主義の諸政策を受け入れた。民営化も進められるようになる。2007年には中米5カ国とドミニカとの自由貿易協定が可決されている。

グローバリゼーションによる新自由主義との対抗が新たな課題となっているわけである。街を歩くと、国会の壁などに「NO TLC(自由貿易協定反対)の落書きが目立つ。

 

3 コスタリカの社会制度

 このようにコスタリカの現在の政治制度は19世紀後半の民主主義運動と20世紀の社会改革の動きを受けて、1948年の蜂起以後の新憲法によって形成されてきた。

 最高裁判所の中に入って判事の席に座り、この国の裁判制度の仕組みについて話を聞いた。担当者は次のように解説した。

大法廷には22人の判事がいて内5人が女性である。1989年の改正によって憲法に関わる第4法廷ができた。第1法廷は経済、第2法廷は家庭、第3法廷が刑法、第4法廷が憲法担当となった。22人の判事のうち1から3までの法廷は5人、第4法廷は7人が担当する。この第4法廷に設立によって誰もが違憲訴訟を起こすことができるようになった。憲法はあらゆる人に開かれているべきという理念が実現した。専従スタッフは100人を抱え、年16千件の事件を扱っている。判事は週600件を扱うことになる。自由貿易協定の問題も扱った。合憲の判断をしたが、反対の人も多いため国民投票制度で問うことにした。裁判官の仕事は行政から独立し、政治に左右されないで判断することである。それは文化の問題である。法廷で守られるものは条文ではなく、その精神である。

コスタリカに人々には「軍隊はいらない」の考え方がある。軍事的な問題は外交で解決できる。ニカラグアの内戦が飛び火したときに外交的に解決した。その経験が大きい。心のなかの価値観が大切である。

このように「価値観」「文化」「理念の実現」「権利」という言葉が積極的な概念として日常的に語られている。これがいい。

選挙最高裁判所(TSE)も設立されている。3権から独立しての第4の権力機関として位置づけられている。この裁判所は1949年の新憲法によって設立されたが、3権が介入できない選挙機関である。議会が選出した3人の主任裁判官があり、6人の補佐裁判官がいる。

ここは選挙の告示から得票の確定までを受け持ち、警察を傘下に置く。物理的な暴力によって票が左右されないように統制している。選挙権は市民登録局での選挙人登録によって得ることができる。子ども用の選挙カードもある。国会議員は40パーセントが女性となるように調整されている。

コスタリカの政治的安定はこのような機関によって支えられてきた。

 国立高齢者審議会を訪問して高齢者問題の現状を聞いた。

所長が応対して次のように話した。

1990年に高齢者基本法ができたが、高齢者への尊厳や尊敬の気持ちを持っていないケースもある。高齢者に尊敬の念を持つような「文化」を広めることが必要だ。文化の形成には教育が必要だ。高齢者は人生を終えた人ではなく、知恵者であり、可能性のある存在だ。その道のりは子どもも歩むことになるものであり、人生とは老人になる過程である。「高齢者は人生を終えた人」という考えを変え、自身の評価をあげ、すばらしい存在として自覚する文化を育てていきたい。高齢者自身の権利と文化の形成も求められる。税の配分からくるお金をNGOに分配している。高齢者専門病院を作り、人材を育成している。介護の放棄や暴力への対策もすすめている。また司法と協力し高齢者が不利にならないような対策をとっている。

615日は老人虐待反対の日である。高齢者審議会が作成した冊子には「暴力のない人生を」と呼びかけるデモンストレーションの写真も収録されている。このように民衆の民主主義運動を基礎にしながら社会政策がおこなわれている。ここでも「文化」の形成がキーワードになっている。

国立子ども病院も訪問した。病院の内部には子どもたちの絵が飾られ、入り口には絵の書かれた牛の模型が置かれていた。

1954年に小児ポリオが流行したときに総合病院しかなく子ども病院の設立が募金によってすすめられ、病院作りをすすめた医師の名をとって「カルロスエレラ病院」と名づけられた。病院には一般診療、外来、手術、救急医療の分野があり、子どもの薬学も研究している。外国に研修医の派遣もしている。募金を集めて建物を拡充してきた。子どもであれば、権利を守り、国内外を問わずに全ての患者を受け入れている。年間の外来は20万人を超えている。医療費は無料であり、窓口負担はない。コスタリカ社会保障金庫が運営している。コスタリカでは唯一の国立の子ども病院であり、人口が増加したため、現状の運営は苦しい。人口450万人のうち100万人が移民であり、子どもが増加し、受容能力に限界がある。遠隔地の救急も空港まで出向いているが、救急のドクターヘリも必要になっている。子どもの母親の滞在費は遊園地を経営する財団が負担している。 

 新生児医療の部屋の壁にはここで治療し元気になった子どもたちの写真が貼られていた。写真を見ると、生の喜び、命への思いの深さがが伝わってくる。

 

4 バルガス教授の平和への思い

 

カルロスバルガスさんは現在、国際反核法律家協会の副会長を務め、コスタリカの大学で法律を教えている。専門は国際法・国際人権法である。1986年から90年にかけてコスタリカ外務省で法務局長などの職に就いている。ちょうどアリアス大統領の政権がアメリカのコントラ支援策に対抗し中米の和平構想を提案していったときである。1995年には米州人権裁判所で法務特使として活動した。

20075月にウイーンでもたれた2010NPT再検討会議第1回準備委員会で、コスタリカは核兵器の使用・威嚇を禁止する条約案を提起したが、この条約案はバルガスさんらが作成したものである。来日講演の経験も何回かあり、20085月の9条世界会議にも発言者として招聘された。このようにバルガスさんは反核平和の活動に熱心な弁護士である。

バルガスさんの話をサンホセの共同事務所で聞いた。バルガスさんは語る。

先住民族の文化は分かち合いを大切にし、平等性を基調とし、環境と共生してきた。スペインからの移民はこの文化と融合した。植民地支配の中では辺境にあり、軍事統治の影響は弱かった。農民を中心に経済格差の少ない社会構造ができ、農民の共同社会を基礎に民主主義・人権の思想が根付いた。1871年には死刑制度を廃止し、72年には初等義務教育を導入した。

内戦後の1949年には憲法で軍隊を廃止し、その費用を教育に回した。識字率は高くなり、平均寿命も77歳にまで伸びた。社会保障制度や医療制度も充実させ、国立病院では窓口負担はゼロにした。教育の重視は、争い破壊するという解決ではなく、法による支配で解決すること、人権を守るという思想の形成につながっている。

紛争の唯一の解決方法は人権・人道法による解決であるが、コスタリカは1980年代の中米での内戦を解決する鍵を握り、アリアス政権がそれを実行した。国際紛争は軍隊ではなく、国際的人権、国際人道法による解決が必要である。また、コスタリカは政治的亡命を受け入れて保護する。人権と平和を歴史教育によって育ててきた。小さな国であるが、国連の外交や米州機構の場で人権・軍縮・民主主義による紛争解決をすすめ、他国から一目置かれるようになった。

平和・軍縮においてはアメリカと対等に、どう付き合っていくのかが課題になる。とくに米軍基地撤去の際にはポイントだろう。教育において軍縮・平和・環境・人権について価値観として教え、歴史的体験について良い事も悪い事も教えることが大切だ。対等に付き合う力は教育への投資から生まれる。コスタリカは軍事基地をおこうとする圧力をはねのけてきた。

女性や子どもの権利を法的に擁護し、公的施設での女性の進出も多くなった。DVへの法整備もすすめた。

コスタリカはユートピアではなく、ニカラグアやコロンビアからの移民の問題、社会保障の危機につながる税金の不払い問題、資源が少なく一次産品の輸出による経済の弱さなど、さまざまな問題を抱えている。最近ではインテルの工場の誘致などもおこない、経済開発をすすめてきた。観光や工業への投資、外国企業の拠点をつくること、労働者の教育、外国人年金生活者の受け入れなども課題である。中産階級があり、社会格差が少ないことはいいことである。

2度による原爆投下経験を持つ日本は世界に対し、反核の牽引車となることができるが、実際には日米の軍事協力がすすみ、イラクへの派兵もおこなわれた。日本はもともと農耕の国であり、平和憲法もあり、コスタリカに来る日本人も数多いように世界を良くしていこうとする人たちの多い国だ。日本の歴史の良いところを集めればよくなる。未来に向かってどう平和を構築するのか、平和とは何かを考えることが大切だ。

バルガスさんは、時に立ち上がり、情熱をもってこのように語った。

最後にバルガスさんは、「貧富の差はあっても人権の理念は平等にアプローチできる、価値観を教育することが大切」「体は老いても、心は年をとらない」「信念を持ち続けよう」と、平和への活動を呼びかけた。

 内戦後のコスタリカは人権・民主・環境・非武装平和を対外的なイメージとして掲げてきた。対話による紛争解決を呼びかけ、中米の内戦を調停し、アメリカの圧力もはねのけた。教育や医療に予算を配分し、子どもや女性に人権保障もすすめた。バルガスさんは、そのような人権保障と紛争解決の現場で活動し、いまは反核運動をすすめている。

バルガスさんの話の歴史的な総括ではコスタリカの良い面のみが強調されているように思われたが、良い面を提示し、未来につなげていこうとする積極性をもっていた。

この歴史的総括の中に、先住民族の権利回復、社会主義史・労働運動史へ評価、1940年代前半の改革の再評価、グローバリゼーション批判の視点が組み込まれていくことも求められるだろう。

 

5 ラ・カルピオでの平和文化教育

 

 サンホセの郊外にあるラ・カルピオ地区にはニカラグアからの移民の居住区がある。1991年の台風によってニカラグアからの避難民数十万人がコスタリカへと避難し、その一部が国有地の荒地であったラ・カルピオに住み着いた。いわゆる不法占拠の地域であるが、居住することでこのコミュニティーは次第に大きく成長した。サンホセの街から南方に向かうと、一本の道が谷間近くに形成されたこの地区に続いている。粗末な手づくりの家が立ち並び、ごみの山や落書きが目立つ。

居住者の仕事は警備員や建設現場などの日雇い労働が多く、失業と貧困のなかにある。家庭内暴力もあり、父親のいない家庭も60パーセントに及ぶという。地域の拡大とともに子どもの数も増え、現在では2000人ほどになった。

このような地域に小学校ができたのは10年前の1998年だった。3年前には内部に幼稚園部ができた。校地が狭いため小学校は3つあり、そのひとつがフィンカ・ラ・カハ小学校である。フィンカ・ラ・カハ小学校のフェンスの上には鉄条網が張られ、入るには錠のある扉を2箇所通過しなければならない。檻のなかのような校地には、小学校用の教室が3部屋、幼稚園用の教室が2部屋あり、保育用の部屋がひとつある。小さな食堂もある。

3交替制で子どもたちは授業を受けている。先生の数は3つの学校で80人、1クラスは35人学級である。居住区には中学校はなく、卒業後の問題がある。小学校の建設費用は自治体からの支援がないなか、内外からの寄付でまかなわれた。交渉の中で給食費を引き出してきた。

この学校で幼稚園の園長を務めるコンスエロ・バルガスさんの話を聞いた。バルガスさんはここで「平和文化教育」をすすめている。この地域には6年前に赴任し、3年前に幼稚園部の園長になった。幼稚園のときから平和文化教育のプログラムをすすめ、幼いころの経験のなかに「平和文化」を織り込むことを実践し、子どもを守る活動をすすめている。

バルガスさんの語る平和文化教育の内容は次のようなものである。

国連が考えた平和文化のテーマを現場での活動をふまえ概念化した。円形の概念図の中心に平和をおき、普遍的な責任で囲んだ。平和の概念は、自分自身との平和、他者との平和、自然との平和の3の柱で構成される。

自分自身との平和は、体・頭・心に関するものである。体の平和は健康や健康であろうとすること、体を動かすことの楽しさ、頭の平和は自他に寛容に接すること、調和しながら生きること、心の平和は楽しい思いや幸せ、自己をあるがままに受け入れること、自己肯定観などが目標となる。

他者との平和は、共同・連帯・合意形成・争いの平和的解決が目標となり、他者とともに良い社会をつくるということである。

自然との平和は、自然を大切にすること、生物多様性、自然の価値を伝達しそれを認識することなどである。

他の教員にも平和文化教育の理念を伝え、この理念に基づき行動できるように訓練する。教員同士が価値意識を共有しないと実践は成功しない。

荒地のバラックに暮らし、親は生き延びることが精一杯という状況の中で、こどもたちは豊かな自然体験ができない。先生が居住区に入り教育について語り、親の世代の心を変えていく活動もする。子育て教室も開き、「子どもの権利」や「平和の文化」について伝えている。特にニカラグアの文化を包含するという意味での、異文化共有と統合に気を配って教育をすすめる。麻薬対策もおこなう。なぜ麻薬を使用してはいけないかを、自分自身を大切にし、他人とともに平和的に生きていくという視点で教育する。

子どもを守る活動と楽しさや幸せの体験によって、子どもたちの表情から怯えや恐怖を取り除き、笑顔へと変えていく試みがなされている。

グローバリゼーションのなかで辺境に形成された地域の教育現場で、平和文化に向かう関係形成の苦闘がある。そのような実践を支える人々がいる。

コスタリカでは教育カリキュラムは人道・合理・建設の視点で形成され、環境、民主主義・人権・平和、健康・栄養、性などが価値観としてテーマ化されているという。民主主義的関係をつくる対話教育もさかんという。コスタリカでは、人道・人権が価値意識として共有されている。民主主義的な関係をつくることが、権威主義や国家主義が克服される。民主主義は運動の産物であり、現場でこのように語れるようになっているのは、それだけの運動がこれまであったことを示している。

 

6 熱帯雲霧林の生物多様性

 

コスタリカは、単位面積あたりの動植物が多く、そこには全生物種の5パーセントが棲息しているという。コスタリカの森林は熱帯雨林・熱帯雲霧林・熱帯乾燥林と分類されている。雲霧林は、植物が陽光を求めて、葉を花のように変色させたり、他の木に着生したりとその植生をいっそう多様化させることで知られている。このようなコスタリカで生物多様性法が制定されたのは1998年のことである。生物多様性研究所も設立されている。

アーセナル火山がみえるフォーツナの街近くにあるエコセンターのダナウスとアーセナルの吊橋公園を訪問した。

ダナウスは蝶の名前から採っている。このエコセンターはNGOが9年程前に農地を改造してつくったものである。センターは池を中心に動植物園になっていて、熱帯の花、蝶、蛙、亀、鰐、薬草種などを順にみていくことができる。

園の入り口にある木に上にはナマケモノがいた。1日20時間ほど木の上で寝ているという。花園には熱帯産のヘリコニア類があり、赤い葉に小さな黄色い花を咲かせていた。ハチドリがその蜜を吸うのだが、交配に合致するように互いに進化を遂げている。ショウガ類やシダ類なども植えられている。解毒力を持った蝶だけが蜜を吸うことができるような花もある。

コスタリカには1万5千種という蝶が生息している。蝶の文様がさまざまな擬態であり、水色は水しぶきの擬態であり、大きな目のような文様は威嚇のためのものである。赤い背中のヤドク蛙の毒は先住民族が弓矢に用いている。枯れ木の横の鰐をみると、鰐の姿は枯れ木の擬態であることがわかる。

リトルアボガドの実はケツァールの好物という。葉切り蟻が葉を巣に運び、それを養分に菌類を育てて生きる。陽光にむけて葉を開き、夜になると閉じる植物もある。一本の木にさまざまな寄生と着生があり、生態系を形成する。薬草類にはオレガノ、レモングラス、ミモセ、オルティガ、ミントなど各種が植えられていた。

ダナウスでは、ここでみられる動植物をラミネート製の図版やDVDを作成して紹介している。

コスタリカでは二酸化炭素削減への努力をすすめ、その削減への支援を求めるという政策をとった。自然保護地には補助金を出し、農民が休耕地を保護地とすることでも補助金を得ることができるようにした。

アーセナル火山周辺は国立公園や保護区となっている。高地だが、陽射しは強い。アーセナル湖近くには公園が整備され、15の吊橋を渡って保護区を観察できるようになっている。道には環境に配慮した形のブロックが埋め込まれている。

公園に入るとノドジロオマキ猿が人間を見ながら木々を渡っていった。ここにはリス猿、クモ猿、ホエ猿などがいるという。蝉の声がシャーシャーと響きわたる。なかにはオージンジュクジュクとコスタリカのツクツクホウシのような声も低く響く。

陽光が時折、木々の間から降りそそぎ、緑に色合いを与える。ハチドリ用に進化した花びらが緑の中で映える。プルメリアの水溜りに卵を産む蛙もいる。野生のカカオがある。溶岩の上に腐葉土があるのだが、時に崩壊して、下の溶岩が覗く。コケが湿気を含んで木々に着生する。清浄な空気でしか生存できない種のコケもみられる。上部に着生して下につるを下ろす植物もある。

陽光を求めて急成長する木があり、森から突き出てそこに葉を開いて光合成をする。ヤドク蛙のキキキという鳴き声が茂みから聞こえる。枯葉のような葉が新葉であり、蝶が卵を産まないように新葉を枯らしたように偽装してする植物もある。象の耳、貧者の傘と呼ばれる大きな葉がある。かつて先住民族はこれを傘にして動物を襲ったという。

滝から水が流れ落ち、川となり、そこに蝶が飛ぶ。古木が横たわり、その上にコケが生える。滝近くの木をアリクイがよじ登り、蟻を食べる。橋を渡り、火山の方向を眺めると尾が二つに割れた燕が数羽旋回していた。公園を抜けると鳥が飛びかった。赤い頭のキツツキが実を取り、木をつつく。

動植物がさまざまな形で絡み合って関係性をつくり森林が形成されている。案内人が「森全体がひとつの連関の下にひとつの生命体としてここにある。競争しつつ依存しあう共存がここにある。」と解説する。森林のなかで織り成すことの力を感じる。共存のアンサンブルに耳を澄ます。生物を学ぶことは生命の尊厳と共生を学ぶことにつながる。

 

7 アテナスの農家にて

今回の旅では、アテナスの農家に泊まり、交流する機会があった。アテナスはサンホセの西方25キロメートルほどにある街である。このアテナスのイエズス村のR家は10haの農地を持っている。農地の入り口に四間ほどの平屋建ての家があり、それぞれの家族が住んでいる。入り口の家には85歳の父親、周りには子どもたちが分家していた。宿泊した娘のLさんには9歳と6歳の子どもがいて、夫はグアテマラに出張中だった。娘のRさんの家も夫は外で仕事をし、家では20歳と14歳の子どもと暮らしていた。その弟のRさん夫妻と子どもは週末に帰宅し、日常はサンホセで暮らしている。R家の2番目の息子や娘のRさんが農園を手伝っているようだった。

農園にはサトウキビ、カカオ、ミカン、レモン、オレンジ、コーヒー、スターフルーツなどさまざまな果実があった。週末に帰ってきたRさんがいくつかの果物を取り、味あわせながら紹介してくれた。このような自営農民の共同体によってこの国の民主主義が維持されてきたのだろう。しかしグローバリゼーションはこのような中産層の生活を揺り動かしている。

金曜の夜には地域の体育館で人々が集い、ダンスの会が開かれる。移民たちはこのような場を作って共同体をつくってきた。老いも若きも踊り、時に抱き合う。別れ際にも抱き合って挨拶を交わす。教会でもミサが終わると近くの席の人々が、抱擁しあって祝福するという。地域での交流会ではプールやダンスの場があった。

家族との交流会があり、折り紙で鶴を作り、ギターを借りて一緒に歌を唄った。別れのときには子どもたちの顔を描いて贈った。コメやとうもろこし、豆などの野菜を使った手料理は美味だった。                         

(竹内)

 参考文献

国本伊代編『コスタリカを知るための55章』明石書店2004

早乙女愛・足立力也『平和をつくる教育』岩波書店2002

小澤卓也「日本における「コスタリカの平和」論の危うさ」『人権と部落問題』727,2005

鈴木頌「コスタリカ小史」http://www10.plala.or.jp/shosuzki/history/costarica.htm