スペインの旅2009  歴史の記憶と過去の清算
                −バスク・サラマンカ・バルセロナ−

                                   

 

スペイン内戦から70年にあたる2006年が、スペインでは「歴史記憶の年」とされた。2007年には「市民戦争および独裁の間に迫害または侵害を受けた者の権利を承認して拡大し救済手段を設けるための法律」が制定され、過去の清算がすすんだ。この法律は「歴史の記憶に関する法律」と略称されている。その過去の清算の状況についての現地調査に参加した。以下はその報告である。

 

●バスク ビルバオの碑

スペイン北部はアルタミラやサンティマミニエなどの旧石器時代の壁画が発見され、古くからの人類の活動が残されている場所である。バスク地域はこのスペインの北部にあり、大西洋に面し、ピレネー山脈とカンタブリカ山脈にはさまれている。バスク人はこの地域をエウスカディという。このバスクは独自の言語・文化を持ち、独立の気風が強い地域である。現在では自治州となり、道路標識などはバスク語とスペイン語が併記され、赤字に緑と白が交わるバスクの旗が各所に翻る。

サンティマミニエ洞窟はこのバスクの古い歴史を示す遺跡である。洞窟内の壁画そのものは保存のために閉鎖されているために直接見ることはできないが、保存作業をおこなっている洞窟のいる口付近に入ることはできる。この洞窟の壁画は1万2千年前のものとされ、クロマニヨン人によるものという。周辺ではのちの時代の古墳も発見され、11世紀の教会跡も発掘されている。それらは海と山に挟まれたこの地域の悠久の歴史を物語る。洞窟の周辺には石灰岩が露出し、樫の木やマロニエの木もある。樫の木はバスクの自由・独立のシンボルである。16世紀の教会が再現されていて、そこで洞窟内を再現する映像が紹介され、描かれた動物の姿を知ることができる。

ビスカヤ県の県都、ビルバオ(バスク語ではビルボ)では、産出される鉄を使っての鉄鋼や造船などの工業化がすすめられたが、現在では工業都市から観光都市への転換がすすんでいる。旧市街が整備され、新市街にはグッテンハイム美術館が建設され、空港や橋などの町づくりに現代美術が採用されている。8月は祭典の月である。日の出は7時、日没は9時という日照条件のなかで、人々は夜遅くまで祭典を楽しんでいる。花火が打ち上げられるのは10時である。祭典の街を歩くと各所に政治的独立を求めるポスターやステッカーがあり、なかにはETAの政治犯の釈放を求めるものもある。

旧市街にはミゲル・ウナムーノ広場があり、かれの彫像もおかれている。ウナムーノは1864年にビルバオで生まれた。かれの青年期は共和主義や社会主義の動きがスペインでも強まってきた時代であったから、ウナムーノもその思想的影響を受けた。1900年にはサラマンカ大学の総長となるが、1914年に辞職を強いられた。1924年にはプリモデリベラの独裁の成立に抗議して、サラマンカを追放されて島に送られ、フランスに亡命した。1930年にリベラ独裁が崩壊するなかで帰国し、第2共和政成立によって国会議員になった。1934年にはふたたびサラマンカ大学の総長になるが、1936年のスペイン内戦により、大学を追放されて軟禁され、その年に72歳で亡くなった。かれの歴史はスペインの近代史と人間的良心を語るものである。

ウナムーノは、死・ねたみ・嘘・戦争などに対して、創造性・善良・誠実・共生を提示し、生命と人格について思考しつづけたという。1936年、フランコ側の将軍による知性を否定し死を賛美する言葉に対して、正義と理性の立場からその野蛮を批判したかれの行動は、生命・実存を基礎としての思考のスタイルを象徴するものだったといえるだろう。

ビルバオの人々はバスク出身のかれを誇りとし、その知性と行動を分かち合うかのように市街地の広場をミゲル・ウナムーノ広場と呼んでいる。この広場にはバスク博物館があり、3000年前の動物の彫刻をはじめ、バスクの歴史・民俗を紹介している。

さて、このビルバオの街を眺望できる場所がアルチャンラの丘である。街をみて振り返るとそこに大きな鉄製のモニュメントがあった。4角い厚い鉄板に指紋上の文様が抜き取られている。その横には1936年の内戦時の共和国側の死者の所属団体と氏名を刻んだ追悼碑が建てられていた。バスク国民党、労働総同盟UGT、共産党、アナキズムの労働総連合CNT、共和主義左派、労働者連帯、バスク軍などさまざまな抵抗組織名とフランコ軍によって死を強いられた人々の名前が刻まれている。それはスペインで内戦とフランコ独裁によって死を強いられた人々の復権、尊厳回復を求める歴史的潮流を象徴するモニュメントである。

鉄鋼の町だったビルバオらしく、そのモニュメントは鉄製であり、赤く変色している。しかし、その人間解放への核心的な思いは、決して錆び朽ちないものであることを示しているように思われた。ビルバオのグッゲンハイム美術館に並べられた、現場との緊張を失った観賞用のオブジェとは違い、このモニュメントは物語である。

グッゲンハイム美術館に1階にはリチャード・セラの鉄のオブジェ群「スネーク」がフロアー一杯に置かれている。同様の作品の一部は、ベルリンのフィルハーモニーの建物の前にある。それはナチスドイツの安楽死作戦(T4作戦)の死者に対する追悼碑であり、その形象と史実においてベルリンの物語になるものである。しかし、グッゲンハイムにあるかれのオブジェはその場の力を失った塊のようである。それはネオリベラリズムに見合った展示品になっている。彼の作品は街頭が似合う。

何枚かのバスクの民族音楽のCDを購入したのだが、バスク博物館の売店で入手したベニット・レルチュンディ(Benito Lertxundi)による『Itsas ulu zoliaが、歴史や平和への想いを感じさせる表現であり、印象に残るものだった。検索してみると日本でも入手可能であり、便利になったものである。

 

●ゲルニカ平和博物館

ゲルニカはビルバオから30キロ先にあり、山を越えたところにある。ゲルニカは正式には2つの町が合併しているためゲルニカ・ルモという。ゲルニカの市街が形成されたのは14世紀のことであり、ここにビスカヤ県の議会が置かれ、バスク議事堂が建設された。共同体の利害に関する問題はここにある樫の大木の下で議論され、ビスカヤ県の法律はこのゲルニカの木の下で起草された。1936年共和国によってバスク自治法が制定されると、この木の下でホセアントニオアギーレが大統領に就任した。議事堂は今ではバスクの自治の歴史を示す展示館となり、開放されている。議事場には「エンリケ4世は樫の木の下で自治を誓った」というようにその時々の王がバスクの自治を認めたことを記録している。樫の木はバスクの自由・自治・独立を象徴するものである。

1936年のスペイン内戦の際にはバスク自治政府は共和国政府を支持した。1936年には首都マドリード攻防戦もおこなわれ、共和国政府軍はマドリードを防衛しつづけていたが、この攻防下でおこなわれたのが、1937426日のゲルニカ爆撃である。その後、フランコ軍がゲルニカを占領し、自治は奪われた。バスクが再び自治を獲得したのはフランコ死後のことである。

ゲルニカの空爆の前にはドゥランゴが爆撃され250人ほどが死亡した。ゲルニカ空爆の際にはドツ軍がビトリヤやブルゴスから飛来した。爆撃は午後の4時半からはじまり、爆弾、燃焼弾、機銃などでの攻撃がおこなわれた。

このゲルニカには平和博物館がある。平和博物館はロスフエロス広場の左手の建物のなかにあり、彼方に爆撃で残ったサンタマリヤ教会の塔がみえる。サンタマリヤ教会、学校、議事堂、サンタクララ修道院、樫の木の古木、工場など市内の20数カ所の建物は爆撃後も残ったものである。再建されたものを含めて古都ゲルニカの街全体が戦争遺跡といっていい。

博物館では平和文化をテーマに展示がなされている。館の設立は1998年のことであり、2003年に展示替えをした。館の展示は、平和への思考に火をつけ、感受性を持って平和の形を考える場とする、平和を現代思想として捉えてなおし、和解への道を示すという視点で構成されている。バスク語で平和をBAKEAという。

展示では、はじめに平和とは何かが示される。そこでは、戦争の終結のみならず、内心での平和の追求、地球環境の保全、食など日々の暮らしでの平和、平和に向けての組織化・平和への運動などが平和の核心的概念として提示される。ペンやアルミ缶、パンフレット、メガネなどがその概念を象徴するものとして展示される。

つぎの部屋では平和に向けての営みを象徴するものとして工具類が展示される。ケースのなかの工具をみながら、次の18項目が示される。堅実な対話、人権の尊重、未来をみつめる、他者への正直、他の党派の立場でみる、異なる意見に耳を傾ける、共通点の探求、両党派を提携させるための仲裁、発明・創造、私たち自身の誤りの認知、積極的な思考、別の現実の調査・発見、積極的な形の姿勢に取り組む、法律や規則の見直し、人や問題と一体化しない、不正と闘う、弾力的な姿勢の形成。このような平和的な関係を形成するための18の視点が工具類をみるなかで示される。この空間は平和的思考に向けての哲学の場となっている。

このような場を経て、ゲルニカ空爆を体験する小さな部屋に入る。バスク女性ベゴーニャさんの部屋の模型である。部屋のなかでナレーションが当時の状況を解説する。爆撃の音が流され、部屋が暗くなる。子どもの歌とともに、目の前が明るく映し出される。そこには瓦礫が積まれている。瓦礫はガラスの床の下にも置かれている。瓦礫の上に立つ形で、ゲルニカの歴史と爆撃の展示をみることになる。ゲルニカの産業、当時の爆撃の状態、報道、共和国軍への責任転嫁と再建、和解などの順に展示されている。砲弾や内戦時のポスターなどもある。

爆撃の3日後にフランコ軍がゲルニカを占領し、爆撃を共和国軍の仕業とし、街を再建した。独裁を継続したフランコは1970年代までゲルニカの名誉市民だった。当時真実を報道したタイムズ社のジョージスティアの報道記事と共和国軍の仕業とするフランコ側の新聞とが掲示されている。このような展示から、真実を隠蔽してきた30数余年の虚偽の歴史の重さを感じる。展示の最後にドイツ大統領がドイツ軍による空爆を認めた手紙を1989年に送ったことが示され、和解が表記される。この展示の次に、小さな映像のコーナーがあり、爆撃という犯罪とその和解に向けての経過が示される。

最後に、ゲルニカとピカソ、生命・自由・平等について、平和の種を蒔くこと、バスク紛争の解決、平和運動についての展示がある。博物館のパンフレット、写真集、DVDも上手に作られていている。DVDには博物館のもののほかに、ゲルニカ爆撃の証言集もある。ゲルニカの体験をふまえてイラク戦争の爆撃を批判して平和をよびかけるような表現もみられる。この館は平和文化を根源から問う形で設立されたものであり、平和へのメッセージを発信する場でもある。

この街には、ゲルニカ空爆による破壊と再建、そこから形成された反戦と平和の思考、そして樫の木が示す自由と自治の思想がある。その方向性とバスクの政治的独立をどのように整理していくのか。ETAの政治犯釈放のポスター類が学校のテラスの公然と張られるなど、ビルバオに比べても政治的な表現が多いのだが、フランコ支配の歴史の清算がなければ、この問題も解決しないだろう。スペイン王政の廃止と共和国連邦への再編も一つの課題であるように思う。

ゲルニカでは1987年に平和資料センターが設立され、ゲルニカ市の平和都市としてのシンボル化や口述などの体験記録の収集をすすめ、ゲルニカネットワークの形成や平和と芸術、平和文化の形成の活動をすすめている。

ゲルニカ空爆の証言をルイス・イリンドさんから聞いた。ルイスさんは次のように語った。

当時ゲルニカには、木材、靴などの産業があり、農産物も豊富だった。月曜には市が開かれ、近郊からも人が来て賑わっていた。そこに1937年4月26日月曜の4時半から3時間ほどの空襲がおこなわれた。ゲルニカには銃器工場があったが、そこは狙わずに、爆撃後使用した。一般家屋の7割が破壊された。

許されないことは、フランコ軍が嘘をつき、空爆は「赤」の共和国軍がおこなったこととし、町の再建者として振る舞ったことだ。それはフランコが死ぬまで続いた。ゲルニカ空爆の問題点を話し続けるなかでドイツによる正式な謝罪を実現した。空爆の犠牲者はドイツを恨むのではなく、和解をすすめ、ゲルニカはドイツで空爆を受けたドレスデンと姉妹都市になった。

イラク戦争時にはドレスデンの市民とともに抗議行動に立った。国連にはゲルニカのタペストリーがあるが、アメリカのパウエルはそのゲルニカを覆い隠して記者会見をおこなった。ゲルニカの資料センターは「戦争は無実の人々を殺すもの、ゲルニカはそれを描いた。それを隠すとは!」と抗議した。

ゲルニカ爆撃のときは14歳、中学3年だった。内乱がはじまると学校は閉鎖され、母がコネで銀行の給仕の仕事を見つけてきた。仕事中に空襲を知らせる教会の鐘が鳴った。不安になり、人の流れに従って防空壕へと逃げたが、爆撃が始まった。目の前にいた人々が亡くなった。防空壕のなかはマッチの火が消えるほどの酸欠状態だった。カフェテリアに入ろうとしたら、ふたたび空襲が始まり、土嚢の裏に隠れた。

生きた心地がせず、とにかく怖かった。生き残れたのは土嚢のおかげだった。防空壕が全滅したところもあった。人の流れに従い、山を登り、そこにあった家の小屋で寝た。母の呼ぶ声で目覚めた。30キロを歩いてビルバオに行き、船で近くの町に行こうとした。兄は共和国軍にはいり、弟はフランスに疎開した。

このようにルイスさんは語った。ゲルニカ郊外には共同墓地があり、426日にはそこで追悼式がもたれている。2007年には広島・長崎の被爆者も参加した。そこでアメリカが今も原爆投下の謝罪をおこなっていないことを知り、謝罪するようにブッシュ大統領に手紙を記したという。このようにゲルニカを語り続けることは、その後の空爆を批判し、その廃絶を求める平和運動とともにおこなわれている。

ゲルニカの道路に置かれた車止めをみると、そこには「樫の木」が刻まれていた。丸くデザインされた車止めに刻まれた樫の木の文様をはじめ、各所にデザインされた樫の木から、この地の人々のなかに連綿と続く自由と自治への想いを感じる。

 

●マドリッド

マドリッドはスペインの中央部の台地にあり、南に行けば古都トレドがある。マドリッドの語源はアラビア語のマヘリット(砦)に由来する。ここにイスラム王権が王宮をたて砦を築いたからである。11世紀後半、アルフォンソ6世がこの砦を奪った。16世紀にはカルロス1世によるスペイン・ハプスブルグ支配がはじまり、16世紀後半にフェリペ2世がマドリードに宮廷をおいた。当時スペインは大航海時代にともなって世界帝国を形成していた。その富がマドリッドに集まった。ハプスブルグ家支配は18世紀初頭にカルロス2世で断絶し、ブルボン家の支配となる。このブルボン家は共和主義の台頭のなかで大きく揺れることになる。

このような皇帝の支配の歴史とその崩壊を予感させる絵画がスペインのプラド美術館にある。この時代を描いた作家がエルグレコ、ベラスケス、ゴヤである。

 ゴヤの「国王カルロス4世の家族」についてみておけば、中央に2人の子を持つ王妃マリアが描かれ、その右に統治能力がなかったカルロス4世がいる。後ろには王妃マリアの愛人であり、実権を握っていたゴドイもいる。描かれた王妃の子はゴドイの顔に似ている。左方の隅に両親やゴドイからは排除されていた王子のフェルナンドが描かれている。フェルナンドはのちフェルナンド7世となる。憲法を停止して絶対君主になり、共和主義運動を弾圧、両親やゴドイを排斥した。フェルナンド7世の時代はスペイン立憲革命と王権との攻防の時代である。ゴヤの描いたフェルナンド7世の絵もあるが、その顔は共感を拒むような表情である。このときのスペイン立憲革命は弾圧され、リーダーのリエゴ・ヌニェスは処刑された。かれはスペインの共和主義運動の象徴となり、共和政が生まれると「リエゴ賛歌」が歌われた。この立憲革命の起点に1808年の民衆蜂起があり、ゴヤはその様子を180852日の蜂起と53日の処刑の絵で表現している。

これらの絵をみていると、ゴヤは宮廷画家でありながら、共和制と民衆の側を見つめ、戦争そのものを問う視点を持っていたことを感じる。ゴヤ自身に近代が表現されている。

ソフィア王妃芸術センターにはゴヤの時代より後の現代美術が展示されている。ここにはピカソのゲルニカも置かれている。フラッシュなしなら写真撮影もできる。ゲルニカの絵の前には多くの人がたたずんでいる。一枚の絵で、破壊された街と自治、フランコの偽善と独裁、ピカソの情熱と表現、絵自体の旅の軌跡と帰還、そして現在の展示とこれほど多くの歴史と希望を物語ることができる作品も数少ないだろう。ピカソには「朝鮮の虐殺」という作品もあるのだが、この作品についてももっと多く語られてほしく思う。

ゲルニカの絵の前に立ってゆっくり時間をとりたかった。近くにはスペイン内戦時代の資料も展示されていた。内戦から40年のフランコ支配のなかで、スペインでは共和国派や革命派について自由に語ることができなかった。フランコの死から30年、「歴史の記憶」をテーマに消された人々の復権が歴史のテーマとなった。そのような歴史のなかでゲルニカの絵は一層その価値を増していくのだろう。

ソフィア王妃芸術センターの売店にスペイン内戦期の記録映像4枚組のDVDLa Guerra Filmada』があった。映像をみると、バルセロナのCNTの活動やドゥルティの葬式の映像などがあり、当時の民衆の革命的な動向を記したものが多い。このような映像が集約され、DVD化されて販売されるようになったのも近年のことである。

 

●マドリッド・歴史の記憶回復協会

 

マドリードで歴史の記憶回復協会の関係者から歴史の記憶法についての話を聞く機会があった。会合では、はじめに黒田清彦さんがこの法律の概略を話した。その話をふまえて、関係資料などからこの法律の成立とその意義についてまとめておこう。スペインの歴史の記憶に関する法律の翻訳は、黒田清彦「スペイン『歴史の記憶に関する法律』」(南山法学3212008年)にある。成立の経過については飯島みどり「フランコと再び向き合うスペイン社会」(季刊戦争責任研究592008年)にまとめられている。

歴史の記憶法が生まれるまでに、4つの段階があった。はじめはフランコ体制の末期、1970年代の前半のことであり、支配が弱まり、おずおずとではあるが内戦について語り合えるようになった。

2がフランコ死後の民主化への移行期とゴンザレス政権時である。フランコの抑圧から解放され、内戦や独裁についての検証が始まった。この時期は民主化の達成が前提とされ、内戦期の問題について深く追求しないことが暗黙の了解になっていた。共産党はホアンカルロスを支持し、82年には社労党のゴンザレス政権が成立したが、内戦についての早急な言及はさけた。

31996年からの国民党のアスナール政権期である。2000年に歴史の記憶回復協会ARMHが設立されるなど、過去の清算を求める運動が強まった。2001年には下院で民主主義のために闘った人々の復権の決議が採択され、翌年にはフランコ体制批判の決議も採択された。この動きのなかで身元不明者の発掘作業もおこなわれるようになった。

420044月に成立した社労党のサパテロ政権期である。この政権になってその動きは加速し、同年6月には下院が、政府に対してフランコ体制下で人権侵害を受けた人々への連帯、その復権や経済的扶助を求める法案提出を求めた。同年9月にこの下院の決議と閣議決定により「内戦およびフランコ主義の犠牲者の状況を調査するための省庁間委員会」が設置された。さらに、内戦開始から70年目となる2006年が「歴史記憶の年」とされ、翌年12月になって「歴史の記憶に関する法律」が制定されることになる。

省庁間委員会は「フランコ主義による被抑圧第2共和制家族・友の会」「歴史の記憶回復協会」「国際旅団友の会」「スペイン亡命者子孫の会」「旧フリーメイソンスペイン支部」など36の団体と会見して意見を聞きとった。またドイツの「反忘却、民主主義を求めて」といった団体から意見を聞いたり、旧東ドイツの非公開アーカイブの公開状況や強制収用所の被害者への補償について学ぶなど、過去の清算に向けての動向を学んだ。

歴史の記憶法の制定にあたっては、いくつかの論点があった。フランコ体制による政治犯創出を「無効」とするのか「不正」とするのか、フランコ体制の象徴物撤去は復讐行為か歴史のページをめくることか、「戦没者の谷」をどう処分するのか、文書館が所蔵する資料の原本を、それらをもともと所蔵していたカタルーニャ自治政府などに返還するのか否か、これらが議論されてきたのである。議論のなかで2005年に3月にはマドリードのフランコ騎馬像が撤去され、翌年1月にはサラマンカからカタルーニャに原本が返還されたが、サラマンカでは反対する声が強かった。フランコの紋章は何百ヵ所にもつけられていたがその撤去も課題になった。戦没者の谷ではフランコ支持者が命日に集会を持ってきたが、その集会は禁止された。記憶法によってここでの政治行動や内戦を称揚する集会を禁止したのである。

200810月にはこの法律を運用するために4つの政令が制定された。それは、市民戦争総合文書館の文書類のカタルーニャへの原本返却手続き、内戦・独裁時代に被害を受けた人々・遺族の復権手続き、臨時賠償手続き、国際旅団の義勇兵の国籍取得手続き、などの政令である。また、マドリード市議会は20096月にフランコの名誉市長や授与されたメダルなどの名誉の剥奪を決議した。

このように内戦と独裁による被害者の復権にむけての動きが強まり、記憶・顕彰、補償、資料収集、裁判の見直し、没収財産の返還、亡命者の復権、共同埋葬地の発掘と遺族への遺骨返還、被害者団体への補助などの活動を具体的にすすめることが求められるようになったのである。銃殺され不明となった人々の遺骨の捜索、その作業への公的な支援がおこなわれている。法律はできたが、具体的な活動については課題が多い。

このように被害者の尊厳回復に向けての活動がすすめられるようになったのだが、その背景には被害者の救済は、スペイン民主主義自身の名誉の回復であるという信念がある。この法律をみると、フランコ独裁を否定し、その意識を共有してきたスペイン社会の歴史的蓄積を感じる。この法律では「全国遺体発掘作業地点図作成」や「強制労働による建築・工事一覧調査」もおこなわれるという。今後の作業が期待される。

被害者の尊厳回復をすすめる歴史の記憶回復協会の会長エミリオ・シルバさんは次のように語る。

2000年にレオンで銃殺された祖父ら13人の遺骨を発掘した。DNA鑑定で2年たって関係が判明した。協会には自分の家族を捜すために様々な家族が集まっている。協会はその家族を手助けし、すでに1500体を発掘している。現在1万人余の家族が発掘を希望している。発掘作業はボランティアでおこなう。共同埋葬地での発掘が多い。2年半前にはマラガでおこなったが、そこには5千人が埋められているという。この虐殺はチリのピノチェットが行った虐殺より規模が大きい。スペインでは若い世代がフランコ時代の歴史を十分に学んでいない。3年前の新聞の調査では18歳以上のうち35パーセントが学校時代にフランコの時代を学んでいないという数字が出た。フランコ時代には人権侵害が多く、数多くの行方不明者があり、175以上の強制収容所があった。共和国軍への所属を理由に拉致された者もある。ポリオの注射がフランコ側の親の子から始められるという差別もあった。近年になりスペインで社会的な運動が始まり、歴史の記憶法の制定につながった。歴史のなかで忘れ去られてきた犠牲者の尊厳を回復し、公的に記憶していくことが求められる。家族が家族の行方を捜し、それを政府が支えるかたちで法律ができた。私たちは自分たち自身で歴史を回復していかねばならないが、ボランティアの活動に頼るのではなく、政府は責任をもって人権を保障すべきである。「戦没者の谷」はフランコ主義者によるものであり、その墓の維持を政府がおこなってはならない。この法律では記憶は個人のものとされているが、集団的な記憶にすべきである。この点では政府介入による教育が課題である。

歴史の記憶回復協会の顧問弁護士のフェルナンドマガニさんは次のように言う。

歴史の記憶法は制定されたが、原因には深刻なものがある。制定はフランコ以後の民主化運動の成果であるが、この法は過去ではなく未来を向いている。民主主義をめざすことは大切なことだが、過去を振り返り、民主的な価値とは何かを考えること、過去はどうだったのかを反省することも大切だ。2004年に社労党のサパテロ政権が成立したが、かれの祖父はフランコ側によって銃殺されている。かれにとってもこの問題は政権として制度を作り収拾させたい思いがある。省庁間委員会を作り、委員会は市民団体から請願や証拠の提供を受けた。民間団体による共同埋葬地の発掘も始められた。そこは墓標もなく多数が埋められたところだ。政府は報告書を作成し、歴史の記憶に関する法律も制定されたが、制定までに4年間かかった。批判もあり、称賛もあるが、法律のいいところをみて話をしたい。この法律は歴史を認識するだけのものではなく、憲法制定から30年の民主主義の成果を反映している。新しい世代に対しても新たな視点を与え、教育することにもなるものである。法律は、圧政の時代を過ごした経験が現在と無関係ではないことを示している。この法律の制定により、ガルソン判事はフランコ時代の圧政を暴くために訴訟手続きをすすめている。

歴史の記憶回復協会の活動に参加しているバスク出身の女性は次のように語った。

フランコ時代に祖父は捕らえられ祖母は3人の子を抱えて逃げた。家族はゲルニカの爆撃も体験した。家族はフランス国境に逃げたが国境は封鎖され、カンタブリカ方面からロシアや英国に逃げた人々もいる。フランコに押さえつけられていた時代の傷は今も癒えていない。犯した誤りも認め、拷問の時代を認めることが大切であり、そのうえで平和を求めるべきだと思う。その思いがあって活動に参加している。フランコ時代の清算については自身の体験からこみあげてくる想いがある。

歴史の記憶回復協会の活動をすすめる人々との話し合いのなかでは、次のような補足の発言もあった。

フランコ時代についていまも恐怖を感じている人がいる。田舎町では多い。エストレマルーダでの墓地発掘の際にはTV取材の前で恐怖を感じて倒れた人もいた。「エクスプレサール」は表現という意味であるが、その語源は「プレサール(囚人)からエクス(逃れる)」というものである。解放されること、それによって表現ができるようになるということだ。スペインでは、いまも過去にとらわれ奴隷状況になっている人々がいることも事実だ。この30年間の民主化のなかで正義が十分に実現してはいない。弾圧に対しての復権と補償は受けられていない。実際、いまも多くの人々が排水溝(墓標なき墓地)に入れられ、70年間ゴミのようにすてられたままである。この人々の尊厳はいまも修復されていない。

さらに、第2次大戦でドイツ軍側に立って闘ったスペイン人の「青の軍団」の対ソ戦での遺体発掘は12年前におこなわれた。内戦期にマラガ、アルメニアではイタリアやドイツ軍によって殺されたスペイン人もいる。ゲルニカ空爆の被害者への補償はおこなわれた、といった話も出された。

歴史の記憶を回復することの第1は真相の究明である。そこから復権と賠償の作業がはじまり、正しい歴史の継承の活動が始まる。だれが、いつ、どこで殺されたのか。内戦と独裁によって抹殺されてきた人々の遺体を掘り起こし、その死者の側から歴史を記述する作業が始まっている。その始まりは、現在の世界史の特徴である。21世紀を民衆レベルでの過去清算、歴史記憶回復の運動の時代とみることもできるだろう。この歴史の運動は、民衆の側が主権・人権・平和を自ら獲得していくものである。

運動をすすめている歴史の記憶回復協会のHPwww.memoriahistorica.orgである。

マドリッドの町を歩き、中心部にある大きな書店に行き、スペイン内戦関係の本を探した。スペイン内戦の国際会議がDVD化されたものがあり、2006年の国際会議のレジュメや会議の様子がDVDにまとめられ、安価で販売されていた。また、戦争遺跡の研究書や革命側のポスター集なども置かれていた。

 

●サラマンカの「歴史の記憶記録センター」

マドリッドから中世都市の雰囲気を今に残すサラマンカに向かった。サラマンカはマドリッドから約200キロ先にある。標高600から1000メートルの高地に、雲ひとつない空から太陽の強い光が射す。気温は38度ほどだが、高地の涼しい風が吹く。途中、「誰がために鐘は鳴る」の舞台になったというマドリッド郊外の村、フランコが強制労働によって建設させた「戦没者の谷」、中世の城壁が残るアビラの町などがみえた。

サラマンカの町の歴史は古く、ローマ支配期に「銀の道」が形成され中継地となったことによる。8世紀にはイスラムの支配を受け、11世紀にはキリスト教徒が支配した。サラマンカには13世紀初めに大学が設立された。サラマンカ大学はヨーロッパではボローニャ、パリに続く3番目の大学であり、この町は古くから学術都市として文化のセンターになってきた。サラマンカのマヨール広場は18世紀に建設され、建築家の名をとってチュリゲラ様式と呼ばれる。バロック様式のスペイン的展開であり、装飾性に満ちた広場である。

フランコは反乱を起こしてブルゴスに評議会をおいたが、一時期、サラマンカに拠点を置いたこともあった。この間の近くにフランコが居住したこともあり、この館にはモロッコからの警備兵を住まわせた。サラマンカにはフランコを支持する人々が多かった。フランコは敵対する人々の情報をサラマンカへと収集した。フランコはこの情報資料から労働組合員、アナキスト、共産主義者などを探し、秘密警察による弾圧の材料にした。

「歴史の記憶記録センター」(市民戦争総合文書館)は市街に通じるローマ時代の橋を渡り、城壁の門のすぐ近くの建物に置かれている。サラマンカには古文書館が設置され市民戦争関係の文書も収集されてきた。フランコ支配時代は索敵資料として使われ、その資料は民主化にともない年金や補償の史料とされてきた。1999年の政令によって市民戦争総合文書館が運営されるようになったが、2005年の「歴史の記憶記録センター」設置法により、この文書館に2007年に「歴史の記憶記録センター」が設立された。この記録センターの役割は歴史の記憶法の条文に記されている。そこではセンターは文書館による資料の収集・保存をすすめ、調査結果の普及や調査への支援をすすめるなどの役割をもつとされている。

館の一階には、視聴覚室、簡単な展示、フリーメイソンを復元した部屋などがあり、2階には閲覧室、研究室、資料庫などがある。2階にある資料庫には、部屋の中央と側面にカード収納ケースが並んでいる。ひとつのボックスに入るカードは5000枚ほどという。この部屋には300万人に及ぶ索敵用の情報カードが収納されている。カードはアルファベット順に整理され、名前の下に、共和党左派の党員、労働総同盟組合員、共産主義者といった具合に思想や所属が記され、下部には関係書類がどこに所蔵されているのかが記されている。子どものカードもあり、誰の子でどこに亡命したのかなどが記され、成長後の足跡の調査も記されている。

これらはフランコ独裁の40年を支えてきたカードであり、権力による世代を超えての監視を示すものである。このカードによって銃殺、刑務所送り、強制労働、財産没収、公務職からの排除などがおこなわれた。フランコの支配期には雇用に際して履歴書とともに無犯罪証明書が必要であった。スペイン全土から、身上を照会され、問題があれば雇用されなかった。

歴史の記憶法が制定されると、そのような弾圧のための資料が、復権と賠償にむけての資料として利用されるようになった。館の設置により祖父母の情報についての問い合わせが殺到した。亡命先など、その情報の提供は無料でおこなわれている。

300万人の索敵情報カード、この引き出しのなかには自由と解放を求めたひとりひとりの歴史が押し込められている。そのすべてを想像することはできないが、未完のままの想いの一端に思いを馳せることはできる。引き出しの中に押し込められたままの解放への想いは限りなく重くて大きなものだ。この小さな資料庫の中には限りなく大きな解放への力が詰められているように思われた。その力につながる人々が歴史の記憶法を成立させている。

フランコはスペイン共和制下の民衆の解放への表現を弾圧した。しかしそのような民衆の表現は枯れることなく形を変えて現在に蘇っていくものだろう。フラメンコの歌とギターと踊りによる情熱の表現のように。

 

●バルセロナのモンジュイック墓地

地中海に面したバルセロナの歴史は古く2000年の歴史を持つという。旧石器や青銅器の遺跡も発掘され、紀元前から様々な民族が流入している。紀元前3世紀にカルタゴ人が殖民都市を形成した。後、ローマ人、ゲルマン人が来る。8世紀にはイスラム教徒が入り、9世紀にはフランク王国領となった。12世紀にはカタルーニャ・アラゴン連合王国が成立して地中海を支配する力を持ち、バルセロナはその拠点都市になった。18世紀のスペイン王位継承戦争に際して反スペイン王朝側であったことなどから、都市の特権を奪われ、カタルニア語は禁止された。19世紀になって産業化がすすむと、経済力を持ったバルセロナではカタルニア文化運動が形成され、共和主義や芸術運動が盛んになる。ガウディやモンタネールの建築が生まれたのはこのときである。ゼネストが取り組まれるなど労働運動も盛んになった。20世紀はじめにはスペインの共和主義と革命の拠点になった。バルセロナでは1888年と1929年に国際博覧会が開催され、1936年にはベルリンオリンピックに対抗して、人民オリンピック開催を予定したが、内戦のために中止された。

バスクの街を歩いていたときに共同墓地に行きたいと思っていた。ビルバオやゲルニカの人々がどのように歴史を継承していこうとしているのかを知るヒントが墓地にあるのではと思っていたが、時間がとれなかった。バルセロナに来て、現地ガイドのロサさんと話したところ、モンジュイックの丘で共和国のリーダーだったルイス・コンパニスが内戦後に捕えられて処刑されたことやかれの墓があって追悼式がおこなわれていることを知った。また、墓地にはアナキストの活動者だったドゥルティの墓もあるという。

バルセロナにはカタロニア歴史博物館があり、そこに内戦関係の展示もあると聞いていたので、博物館からモンジュイック墓地にいき、時間があれば、その他の戦争遺跡を見学する予定で一日歩くことにした。バルセロナの一日は長い。日の出は7時過ぎだが、日没は9時すぎであり、9時でもまだ明るさが残っている。

カタルニア歴史博物館の展示はその方法も内容もまとまったものだった。カタロニア民族主義が強調されてはいるが、この地域の歴史がうまくまとめられ、農民に殺された騎士の姿の模型が示されるなど民衆の視点も重視されている。また社会運動や内戦に関する展示もある。館で出されている内戦関係のカタログも写真も多く厚いが安価である。

この館の展示から、カタルニアへのフランコを支援してのイタリア軍による空爆についてまとめておこう。展示の解説では、内戦期は空軍による大量破壊がおこなわれた最初の時期であるとし、次のように記している。イタリア軍は軍事的産業的標的のみならず、市民への爆撃をおこなった。空爆の目的は恐怖心を植え付け、後方を攪乱するものだった、と。展示会場では空爆時の映像も放映されている。爆撃された場所も示され、カタロニアの拠点地区10カ所が空爆され、死傷者が出ていることがわかる。

歴史博物館でコンパニスの墓について聞いたが、知らないという。しかし、現地に行けば分かるかもしれないので、墓地に行った。モンジュイック墓地に行き、さてどこから見ようかと考えていると、墓地の地図を持って歩いている人に出会った。この地図はどこで入手できるかと聞くと、いらないからあげると言う。その地図を見ると、著名な墓石については歴史・芸術・戦争などの3コースに分類されて見学できるようにコースが示され、番号もふられている。コンパニスもドゥルティも最後の方に記されていた。

共同墓地から少し離れた広場にコンパニスの墓はあった。この場所は銃殺された人々が捨てられたところであるという。広場への入り口には3列に計25本の柱が立てられていて、2列目からは柱に名前が掘られている。これらの柱は銃殺されて捨てられた人々を追悼し、その人々との連帯を示すものである。

柱には1939年、1940年と年が記され、その下にはこの地で処刑されるなど殺された人々の名前がある。広場の右手には死者を抱く女性の彫刻像(1984年)があり、左手の壁の近くにはバルセロナユダヤ人協会が建てた碑がある。このユダヤ人の碑には、内戦時に4000人のユダヤ人がスペイン解放のために命を失ったことが記されていた。碑の周辺にはベルゲンベルゼン、ダッハウ、アウシュビッツ、テレジンシュタット、トレブリンカなど主な10の強制収容所の名が記された碑が杭のように打たれている。その上に訪れた人々が追悼の想いをこめて小石を置いている。

コンパニスの墓は死者を抱く女性の彫刻像から少し歩いたところにあり、墓石は円状の屋根と水を湛えた池の中におかれていた。その墓の左方は崖になっていて、内戦期の死者を追悼する墓石や碑が散在していた。内戦後、モンジュイックの丘に連行されて殺された人も多い。

碑を見ると、トマス・ユアニ・サンチョ、ジョセフ・サルバド・ドルモン、ジョアン・プギニ・フスター、ロマン・ドゥラン、フランシスコ・コンパノ・サンチェス、・・と名前が記され、生年と死亡した年が刻まれている。なかには無名のものもある。死亡年は1938年や1939年などが多いが、1947年のものもある。また、国際旅団、カタロニア統一社会党(PSUC)、ユダヤ人義勇軍などの追悼碑もある。

崖の下に散在する碑群は厳粛な気持ちを与える。この風景はフランコ独裁以後のカタルニアにおける歴史の復権に向けての歩みを示している。それは歴史の記憶法に対して、その内容が不十分なものであると反対したカタロニアの人々の行動の根拠を示すものでもある。この碑群の風景は、サラマンカの300万人のカードとともに強い印象を与えるものだった。

共同墓地のなかにあるブエナベントゥラ・ドゥルティの墓は簡素なものであり、長方形の黒い石にその名前が刻まれていた。かれはアナキストであり、労働者民兵を率いてバルセロナでは反乱部隊を排除し、その後のマドリード攻防戦で1936年に生命を失った。バルセロナでは大きな葬儀がおこなわれ、その様子は映像化されている。

ドゥルティの墓の右には同じような形のフランシスコ・フェレルの墓碑がある。かれは1909年のモロッコ派兵抗議のゼネストの際に処刑された。かれは教育者であり、子どもの自由意志の尊重を語り、『近代学校・その起源と理想』を記している。ドゥルティの墓の左にはフランシスコ・アスカソの墓碑がある。かれはバルセロナでドゥルティやガルシアオリベルらと「我ら」というグループで活動するなかで1936年に亡くなった。

これらの3つの墓はバルセロナでの社会正義と自由にむけての活動を象徴するものとされている。また、近くにはUGT(労働組合)の活動者フランチェスコ・ライレットの碑もあった。かれは1920年に亡くなっている。

モンジュイック墓地に葬られている人々については知らないことが多く、ここに多くを記すことはできない。さまざまな人間の社会的な解放にむけての行動の歴史があり、その歴史の蓄積がこの街の社会的な空気を育んでいるように思う。

モンジュイック城には工事中ということで行けなかった。スペイン政府は2006年に入って、モンジュイック城を「平和と協調の博物館」にすることでバルセロナ市に返還することを約束した。かつては政治犯を収容し、処刑の場とされ、その後軍事博物館とされていたこの城が、平和博物館としてどう生まれ変わるのかが期待される。

モンジュイックの丘の労働者街に「防空壕307」が市によって整備されて残されている。この壕はアパレル駅からモンジュイックの丘の方向に歩いていくとある。内部の見学は14時までである。内戦の時代を物語る戦争遺跡のひとつである。ゴシック地区の聖堂の近くに聖フェリペ教会は空爆によって多くの子どもたちが犠牲になった場所である。壁にはたくさんの爆撃跡が残されている。

2002年にEUサミットに反対してバルセロナでデモがおこなわれ、そこに数十万人が参加、地元からの動員も多かったというが、この街が持っている解放感覚はパリのような社会運動の歴史的な蓄積によるものだろう。街並みに共和制と革命の波を幾度も経験した記憶があり、その行動や表現に寛容な空気がある。

バルセロナの街の建物の多くが、内戦期にはすでにあったものである。記録映像を見ると、コロンブスの塔を始めバルセロナの数多くの建物が映されている。その意味では街全体が内戦を物語ることができる史跡であるといえるだろう。建物の前に立ち、ここで人々がどのような思いで生きてきたのかを語ることができるように、その歴史を学び、その未完の想いを現実のものにしたいと思った。

                             (竹内・20099月)