旭川・室蘭の旅

旭川のアイヌ記念館

 旭川に、川村カ子ト・アイヌ記念館がある。この記念館の設立は1916年のことである。はじめに旭川のアイヌ民族の近代史についてみておこう。明治新政権によるアイヌモシリの占領によって、1890年代初め、上川郡に神居・旭川・永山・鷹栖といった村が置かれ、そこに屯田兵が入植していった。アイヌの大地は収奪されていった。

 石狩川上流下流、石狩川支流の忠別川・辺別川にはアイヌコタンがあった。1887年ころアイヌたちは今の旭川(チカップニ)の近文コタンに移住を強制された。松浦武四郎を案内したというクーチンコレという人物がいた。クーチンコレからコタンのリーダーを継承したのが川村モノクテである。かれのあとを継いだのが川村イタキシロマだった。記念館はかれの時代に作られた。このイタキシロマの子がカネト(1889〜1977)であり、現館長の川村シンリツ・エオリパックはカネトの子にあたる。

 北海道旧土人保護法が制定された1899年、大倉組が第7師団建設を請け負った。道庁は大倉組にアイヌへの給与予定地を払い下げた。アイヌへの給与地の5分の4が奪われた。コタンの家の前を軍用道路が通った。近文コタンのアイヌに対し天塩への移転を強要したが、アイヌは反対してこの地にとどまった。

師団の建設によって和人の流入は増加した。差別と同化政策が強行されていった。一方アイヌ文化を復権させる契機のひとつである知里幸恵『アイヌ神謡集』が1923年に出版されている。アイヌの土地要求と裁判は続き、1934年に旭川旧土人保護地処分法の制定となった。アイヌの持っていた共有地は学校の敷地・鉄道・道路軍事工場に貸し出され、1956年に北海道林産試験場に売り渡された。

この共有地をめぐって、今も裁判でのたたかいが続けられている。このアイヌ共有地裁判の原告の一人は「言葉を奪われ過酷な労働、アイヌにはない病をうつされ、無念の思いで死んでいった多くのアイヌの心を握りしめて」提訴したとその思いを語っている。

 さて、川村カネトは測量を学び各地の鉄道建設に従事している。豊橋から飯田にいたる鉄道建設にもかかわっている。記念館にはアイヌの文化財とともに、カネトの遺品がある。測量の器具とともに1828年3月の三信鉄道株式会社への採用、翌年12月の天竜峡工事監督事務所在勤、1931年12月の休職、翌年4月の復職などの通知が展示されている。

 測量の仕事をやめた後、カネトはこの地に帰り、ぺ二ウンクル〔上流の意・旭川〕のコタンの長となった。史跡保存会や民族手工芸会の会長やウタリ協会の理事を務めた。

 記念館の前には砂沢ビッキの木彫があり、館内にもかれの彫った刀剣の鞘があった。館長の部屋を訪問すると、そこにはトンコリがあり、それを爪弾くことができた。

館の活動をみると、これまでの植民地支配と皇民化の波をはねのけ、アイヌ民族の復権にむけての共同の砦として位置づけられていることがわかる。アイヌ語で砦は「チャシ」、旭川地域の砦を「ペニウンクル・チャシ」という。

この館で杉山四郎『アイヌ民族の碑』〔2002年〕を入手することができた。アイヌ民族の歴史を歩きながら知ることのできる労作である。

今また、旭川の師団は派兵の軍事拠点となっている。アイヌの土地を奪ってつくられた基地、共有地を処分してのちも謝罪賠償のない行政、アイヌの文化は認めても民族の権利は認めない国家。これらの不正義に対して、館は『チャシ』でありつづける。ビッキの木彫は、抵抗の音なき歌をうたっているかのようだった。

● 室蘭の中国人追悼碑

 札幌の近くの当別町材木原に劉連仁の碑がある。建立は2002年である。明治・昭和炭鉱から逃走した彼が13年ぶりに発見されたのは1958年のことだった。2月に訪れたとき碑のあるところは3メートルほどの積雪に埋もれていた。上部の雪を取ると碑が現れた。碑の内部は空洞になっていて、ちょうど彼が雪の中に穴を掘って隠れ場所としていたところのようだった。

 1940年代なかばに日本へ連行された中国人は約3万9千人、135箇所、そのうち北海道へは約1万6千3〇〇人が58の事業所に連行されている。北海道は戦時下収容所列島でもあった。

 室蘭は北海道の軍需工業地・軍港であった。北海道炭鉱汽船が石炭積み出しのために室蘭へと鉄道を引き、輸出用の石炭搬出港とされた。1893年には軍によって軍港にも指定された。日本製鋼や日鉄輪西製鉄所がつくられ、鉄・兵器の生産がすすんだ。この室蘭に戦時下、労働力として、たくさんの朝鮮人、中国人、連合軍捕虜が連行されてきた。

 連行された人びとは、港湾・工場での労働を強いられた。戦時統制の中で、港運業は石炭・雑貨・製鉄関係に統合されその下に朝鮮人・中国人が配置された。朝鮮人兵士も連行されていた。

室蘭へ連行された中国人は5事業所1855人。半年あまりで564人が命を失った。1954年になってイタンキ浜から125体に及ぶ中国人の遺体が掘り出されている。浜の近くの丘に追悼碑が1972年に再建されている。

新日鉄の南方の丘にあがると、工場群と室蘭の港が見える。前方には新日鉄の工業用の石炭・コークスが見え、かなたに白鳥大橋がある。室蘭はかつて戦争の拠点だった。

1995〜6年を見れば計70隻ほどの日本の軍艦が入港し、99年には米第7艦隊ブルーリッジが寄港している。これまで港湾の軍事使用がねらわれてきていたことがわかる。軍艦の寄港が増加し、いまイラク派兵のために使われようとしている。室蘭を再び軍港としない取り組みが求められているように思われる。軍港と強制労働の歴史に学び、港湾を平和と友好の場としていくべきだ。

浜の砂は細かい。太平洋からの波が浜に打ち寄せる。うちよせられた貝殻が白く点在する。砂は風に吹かれて音を放つ。イタンキの浜と室蘭岳は何もなかったかのようにその姿を示していた。平和に向けての歴史を語り継ぐための行動を待つかのように。     

〔竹〕