ベルゲン・ベルゼンの旅 2005・8

 

この夏、ハノーファー・ベルリン・リヨン・パリを回り、各地の史跡を訪ねる機会があった。以下見学地を紹介したい。

● ベルゲン・ベルゼンの旅 

ドイツのハノーファーから、ベルゲン・ベルゼン強制収容所に行った。20年ほど前に、この収容所が解放されたときの死体の写真を見たことがある。そこに写されていた奪われた生の可能性を示すイメージには衝撃力があり、ベルゲン・ベルゼンの名は忘れられないものになっていた。一度は現地に立ちたいと考えていた。

ベルゲンはハノーファーから北東へ約65キロ、リューネブルグの荒野にあり、近くにベルゼン村がある。ベルゲン・ベルゼンはこの2地域の総称である。第1次世界戦争では捕虜収容所とされ、第2次世界戦争では1940年にフランスとベルギーの捕虜を使って改築工事がおこなわれた。ここに100棟ほどのバラックが作られ、ソ連兵の捕虜収容所とされた。捕虜は21千人が連行され、そのうち14千人が生命を失ったという。

1943年ナチスSSによって収容所の運営がおこなわれるようになり、ベルゲン・ベルゼン強制収容所となった。入り口近くの6バラックが第1収容所とされ、ドイツの政治犯を含む受刑者が連行された。19434月から交換用のユダヤ人ブロック(星の収容区)の建設が始まり、7月には最初の連行列車が着いた。

19443月からは他の収容所から労働不能などの転送者の受け入れをおこなうようになり、ドーラ・ザクセンハウゼン・ノイエンガメ・ブーベンブルトほか、各地からの転送者を収容した。445月、451月にはチフスが流行し、多数の死者が出た。448月には女性抑留者が連行されて周囲のテントに収容され、強制労働分隊に編入された。

連合軍がドイツ領に接近する中で他の収容所は閉鎖され、44年末以降、アウシュビッツ・ブーベンバルト・ドーラ・ダッハウ・ノイエンガメなどから数千人単位でここへと転送されるようになり、第2収容所もおかれた。11月にはアウシュビッツ・ビルケナウから3000人が転送されてくるが、そこにアンネフランクの姿もあった。44年12月の抑留者数は1万人余であったが、453月には5万人ほどに増加した。飢餓、衰弱、殴打、伝染病、凌辱そして死が収容者を襲った。200人を超える人びとが心臓へのフェノール注射によって殺害された。解放前数日間は集団銃殺がおこなわれた。

この収容所にはガス室はなかったが、収容所は死体で満ちた。45年4月には死体焼却場の火が消され、SSは戸籍を焼却し、国防軍に警備を委任して退却した。4月15日イギリス軍がこの収容所に入り、腐敗のすすむ死体の山を見た。収容所内にはチフスに罹患した生存者と死体が並んでいた。5月20日イギリス軍は伝染病予防のためにこの収容所を焼却した。ここに抑留された人数は30万人という。強制収容された5万人と戦争捕虜2万人がここで死亡した。2年で17万人を超える死者があったとする説もある。

他の収容所で無用とされた人々が転送され、虐待され放置されたのがベルゲン・ベルゼンである。記憶にあった写真は解放されたときに写されたものである。

現在、ベルゲン・ベルゼンには公立の展示館が建っている。最初に展示館ができたのは1966年のこと、1990年に新展示館が建てられている。展示館の展示スペースはそれほど大きなものではないが、映画用のホールや学習施設が備え付けられている。展示館から収容所跡に向かうと、監視塔の跡地に収容所の地図を示す碑があり、収容所の境には石片が埋められて、かつての境界線を示している。境界に沿って森の方向を見ると、境界線の地帯には草がない。説明によると、ナチスはここに毒をまき今も草が生えないのだ、という。

そこから少し中に入ると、ベルゲン・ベルゼン19401945と記された碑がある。収容所の跡を歩いていくと、遺体が埋められたところが墳墓のようになっている。そこには墓標があり、ここに2500人が眠る19454月、といった文字(HIER RUHEN 2500 TOTE APRIL1945)が刻まれている。このように2000人・5000人と死者の数を記した墳墓が散在し、その上に人びとが追悼の意味を込めて小さな石を置いている。エリカ(ハイデ)の赤紫色の小さな花がその墳墓を覆うように咲き、風に揺れている。収容所跡地は広大な墓地となっていた。

墳墓群の奥に追悼塔(1947年)があり、その間にユダヤ人の墓石が点在している。さまざまな形の墓碑がある。ここに墓碑を作ることができたのは死者数から見て数少ない人たちだろう。ユダヤ人警告碑(1946年)もあり、そこにはナチによる殺戮を忘れることはない、といった意味の文が刻まれている。追悼碑の横の壁には各国語で追悼の碑文がある。碑の横には1999年の新しい碑版があり、そこにはユダヤ・シンティ・ロマ・エホバ・同性愛者・政治的反対者への追悼文が記されていた。近くには沈黙の家が建てられていた。ソ連兵捕虜の死者の墓は少しはなれたところにある。

ベルゲン・ベルゼンについては、展示館の解説書『BERGEN-BELZEN』(英語版もある)、マルセルリュビュー『ナチ強制・絶滅収容所』筑摩書房1998年などがある。この収容所跡地は、この時代を知るうえで欠くことのできない史跡であると思う。展示館での説明によれば、兵士がここを訪問するのも兵士の教育のうちという。すれ違った若いユダヤ人グループが針金で作った荊の星のオブジェを持って歩いていた。人々が置いた追悼の小石の脇に、日本からの参加者が折り鶴を置いた。

ドイツの夏の陽光のなか、この墓地から昇っていくさまざまな想念に思いを馳せた。数万人をそのまま埋め込んだこの場所に、そのことを示す言葉はこまかくは記されていない。しかし後に生きるものは、この閉ざされた数万人を超える生の歴史を何度も反芻することを試みるだろう。歴史に学ぶということは文字のみではなく、その現場に立つことであることをこの収容所跡地は語っている。

 ●ゲオルク・エッカート国際教科書研究所

このベルゼン・ゲルゼン収容所に行く前に、ハノーファー近くのブラウンシュバイクにあるゲオルク・エッカート国際教科書研究所を訪問した。この研究所の歴史は1951年の国際教科書改善研究所(所長ゲオルクエッカート)、53年の国際教科書研究所(ブラウンシュバイク教育大)の設立にさかのぼる。74年にエッカートは死去するが、翌年州立のゲオルクエッカート国際教育研究所が設立され、今日に至る。1970年代から教科書についてポーランドとの共同作業に着手し、90年代には歴史教師用の新マニュアルを作成し、2001年には教員用の『20世紀におけるドイツとポーランド』を発行した。

現在ではフランス・ロシア・ベラルーシ・チェコ・ポーランドなどとの教科書プロジェクトを持ち、イスラエル・パレスチナ、日本と東アジアの教科書問題についても研究をすすめている。最近の研究紀要を見ると東アジアでの歴史観についての特集が組まれていた。中国上海や日本の研究者も滞在していた。

研究所での説明によれば、学術研究を政治家に提示し影響を与えてきた。政治家はさまざまな反応をするが、研究成果については手を触れることができない。学術的調査・政治的議論を経て、教授法研究や実際の授業への活用がおこなわれてきた。アジアよりも和解が容易だったのは、西欧での経済的政治的軍事的共同があったことによる。政治ブロックを超えてポーランドとの共同作業をすすめていった。州が支援しているが、学術的な独立が大切だ。私たちの成果に対して州は直接干渉できない、とのことだった。

戦争責任をめぐる論争が一定の決着を見ているうえに、他国との共同作業がある。政治的問題の解決なしに教科書の共同はない。ドイツは戦争責任を認めることで集団的アイデンティティを形成してきたという。この研究所は教科書の共同に向けてのドイツの拠点的センターであることがわかる。

2階には世界各地の教科書が配置されている。収蔵は16万冊という。そこで教科書を見ていくと、フランスのハチェット教育出版社版の初級歴史教科書があった。戦時関係を読んでみるとカラーでわかりやすい記述だった。このようなものが広く紹介されることで人々の意識も変わるだろう。人間の能力開発では、さまざまな対立点を知り判断する能力を育てることが大切だろう。日本での教科書問題を見ると、戦争を正当化し、判断力や権利を奪い隷従させるかのような動きが強い。それは戦争責任や主権についての政治的解決がついていないことによるものでもある。

ベルゲン・ベルゼンと教育研究所に向かう拠点としたハノーファーの駅の書店を見ると、各国の新聞があり、アラブ文字のものや朝日新聞もおかれていた。別の大きな書店に入るとさまざまな絵本があった。そこでエンデ作の「オフィーリア」を土産に買ってハノーファーからベルリンに向かった。                    (竹内)