七三一部隊の史跡 ハルビン・ハイラルの旅1994.8

 

1994年の夏、ハルビン・平房・背蔭河・安達・ハイラルにある七三一部隊の跡を訪ねた。1993年から全国各地で七三一部隊展開催されたが、この調査の旅は七三一部隊展全国実行委員会のメンバーによって企画されたものである。この調査の後の1995年に全国実行委員会は七三一部隊展の報告集を出した。ここではその記事も参考にしてまとめていく。

 

       ハルビン市街の七三一部隊史跡

 日本の侵略と占領によって「満州国」が作られたが、ハルビンはこの満州国の中心地点にあり、軍事と交通の拠点となった。ハルビンの南方の平房に、細菌戦部隊である七三一部隊ができるわけであるが、ハルビンは七三一部隊への玄関口となり、七三一関係者や七三一部隊へと人体実験用の人間(「マルタ」)を送った憲兵隊や特務機関・警察関係の拠点が置かれた。そこには地下牢を備えていた場所もあった。ハルビン駅南方の一角には警察・憲兵・特務を含む行政関連の建物が集中し、吉林街には七三一関連の拠点が置かれていた。今回の調査では、最初にハルビン市内に残る七三一部隊関連の建物を見た。

ハルビン警察庁は今では東北烈士紀念館になっている。紀念館は抗日戦争に参加した人々を顕彰するものだが、拷問の様子を示す像もあった。捕えられた人々のうち、七三一部隊に送られて生体実験の材料とされた人々も多い。

旧日本領事館の建物は「白樺寮」として使われた。現在では花園小学校と簡易宿舎(花園旅社)になっている。1936年まで領事館とされていた。この白樺寮は七三一部隊の連絡場所とされ、地下室は「マルタ」の中継基地として使われた。新日本領事館となった建物は現在、鉄道公安局になっているが、この建物にも地下室があった。

近くには憲兵隊本部や特務機関の建物があった。憲兵隊本部は七三一部隊への「マルタ」の特別輸送を裁可した。ハルビン駅には憲兵隊分隊があり、列車で運ばれてくる「マルタ」を引き受けたという。

特務機関はスパイの摘発もおこなった。その特務機関の建物にも地下室があった。旧特務機関は現在では毛沢東記念館、新特務機関の建物は省新時代公司になっていた。

今回の調査で、吉林街5にある建物も旧特務機関によって使われ、その奥の建物の地下室が監獄として使われていたことがわかった。階段を下りていくと薄暗い地下室が10室ほどあった。地下牢の格子や木製の扉が残っている箇所もあった。捕えられた人々はこの薄暗い場所に連行され拷問されていたのだろう。現在では、特務機関関連の建物は工程質量監督機関が使用し、奥の地下のある建物は百貨点の倉庫として使われていた。

吉林街にあった吉林街七三一分室の地点には、憲兵隊宿舎もあり、入り口には衛兵が監視していた。ここには地下監獄もあった。建物の2階には石井四郎も住んだ。現在の吉林街54が石井の官舎、52が吉林街七三一分室の住所になる。この分室は部隊員がハルビンと平房を往復するときの連絡場になっていた。

南通大街には南棟があり、七三一部隊の第3部が置かれた。吉林街130の内務省公館・光工作班の建物は黒龍江省文史研究室になっている。松花江の近くには「松花塾」が置かれ、「マルタ」輸送のための秘密監獄として使われた。

 中国は近代化によって各地で旧ビルの破壊と新ビルの建設がすすむ。ハルビンにある古い建物がいつまで保存されるのかはわからないが、戦争史跡として保存してほしいと思った。

 

       平房の七三一部隊跡

 七三一部隊が旧満州に置かれた理由は、対ソ連戦を想定したこと、人体を含む細菌兵器実験の材料が確保しやすかったこと、秘匿性が可能であったことなどによる。

 ここで七三一部隊の概要と細菌戦の実行についてみておこう。

 七三一部隊長になった石井四郎は、第1次世界戦争後にヨーロッパを視察し細菌戦について研究した。かれは細菌戦の必要性を語り、1932年に陸軍軍医学校内に防疫研究所をつくり、細菌戦の研究をはじめた。

当時、陸軍省医務局長の小泉親彦が石井を支援しているが、小泉はそれまで軍医学校で1917年から化学戦(毒ガス)を研究し陸軍科学研究所を設立(第2部が化学兵器)、のちに東条内閣では厚生大臣になり、敗戦後の19459月には腹を切って自殺したという人物である。

 石井が研究を始めた時期は満州国ができた年であり、石井は1932年、ハルビン南東の背蔭河に関東軍防疫班を置き秘密実験場にした。この部隊は『東郷部隊』と呼ばれた。1938年には平房一体が特別軍事地域とされ、七三一部隊の建設が始まっていくが、一部の工事はすでに始められていたという。主要施設の工事は大林組が請け負った。

 七三一部隊は「関東軍防疫給水部」と称したが、人体実験による細菌の強化と実戦での使用を主任務とし、満州各地に支隊を持っていた。関東軍の七三一部隊は満州の大連・ハイラル・孫呉・林口・牡丹江に支部をおき、この七三一部隊を核としながら、華北には北京に1855部隊、華中には南京に1644部隊、華南には広東に8604部隊、シンガポールには9420部隊をおいた。長春には関東軍軍獣防疫廠(一〇〇部隊)があった。この部隊は1936年度に病馬廠を改編して設立され、炭疽菌などの兵器化を研究した。また、チチハルに置かれた関東軍化学部516部隊は毒ガス戦部隊であり、七三一部隊はこの部隊とも連携していた。

戦争が拡大するとともに、七三一部隊は医学者との共同をすすめ、北京・南京・広東・シンガポールと細菌戦部隊の組織を広げていったのである。

細菌戦部隊に対して、その研究の指揮は陸軍省医務局衛生課や軍務局軍務課、作戦の指揮は参謀本部の第二科(作戦課)がおこなった。

さて、細菌戦はどのように実行されたのだろうか。

細菌による攻撃は、空からばら撒く雨下と爆弾の投下、砲弾での発射、井戸や饅頭に入れる謀略といった方法が考えられた。安達の実験場では、雨下、手榴弾や榴散弾、爆弾による使用実験が繰り返された。

七三一部隊が兵器化にむけて重視したものがペストノミである。「マルタ」にペストを植え付けて毒性を強化し、強化されたペスト菌を感染させたネズミに植え付ける。そのネズミにノミをたからせ、血を吸わせて兵器としてのペストノミを作るというのである。

実際にペストノミを使った細菌戦として証言があるものに、1940年の寧波作戦、1941年の常徳作戦、1942年の浙?作戦がある。寧波では194010月、飛行機からノミを撒布し、そのため100人以上がペストで死んだ。チフス菌を河に流したものとしては1939年のノモンハン作戦がある。細菌爆弾として陶器製の爆弾の開発もすすめられたが、完成は敗戦直前であり、実戦では使えなかったようである。

このような細菌兵器の製造のために「マルタ」を使っての人体実験がおこなわれた。毎年600人ほどが「特移扱」という特別輸送によって731部隊に送られ、3000人以上が生体実験で生命を失ったとみられる。対象者は憲兵隊や特務機関によって逮捕されたもののうち、抗日活動やスパイ容疑で死刑にされるもの、家族がないもの、逆利用できないものたちだったという。この「マルタ」を収容した施設がロ号棟の第7棟・第8棟におかれた特設監獄である。「マルタ」はペスト・コレラ・流行性出血熱・凍傷・毒ガス・梅毒などの生物実験に使われた後、解剖され焼却された。敗戦時には全員が殺され、松花江などに捨てられた。敗戦によって部隊の跡からはネズミが逃げ出し、翌年ペストが流行した。

敗戦によって米軍は七三一部隊関係者から訊問をおこなうが、すべての資料を提供することを条件に、米軍は七三一部隊の犯罪を免責した。米軍はそれらの資料を独占し、今度は自らの生物戦・化学戦に利用していった。七三一部隊の細菌戦は米軍に継承されたのである。関与した医師たちは戦後、製薬企業・医学会・大学などで活動して地位を得ている。たとえば部隊のリーダーの一人、内藤良一はミドリ十字の会長になった。

他方ソ連によって捕えられた関係者は1949年からハバロフスクの軍事裁判で裁かれ、一部は中国側に引き渡された。

中国内では細菌被害の実態についての市民レベルでの調査が1980年代からはじまり、死亡者名簿ができた地域もある。また、1989年には軍医学校跡地で人為的加工がある人骨が出土し、七三一関連の人骨として真相究明がはじまった。

このなかで1997年には中国人被害者が日本政府に対し訴訟を起こし、その戦争犯罪の責任の追及と尊厳回復への闘いがはじまった。1990年代には中国側が保管する「特移扱」に関する日本軍関係の資料の公開もおこなわれるようになった。

以上が七三一部隊の経過とその細菌戦の状況についてまとめである。

今回の平房の七三一部隊跡と調査では、軽合金工場内の焼却炉、兵器庫、木材工場内の小動物飼育室、吉村班冷凍試験室、黄鼠飼育室、東郷村の隊員宿舎、高等官宿舎、本館内の展示、ボイラー跡、ガス発生室、衛兵詰所などをみた。東郷村の跡地は中国民衆の住居として使われ、市場などもあり活気にあふれていた。

敬蘭芝さんからは当時の状況を聞いた。敬蘭芝さんの夫・朱之盈さんは日本の憲兵に捕えられ拷問を受けた。敬さんもまた捕えられ拷問された。旧ソ連KGB公文書館には19426月付けの牡丹江憲兵隊の報告書があり、そこには捕えた朱之盈らを「特移扱」することが記されている。

証言の場には、夫が七三一部隊の憲兵であった赤間さんが同席していた。赤間さんは七三一部隊で看護婦になった。敗戦時石井は列車で緘口令を敷いたという。戦後は赤間さんが病気になった夫の替わりに働いてきた。娘さんが『悪魔の飽食』を読み七三一について語るようにと赤間さんに言った。1994年に夫が亡くなり、夫の霊を背負って謝罪の旅に来たという。杖で病身を支えながら、赤間さんはマルタが捨てられたという松花江に花束を浮かべ、謝罪と回心の祈りを捧げた。また平房の七三一部隊の特別監獄跡に花束を置き、跪いて想いを示した。敬さんと会い、「何を言われるか・・と思い・・、ごめんなさいと言っても償えないが・・」と語りかけた。すると敬さんは、赤間さんの思いを受け止めるように、握り締めた赤間さんの手を握り返した。赤間さんは松花江に花を捧げた日の夜、初めて夫が優しく微笑むのを見たと語った。

 

       背蔭河

 ハルビンから約100キロ南東に背蔭河がある。1932年、この背蔭河に関東軍防疫班の名の秘密実験場がおかれ、人体実験がおこなわれた。この実験所には監獄や焼却場もあり、飛行場も隣接していたという。

 1934年にこの施設から脱獄事件が起きた。中国人がここを「中馬城」と呼んでいた。この「中馬城」からの逃亡については付近の村人の証言がある。

程家崗の呉沢民さんはつぎのようにいう。

 「中馬城」には大きな煙突があり、捕えられた人は血を抜かれるという噂があった。周りの堀や城壁を作ったときには村からも働きに行ったが、中の施設を作った人々は他所から連れてこられた人々で作り終わると殺されたと聞いている。その「中馬城」から30人ほどが脱獄し、その一部がこの程家崗に来た。家の後ろに連れて行き兄が斧で足枷に釘のところを叩いて切った。足枷は家の外の柳の木下に埋めた、と。

 七三一部隊展メンバーの現地調査によれば、新発屯へと逃げた人々は、村の付連挙さんらが助け、足枷は李憲章さんの井戸に捨てられたという。

 聞き取りをしていると、農地と土壁に囲まれたこの地の純朴な顔つきの人々が集まってくる。本当に話したいことは、このような話ではないといった印象を受けた。

ここでは、部隊の位置や逃走者救助の状況を聞き、つぎの調査予定地・安達実験場跡にむかった。

 

●安達の特別実験場

安達市は40万人ほどの人口の市である。安達の駅から30キロほど先の草原に七三一の特設実験場があった。安達はハルビンからチチハルに向かう途中にあり、平房からは北西約260キロの地点にある。この安達の実験場では細菌の雨下、手榴弾や榴散弾、爆弾による使用実験が繰り返された。安達には半地下式の監獄も設置されていた。労工を動員して飛行場も作られた。実験は1941年ころからおこなわれたという。

ここでは、板に縛った「マルタ」を標的から放射状に並べてペストや炭疽などの細菌爆弾を爆発させて効力を測る、194410月には接着剤を塗った紙を置き、さまざまな高度で爆弾を破裂させてノミがどう散らばるのかを調べる、「マルタ」への細菌雨下などの実験がおこなわれている。「マルタ」が実験を始まる前に逃げ出す事件も起きたが、そのときには車で撥ねて殺したという。

安達の実験場跡は草原地帯にあり、現在では牛や羊などの牧畜が群れを成している。すでに細菌実験場の面影は残っていないが、ここで殺された人々に思いを馳せた。

ここから列車に乗ってチチハル経由でソ連国境の町ハイラルに向かった。

 

●ハイラル

ハイラルはソ連国境の満州里近くのホロンバイル草原にあり、鉄道建設ともに作られた町である。ハイラルの気温は低く、8月でも涼しい。放牧による牛製品・羊毛・肉・毛皮などの産地であり、看板にはモンゴル語の表示もある。近代化がすすんでビルが建設され、旧い建物の破壊がすすんでいる。

このハイラルではソ連の参戦によって激しい戦闘がおこなわれている。七三一部隊はハイラルにも支部をおいた。

ハイラルでは日本占領期の戦争史跡を巡った。市内には旧憲兵隊の建物、神社・忠霊塔の跡、省庁跡、「慰安所」の跡などが残っている。731部隊の支部跡といわれるところも見学したが、確証はなかった。

西山には巨大な地下要塞跡がある。北山にはこの地下要塞建設に連行されて強制労働をさせられ虐殺されたという人々の「万人坑」がある。この要塞はノモンハン事件のころから華北方面から連行された中国人を使って建設され、秘密保持のために連行者は殺されたという。

西山の要塞は東山の日本軍の陣地と川の底を抜けてつながっていたという。茶色く北山と呼ばれる丘が草原にあり、このふもとに骨が散らばっている。このように四散したままの骨は、放置したものたちを草原の地から告発しつづけているように思われた。その声を受け止めていきたいと思った。

なお、ハイラルの戦争史跡については日中平和調査団『ハイラル沈黙の大地』が2000年に出された。また、この要塞建設については、建設に10年ほどかかり、1年交代で労働者が連行され、秘密保持のために毒殺と銃殺で殺された、それを2回見た、という証言が出た(元砲兵廣田繁雄証言・2004)

 

おわりに

近代日本の強兵策と軍事化は民衆を、人間を殺すことにできる将兵に作りあげ、自国の物質的劣勢を精神主義で補いながら、戦争へと動員するためのものであった。そのような殺傷を評価した戦争の時代の究極的な姿を、この七三一部隊は象徴している。

 日本軍による生体実験での細菌兵器の開発と強化、その実戦への使用、細菌兵器関連資料の米軍への提供とそれによる免責、さらに米軍による生物戦の実行は、戦争犯罪が継承されたことを示している。このような未完の戦争犯罪の追及のなかで、中国国内の細菌戦被害者が日本政府を裁判に訴えたのは1997年になってのことだった。

 この七三一部隊をめぐる動きは、人間の尊厳と歴史認識と平和に関する社会的共同性の確立をめぐっての史的なたたかいを示している。人間の価値と方向性をめぐる攻防線がここにあるといえるだろう。

七三一部隊の史跡は、有能であった医学者たちが、戦争国家の価値体系に組み込まれて人間の方向性を失った歴史を示している。人間の価値とその方向性をめぐる歴史的な問いがこの史跡にあると思う。

 

※この旅行記は「731部隊展全国実行委員会」が企画した第3回ツアーに参加したときのものである。

              (19948月メモに2006年再構成・補充、竹内)

参考文献

遠藤三郎『日中15年戦争と私』日中書林1974

常石敬一『消えた細菌戦部隊』海鳴社1981

郡司陽子『証言七三一石井部隊』徳間書店1982

森村誠一『悪魔の飽食第3部』角川書店1983

越定男『日の丸は紅い泪に』教育史料出版会1983

早乙女勝元『ハルビンからの手紙』草の根出版会1990

中央档案館ほか『証言生体解剖』同文館1991

中央档案館ほか『証言人体実験』同文館1991

中央档案館ほか『証言細菌作戦』同文館1992

韓暁『七三一部隊の犯罪』三一書房1993

戦争犠牲者を心に刻む会『七三一部隊』1994年東方出版

七三一部隊展全国実行委員会『七三一部隊展199371994121995

日中平和調査団『ハイラル沈黙の大地』風媒社2000

廣田繁雄証言2004年『明日へ』63号静岡平和資料館をつくる会2005