久米島の旅 「痛恨の碑」
「天皇の軍隊に虐殺された久米島住民・久米島在朝鮮人」
沖縄本島の西100キロに浮かぶ久米島。かつての沖縄戦では米軍の上陸に伴い、駐屯日本軍による住民虐殺(「久米島事件」)がおこなわれた島だ。過去、多くの調査がなされインタビューも重ねられたが、関係者が生存し、さまざまな人間関係がからむこの事件には、未解明な部分が多く残されているという。
しかし、「久米島村史」等の記述からおおよそ次のような事実があったことがわかる。1945年6月26日、久米島に米軍が上陸。住民はかねてより駐屯中の日本海軍通信隊(鹿山兵曹長以下30名ほど・住民からは「山の友軍」と呼ばれていた)に食糧提供などさまざまな協力をしてきた。しかし鹿山隊長は住民をスパイ視するようになる。その結果、6月27日、米軍に拉致されて降伏勧告状を「山の友軍」に届けた郵便局員を「友軍」は銃殺。それ以降、同様の「理由」で、あるいは「見せしめ」のため、相次いで住民を虐殺した。8月15日の日本の降伏後も鹿山隊長は住民虐殺を続けた(8月17日3名、8月20日久米島在朝鮮人家族7名)。その後本人は9月7日米軍に投降した。この間、鹿山隊によって虐殺された犠牲者は約20名におよぶ。まさに「天皇の軍隊に虐殺された久米島住民・久米島在朝鮮人」(碑文)である。この事件には「軍と民衆」「民族差別」「天皇制教育」等の問題が凝縮されている。
「沖縄戦」から58年の日本。「拉致問題」が連日マスコミから垂れ流される。その一方で小泉・日本政府は秒読み段階に入ったブッシュのイラク攻撃を支える。日本人は「沖縄戦」から学んだことを忘れてしまったのか、あるいは何も学ばなかったのか。「軍隊は決して民衆を守らない」ということ。日本人が朝鮮をはじめアジアの民衆に対しておこなった犯罪(「拉致」・強制労働・従軍「慰安婦」等々)。それらを正視せず、戦争責任を追及しきれてこなかったこと。そのツケが今の日本の戦争前夜のような心理状態を作り出しているように思えてならない。
かつて「山の友軍」=日本軍がいた久米島の高台はその後米軍に引き継がれ、今では自
衛隊が駐屯している。「軍隊」の姿がこの久米島から数十年消えたことはないのだが、にもかかわらず漁業や観光の島として平和な顔を私達に見せている。この「やすらぎ」の後ろにある、あまりにも大きな悲しみ。
サトウキビ畑の中に埋もれた「痛恨の碑」の声無き声に耳を傾け、私はしばし手を合わせた。
2002年12月(井)