神戸への旅 03・6  

 

有事法が成立しイラク派兵法が制定されようとされるなか、6月28〜29日と神戸で非核平和条例を考える全国集会がもたれ、全国から600人が参加した。

神戸港には「非核神戸方式」があり、28年間におよび米軍艦の入港を止めている。「非核神戸方式」とは、1975年に神戸市が「核兵器積載艦艇の神戸港入港に関する決議」をあげ、核兵器積載艦艇の入港を一切拒否するとし、「行政指導」のかたちで入港に際し「非核証明」の提出を求め、提出がない場合には市が入港を認めないとしていることである。

この神戸方式の導入には戦後の長期間に及ぶ米軍による神戸港占領と返還闘争の歴史的蓄積がある。神戸港は1945年米軍により強制接収された。52年にはメリケン波止場、1〜5突堤が返還される。しかし第6突堤は米軍によって占領され続け、1969年に48時間前通告による米軍優先使用を条件に返還され、完全返還は沖縄返還後の74年のことであった。

この間、市民と港湾等の労働者によるベトナム反戦運動や返還闘争が繰り広げられてきた。73年の革新市政成立はこの地平にたつものであった。核を積載しての米艦の入港がおこなわれてきたとの証言をうけ、神戸市議会は75年の全会一致で決議をあげることになった。以後、米艦は非核証明を提出する意思を示さず、そのため神戸方式は神戸への入港を拒否するカードたりえてきたわけである。

この神戸方式が成立する理由には、港湾法の存在がある。そこでは港湾の管理者は国ではなく自治体とされる。神戸市は港湾法によって港湾施設条例をつくり、その使用にさいしては「市長の許可」が必要となっている。港湾は過去の戦争において軍事利用され、戦争の出撃拠点となった。港湾法はその反省のもとにつくられた。安保条約における地位協定による出入港でも、出入港に際しては港湾管理者の許可が必要である。米艦も港湾法を守らざるをえない。

港湾を自治体の管理下におくことを求め、米軍からの返還を求め、「商売に核はいらない」と平和利用を進めてきた歴史がここにある。

98年にカナダ艦が非核証明なしで入港しようとしたことがあった。市は接岸バースを指定しないことで抵抗し、その結果自衛隊の阪神基地に入港することになった。

新ガイドラインの中で、日本各地に米艦が入港するようになったが、神戸港へはまだ入港させていない。この神戸への米側の入港の圧力が近年つよまっている。市民の側は自治体権限を有事法によって制約させてはならないとし、神戸港は平和的自治の攻防の焦点のひとつとなっている。

20世紀は、自治体の国際外交がすすんだ時代でもあった。自治体が国境をこえ、平和外交をすすめる。その例はチェコとドイツの自治体外交にも見られ、国家間の和解のさきがけとなっている。北東アジア地域自治体連合の試みもある。国境を越えて民衆が交流し、自治体が結合することで、国家間の戦争をとめていくことは可能だ。民衆と自治体の越境と連合、国家に対する自治体の服従の拒否、その地平に有事法を凍結していくこと、21世紀の平和にむけての連合はそれを可能にするといえるだろう。北東アジアでの自治体連合を戦略的に展望することが求められる。自治体の平和外交は可能である。記念講演での大津浩の話にはこのような事柄が含まれていた。

分科会では、有事法ができても憲法の平和主義の条項はある。人権と自治権を有事法は侵せない。港湾や自治体を戦争の道具にさせない。港湾は市民のもの、市の職員、市民がNO!ということ。自治体に有事とは?の問いを示し市民の側に立たせよう。自衛官に語りかけよう。戦争は正しいとする時代を変えよう、といった発言が続いた。

神戸港は戦時下たくさんの朝鮮人中国人が連行されたところでもある。その歴史を明らかにする市民の活動がいまもすすむ。中央区の東福寺には空爆死した50体の朝鮮人と見られる遺骨が供養されている。ポートアイランドの西方には梅雨空のかなたに三菱神戸造船のドッグがかすんで見えた。ここはいまも川崎重工とともに潜水艦の建造修理をおこなう軍需工場である。神戸港そのものがひとつの戦争史跡群でもある。

集会で演奏された太鼓集団のチラシに、ある演奏者の紹介があり、そこに「太鼓は人と人とのアンサンブルでより響き渡るもの、地をはう低音は生きる活力を、空を裂く高音は夢と希望を人々に与えてくれるものと信じ」とあった。

それを、リズムは鼓動、メロディは夢、詩は希望、歌を歌う、それは生きる力、と言い換えることもできるだろう。

神戸を再び戦争の拠点としないための活動は「非核神戸方式」をはじめとしてここにある。この神戸での活動を共有しながら全国各地で、戦争の拠点化に抵抗する活動がすすめられていくだろう。平和にむけての人々のアンサンブル、そして詩歌とともに。 (竹)