韓国・江華島の旅 04・5

 

江華島はソウルの新村からバスで北西に向かって約1時間のところにある。この島は漢江と臨津江が黄海にそそぐ地点にあり、海からソウルへの入口となる。南北25キロ、東西15キロの江華島は軍事的要衝であり、4キロごとに砲台が築かれた。ここは日本が砲撃を挑発し、それを口実に不平等条約を結んで朝鮮侵略の歴史を刻んだところである。江華島の北は軍事境界線であり、南北分断の前線となっている。かなたに北の開豊郡がみえる。

江華島歴史館や観光案内を見ると、この島が韓国の歴史の縮図をしめすものであることがわかる。

この島には、檀君の天孫降臨神話の塹城壇〔チャンソンダン〕、南では最大規模の紀元前71世紀の支石墓、4世紀の創建と伝えられ朝鮮時代の建築を残す伝灯寺、高麗期のモンゴル襲来時の首都跡や当時の王の墓、そのときの抵抗部隊三別抄の出発地跡、フランス・アメリカ・日本の侵攻と戦闘を物語る砲台など、古代から近代の歴史と文化を示す史跡がある。島の豊かな自然とその産物を味わいながらゆっくりと韓国史を学ぶことができる場所である。

 日本で江戸幕府が倒されたころのことであるが、朝鮮内での攘夷の動きのなかで、1866年フランスはキリスト教弾圧を口実に江華島を一ヶ月あまり占領した。1871年にはアメリカが「通商」を要求して江華島に侵攻し、江華城施設を破壊した。

 1875年には日本の雲揚号が侵入して内海で軍事測量をおこない、江華島の草芝鎮と交戦、永宗島を占領した。翌年日本は不平等条約を朝鮮側に迫り、締結後は朝鮮貿易で利益をあげた。日本が軍事力を背景に条約を強要した『練武場』跡(江華城の西大門近く)には碑がある。

 草芝鎮は江華島の中心地から12キロほどのところにある。この砲台は1656年につくられたものである。現在は修復され、砲弾を受けた後を残す松の木が残されている。砲口から海が見える。この水は漢江と臨津江につながり、人間のつくった国境線を越え、悠々と流れている。草芝鎮は最前線にあり、フランス、アメリカ、日本などが侵攻の際に攻撃したところである。砲台の石が年月の中でひび割れている。砲弾で吹き飛んだ部分も多かっただろう。

この草芝鎮の北には徳津鎮がある。この鎮の前方には1867年の『警告碑』があり、その碑には砲弾による傷が残されていた。この鎮の北方には比較的大きな広城堡がある。このほかに、望月・谿龍・三岩・分理・長串・宅只ほか50余箇所に砲台がつくられていたという。この島は要塞化していたのである。

 江華島では1234年に世界で始めて金属活字が作成されたという。その碑が歴史館の外にあり、館内には木製の版木が残されていた。またここは朝鮮人参や薬ヨモギ、有機農法のスンムの産地でもある。うなぎなどのさまざまな海産物が獲られ、店の食卓は新鮮な魚で飾られる。本来、文化とは平和と生命の再生産をその基調とするものであり、島にはその意味での民衆基層の歴史文化が息づいているようにも思われる。

この島には当時の帝国主義の『砲艦外交』による侵略を示す史跡がおおい。それらの史跡が民衆の平和と生の再生産につながるものとなっていってほしい。鎮のすぐ前は海である。親子が海岸で遊ぶ。かなたにソウルに向かう大地がみえる。海の静かな流れと風が木々を揺らす音が交差し、鳥の鳴き声が5月の空に響いていた。  〔竹〕