軍港呉の今昔 

 2000年12月23日〜24日と呉で強制連行調査ネットワークのフィールドワークがあった。1998年3月浜松への空飛ぶ司令塔AWACSの配備とともに呉へと強襲揚陸艦「おおすみ」が配備され、呉の派兵拠点化が一層強化されている。過去の侵略戦争において、広島宇品が陸軍の、呉が海軍の出撃拠点であり、軍需生産の拠点でもあった。そのため米軍によるはげしい空爆にあった。

 呉には呉海軍工廠、広第11海軍航空廠があり、海軍軍船と軍用機生産の拠点となっていた。空襲激化に伴い地下工場化がすすんだが、この地下工場建設に海軍軍属や土木会社の労働者として朝鮮人が大量に動員、連行されている。呉には数多くの軍用壕が残っているが多くが朝鮮人によるものである。今回のフィールドワークでは呉市の広第11航空廠地下工場、倉橋島の大浦崎特攻基地壕、亀ケ首砲台跡、大和の碑などを見た。

 地下工場の暗闇には解放の日を待ち望みながら壕を掘った朝鮮人の想いが刻まれてい
る。そして解放は未完のまま訪れる者に平和への問いを語りつづけているように思う。

 今回の調査で最も印象に残ったのは現在の呉の軍港としての姿である。呉はもともと小さな漁村であったが、1880年代末、軍港化にともない強制移転を強いられた。海軍工廠ができ、となりの広にも拡張され、それが海軍航空廠となる。横須賀とともに海軍と軍拡の拠点基地となったのである。戦艦「大和」も建造された。

 今、呉海軍工廠の跡地には海自の実戦部隊(掃海艇、潜水艦、護衛艦、揚陸艦など)と教育隊、司令部がおかれ、米軍の秋月弾薬廠司令部、そして石川島播磨、日新製鋼、淀川製鋼などの工場がおかれている。過去よりも強化された軍都となっているといっていい。

 海上自衛隊の艦船が串山公園からよくみえる。これらの艦船は戦争責任を不問にして拡張されてきた新日本軍の姿をよく示している。後方に停船する「おおすみ」は侵攻作戦能力を象徴する。次期防ではおおすみ型の揚陸艦を更に配備し、空中給油機も導入することになる。ちなみに米軍は佐世保に揚陸艦、岩国に海兵隊空中給油機、嘉手納に米軍AWACSと空中給油機をおいている。これらは海外支配と侵略のための道具なのである。

 呉の街を歩いていると自衛官募集のポスターが店先にたくさんはられている。女性自衛官を中央に横に男性自衛官をおいて、コピーには「自分が見つかる、自分が生きる」と大きく書かれている。ここには兵士になることが〈恋と生〉に結びつくというイメージコントロールがある。日米共同作戦下の〈死〉につながる行為はみごとにぬけおちている。

 日曜には海自が一般公開をおこなう。大きな看板に「鉄のクジラ(潜水艦のこと)とツーショット」と書かれていた。呉の観光用チラシには自衛隊基地めぐりが観光コースとして入れられている。「歴史が見える丘」の戦艦大和の碑の碑文には呉市民の力で大和を建造した旨が刻まれていた。軍民一体の思考が戦後もとぎれることなくつづいている。「大和」そのものが批判されることはなく、マインドコントロールの象徴となっている。

 この丘からみえる歴史は、過去の侵略戦争と兵器生産への反省を欠落させ、そのうえに現在の軍拡と侵略拠点化が成立している姿である。

 呉の歴史は軍都化にともなう侵略と被空爆の歴史であった。表現されるべきは反軍隊の民衆史である。反戦水兵や反基地の運動、強制連行や空爆死をふまえての人々の歴史がほしい。動員学徒の追悼碑は「殉国之塔」とされている。死者たちはいまも天皇制国家に呪縛され、解き放たれることなく、死を強いた者たちを追求しえないワク組みの中にある。

 軍隊の存在は地域の軍事化をすすめる。「平和産業港湾都市」の装いのもと、地域レベルでの戦争遂進力が形づくられる。市庁舎が「大和」の司令塔を模していたり、市が建設をすすめる海事博物館が軍隊を賛美広報する内容だったりする。その背景には軍隊の存在による地域の軍事化がある。その力は人々が歴史の真実を知ろうとする行為を阻害する。呉市役所に基地対策関係資料を請求したら作成していないという。市段階での基地対策協議会は開かれないともいう。市民に対し基地情報は閉ざされている。市の図書館では市史類の郷土資料は閉架され、氏名住所を書いて請求しないと閲覧できない。わずかな郷土本のみが開架されていた。このような閉鎖性は軍都と無関係ではないだろう。

歴史を撃たれ死を強いられた者たちの側から描き真実の歴史を追求することや平和的生存権と人間の尊厳を基軸とした市民の運動をすすめること、これらと地域の軍事化、軍隊の存在は相反するものだ。

 約10年前の91年4月、軍艦マーチと日の丸の旗の下、海軍旗をはためかせて、平和船団の抗議の中、呉からペルシャ湾へと掃海艇が出ていった歴史を忘れてはならない。広島原爆は語られても呉の空襲への表現は少ない。呉、広島の出撃、軍需拠点という加害の歴史についての問いはさらに少ない。

 強制労働の地下壕から発せられる未完の解放への問いは戦争責任を追及し、過去〜現在を貫く軍都化を問うてやまないように思われた。撃たれ死を強いられた人々の復権にむけての作業を壕からの声は求めつづけている