長崎・被爆史跡の旅03.11

                                

7年ぶりに長崎の平和公園を訪れた。新しく資料館の建設がすすみ、新館が開館したのは戦後50年を経た1996年のことだった。今回、平和公園とその周辺を訪れて感じたことは、市によって金属板を使っての案内が被爆史跡に対してつくられるなど、被爆体験の継承に向けて史跡の整備がすすんだことだった。

追悼碑や被爆遺構についてのわかりやすい地図や長崎原爆資料館・資料館見学被爆地めぐり「平和学習」の手引書』(発行・長崎平和推進協会)といった新資料館の手引書も作成されていた。この冊子にはこの間の調査研究が反映され、外国人被爆者についての言及もある。奥付を見ると、この間、平和教育をすすめてきた人たちの名がある。

平和公園を案内する市民ボランティアのガイドさんの一人が子どもたちに「君たちはこの国の宝だ。ここであったことを学び、継承してほしい。そして平和を大切にする社会人になってほしい。次代を担うのは諸君です」と熱く語りかけていた。またほかのガイドも、自作の案内の冊子や写真集などを持って1945年8月の史実を熱心に話していた。バスから降りて休憩のときにはアイスクリームをなめていた子供たちが、ガイドとともに歩きながら、その語りを真剣に聞いていた。

ガイドさんの声が響くなか、平和記念像、長崎刑務所浦上刑務支所跡、投下地点の碑、平和の泉、平和の碑、浦上天主堂遺構、被爆地層、浦上川などの史跡を1時間ほどでゆっくりと歩くことができた。

資料館の展示は、原爆の熱線・爆風・放射線についての現物資料を中心に配置され、展示の解説には外国人被爆者についても記されていた。また、核兵器の現状についての展示もあり、核廃絶にむけての取り組みが今後も求められることが示されていた。書籍コーナーを見ると、この10余年にわたって収録された被爆者たちの講話が一冊にまとめられていた。

軍拡がすすみ、日本の海外派兵がすすめられていった90年代は、被爆体験の継承に向けての証言収集と被爆実物の整備の時代でもあったことを感じた。

1945年12月までに7万人強が生命を失い7万人強が負傷し、被爆者の死は2003年までに13万人を超えた。溶けたロザリオやステンドグラス、炭化した弁当箱の米、泡立つガラス、はりついた手の骨とガラス、止まった時計、まがった鉄骨、変形した像、焼けた服、これらの展示品は遺品でもある。そこにはそれを持ち、それらのものにかかわっていた人たちがいた。

残されたこれらのものは、今もその持ち主を待ち続けるかのようにそこにあった。遺品は、統計の数値が示しえない生の軌跡を示すものである。それらは見るものに厳粛な気持ちを与え、命の大切さを呼びかけては一人一人の生の重さを語り続けているように思われた。

しかし、大量破壊兵器をつかって核戦争を遂行したアメリカの戦争犯罪を追及する表現はない。戦争犯罪の追及と核廃絶は並行して行われるべきではないだろうか

被爆建造物・碑めぐりの地図と『原爆遺構・長崎の記憶』(長崎原爆遺構を記録する会編)を手に長崎の街を歩いた。

以前、如己堂や三菱長崎兵器工場の地下工場跡を見学したことはあった。今回は、浦上天主堂の被爆天使の像、鐘楼ドーム、三菱兵器の標柱、三菱重工長崎研究所船型試験場、三菱関係被爆死者追悼碑、山王神社の鳥居とクス、坂本国際墓地、岡正治長崎平和資料館、26聖人記念館、コルベ館など、被爆史跡を中心に見学することができた。

山王神社の倒れた柱の近くには「国威宣揚」と刻まれた石柱があった。戦争にむかう中でつくられたこのような遺構は現場を歩かなければ知ることのできないもののひとつである。

長崎は戦時中三菱の軍艦や魚雷などの軍需生産の拠点であった。長崎大学にはかつて三菱兵器大橋工場があった。大学の塀の脇には三菱兵器の標柱が残っている。風雨と排気ガスで大学の側壁のコンクリートはくすんでいる。三菱のマークをつけた小さな柱は長崎の兵器生産の歴史を示す貴重な史跡である。

当時、城山小学校には三菱兵器の給与課、鎮西中学には三菱電機製鋼が疎開し、各地に地下工場の建設がすすんでいた。工場や疎開工場にはたくさんの人々が動員されていた。そのなかには、連合軍捕虜や植民地から連行者もいたのだった。三菱兵器工場の近くには三菱造船船型試験場の建物があり、爆風の影響で今も建屋が少し傾いている。そこにも長崎市による案内板があった。

この試験場と三菱兵器の標柱の中間の地点を歩いていくと、三菱長崎造船と三菱兵器の追悼碑があった。原爆供養塔(1952年)と原爆殉難者芳名碑(1989年)である。

その碑文によれば、戦時中三菱兵器には1万5千人もの人々が動員され魚雷生産に従事していたが、45年8月の原爆により全滅に近い状況となった。戦後三菱長崎精機製作所となるが、1951年に三菱長崎造船所に吸収された。芳名碑は三菱重工業長崎原爆供養塔奉賛会によって「従業員・応徴士・女子挺身隊・動員学徒全員」の名前を「精査して」建てたとある。

碑を見ていくと、長崎造船所長崎兵器製作所報国隊のところに湊川孟?・村川治珍・山内奎典、新川床聖、曾瑞雲、長崎造船所のところに益山光植、宮本鏡勲、柳川仁聖、柳川孝赫、山田義味、李承宇、李昌炳学、魯東雲、金本大植、金山致星、金原択瑞、金白熊彬などの名前があった。これらは朝鮮人と見られる。碑に記された名前は、植民地支配により「創氏改名」で名前を朝鮮人名から日本名へと無理にかえた歴史を示すものである。

平和公園には朝鮮人被爆者の追悼碑があり、その碑の解説には強制労働下で約2万人の朝鮮人が被爆し約1万人が死亡とある。これに拠れば、長崎原爆死7万人余のうち1万人前後が植民地支配下の朝鮮人であったことになる。この碑に刻まれた人々はその中の一部ということになる。ここに刻まれていない三菱関連の死亡者も多いとみられる。

如己堂は永井隆の活動を顕彰するものであり、建物の名は「己の如く人を愛せ」という言葉からきている。この隣人愛は異郷の人びとへの博愛を含むものである。

永井隆は被爆し、自らの白血病とたたかいながら、『いとし子よ』(1949年)を書いている。そのなかでかれは、新憲法についてわが子につぎのように呼びかけている。

憲法は条文どおり実行しなければならないから難しい。実行するだけでなくこれを破ろうとする力を防がねばならぬ。これこそ戦争の惨禍に目覚めた日本人の声なのだ。しかし理屈は何とでもつき、世論はどちらへもなびくもの。国際情勢しだいでは憲法を改めて戦争放棄の条項を削れと叫び、世論を日本再武装へと引き付けるかもしれない。そのときこそ、誠一よ、カヤノよ、たとえ最後の二人になっても、どんな罵りや暴力を受けても、きっぱりと『戦争反対』を叫び続け、叫び通しておくれ!たとえ卑怯者とさげすまれ、裏切り者とたたかれても『戦争絶対反対』の叫びをまもっておくれ!(要旨)

私はこの言葉を全国一般長崎連帯支部の作成した三菱の兵器生産を追及する冊子で知った。妻を原爆で失い自らは白血病となった永井はこのとき42歳,子の誠一は14歳、カヤノは9歳という。この一節は、被爆後60年を迎え、イラク派兵と憲法改悪にむけての動きが強まるなかでいっそう新鮮なものとなってきている。

平和公園に「長崎平和の母子像」(金城実作)があり、その碑文に、「戦争も核兵器も許してはならない」「この緑の大地を、地球を守ろう」「それぞれの『あの日』を行きつづける女たちの、たぎる思いをひとつにあわせ、再び、あの惨禍をくり返さぬ誓いをこめて」とあった。

永井が『いとし子よ』で死の前に語ったこの言葉と母子像の碑にある『たぎる思い』とは重なる。その言葉は、無数の誠一とカヤノに向けられたものといっていいだろう。

わたしは当時の永井よりも少し長く生き、同じくらいの年齢の子を持つ親となった。今回の長崎の旅は、永井をはじめとする人びとの『たぎる思い』を受け止め、この時代のなかで人間の方向を見つめ、信念を持って行動していくことを学び、確認する旅でもあった。

                                   (竹内)