滋賀で見た「YESオノ・ヨ−コ展」によせて
オノ・ヨーコ展が日本国内を巡回し、12月まで滋賀県近代美術館で展示されている。美術館入り口には「WAR IS OVER! IF YOU WANT IT」の文字と顔の部分に木を植えた100個の棺が置かれている。この展示は今も続く戦争への反戦メッセージである。
ヨーコは1933年に生まれるが、かの女の母は安田財閥の創立者である安田善次郎の孫娘であり、かの女の父も銀行経営者だった。善次郎は1921年に右翼に殺され、母は「モガ」に影響されていたという。ヨーコは経済的にも芸術的にも豊かな環境で成長するが、敗戦時の破壊と戦後の変革の雰囲気のなかで、学習院大にすすんでいた彼女は反戦の精神を形成していった。
1950年代、20歳をすぎたころに一家はアメリカにわたるが、ヨーコはこの家庭関係から離脱し、反芸術のグループフルクサスのメンバーと交流していくようになる。そしてジョンレノン出会い、暮らし始める。結婚しベトナム反戦への表現を強めたのは1969年のことである。
展示を見ていくと、アートを美の世界の閉じ込めてしまうのではなく、社会との結びつきのあるものとして提示すること、かつその表現が平和や平等へのインスピレーションを持つものであること、かの女がこのような思いを持って表現してきたことがわかる。解説にもあるように、美術高尚主義・消費万能主義への根底的な批判がそこにある。30年前の表現であっても、その表現が新鮮なのはそのような意思が作品の背後にあるからだろう。
かの女の表現は、生の存在の方向を語るものである。今ある自己を認め(YES)、夢見て、触れていく。自らが半分であるという欠落を認め、作品とかかわることで人間性を回復する、あるいは自己の中の破壊性を見つめなおす。そのような試みが、オブジェや映像、詩文で記されているように思われた。映像の「ハエ」「尻」などの映像は存在のあり方を問いかけているものである。
1964年ヨーコは31歳のときに出した『グレープフルーツジュース』でいう。
「地下水の流れる音を聞きなさい」 「心臓のビートを聴きなさい」 「地球が回る音を聴きなさい」 「想像しなさい 西から東へ 一匹の金魚が空を泳いでいくところを」「現代美術館をあなたのやり方で バラバラに解体しなさい」「月に匂いを送りなさい」「道を開けなさい 風のために」 「さわりなさい」 「飛びなさい」 「この本を燃やしなさい。読み終えたら」・・・と。
かの女は、アートと日常にある境界線を断ち切り、参加によって成り立つ社会的なアートを目指していったが、ここには、その出立へのヨーコの宣言とみることができる詩篇が記されている。
ヨーコは、1984年に発表した文章「女」で、女性問題は本来男性問題であり、利益本位の商業主義が世界を支配して人間性が喪失され、不正に立ち回るほど評価されている状況を批判する。そして女性に習い、人間愛と平和に向けて社会を変革することを語っている。現状はこのようは方向ではなく、好戦的なスタイルが支配的である。
ベトナム反戦から40年、新たな戦争と殺戮がはじまり、それへの支持と無関心が拡大される時代であるからこそ、あらたな反戦平和の社会性のある表現が求められている。軍事基地の金網はその展示会場であり、表現の場だ。横断的で直接的なかつ水平性のある平和の表現のありようについての想いをめぐらしながら、会場をあとにした。 (竹内)