広島・大久野島の旅04・1

 瀬戸内海にある大久野島を訪れた。この島は広島県竹原市の忠海駅の沖にあり、忠海からフェリー,三原からは高速船が出ている。この島では戦時中に陸軍が毒ガスを製造していた。大久野島で作られた毒ガスは、浜松の三方原にあった航空毒ガス戦部隊にも運ばれていた。

大久野島で陸軍の毒ガス工場製造が決まったのは1927年のことだった。軍事機密の毒ガス製造のために、居住していた農民は忠海へと転居を強いられ、この島は国家権力によって地図から消された。毒ガス工場は東京第2陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所といった。

1929年に工場の開所式がおこなわれてイペリットの生産が始まり、31年には青酸ガスの生産がはじまった。中国への侵略戦争の拡大とともに、この島の工場は拡張され、33年にはイペリット,ルイサイト、ジフェニールシアンアルシンなどの製造が本格化し,37年には工場が拡張され、労働者は1000人をこえた。39年には長浦の新工場での大量生産が始まり、労働者は5千人ほどになったという。

製造された毒ガスは中国大陸で実戦に使用され、シンガポールなどアジア各地に運ばれた。戦争の拡大により、1941年には少年らを徴用、43年には1200人ほどの中学生・女学生が動員されるようになった。敗戦にともない毒ガス関係資料の隠蔽がおこなわれたが、発見された毒ガスは、占領軍によって焼却や海上投棄で処分された。

現在大久野島には1988年に開設された毒ガス資料館がある。館の設置は大久野島毒ガス障害者対策連絡協議会による。館には、毒ガス工場の歴史が示され、写真、史料や毒ガス容器・防毒服などの現物が展示されている。

展示品には、一塩化硫黄容器(沖の海中から発見)、除毒剤、青酸ビン容器、投下弾、赤筒、軍の防毒服、磁器製冷却機などがあり、これらは貴重な実物資料である。

展示品で特に重要であると感じたものは、ルイサイト、イペリットを入れるための黄剤用50キログラム容器である。敗戦直後に三方原の航空毒ガス戦部隊が浜名湖へと投棄し,その後浮上して死傷者を出した『ドラム缶』はこの容器であったとみられる。

容器の製造表を見ると、日本特殊鋼株式会社が1942年10月に製造した835号であることがわかる。大久野島から各地へと運送された状況が荷札(模造)で示されている。そこにはチチハル、昭南島、小樽港出張所などと書かれている。発送の際の証票には南京、チチハル、牡丹江、奉天といった発送先を示す地名が記されている。容器には木材で枠が作られているが、運送時の状況を示すものであり、貴重なものである。

大久野島には毒ガス関係の遺跡が残っている。資料館でもらった地図、購入した冊子、とくに広島県教職員組合竹原市区の作った平和教材を参考に大久野島を歩いた。毒ガス島歴史研究所のサイトにはまとまった史跡の案内もあるが、たまたま、その毒ガス島歴史研究所のガイドによるフィールドワークの団体と出会ったので、史跡の状況をいっそう理解することができた。

見学したところをあげると、大久野島神社、慰霊碑、通信壕、赤筒防空壕、工場跡地(休暇村本館)、イペリット貯蔵庫、貯蔵タンク跡、長浦工場跡(テニスコート)、長浦毒ガス貯蔵庫、煙道口、などである。

長浦の貯蔵庫前には環境省の説明版があった。大量のガスを貯蔵できたこの建物のコンクリートには、迷彩用の緑のペンキが戦後60年を経ようとする今も、うっすらと残っていた。この建物は、戦後、毒ガス処理のために破壊され焼かれた。コンクリートの外壁に残る黒い跡は、そのときに吹き出した炎の跡をしめすものだろう。内壁は炎で黒ずみ、建物の内側には円形の大きな台座が残っていた。焼けた跡が偽装された土からの水に濡れ、黒く光る。その黒い焼け跡は、毒ガス戦を語り継ぐ意思を示すかのように太陽の光を反射していた。

慰霊碑は1985年につくられている。碑の横に竹原市長による「宣言」が記されていた。

そこには化学兵器は核兵器・生物兵器と同様に無差別・広範囲に人間を殺戮するものであり、「直ちに廃絶されなければならない」とあった。これは製造に動員されて1千名をこえる毒ガス障害者の死を踏まえての宣言である。その横にはイペリットを中心とした毒ガス工場での生産の歴史が刻まれている。

 問題なのは中国大陸におけるイペリットの実戦使用の加害状況である。それは戦争犯罪であるがゆえに、隠蔽されてきた。宜昌での使用をはじめ、その一端は明らかになってきたが、まだまだ不明な点が多い。今後の追及課題である。

 大久野島神社の鳥居には「皇下隆興」「萬邦咸寧」と刻まれていた。この鳥居は1933年、毒ガス工場が拡大されていくときに建てられたものである。この年は毒ガス戦研究をおこなった陸軍習志野学校や浜松飛行学校の設立の年でもある。この鳥居の裏側には「忠海兵器製造所」とある。また、幡立の裏側には忠海運送、忠海貸座敷業組合の文字があった。

天皇制とその下での軍の毒ガス生産、そして運送と『貸座敷』。このリンクは民衆の平和につながるものでは、けっしてなかった。

 大久野島にいく前に、広島の平和公園に行った。資料館の被爆展示はコンパクトにまとめられていた。正視できないような写真はなかった。戦争犯罪に時効はないのだが、展示に核実験への抗議はあっても、アメリカの核使用・大量殺戮への責任追及の文字はない。被爆史跡の紹介や案内書はよいものがたくさん発行されるようになっている。館の外に出ると「日の丸」が翻っていた。折鶴への放火事件ののち、原爆の子の像には監視カメラがつけられていた。その後、呉の街を歩いた。すでに呉はインド洋・ペルシャ湾への派兵の拠点となっていた。

監視されるべきものが監視されず、「日の丸」のもとで海外派兵がおこなわれるようになった。戦争責任の追及は不十分だった。それは被害が、ほんとうに被害として認識されてこなかったということではないのか。自己の被害が被害として認識されることなくして、他者への加害を加害と認識できるのだろうか。自己の人間の尊厳の確立が本当にあったのだろうか。天皇へと敗戦を懺悔させられた臣民のままではないのか。「臣民」としての「被害」認識をどれだけ克服してきたのだろうか。浜松への大空襲にしても、アメリカの無差別爆撃を問う表現はほとんどない。浜松の陸軍爆撃隊によるアジアへの空爆の歴史を反省する表現も少ない。

記録から消された歴史を再現することは、民衆の歴史を奪還し民衆の平和を実現することでもある。瀬戸内の海と島を見ながらそう思った。                         

 

(竹)