三ケ根山戦争碑のなかの戦争 〜敗戦50年後の現実〜1994・12

          

 199412月、愛知県幡豆郡三ケ根山にある戦争碑群を訪れた。三ケ根山は三河国定公園のなかにあり、ここから三河湾、知多、渥美半島を眺望することができる。ここで碑群をみたのだが、「殉国七士廟」を中心とする碑群は悪霊の巣窟ようだった。

 三ケ根山の碑群には「殉国七士廟」と「比島観音」の2つを中心に約130基の碑がある。 「殉国七士墓」は日米安保闘争がたかまっていた1960年に建てられた。当時の首相は戦時下中国人強制連行を中心になって担った岸信介であったが、かれの筆跡を用いて1984年に「殉国七士廟」の巨大な門柱が建てられている。また「殉国七士廟の由来」が同年建てられている。それは「教科書問題」によって日本の歴史認識が問われ、中国・朝鮮で戦争記念館の建設がすすめられたころのことである。この七士廟の周辺に20基ほどの碑が建てられている。

 処刑されたA級戦犯の骨は火葬場で砕かれ米軍によってもちさられたが、一部は火葬場の共同骨捨て場へ捨てられた。その捨てられた骨を「A級戦犯の骨が米軍の手にあることは国民が東京裁判の結果を認めることであり、それはA級戦犯の指示で戦場で死んだ300万の英霊が辱めをうけること」とするメンバーが、米軍の監視の目をくぐりぬけて骨壷一杯分にあつめ盗み出したという。

 この骨は一時期興禅寺におかれ、1949年5月熱海の興亜観音(松井石根が建てた)へと公然と祀る日がくるまで、おかれた。

 そして、1958年に他の場所へと骨を移す計画がすすみ、松井の出身地愛知県の三ケ根山へと移されたという。「アジア太平洋戦争は自衛のためであり、天皇に責任はない。侵略者は米英などであり、日本は解放する側であった。戦争犯罪はなく、日本(天皇)に対して、敗戦の責任がある」という「侵略肯定史観」を語る者たちによって「殉国七士墓」がつくられたのである。

 「比島観音」が建てられたのは1972年であり、フィリピン戦での50万人の日本人死者を「慰霊」するためのものという。この観音像のまわりにフィリピン関係の碑が44基あり、その周辺に30余基の他の日本軍関係の碑が建てられている。

 三ケ根山の碑群のなかには第3師団関係のものがあり、静岡県出身者の名前も刻まれている。

 199412月現在、各地で右派勢力によって「戦没者への追悼と感謝」をもとめる県議会決議がすすめられ、12月末で12の県が採択した。この三ケ根山の碑群は、靖国神社と共にこのような侵略戦争と戦争責任を否認する拠点のようであった。

 碑にはさまざまな表現が刻まれている。私なりにまとめると以下のようになる。

「過去の戦争は正義の戦争であり、そこに戦争犯罪などはなく、功績がある。忠義な英霊たちの霊魂を慰め、歴史的功績を後世に伝えたい。戦犯扱いすることは暴虐であり冤罪である。英霊は治安警備、討伐、進駐、占領攻撃に従事し、縦横無尽に大陸を駆遂し、戦果をあげ、民生安定・独立に寄与した人々の霊である。英霊は滅死奉公の大義に殉じ、忠義を尽くし、平和のために散った人々である。日本の今の平和と繁栄は日本人の死の犠牲のうえにあり、かれらの遺勲をたたえ、祖国の平和を祈念していきたい。共に戦い倒れた戦友だけでなく、挺身した女性や軍馬、軍犬、軍鳩にも供養したい。」

 碑に刻まれた言葉を拾い集めると以上のような文章になる。

 現在、日本の歴史教科書においては、たとえば、「満州」侵略戦争は「満州事変」とされ「戦争」として認められていない。過去の台湾、朝鮮、シベリア・中国への布告なき戦争は「事変」「出兵」とされ、「戦争」として認知されていない。だから「侵略行為はあったが侵略戦争ではない。植民地支配は合法的であり、その下での労務動員は、強制連行とはいえない。日本は現地の開発や独立に寄与した」という発言が跡をたたない。三ケ根山の碑はこのような現実を反映している。

 三ケ根山の碑群には戦争犯罪の自覚や戦争責任の追求はみられない。アジア民衆への戦争加害やアジアの犠牲者への追悼の表現はない。フィリピン人戦争犠牲者の碑が比島観像近くにあるが、戦争を肯定する英霊碑群の中に置かれているのだから、真の意味での追悼になるのだろうか。

 これらの碑群には、アジアの人々と歴史認識を共有するにあたって、侵略戦争を謝罪する姿勢がない。戦争行為での人間の痛みや悲惨さの表現がなく、「英霊」、「殉国」の表現によって天皇への忠誠が語られ、戦争が正当化されている。「英霊」は戦争の犠牲者とされ、その供養が語られていく。加害、抵抗に関する表現の芽は摘まれてしまっている。そして、「英霊」=日本人の犠牲のうえに現在の繁栄があるとされ、戦争責任、戦後賠償への視点がない。

 ここでは天皇の軍隊による暴行・略奪・虐殺・強姦・奴隷的酷使などの事実はおおいかくされている。自らが殺したアジアの民のことは視野に入らず、共にすごした馬・犬・鵠にやさしい視線がそそがれている。三ケ根山では、無権利・無責任・無批判にされた臣民たちの顕彰会が日々おこなわれているといえるだろう。

 天皇の兵士として動員され死を強要された日本人は、今も「英霊」とされることで臣民の姿のまま死後も天皇制から解き放たれることなく、呪縛されたままである。「殉国」「英霊」「遺勲」という発想のもとで語られる「祖国の平和」「世界の平和」「親善」が、いかに傲慢で偽りに満ちたものであることか。これが日本の支配的現実であり、昨今の「戦没者の追悼と感謝」の動きの基盤である。このような歴史認識のもとに経済侵出、天皇の外交君主化、海外派兵がおこなわれ、憲法第9条の改悪がもくろまれているといえる。

 三ケ根山の慰霊牌群はいまも過去の戦争を侵略戦争と認めず、戦争責任をとろうとしない日本を象徴している。日本人兵士を「英霊」とし「平和」の功労者とする三ケ根山の碑群は、真の意味で兵士たちを追悼し鎮魂するものではなく、後世に正しい歴史を伝えるものでもない。兵士の魂は国家に奪われたままだ。

 兵士たちを「英霊」の呪縛から解放していくこと、それはたとえば、フィリピン戦で死んだ私の母の父を天皇と国家の歴史から民衆の歴史へと奪いかえしていくことである。

 三ケ根山の碑群を前に、しばし唖然としとまどいながら、碑群のもつ意味とそこに刻まれた言葉がどのようにすれば「英霊」の呪縛から解放されるのかについて考えた。三ケ根山の碑群は敗戦後50年の現在、何か必要なのかを反面で示しつづけているように思われた。

                               199412月記(竹内)

参考文献

『証言する風景』刊行委編『証言する風景』風媒社1991

池田陸介「三ケ根山の慰霊碑群の慰霊の意味を問う」(付分布図)1993

服部勇次『三ケ根山慰霊碑群』1992/同『三ケ根山戦没者之碑』1994

荻野忠ハ編『比島観音建立20年史』比島観音奉賛会1991

塩田道夫『天皇と東条英機の苦悩』日本文芸社1988