04・10
 清水・清見寺の朝鮮通信使の足跡

 

静岡県にある清水港の興津埠頭の近くに清見寺がある。ここには朝鮮通信使の書による扁額・懸板や絵画などが残されている。

寺の歴史は古く、東北エミシへの侵略の際にここに清見関という関所がつくられ、仏堂がおかれたことによるという。この清見寺の手前は海であり、背後には山がそびえているから、軍事的な拠点とされてきたことがわかる。

鎌倉期に寺が再興され、足利尊氏はこの寺を日本10刹のひとつとし、戦死者の供養のための塔を建てた。尊氏の像やかれが描いたという地蔵尊がある。豊臣秀吉が北条氏を攻めたときこの寺を一時本営とし、寺の梵鐘を徴用した。

徳川家康によって朝鮮との友好策がすすめられると、この寺に朝鮮からの通信使が訪れるようになった。琉球からの通信使もここに来ている。琉球王子朝陽による扁額や琉球王子具志頭の墓も残っている。

清見寺の歴史はエミシへの侵略からはじまるが、通信使の足跡を示す文化財は友好平和に向けての『誠信の交わり』(雨森芳州の言葉)を語るものである。

16世紀末、秀吉は中国侵攻への不協力を口実に朝鮮を侵略した。朝鮮での戦果の証として、秀吉のもとに朝鮮民衆の鼻が塩漬けにされて送られた。その史跡として京都の耳塚がある。また朝鮮女性・陶工・学者が日本へと連行された。駿府へ連行されて家康の「侍女」とされた「おたあジュリア」もそのひとりだった。初期の通信使の来日の目的には連行された人々の奪還があった。

第1回目とされる通信使の来日は1607年のことである。通信使はこの清見寺に泊まっている。第4回目からは江尻の宿場に泊まるようになったようだが、当時駿府にいた家康はこの通信使一行を歓待した。

通信使はこの清見寺に立ち寄ることが多かった。そのため清見寺には多くの扁額がある。

1607年に清見寺に来た通信使の3人による清見寺を讃える詩文が懸板となっている。そこには呂祐吉・慶暹・丁好寛の名が刻まれている。ここに3篇の詩があることを、1624年にきた第3回目の通信使が記録しているので、この懸板は17世紀はじめの作品とされている。

1643年の第5回通信使の足跡を示すものが清見寺の鐘楼にある「瓊瑶世界」の扁額である。字は朴安期(号は螺山)による。かれの詩文もある。

        

1655年の第6回通信使の趙コウ(号は翠屏)は仏殿の「興国」の文字を書いている。また詩文も残している。またこのときの南龍翼(号は壷谷)の詩の懸板もある。

第8回目の通信使としてここを訪れた南龍翼の子・南聖重は亡父の懸板の字を見て感涙したという。この8回目の通信使が残したものには、玄徳潤(号は錦谷)による清見寺総門にかかる「東海名區」と方丈の「潮音閣」の扁額、庫裏の平泉の「桃源」の扁額などがある。第9回通信使の際には、浜松では漢詩などを求めて人々が殺到したというから、浜松にも当時の文化財が残っているかもしれない。

寺の中にある「聯」の文字も通信使によるものである。これは1764年の第11回通信使の金仁謙のものである。「逍遥」の扁額もこの11回目の成大中のものである。またこの11回目の通信使には画家の金有声がいた。

かれの書いた金剛山・洛山字などの屏風絵が残っている。金有声の描いた屏風絵は朝鮮通信使展(常葉美術館2004秋)で見ることができた。描かれた水墨画の金剛山は、現時点から見ると、統一朝鮮のイメージを喚起するものだった。

周辺の寺院にも通信使の描いた字が扁額として残っている。現在発見されているものをあげておけば、善源寺・真珠院・常円寺・牛欄寺・海岸寺・萬象寺などである。これらもこの時代の日朝交流を示すものである。

5回通信使の扁額「瓊瑶(けいよう)世界」とは美しい玉のような世界のことという。

清見寺に残る通信使関連の文化財は、侵略と連行から友好と交流の時代へと転換するなかで残されたものである。「瓊瑶世界」をどのようにしてつくっていくのか、そのような世界に向かう「誠信」な関係性をどのように切り結んでいくのかは、私たちの課題として今あるといえるだろう。                         (竹)

参考文献

   『東海名区清見寺禅刹』清見寺

   『静岡の文化』525969号 静岡県文化財団

   『静岡コリア交流の歴史』「静岡に文化の風を」の会2003年

    『朝鮮通信使展』常葉美術館 2004年