瀬戸の旅04・8

 

名古屋市の北東にある瀬戸市は焼きものの町である。この町の中心街の北に市民公園があり、その公園内のゲートボール場の北の丘陵に愛知航空機瀬戸地下工場跡がある。ここには平和の散策用に細い道がつくられている。

愛知県名古屋市の工場では三菱をはじめとする航空機生産が盛んだった。愛知時計電機は一九二〇年から海軍機を生産し、一九四〇年には海軍の管理工場となった。一九四三年には政府による軍需増産の動きの中で、航空機部門を独立させて新たに愛知航空機を設立した。ここでは海軍九九式艦爆、彗星などを生産していた。空爆が激しくなると愛知航空機は岐阜・北陸・瀬戸へと疎開を始めた。

この瀬戸への疎開は一九四四年末に始まり、五つの地下工場群がつくられた。一九四五年には地下工場への機械の搬入が始まり、生産がおこなわれた。地下工場の建設は大倉土木が請け負い、たくさんの朝鮮人が連れてこられた。『証言する風景―名古屋発 朝鮮人・中国人強制連行の記録』には朝鮮人徴用者の出身が忠清南道洪城郡だったことが記されている(六七頁)。地下壕建設のために集団的に連行されていたわけである。この地下工場跡は戦時下の朝鮮人労働を示すものである。

現地を歩くと、土に埋まってはいるが、数個のコンクリート製の地下工場の入り口がある。また、約一〇メートル四方の大きな水槽が残っていた。地下工場の入り口をみると、壊れたコンクリートの間から木々が天に向かってその枝を伸ばしているところもある。

森の中は涼しい。公園では子どもたちが、野球や水泳に興じている。地下工場の入り口の多くは破壊され、あるいは埋もれ、その口は封じられている。そのような現場からどのような表現を、今生きる私たちが紡いでいくのかが問われているように思った。

この日、「君が代」の演奏を強要され、それまでは弾いていたが、二〇〇四年春、演奏を拒否した教員の話を聞いた。校長のハラスメントに耐え、弾かないと決意したときのことを語る教員のまなざしは、凛としていた。良心の自由は行動することで示される。人権のある社会とは、そのような行動を受け止めることができる社会である。起立させて服従させることで、子どもたちは再び戦争国家のレールの上を滑っていく。

圧制を示す地下工場の時代から六〇年、服従の精神構造はいまもあり、それに抗する行動は各地で続いている。

                      (二〇〇四年八月調査)

 

    竹