宇治・ウトロ地区の旅
03年7月12日から13日にかけて在日朝鮮人史の研究会が滋賀でもたれ、13日に京都府宇治市にあるウトロ地区の見学会がもたれた。
戦時中、日本は宇治に京都飛行場を建設したが、そのとき2000人という朝鮮人が工事に従事した。工事のために朝鮮人の飯場ができたが、ウトロ地区はその飯場の跡であり、現在も70世帯・約230人が居住している。居住者の8〜9割が在日コリアンであるが、80年代末より、土地を購入した不動産会社から立ち退きを強要されている。不動産会社は裁判に訴え、住民側は居住権を盾に対抗したが、2000年に最高裁で住民側が敗訴した。
この地域は、日本の戦争と植民地支配が、戦後55年を経たいまも未清算のままであることを示す史跡でもある。ウトロに近接して自衛隊大久保基地、日産工場跡地がある。大久保基地からは1992年にPKO カンボジア派兵がおこなわれた。派兵の際、浜松からも仲間が抗議行動に参加した。
1942年から飛行場建設が始まったのだが、当初は逓信省の主管で民間航空の乗員養成が目的とされていた。しかし教官は陸軍の軍人、1944年3月に卒業した53人のうち52人が浜松三方原の中部130部隊に入隊した。このように軍事的色彩の強い飛行場であり、その後この飛行場は特攻隊の訓練基地になっていった。
今は撤退した日産工場の土地には、かつて日本国際航空工業があり、侵略戦争期には飛行機の機体の製造組立をおこなった。朝鮮戦争期にはこの工場でナパーム弾などが製造された。戦後米軍大久保キャンプが今の大久保基地のところにおかれた。接収は1945年9月のこと。53年には海兵隊が大久保に送られた。返還は56年10月のことだった。米軍用の慰安施設も近くにつくられた。54年には少女が暴行を受けるなど米兵による事件が頻発した。
朝鮮戦争が始まると日本国際航業の兵器生産に対し、ウトロの朝鮮人が「軍需品を作るな」と抗議行動をおこなっている。ここは朝鮮への侵略の拠点となっていったのである。
近鉄伊勢田駅から西へいくと下り坂になっている。その先にウトロがある。途中防衛庁の伊勢田官舎がある。官舎の前の塀はPKO派兵の際につくられたものという。西宇治中学の近くには飛行場建設時の段差が残っている。
ウトロの入り口にはウトロ住民の意思を示したオモニの歌や「ウトロはふるさと ここでいきたい」「京都市宇治市はウトロの中を見て下さい」と書かれたタテ看板がある。奥には追い出しに対抗してつくられた「地上げ屋立ち入り禁止日産の背信行為を糾弾する」という、朽ちかけた古い看板があり、10年余の運動の歴史を物語っている。このタテ看板のあるところは88年に住民と業者が対峙した現場である。
杉板の古い飯場の建物半分がウトロに残っていた。飯場のあいだの通路が路地となったという。今も3分の1に水道がなく、井戸を利用している。側溝もなく水はけも悪い。
自衛隊基地には高い堤があり、ウトロに伊勢田駅方面からの水も押し寄せ、水路からの逆流が起き、水害が発生する。
中心地は小さな広場になっている。かつて民族学校がおかれた建物があり、現在はデイサービス事務所や同胞生活総合センターが入り、住民の拠点となっている。学校とウトロの境から自衛隊基地が見え、かなたには日産の建屋がかつては見えた。
政府・自治体は朝鮮人居住区の土地所有権と居住権のための政策を放置してきた。それは戦争と植民地支配の責任はたす意味で最優先すべきことがらだった。ウトロには居住し続ける意思を示すように最近建てられた家もあった。空き地には唐辛子が緑の実をつけていた。雨が路地を流れる。交流会の時間が近づくとチャンゴの音がウトロに響いた。
ウトロはふるさと、ここに住み続ける。この生活と居住への想いが、強制立ち退きと軍拡に対抗する軸となり、人間の尊厳と共同のむけての運動を形成している。
滋賀県立大学に朴慶植文庫が置かれている。文庫の書籍の一部はネット検索できるようになっている。かれの残した膨大な資料を見ながら未完のかれの想いを考えた。現場を歩くことは歴史調査にはかかせない。以前朴氏と紀州の鉱山跡を歩いたことがある。70代であったがゆっくりと現地を歩き考えていた。かれは現場を大切にする姿勢を持ちつづけていた。
彦根城の入り口には護国神社があり、横には市民会館がある。神社の入り口には英霊にこたえる会の看板があった。境内には遺族会の平和を願う碑があるのだが、その平和を願う碑には誰が動員して死を強いたのかについては記されていない。このような戦争の原因とその責任を問わない「平和の願い」の支配的歴史のはてに、海外派兵の時代がきた。
けれども、近江の歴史を、古代の渡来と朝鮮通信使を核に友好史として読んでいくことも可能だろう。ウトロの存在を自己の課題としていくことも歴史理解に欠かせない。ウトロの今は、語られてこなかったことがらを形象化していく作業の大切さを示しているようにも思われた。 (竹)