浜松・磐田空襲の歴史と死亡者名簿
                 (抄録)

以下を刊行しました。写真や名簿等関心のある方はFAX0534224810へ連絡してください

はじめに                   

一 軍事拠点・浜松の形成と空襲の歴史   

二 浜松・磐田空襲年表

三 浜松の軍需工場と空襲

四 米国戦略爆撃調査団資料の分析

五 浜松・磐田等空襲死亡者名簿

おわりに

参考文献

   

はじめに

 

アジア太平洋戦争末期、浜松地域は1944年末から19458月にかけて米軍による激しい空爆を受けた。浜松での死者数は3500人を超え、浜松をはじめ磐田など遠州各地での死者数は4000人を超えるとみられる。

ここでは、浜松の軍事基地がアジアへの派兵の拠点となり、軍需工場地帯が形成され、浜松が戦争の拠点となった歴史を記す。そのうえで、米軍による遠州各地への空爆の歴史を示し、浜松地域の軍需生産の実態についても記す。また、米国戦略爆撃調査団(USSBS)史料について紹介し、写真や地図などから当時の浜松の状況を示す。そして浜松・磐田などでの空襲による死亡者名簿を示し、空襲被害に実態についてあきらかにしたい。

空襲年表を作成することで、米軍による浜松など遠州各地への空襲は60回ほどあったことがわかった。

浜松磐田地区空襲死亡者名簿を作成し、浜松・磐田など県内西部での空襲死者3900人の氏名があきらかになった。ここには豊川海軍工廠での県西部地区出身者などの死者を含む。米兵死者や連行された朝鮮人の死者名も、判明したものはわずかだが入れた。この名簿を作成するうえで、不明の箇所は空欄にした。この名簿を基に多くの情報が寄せられれば、より正確な名簿を作成することができる。

「生命は宝」である。その尊厳の回復は、戦争死者名簿を作成し追悼することからはじまる。しかし浜松市は空襲死者の名簿を作成していない。名簿は空襲被害をうけた遺族の団体などによって作られてきたが、すべてが判明したわけではない。

市民にとって、戦争の終結は失われた死者の氏名をあきらかにすることからはじまると思う。氏名や死亡地・死亡状況があきらかになることで、戦争によって失われた生命の多くの可能性に想いを馳せることができる。それによって歴史認識がたかめられ、人間の尊厳を大切にする平和な社会をつくることにつながっていくと思う。

                                 20076

                            (浜松大空襲から62年)

一 軍事拠点・浜松の形成と空襲の歴史

浜松地域は米軍による激しい攻撃を受けた。その理由は、浜松地域には陸軍航空基地などの軍事基地がおかれ、浜松の工場群が軍需生産の拠点となっていたからであり、また東海道の輸送線上に位置するとともに、本州の中央部で米軍機の侵攻ルートにもなったからである。

以下、浜松の軍事基地、軍需産業、浜松への空襲の経過、研究史、死亡者名簿作成の順にみていく。

 

  軍事拠点・浜松の形成

浜松には歩兵連隊が置かれたが、軍の近代化のなかでその連隊は廃止された。1926年に陸軍航空基地がつくられ、立川から軽爆撃と重爆撃を任務とする飛行第七連隊が移駐した。その後の基地拡張工事も含め、工事には多くの朝鮮人労働者が動員された。この陸軍爆撃部隊の基地の設置は浜松を戦争と派兵の拠点にした。

満州侵略戦争が始まると、浜松から派兵された爆撃部隊はハルビン、遼東半島、ハイラルなど満州各地で抗日軍の拠点を攻撃し、1933年には万里の長城を越えて北京近くの密雲まで空爆した。当時の記録写真をみると、このころから無差別爆撃をおこなっていることがわかる。

 1933年に設立された浜松陸軍飛行学校はイペリットや青酸ガスなどの毒ガス戦の研究訓練もおこなった。浜松陸軍飛行学校が主導して1938年には中国東北部のハイラルで、40年には白城子で航空毒ガス戦の訓練をしている。中国戦線では航空機による毒ガス投下が実戦でおこなわれたが、浜松は航空毒ガス戦の拠点でもあった。

アジア・太平洋地域での侵略戦争がすすむにつれ、浜松の爆撃部隊は各地に派兵された。19377月の中国での全面侵略戦争が始まると、浜松からは、飛行第5大隊(軽爆撃)、飛行第6大隊(重爆撃)、独立飛行第3中隊などが派兵された。これらの部隊は、飛行第316098戦隊などに再編され、すでに派兵されていた部隊は飛行第12戦隊、第16戦隊などに再編され、中国各地で空爆を繰り返した。これらの浜松を出自とする飛行第12戦隊、飛行第60戦隊、飛行第98戦隊は海軍と共同して中国の重慶への無差別爆撃もおこなっていった。

アジア太平洋地域での戦争が始められると、東南アジア各地への空爆に参加し、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、さらにはインドまで空爆した。現地での空爆には浜松から派兵された部隊がかかわっていたのである。

 1944年には航空毒ガス戦専門部隊として三方原教導飛行団が設立された。また陸軍飛行学校の実戦部隊への改編もおこなわれ、フィリピン戦にむけて「特攻」部隊も編成された。沖縄戦では陸軍空挺部隊による「特攻」作戦がおこなわれ、浜松で編成され重爆撃部隊が輸送を担った。このように浜松は爆撃・毒ガス戦・特攻戦の拠点となっていった。

さらに、新居には海軍の浜名海兵団も置かれ、戦争末期には、本土決戦用部隊が二俣線に沿って配置された。

 

    軍需生産と浜松

 

日本楽器は早くからプロペラ生産をはじめて軍需生産を担った。戦争の拡大とともに、浜松の工場の多くが軍需生産を行なうようになり、中島飛行機浜松製作所、鈴木織機、浅野重工業、日本無線、遠州織機、国鉄工機部、石川鉄工、渥美鉄工、河合楽器、東洋木工、日東航空、日本銃砲製造、中島航空金属、三協機械などが軍需生産を担った。これらの軍需工場は下請けに多くの中小工場を持ち、浜松の中小工場が航空機部品や兵器などの軍需生産に組み込まれた。

浜松市内の軍需工場の数は浜松市内工場事業場疎開先郡市別調」によれば、1944年には275工場になった。その内訳は株式会社124,合資会社13,有限会社10,個人経営128であり、労働者数は男15248,8431人の計23679人だった。浜松は中小企業を含めて270を超える軍需企業を持ち、それらの軍需産業で働く労働者は2万人を超えたのである。

 鈴木織機をみると、中国での全面戦争によって鈴木織機の軍需工場化がすすみ、一部は兵器工場となり、高塚工場が新設され、武器生産が強化された。鈴木織機が生産した兵器は、各種榴弾、手榴弾、高射砲弾、迫撃砲弾、対戦車砲、機関砲、高射機関銃、照準器などだった。鈴木織機は1942年に陸軍、43年には海軍の管理工場となり、重要な軍需工場のひとつとされた。1945年に入ると二俣と金指へと地下を含めての疎開もはじめた。この鈴木織機へは朝鮮人が強制連行され、旋盤、鍛工、大工、運搬、雑役などの仕事を強いられた。

 

  浜松地域への空襲

 

このように浜松地域は1930年代のはじめからアジアへの空爆の拠点となり、戦争の拡大とともに軍需生産地帯へとその姿を変えてきた。浜松が中小都市としては最大規模の空襲を受けた理由がここにある。さらにB29が名古屋や東京方面に向かうときの進入経路となったことも空爆を増やすことになった。

浜松での空襲の経過を概観してみよう。米軍資料によれば、東は袋井方面から西は豊橋豊川方面までを浜松地区として空爆を加えている。その意味では、浜松への空襲についてはこれらの地域全体への攻撃経過を分析すべきであるが、ここでは豊橋豊川地域は除き、浜松磐田など静岡県西部地域を中心に空襲の経過をみていきたい。

19441127日、米軍機B29のうち7機が浜松地区を爆撃した。現地の記録から、投下先は磐田・湖西方面とみられる。このときB29の主要目標は東京の中島飛行機武蔵製作所だった。

1213日にはB29が浜松市東部の佐藤・相生・木戸などに燃焼弾を投下した。この攻撃は鈴木織機や中島飛行機を狙ったものとみられる。この日のB29の主要目標は名古屋の三菱発動機だった。1218日と22日にはB29が湖西・舞阪などに投弾した。主要目標は名古屋の三菱航空機や発動機工場だった。1227日には中島飛行機武蔵野工場を目標としたB29が浜松東部の飯田にも投弾した。飯田には日本楽器天竜工場があった。

194513日には名古屋市内の空爆に向かったB29が浜松市東部の植松・神立・向宿方面に燃焼弾を投下、湖西方面も攻撃した。17日には新居への空襲があった。19日には浜松北東の宮竹にある中島飛行機工場への爆撃があり、周辺の和田や長上地区への投弾もあった。114日にはB29が三ケ日・磐田などに投弾した。この日の主要目標は名古屋の三菱航空機工場だった。119日には川崎航空機明石工場を主要目標としたB29が浜松市東部の神立・上西・曳馬方面に投弾した。123日には湖西、27日には浜松東部の飯田に投弾した。

21日には浜松市北部の上島や浜名郡下にB29によって500キロ爆弾が投下された。210日にはB29が、浜松市中心から南方にかけての砂山・寺島・龍禅寺方面に爆弾を投下した。この日の主要目標は中島飛行機太田工場だった。

215日にはB29が浜松市中心部、西部、北部、西部の舞阪・雄踏方面、さらに天竜・磐田・浅羽・浜岡などに爆弾や燃焼弾による攻撃を加え、市内では日本楽器・鈴木織機・東洋木工などの軍需工場が被弾した。死亡者は170人を超えた。このときの主要目標は名古屋の三菱発動機だった。

216日・17日にかけては浜松・三方原の陸軍航空基地への攻撃がF6Fヘルキャット(グラマン)、F4Uコルセア、TBMアベンジャー(雷撃機)などの空母艦載機によって行われた。攻撃は爆弾・ロケット弾・機銃などを使っておこなわれ、鈴木織機高塚工場、天竜飛行場、陸軍軍需廠二俣集積所なども攻撃された。艦載機はバンカーヒル、ホーネット、サラトガ、ワスプなどの空母から飛来した。

225日には東京市街を攻撃目標としたB29が浜松市内各地、積志、豊田方面も空爆した。河合楽器・共同印刷などが被爆した。この日は日本各地の工業都市が爆撃された。

34日にはB29が、浜松市北部の高林・泉、西部の東伊場、雄踏、湖西を爆撃し、日本無線工場などが被爆した。このときの主要目標は中島飛行機武蔵工場だった。310日の東京大空襲の際には浜松南部にも爆弾が投下され、312日の名古屋市街空襲の際にも、浜松南部・竜洋が空爆を受けた。325日には天竜川上流の龍山も爆撃された。

47日にはB29が浜松市野口・助信・菅原・宮竹・和合・積志など各地を爆撃し、中島航空金属・遠州被服工場などが被爆した。主要目標は中島飛行機武蔵工場だった。421日には舞阪沖の漁船が米軍機によって攻撃された。

430日には陸軍立川航空工廠を第一目標としたB29が浜松市内各所と浜松航空基地、磐田地区を爆撃した。日本楽器・河合楽器・山一被服・浜松工機部・石川鉄工・東洋木工など軍需工場と浜松飛行場が被爆した。死亡者は900人を超え、負傷者も600人を超えた。目標の立川が曇りであったために、80機ほどが浜松を爆撃したのだった。投弾数は2000発近い数だった。

53日には舞阪沿岸でPB4Yカタリナ飛行艇による輸送船への攻撃があり、5月10日には弁天鉄橋や新居海兵団へのB24による攻撃があった。518日には弁天鉄橋、列車への攻撃がPB4Yによっておこなわれた。

519日には立川飛行機・立川航空工廠などを主要目標とするB29が浜松市東部、西北部、東北部、磐田、掛川、大須賀、福田など遠州各地を爆撃した。目標の立川が曇天だったために、約270機が浜松地域を爆撃したのだった。死亡者は600人を超え、5500戸ほどの家屋が破損した。

523日には東京市街を爆撃に向かったB29の一部が浜松市東部の鴨江・東伊場などに燃焼弾を投下、24日には浜松北部の広沢・中沢、東部の飯田などに燃焼弾を投下した。529日には横浜市街を主要目標にしたB29が浜松南部の浅田・海老塚、北部の和地山などにも燃焼弾を投下した。

69日には浜松市の曳馬に爆弾が投下され、610日にはB29が浜松市内南部の砂山や北部の中沢などを爆撃した。この日の主要目標は立川航空工廠や中島飛行機武蔵工場だった。613日にはB24が浜名湖を爆撃した。

618日には浜松市街地を主要目標にしたB29100機ほどで燃焼弾と爆弾による空爆をおこなった。その攻撃は、工場のみならず工場労働者の居住空間と生命を破壊するためのものだった。深夜、板屋町交差点が爆撃の中心点にされ、浜松市内各地が空爆された。この爆撃は豊田町、掛川にまで及んだ。それにより死亡者は1700人、負傷者は1500人を超え、破損家屋は16000戸に及んだ。この日に浜松に投下された燃焼弾は14千発を超える量だった。19日には引佐方面で艦載機F6Fによる機銃攻撃があった。

626日には名古屋造兵廠などの名古屋の工場を主要爆撃目標としたB29が浜松駅北の板屋・助信方面や舞阪も爆撃した。

71日には硫黄島の米軍基地からP51ムスタングが飛来し、浜松市各地や浜名郡下で機銃による攻撃を加えた。P51による浜松への攻撃は79日・20日・24日と続けられた。

724日・25日・2628日には艦載機F6FF4Uによる浜松・三方原の航空基地や工場・鉄橋・鉄道などへの攻撃がおこなわれた。空母艦載機による攻撃は遠州各地におよび、24日には浜松市内・工場、新居沖の漁船、舞阪の鉄橋、日蓄コロンビア工場、舞阪の列車、遠州織機、鈴木織機高塚工場、掛川の二俣線列車、磐田中泉、天竜飛行場、25日には再び浜松市内の工場と浜松飛行場が、さらに中島飛行機新居工場、新居海兵団、列車などが機銃や小型爆弾で攻撃された。26日・28日には浜松と三方原の航空基地が攻撃目標とされた。篠原や豊田町方面にも飛来している。これらの艦載機は空母レキシントン、サン・ジャシントから飛来したものである。さらに7月26日には浜松市の将監町にB29が原爆模擬弾を投下した。

このように軍事航空基地を攻撃した後の729日、米英艦による浜松への艦砲射撃がおこなわれた。29日夜からの艦砲射撃はサウスダコタ、インディアナなど8隻からおこなわれ、1時間ほどで約2000発を撃ち込んだ。目標は、工場としては浜松工機部、浅野重工、日本無線、日本楽器、鈴木織機、鈴木織機高塚、遠州織機、中島飛行機新居、運輸関係では浜松駅、天竜川鉄橋、弁天島鉄橋、軍事基地では天竜飛行場、弁天島砲台、浜名海兵団などであった。さらに730日にはF4UTBMSB2Cヘルダイバー(爆撃機)による三方原飛行場への攻撃が加えられ、さらに31日にTBMによる三方原飛行場への攻撃が加えられた。浜松北部の呉松、小笠の丹野などでは缶詰爆弾も投下され、死者が出ている。これらの攻撃による市民の死者は200人を超えた。

81日には富山・長岡を主要目標とするB29攻撃隊の1が浜松市の野口・船越や豊田町を爆撃した。7日には豊川海軍工廠への爆撃がおこなわれたが、浜松北方の都田への空爆もおこなわれた。豊川へは県内からも多数動員されていたため、県出身者300人余が死亡した。

以上が浜松・磐田など遠州地域への空襲の経過である。

浜松の工場群は名古屋や東京の飛行機関連軍需工場の爆撃の際に関連して空爆の対象とされ、中小都市爆撃の際には浜松は大牟田・四日市・鹿児島とともに最初の空爆対象地になった。これらの米軍の攻撃による死亡者数は、豊川での県内出身の死者を含めれば4000人を超える。

  浜松空襲の研究調査

 

つぎに浜松空襲についての戦後の研究調査についてみておこう。

浜松空襲・戦災を記録する会は浜松大空襲展をおこない、証言や記録などをまとめ、1973年に『浜松大空襲』の形で出版した。中日新聞はこれらの調査をふまえ、1981年に「浜松が燃える」を連載した。空襲体験を綴ったものとしては、川合照子『遠い日記』1989年がある。

浜松市1995年の戦後50年にあたり、市が戦後直後に収集した文書類を『浜松市戦災史資料』(全4巻)の形で公刊した。この資料集の第4巻には戦後直後の死亡者名簿「戦時災害ニ因ル弔慰金支給領収綴」が収録された。

行政は空襲死亡者の調査について取り組まなかったが、浜松市戦災遺族会は独自に空襲による死者名を収集し、1995年に会員を中心とした死者名簿『戦災死者調査表』を作成した。そして、これまでの活動をまとめた記録集『偲ぶ草』を2000年に発行し、収集した死者の名簿をそこに収録した。

また、さまざまな形で出された戦争体験記録、たとえば『身近な人が語る戦時体験集』橋田の会1984年、『東町戦時体験文集』1998年などの文集にも浜松の空襲についての記事がある。

浜松の軍事基地についての調査研究論文としては、矢田勝「浜松陸軍飛行第七連隊の設置と15年戦争」(『静岡県近代史研究』121986年)、村瀬隆彦「静岡県に関連した主要陸軍航空部隊の概要」(『同』181919921993)などが発表され、戦時下の軍事基地の動向の研究がすすんだ。さらに、2001年には浜松基地形成と市民の側の動向を分析した荒川章二『軍隊と地域』が出版された。また1990年代に出版された『静岡県史』にも記事や史料が収録されている。

米国戦略爆撃調査団の資料については、B29の作戦任務報告書のみならず、艦載機報告書、目標情報票、損害評価報告書、偵察写真などの分析がすすめられてきた。それにより米軍の作戦の実態と攻撃前後の地域の状況が具体的に明らかにできるようになった。

浜松への空襲についての米軍資料の分析については、静岡市平和資料センターが静岡空襲の資料収集をおこなう中で、米軍による浜松関連の映像や写真を入手した。また米国戦略爆撃調査団の資料を利用しての分析もすすみ、阿部聖「艦砲射撃調査隊報告書『浜松地域(1945)に関する調査』について」が『遠江』誌に連載された(2001~05年)。これは米軍資料を利用しての浜松での艦砲射撃についての分析である。さらに米軍史料から浜松へ空襲全般を分析した阿部聖『米軍資料から見た浜松空襲』が2006年に出版された。

このように、戦後60年を経て、被害者の証言記録、名簿収集、米軍資料の分析、軍事基地研究などがまとめられ、総合的な分析が可能になってきたのである。

 

  浜松・磐田等空襲死亡者名簿の作成

 

筆者は、浜松の航空基地からの1930年以後のアジア各地への爆撃と毒ガス戦という戦争加害をテーマに調査をすすめ、『静岡県近代史研究』に「浜松陸軍飛行学校と航空機毒ガス戦」「戦争の拠点・浜松(1(2)」を記してきた。戦争史跡調査の一部は2005年に『浜松の戦争史跡』の形で出版した。さらに空襲の実態の解明のために米軍資料の収集もすすめ、軍需工場の実態についても調査をした。

この調査のなかで、戦争被害の実態の基礎資料として、浜松・磐田など遠州空襲関係死亡者名簿の作成をおこなった。調査によって1944年末から1945年にかけての浜松をはじめとする遠州各地への空襲が60派を超え、米軍の攻撃による死亡者数は3900人を超えることがわかった。

ここに示す名簿は、そのような空襲による浜松磐田など遠州地域での死亡者約3650人、豊川での県西部を中心とする死亡者約270人の計3920人ほどの空襲死亡者名簿である。この名簿では死亡月日や死亡場所などで不明の欄が多い。この名簿記載者以外にも数百人の死亡者が存在するとみられる。

今後、関係者からより多くの情報を得て、正確なものを作成したい。そしてこの名簿が、平和な社会に向けての基礎資料となることを願う。

どこの国が空爆を実行したにしても、それは空から爆弾を落とすことによる大量殺戮行為であり、空からのテロルにほかならない。米軍による浜松への空襲以前に、浜松の部隊による爆撃はアジアの多くの民衆の命を奪い、多くの負傷者をだした。この歴史的事実を踏まえて、浜松大空襲を捉え直し、その戦争犯罪についても論及すべきであろう。国境を越えて空襲被害者の願いは、空爆による死傷者を出さないということであり、再び戦争を繰り返さないということであるだろう。死者の名前を明らかにし、どこで誰がどのようにして死を強いられたのかを知り、ひとりひとりの奪われた生の可能性を想像していくことが、人間の尊厳への理解と平和への取り組みにつながっていくと思う。

人間の尊厳を大切にし、戦争を止めることができなかった歴史的責任を踏まえ、戦争の加害を再び起こさないという歴史認識と想像力を確立することが、戦争死者の名簿を前にして求められている。戦争死者の発生を繰り返してはならないし、浜松を再び戦争と派兵の拠点としてはならないと思う。          

二 浜松・磐田空襲年表

三 浜松の軍需工場と空襲

 

●浜松の軍需工場の空襲被害

つぎに浜松地域での軍需生産と空襲被害についてみよう。

静岡県庁蔵・静岡県『地方長官会議綴』(19455)には静岡県労政課「県下工場事業場空襲被害状況調」が収録されている。この史料から浜松市関連の工場・事業場を抽出すると、以下の表のようになる。掲載にあたって軽傷者数は省略し、被害額は合計して記載した。この史料には82件の工場・事業場があげられているが、68件が浜松およびその周辺の工場・事業場であり、表に示されている工場はほとんどが軍需工場であり、浜松が航空機産業関連の軍需拠点であったことがわかる。

この表は4月末までの被害状況を示すものだが、その後の、5月・6月の空襲と7月の艦砲射撃により、浜松市内は焼け野原になった。爆撃は陸軍航空基地へもおこなわれた。陸軍航空基地と軍需工場地帯の形成は浜松を戦争の拠点とし、それが米軍による空爆をもたらしたのである。

 

浜松地域での軍需生産の状況

つぎに浜松地域での軍需生産について、より具体的にみておこう。ここでみてきた静岡県労政課「県下工場事業場空襲被害状況調」に、「浜松市内工場事業場疎開先郡市別調」(『浜松戦災史史料綴』1946年所収・浜松市中央図書館蔵)、「軍需工場一覧」(『浜松市戦災史資料4』所収)などの史料を加え、各町別に元請・下請関係、工場規模、軍需生産品種などを示したものを作成した。この表から、浜松地域の工場が中小工場を含めて航空機部品、工作機械、弾丸などの兵器生産にくみこまれていることがわかる。

 

浜松地域での軍需生産状況

●浜松空襲町別死亡者数

『浜松市戦災史資料2』には「浜松市空襲被害一覧表」が掲載され、この表から各町での被害状況がわかる。ここに示されている死者数は旧浜松市内の町のものがほとんどである。この表には500人以上の死者数の欠落があるとみられるが、どの地域に死亡者が多かったのかがわかる。

100人を超える死亡者が出た町は、鴨江、元城、砂山、寺島、馬込、東伊場、龍禅寺、楊子、海老塚などである。ほとんどが軍需工場近くの町である。

米軍の空爆は工場のみならず工場労働者・市民の居住地帯を狙った無差別爆撃だった。それにより3500人を超える市民が生命を失った。これらの爆撃は戦争犯罪として捉え返すべきである。

また、浜松から派兵された航空部隊はアジアで爆撃を繰り返している。重慶や蘭州等での無差別空爆をおこなった陸軍部隊は浜松からの部隊であった。浜松で空爆によって死を強いられた人々の姿をみるとともに、浜松から出撃した部隊によって殺されたアジアの人々の姿を想像することも求められる。

このような爆撃の原因と責任を問い、このような事態の再発を防ぐために歴史認識を確立し、市民による戦争への非協力・不服従の行動が積み重ねられていくべきであろう。

 

浜松空襲市内町別死亡者数・1945

四 米国戦略爆撃調査団資料の分析

米国戦略爆撃調査団報告書のなかの浜松空襲関係史料

 

アメリカ国立公文書館には米国戦略爆撃調査団(USSBS)報告書が所蔵されている。この資料の一部はマイクロフイルムにコピーされ日本の国立国会図書館憲政資料室にある。憲政資料室ではこの調査団報告書の概要を記す文書(5米国戦略爆撃調査団資料目録)を仮訳している。この訳書から主なUSSBS史料文書の所在を知ることができる。この米国戦略爆撃調査団資料などの米軍資料の紹介記事が、空襲・戦災を記録する全国連絡会議『空襲通信』1 にあり、事前に読んでおくとわかりやすい。

米国戦略爆撃調査団の資料のなかには、47空襲目標分析・空襲目標システムフォルダー・地域別攻撃目標分析(請求番号UBS11に収録)、48空襲目標フォルダー(同)、532021爆撃集団作戦任務報告書(USB05に収録)、55海軍海兵隊艦載機戦闘報告書(USB06に収録)、59空襲損害評価報告書(USB15に収録)、72空襲目標情報・航空写真(USB11に収録)などがあり、これらの資料は空襲調査にあたって重要なものである。

 

  戦略爆撃調査団資料の静岡県関係の研究状況

 

この米国戦略爆撃調査団資料を使っての静岡県関係の研究状況についてみておこう。

戦略爆撃調査団資料の作戦任務報告書から日本空襲の概略を示したものに、小山仁示『米軍資料日本空襲の全容』があり、ここには県内での空襲についても記載されている。

浜松空襲に関係する作戦任務報告書については、「作戦任務報告書 任務41号」1945311日分(西形久司訳・解題「米軍資料名古屋312空襲の作戦任務報告書」『東海近代史研究』21 )、「作戦任務報告書 任務178号」1945519日分(『静岡県史』資料編20近現代5)、「作戦任務報告書 任務206208号」1945618日分(阿部聖「浜松空襲に関する米軍資料『作戦任務報告書』1945618日大空襲」『遠江』29)、「作戦任務報告書 任務306310号」194581日分(中山伊佐男『ルメイ・最後の空襲 米軍資料に見る富山大空襲』)、「作戦任務報告書 任務317号」194587日分訳(豊川市立図書館蔵)などに翻訳されている。

この作戦任務報告書のなかには爆撃航程についての報告記事があり、爆撃先、機数、投下時刻、投下高度などが記されている。たとえば名古屋への空襲を見ると、第一目標は名古屋市街であり、多くの機が名古屋を爆撃しているが、最終目標の浜松を爆撃した機もあったことが記されている。浜松への少数機による空襲があった日にはその報告書に爆撃報告が記されていることが多い。

『静岡県史』資料編20近現代5には「24日本楽器製造」「81艦艇砲撃調査班報告 浜松地区」も抄訳されているが、写真類は掲載されていない。艦砲射撃調査隊報告「浜松地域1945年の調査」のマイクロは浜松市中央図書館にも所蔵されている。この艦砲調査隊報告の分析は、阿部聖「艦砲射撃調査隊報告書『浜松地域(1945)に関する調査』について」14(『遠江』24262728)がある。米国戦略爆撃調査団史料は『太平洋戦争白書』の形でも復刻され、このシリーズの第10巻には「17中島飛行機」(浜松工場分も収録)があり、第12巻は「24日本楽器製造」、第34巻は「81艦砲射撃分析班報告書別冊B浜松」である。

これらの米国戦略爆撃調査団資料を分析し、浜松空襲についてまとめたものが、阿部聖『米軍資料から見た浜松空襲』である。静岡平和資料館をつくる会編の『静岡・清水空襲の記録 2350余人へのレクイエム』も、調査団資料を利用して静岡への空襲状況をまとめている。静岡平和資料館をつくる会は米軍が撮影した映像「爆撃後の静岡・浜松」(仮題・工藤洋三氏提供)を所蔵している。

 

  戦略爆撃調査団資料からみた浜松空襲

 

国会図書館にある米国戦略爆撃調査団資料のうち、浜松関連の文書については以下のものがある。

47空襲目標分析のマイクロ請求番号はUSB11であり、このUSB11Roll 1(以下U11R1と略記)には静岡、U11R2U11R3には浜松関係の写真がある。浜松の情報票には豊橋基地や豊川海軍工廠の記事も含まれている。

48空襲目標フォルダーのU11R4には静岡や浜松の空爆目標情報が含まれている。このフォルダーには空爆のために収集された地図や工場の写真が入っている。

53作戦任務報告書についてみれば、U05 R3430日、519日の浜松への空襲に関する報告書が入っている。618日の浜松空襲の報告書はU05R5に入っている。

55海軍海兵隊艦載機戦闘報告書については地域別の索引があり、この索引から21617日、715日、72426日、72831日の、静岡県での空母艦載機による攻撃の報告書を探すことができる。これらはUSB06R3611131418232427などに含まれている。

59損害評価報告書には空爆用のリトモザイク地図、目標情報表、作戦任務要約、爆撃写真、損害評価などの書類が含まれている。この報告書の浜松分の記事はU15R9浜松市内、日本楽器、U15R10に中島飛行機浜松工場、日本楽器天竜工場、和地倉庫分がある。

72空襲目標情報・航空写真には、USB11R6に三方原、R7に天竜、浜松などの基地の写真がある。

つぎに、これらの資料から爆撃の経過や状況を示すものをいくつか紹介しよう。

米軍は対日航空戦において目標地域番号を使用した。そこにおいては日本を90、浜松を21とし、浜松地区は「9021」の番号で示された。米軍の示す浜松地域は、西は岡崎・豊橋方面、東は袋井・掛川方面、北は長野県の平岡方面にかけての地域となっている。

目標情報票には、浜松が横浜・名古屋間で2番目に大きな都市であること、名古屋の工業地帯につながり、航空機部品の主要な工場があること、国鉄の3番目に大きな修理工場があることなどが記されている。

米軍爆撃集団の作った浜松の日本楽器を標的にした2マイルや2千フィート毎に円が描かれた地図が残されている。日本楽器の標的番号は1219である。2千フィート毎に円が描かれた地図には、日本楽器1219を中心に、三方原飛行場2670、浜松飛行場1222、鈴木式織機1227、西川鉄工(浅野重工)1229、国鉄工場1230、浜松駅・操車場1231、鈴木式織機高塚工場1929、中島飛行機浜松工場2012、日本楽器天竜工場2013などが記入されている。目標情報表には、これらの工場のほかに遠州織機、航空塗料工場、河合楽器工場、日本形染、浜松ガスなどの名もあげられている。浜名湖周辺の地図もあり、海兵団基地や工場が記入されている。

これらの資料からプロペラ生産をおこなっていた工場を中心に軍需工場と軍事基地が米軍の攻撃対象となっていることがわかる。

米軍が19454月に作成した浜松市街地の石版集成図(リトモザイク)もある。集成図では爆撃中心点が板屋町交差点に置かれている。このことは米軍の爆撃が市街地・一般市民を対象にしたものであることを示している。軍需工場や軍事基地の爆撃に加え、市民の爆撃を加えて労働者街を焼き払うという戦略爆撃がおこなわれたからである。

米軍19455月の爆撃後に浜松地域のモザイク写真を作成している。写真には三方原爆撃場・浜松基地から中島飛行機浜松工場、国鉄工場、日本楽器などの工場が映されている。

米軍はこのような爆撃地図とともに目標情報表を作成している。主要目標とされた日本楽器の表をみると、浜松駅を中心にした工場の位置を示す航空写真、工場写真があり、主要な航空機プロペラ製造工場であるという説明がある。

 上空から撮った日本楽器や同天竜工場、中島飛行機浜松工場などの軍需工場の写真なども残されている。工場の建物には番号が振られ、工場の種類もこまかく記されている。

 米軍は空爆の成果を評価するために、写真を撮影して損害図を作成している。市街地爆撃については430日、519日、618日の空襲の写真と損害図がある。このころ標的とされていたものは、日本楽器、日本楽器天竜、鈴木織機、鈴木織機高塚、国鉄浜松工場、中島飛行機浜松工場、河合楽器、浜松駅・機関区、帝国制帽、遠州織機、東洋紡、浅野重工、ガス・紡績・ゴム・塗料などの各工場であり、浜松・三方原の飛行場基地であった。

艦砲射撃については艦砲射撃調査隊報告に国鉄工場や鈴木織機など多くの工場の被害状況が記され、多数の写真がある。艦砲射撃で目標とされた場所は、報告書によれば日本楽器、鈴木織機、鈴木織機高塚、遠州織機、国鉄浜松工場、浜松駅・機関区、西川鉄工(浅野重工)、東洋紡、日本無線、浜名海兵団、中島飛行機新居工場、弁天島鉄橋、弁天島砲台、天竜川鉄橋、天竜飛行場などであった。空爆後に米軍が撮影した破壊された浜松の街並みの映像も残されている。

 損害評価報告書には爆撃の状況を示す記述もある。たとえば430日の爆撃では浜松市街を73航空団と313航空団が爆撃し、313航空団は日本楽器も爆撃している。作戦任務報告書をみると430日には313航空団が浜松基地を爆撃したことがわかる。519日の爆撃先は主に浜松であったが、作戦任務報告書をみると、爆撃先は甲府、松阪、下田、東京、日本沿岸、豊橋、静岡、八丈島、館山など広い範囲にわたっていることがわかる。

 軍需工場だけではなく軍事飛行場も爆撃された。浜松基地への爆撃状況を示す写真が残っている。滑走路や基地建物に残る爆弾跡が示されている。艦載機による空襲もおこなわれ、216日のホーネットの艦載機による攻撃の際の基地の地図やバンカーヒルの艦載機による爆撃や航空機の疎開や掩体を示す写真がある。艦砲射撃調査隊報告には天竜飛行場の写真も含まれている。

 

以上、米軍関係資料について紹介した。米軍資料からは、浜松地域の当時の航空写真や軍需工場や軍事基地の被爆状況がわかる。筆者の未見の資料も数多くあり、今後の調査が求められる。

 米軍による高高度からの航空機工場の爆撃は194411月頃から始まるが、19453月ころからは夜間に大都市を焼き尽くす空襲をおこなうようになる。さらに6月ころからは中小都市を焼き尽くす空襲が始まった。労働者の居住区を焼き尽くすための燃焼用の爆弾の開発もすすんだ。軍事目標への攻撃を口実にしての市民への夜間無差別の攻撃が準備されていった。

この攻撃は軍需工場を破壊するのみならず、そこで働く労働者とその居住区を破壊して戦争遂行能力を奪おうとする戦略爆撃であった。それは夜間の非戦闘員への無差別爆撃であり、戦争犯罪であった。

米軍の上空からの写真や分析報告からは地上に生活する人々の情愛や生命の輝きはみえてこない。そのような非人道的な爆撃は形を変えて今も続けられている。戦争被害者の地平から戦争と空爆に反対する思想を練りあげていくことが、今を生きるものの課題であると思う。

五 浜松・磐田等空襲死亡者名簿

●浜松空襲死者名簿を作成して

この名簿は浜松・磐田など遠州地域の空襲での死者約3900人分の名簿である。ここでは浜松を中心に新居から磐田にかけての地区を含めている。また、愛知県豊川市の海軍工廠での静岡県西部関連の爆死者も名簿に入れた。    

 浜松を中心に新居から磐田にかけては、陸軍の爆撃基地などの軍事基地、航空機関連などの軍需工場が集中していた。そのため浜松地域は、1944年末から1945年にかけて米軍による激しい空襲と艦砲射撃を受けた。それらの攻撃によって、浜松では3500人を超える市民が死を強いられた。また磐田方面でも200人を超える死者が出た。軍務者も含めれば、浜松地域(含む磐田)では4000人を越える空襲死者があったとみられる。軍人の死者で名前が判明したものは、米兵を含めて記載した。 

史料1浜松市「戦時災害ニ因ル弔慰金支給領収綴」(19468月〜19463月)には2190人分の記載がある。被害者名が重複しているものについてはひとつにまとめたが、同一かどうかを判断できないものについてはそのままにしてある。記載にあたり、『浜松市戦災史資料4』の氏名所収頁を記し、戦災直後の遺族住所については町名を記した。

 史料2浜松市戦災遺族会『戦災死者調査票』名簿には約1200人分の記載がある。編者はこの名簿を2000年に閲覧した。この史料では、遺族の情報として死亡場所を明示しているものが多い。記載にあたって重複者はひとつにまとめた。また遺族の居住地を示す支部番号を記し、遺族の名前と居住地などについては省略した。なお、東京・愛知・広島・長崎など浜松市以外の被災者については名簿から除いたが、浜松市周辺の磐田・掛川など浜松空襲と関係のあるものについては収録した。
 なお、旧字体を現代の字体で表記した箇所がある。 

 史料12において、重複してはいるが名前や死亡月日において異なる記載があるときには、編者の判断でどちらかを記し、異なる表記については、註の欄に記した。12の史料の両方に記載されていた人数は、約800人であった

 史料3の「戦災死者及び遺族名簿」から史料12に欠落している死亡者名約600人分を抽出した。この史料には死亡年月日と死亡場所が記されていない。そのため今後の調査資料として、史料番号3のあとにたとえば「3砂山」というかたちで、史料に記されている遺族の居住地を記した。
 これらの史料123を中心に名簿を編集し、さらに史料4以下から補充した。小笠・掛川・竜洋・福田・磐田・新居・舞阪などの空襲死者も収録した。 

 史料9は厚生省勤労局『朝鮮人労務者に関する調査』の静岡県分史料による。朝鮮人死者については日本通運に強制連行された1名が判明している。
 豊川海軍工廠での死者については県西部出身者を採録し、静岡県出身者で出身市町村名が不明のものについては「戦後遺族住所」の欄に「県」と記した。
 なお、表示において、たとえば、史料4-53は、史料453頁に記載事項があることを示す。 

この名簿作成作業で、約3900人の氏名を確認することができた。ここでは豊川での静岡県出身者の死者から西部を中心に270人余を含めた。浜松・周辺各地の空襲関連での死亡者数だけで4000人を超えるとみられるが、多くの死者名が今も不明である。空襲による浜松基地関連の軍人の死亡者は不明のものが多い。

死者の名前を明らかにすることは、空襲被害の史実究明の第一歩である。名前を明らかにし、どこで誰がどのようにして死を強いられたのかを知り、ひとりひとりの奪われた生の可能性を想像していくことが、人間の尊厳への理解と平和への取り組みにつながっていくと思う。しかし、戦後、浜松市は空襲による市民の死亡者名簿をまとめ、公開するという作業をおこなってこなかった。市町史においては戦争死者名簿を挿入しているものもあるが、軍需産業への動員者については准軍属扱いとして氏名を掲載することはあっても、空襲でのすべての死亡者を掲載してはいないものが多い。また、政府は市民の空襲被害者に対しては「受忍」の名によって補償をおこなわなかった。

すでに戦後60年を経てはいるが、この名簿をより正確なものにするところから、平和にむけての作業をはじめていきたいと思う。多くの市民からの情報提供を求めたい。

●名簿作成・典拠史料

1 浜松市「戦時災害ニ因ル弔慰金支給領収綴」19458月〜19463月(浜松市中央図書館『浜松市戦災史資料41999年所収)

2 浜松市戦災遺族会『戦災死者調査票』1995

3 「戦災死者及び遺族名簿」(『偲ぶ草 浜松市戦争体験の記録』浜松市戦災遺族会2000年所収)

4 浜松空襲・戦災を記録する会『浜松大空襲』1973

5 庄内地区戦時体験刊行会『平和への祈り』2000

6 伊藤茂寿編『戦時体験文集』1998

7 『浜松 わたしの昭和時代T』樹海社1980

8 「戦争はいらない」元城校19年会2005

9 厚生省勤労局『朝鮮人労務者に関する調査』1946年静岡県分

10 『細江町史通史編下』細江町1992

11 『可美村誌』可美村1985

12『三ケ日町史下』三ヶ日町1979

13『天竜市』天竜市1988

14 引佐町戦没者名鑑編集委員会『名鑑録』1974

15 『勇魂』浜松市白脇地区愛国の塔顕彰会1976

16 『舞阪町史中』舞阪町1996

17 『磐田地方の太平洋戦争』(『ながれ12号』)磐田商業高校郷土研究部1977

18 『浜岡町』浜岡町1975

19 『水窪町史上』水窪町1983

20 『雄踏町史英霊編』雄踏町1974

21 『富士宮市慰霊録』富士宮市遺族会2005

22 『浜北市内戦没者名簿』浜北市教育委員会1994

23 『緑伸びゆく』静岡県立浜松商業高校1998年、関係資料

24 『不朽の光』竜洋町遺族会1971

25 『いしずえ』豊田町郷友会1975

26 『舞阪町勲士録』舞阪町1981

27 『国のいしずえ』福田町遺族会1978

28 高橋廣治『昭和20(1945)519日中泉地域に於ける被爆記録』2003

29 『新居町英霊顕彰録』新居町英霊顕彰会1969

30 『戦争と三方原』三方原歴史文化保存会1994

31 『絣のもんぺ』静岡県退職婦人教師の会小笠支部1991

32 杉浦克己『艦砲射撃のもとで』1997

33 『戦争と新居』新居町教育委員会1997

34 飛行第14戦隊会『飛行第14戦隊戦記 北緯23度半』1994

35 「顕彰碑」1955 松林寺

36 「大東亜戦争忠魂碑」 1954 松林寺

37 「浜名海兵団戦没者慰霊碑」1978

38 「慰霊塔 1957 植松町第1公園

39 『磐田市戦没戦災死者霊位』磐田市1979

40 磐田市立磐田北小学校「人から人へ 時代から時代へ」1996

41 『豊川空襲全殉難者名鑑』八七会1989

●浜松・磐田等空襲死亡者名簿(略)

おわりに 

 ドイツのベルリンで街路に埋め込まれた小さな金属板をみた。人々に踏まれれば踏まれるほど輝きを増していくこの板には、強制収容所に送られて殺された人々の氏名・死亡地・生年・死亡年などが刻み込まれていた。街角にはさまざまなオブジェが置かれ、収容所跡にはさまざまなモニュメントがあった。それらは街頭での芸術表現でもあった。

 フランスのパリ郊外のドランシーは強制収容所への移送拠点であったが、その役場の内壁にはドイツ支配のなかでこの地域で殺された人々の名が記されていた。このような形で、抵抗組織に参加して殺害され、収容所に送られて死んだ市民の名が記され、継承されていた。

 ポーランドのワルシャワの墓地にはワルシャワ蜂起に参加して死亡した市民・兵士の墓があった。墓地には新しい白樺で組まれた十字があり、氏名の札がかけられ、キャンドルが置かれていた。その白樺の若木は精気を放つようだった。ソ連が解体してポーランド人はワルシャワ蜂起を自由に評価できるようになった。再建された旧市街の建物の各所に戦争死者を追悼する碑が埋め込まれていた。

 中国のハルビンにある日本軍731部隊展示館には、細菌戦部隊であった731部隊によって連行され生体実験などで殺された人々の名が展示されるようになった。それらは石版に刻まれ壁にはめられている。戦後50年を経て多くの氏名が判明し、遺族への調査もおこなわれるようになった。隠蔽されてきた歴史と部隊によって殺された人々の名が一部ではあるが、やっとあきらかにされたのである。

 市民の戦争死者を追悼するものとして印象に残っているものをあげると、このようなものがある。他にも多くの戦争死者を追悼する史跡がある。史跡は、史実を継承し、その失われた生の可能性に思いを馳せ、戦争と平和への問いを発するものである。戦争死の史実を明らかにし、平和にむけて追悼し運動をおこなう市民社会の強い力が、新たな戦争の時代を拒む力を形成していくと思う。死亡者名簿はこの力の基礎になるものであると思う。

死者の名前をあきらかにすることは戦争被害の実態調査においては重要な課題である。名前はその人の歴史につながり、その人に関わった多くの人々の歴史につながる。

戦争には様々な評価があり、ときには戦争を合理化する論理や宣伝が情緒的におこなわれる。しかし、戦争が平和と人道に反するものであり、そこに多くの市民の死があることは否定できない史実である。この史実の上にたって、殺戮を正当化することなく、戦争の原因を追及し、歴史認識をたかめていけば、人間の尊厳を大切にする平和な社会をつくっていくことができるだろう。 

このような文脈において、戦争死者の名簿は「平和の礎」となる。ここに示した名簿は不十分なものである。市民からの情報提供によってより正確な死亡者名簿を作りたいと思う。

 

参考文献一覧 

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「戦災死者及び遺族名簿」『偲ぶ草』浜松市戦災遺族会2000年所収

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「戦災ノ概況ト其ノ処理」『静岡県ニ於ケル最近ノ重要施策』静岡県19457月、『静岡県史』資料編20近現代5 1993 所収

『静岡県ノ戦災概況ト其ノ処理等ニ関スル書類』19457月、『静岡県史』資料編20近現代5所収

静岡県労政課「県下工場事業場空襲被害状況調」19455月、静岡県『地方長官会議綴』所収、静岡県庁蔵

米国戦略爆撃調査団報告書「24日本楽器製造」「81艦艇砲撃調査班報告 浜松地区」、「作戦任務報告書 任務178号」1945519日分抄訳、『静岡県史』資料編20近現代5所収

米国戦略爆撃調査団報告書「作戦任務報告書」「空襲損害評価報告書」「空襲目標フォルダー」「攻撃目標航空写真」「艦載機戦闘報告書」、(英文USSBS文書)国立国会図書館憲政資料室蔵

米国戦略爆撃調査団報告書 艦砲射撃調査隊報告「浜松地域1945年の調査」(英文)浜松市中央図書館蔵(写真類を除いた訳は『静岡県史』資料編20近現代5

米国戦略爆撃調査団報告書「作戦任務報告書 任務41号」1945311日分訳、西形久司訳・解題「米軍資料名古屋312空襲の作戦任務報告書」『東海近代史研究』21 1999年所収

米国戦略爆撃調査団報告書「作戦任務報告書 任務306310号」194581日分訳 中山伊佐男『ルメイ・最後の空襲 米軍資料に見る富山大空襲』桂書房1997 所収

米国戦略爆撃調査団報告書「作戦任務報告書 任務317号」194587日分訳 豊川市立図書館蔵

米軍撮影映像「爆撃後の静岡・浜松」(仮題)工藤洋三氏提供 静岡平和資料館をつくる会蔵

米国戦略爆撃調査団『太平洋戦争白書』(英文)日本図書センター1992年(第10巻「17中島飛行機」に浜松工場分、第12巻「24日本楽器製造」、第34巻「81艦砲射撃分析班報告書別冊B浜松」)

厚生省勤労局『朝鮮人労務者に関する調査』1946年静岡県分

『大空襲郷土撚ゆ 静岡県戦災の記録』静岡新聞社1975

「浜松が燃える」158中日新聞1981730日〜109

『磐田市戦没戦災死者霊位』磐田市1979

磐田市並びに近郊被爆地域図」磐田市立図書館蔵

『浜北市内戦没者名簿』浜北市教育委員会1994

「慰霊に関する語り部のしおり」浜松市戦災遺族会2005

『浜松戦災資料展』浜松戦災資料展1995

『輝くいなほはたの音』浜松市東部公民館1988

『袖紫ヶ森』浜松市蒲公民館1995

『楊子町誌』町誌編集委員会1995

『とみつか』浜松市富塚公民館2002

『汽笛ステーションまちこうば』浜松市南部公民館1991

『潮かおる浜の里』浜松市新津公民館1995

『水と光と緑のデルタ』浜松市南陽公民館1991

『平和への祈り』浜松市庄内地区戦時体験刊行会2000

『身近な人が語る戦時体験集』橋田の会1984

伊藤茂寿編『東町戦時体験文集』1998

『桜花百年』浜松市立吉野小学校創立百周年記念誌委員会1992

『水窪町史』上 水窪町1983

『豊岡村史』通史 豊岡村1995

『天竜市』天竜市1988

『豊田町誌』通史編 豊田町1996

『引佐町』引佐町1993

『舞阪町史』中 舞阪町1996

『新居町史』2通史編下 新居町1990

『雄踏町史』年表編 雄踏町1989

『雄踏町史』英霊編 雄踏町1974

『可美村誌』可美村1985

『三ケ日町史』下 三ヶ日町1979

『細江町史』通史編下 細江町1992

『龍山村』龍山村1980

『天竜市』天竜市1988

『福田町』福田町資料編X2000

『福田町の歴史』福田町2002

『浜岡町』浜岡町1975

『浅羽町史』通史編 浅羽町2000

『湖西市史総合年表』湖西市1994

『勇魂』浜松市白脇地区愛国の塔顕彰会1976

『豊川空襲全殉難者名鑑』八七会1989

『国のいしずえ』福田町遺族会1978

『新居町英霊顕彰録』新居町英霊顕彰会1969

『舞阪町勲士録』舞阪町1981

引佐町戦没者名鑑編集委員会『名鑑録』1974

『いしずえ』豊田町郷友会1975

『不朽の光』竜洋町遺族会1971

『富士宮市慰霊録』富士宮市遺族会2005

飛行第14戦隊会『飛行第14戦隊戦記 北緯23度半』1994

鈴木自動車工業『50年史』1970

日本楽器『社史』1977

『磐田地方の太平洋戦争』(『ながれ12号』)磐田商業高校郷土研究部1977

『緑伸びゆく』静岡県立浜松商業高校1998

磐田市立磐田北小学校「人から人へ 時代から時代へ」1996

高橋廣治『昭和20(1945)519日中泉地域に於ける被爆記録』2003

『戦争と三方原』三方原歴史文化保存会1994

『絣のもんぺ』静岡県退職婦人教師の会小笠支部1991

『戦争と新居』新居町教育委員会1997

杉浦克己『艦砲射撃のもとで』1997

『平和への誓い』静霊奉賛会1996

「顕彰碑」1955 松林寺

「大東亜戦争忠魂碑」 1954 松林寺

浜名海兵団戦没者慰霊碑1978

「慰霊塔 1957 植松町第1公園

『浜松市3』浜松市1980

『わたしの昭和時代1』樹海社 1980

神谷昌志編『目でみる浜松の昭和時代』国書刊行会1986

神谷昌志編『写真でつづる浜松市誌』国書刊行会1980

加藤幸男『浜松市民の木』1989

川合照子『遠い日記』1989

『浜松市民の80年』静岡新聞社1991

『戦争はいらない』元城校19年会 2005

『静岡市空襲体験画』静岡平和資料館をつくる会2003

『静岡・清水空襲の記録 2350余人へのレクイエム』静岡平和資料館をつくる会2005

平尾柾緒編『米軍が記録した日本空襲』草思社1995

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