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はじめに
一 軍事拠点・浜松の形成と空襲の歴史
三 浜松の軍需工場と空襲
四 米国戦略爆撃調査団資料の分析
五 浜松・磐田等空襲死亡者名簿
おわりに
参考文献
はじめに
アジア太平洋戦争末期、浜松地域は1944年末から1945年8月にかけて米軍による激しい空爆を受けた。浜松での死者数は3500人を超え、浜松をはじめ磐田など遠州各地での死者数は4000人を超えるとみられる。
ここでは、浜松の軍事基地がアジアへの派兵の拠点となり、軍需工場地帯が形成され、浜松が戦争の拠点となった歴史を記す。そのうえで、米軍による遠州各地への空爆の歴史を示し、浜松地域の軍需生産の実態についても記す。また、米国戦略爆撃調査団(USSBS)史料について紹介し、写真や地図などから当時の浜松の状況を示す。そして浜松・磐田などでの空襲による死亡者名簿を示し、空襲被害に実態についてあきらかにしたい。
空襲年表を作成することで、米軍による浜松など遠州各地への空襲は60回ほどあったことがわかった。
浜松磐田地区空襲死亡者名簿を作成し、浜松・磐田など県内西部での空襲死者3900人の氏名があきらかになった。ここには豊川海軍工廠での県西部地区出身者などの死者を含む。米兵死者や連行された朝鮮人の死者名も、判明したものはわずかだが入れた。この名簿を作成するうえで、不明の箇所は空欄にした。この名簿を基に多くの情報が寄せられれば、より正確な名簿を作成することができる。
「生命は宝」である。その尊厳の回復は、戦争死者名簿を作成し追悼することからはじまる。しかし
市民にとって、戦争の終結は失われた死者の氏名をあきらかにすることからはじまると思う。氏名や死亡地・死亡状況があきらかになることで、戦争によって失われた生命の多くの可能性に想いを馳せることができる。それによって歴史認識がたかめられ、人間の尊厳を大切にする平和な社会をつくることにつながっていくと思う。
2007年6月
(浜松大空襲から62年)
一 軍事拠点・浜松の形成と空襲の歴史
浜松地域は米軍による激しい攻撃を受けた。その理由は、浜松地域には陸軍航空基地などの軍事基地がおかれ、浜松の工場群が軍需生産の拠点となっていたからであり、また東海道の輸送線上に位置するとともに、本州の中央部で米軍機の侵攻ルートにもなったからである。
以下、浜松の軍事基地、軍需産業、浜松への空襲の経過、研究史、死亡者名簿作成の順にみていく。
● 軍事拠点・浜松の形成
浜松には歩兵連隊が置かれたが、軍の近代化のなかでその連隊は廃止された。1926年に陸軍航空基地がつくられ、立川から軽爆撃と重爆撃を任務とする飛行第七連隊が移駐した。その後の基地拡張工事も含め、工事には多くの朝鮮人労働者が動員された。この陸軍爆撃部隊の基地の設置は浜松を戦争と派兵の拠点にした。
満州侵略戦争が始まると、浜松から派兵された爆撃部隊はハルビン、遼東半島、ハイラルなど満州各地で抗日軍の拠点を攻撃し、1933年には万里の長城を越えて北京近くの密雲まで空爆した。当時の記録写真をみると、このころから無差別爆撃をおこなっていることがわかる。
1933年に設立された浜松陸軍飛行学校はイペリットや青酸ガスなどの毒ガス戦の研究訓練もおこなった。浜松陸軍飛行学校が主導して1938年には中国東北部のハイラルで、40年には白城子で航空毒ガス戦の訓練をしている。中国戦線では航空機による毒ガス投下が実戦でおこなわれたが、浜松は航空毒ガス戦の拠点でもあった。
アジア・太平洋地域での侵略戦争がすすむにつれ、浜松の爆撃部隊は各地に派兵された。1937年7月の中国での全面侵略戦争が始まると、浜松からは、飛行第5大隊(軽爆撃)、飛行第6大隊(重爆撃)、独立飛行第3中隊などが派兵された。これらの部隊は、飛行第31,60、98戦隊などに再編され、すでに派兵されていた部隊は飛行第12戦隊、第16戦隊などに再編され、中国各地で空爆を繰り返した。これらの浜松を出自とする飛行第12戦隊、飛行第60戦隊、飛行第98戦隊は海軍と共同して中国の重慶への無差別爆撃もおこなっていった。
アジア太平洋地域での戦争が始められると、東南アジア各地への空爆に参加し、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、さらにはインドまで空爆した。現地での空爆には浜松から派兵された部隊がかかわっていたのである。
1944年には航空毒ガス戦専門部隊として三方原教導飛行団が設立された。また陸軍飛行学校の実戦部隊への改編もおこなわれ、フィリピン戦にむけて「特攻」部隊も編成された。沖縄戦では陸軍空挺部隊による「特攻」作戦がおこなわれ、浜松で編成され重爆撃部隊が輸送を担った。このように浜松は爆撃・毒ガス戦・特攻戦の拠点となっていった。
さらに、新居には海軍の浜名海兵団も置かれ、戦争末期には、本土決戦用部隊が二俣線に沿って配置された。
●
軍需生産と浜松
日本楽器は早くからプロペラ生産をはじめて軍需生産を担った。戦争の拡大とともに、浜松の工場の多くが軍需生産を行なうようになり、中島飛行機浜松製作所、鈴木織機、浅野重工業、日本無線、遠州織機、国鉄工機部、石川鉄工、渥美鉄工、河合楽器、東洋木工、日東航空、日本銃砲製造、中島航空金属、三協機械などが軍需生産を担った。これらの軍需工場は下請けに多くの中小工場を持ち、浜松の中小工場が航空機部品や兵器などの軍需生産に組み込まれた。
鈴木織機をみると、中国での全面戦争によって鈴木織機の軍需工場化がすすみ、一部は兵器工場となり、高塚工場が新設され、武器生産が強化された。鈴木織機が生産した兵器は、各種榴弾、手榴弾、高射砲弾、迫撃砲弾、対戦車砲、機関砲、高射機関銃、照準器などだった。鈴木織機は1942年に陸軍、43年には海軍の管理工場となり、重要な軍需工場のひとつとされた。1945年に入ると二俣と金指へと地下を含めての疎開もはじめた。この鈴木織機へは朝鮮人が強制連行され、旋盤、鍛工、大工、運搬、雑役などの仕事を強いられた。
● 浜松地域への空襲
このように浜松地域は1930年代のはじめからアジアへの空爆の拠点となり、戦争の拡大とともに軍需生産地帯へとその姿を変えてきた。浜松が中小都市としては最大規模の空襲を受けた理由がここにある。さらにB29が名古屋や東京方面に向かうときの進入経路となったことも空爆を増やすことになった。
浜松での空襲の経過を概観してみよう。米軍資料によれば、東は袋井方面から西は豊橋豊川方面までを浜松地区として空爆を加えている。その意味では、浜松への空襲についてはこれらの地域全体への攻撃経過を分析すべきであるが、ここでは豊橋豊川地域は除き、浜松磐田など静岡県西部地域を中心に空襲の経過をみていきたい。
1944年11月27日、米軍機B29のうち7機が浜松地区を爆撃した。現地の記録から、投下先は磐田・湖西方面とみられる。このときB29の主要目標は東京の中島飛行機武蔵製作所だった。
12月13日にはB29
1945年1月3日には
2月1日には
2月15日にはB29
2月16日・17日にかけては浜松・三方原の陸軍航空基地への攻撃がF6Fヘルキャット(グラマン)、F4Uコルセア、TBMアベンジャー(雷撃機)などの空母艦載機によって行われた。攻撃は爆弾・ロケット弾・機銃などを使っておこなわれ、鈴木織機高塚工場、天竜飛行場、陸軍軍需廠二俣集積所なども攻撃された。艦載機はバンカーヒル、ホーネット、サラトガ、ワスプなどの空母から飛来した。
2月25日には東京市街を攻撃目標としたB29
3月4日にはB29が、
4月7日にはB29
4月30日には陸軍立川航空工廠を第一目標としたB29
5月3日には舞阪沿岸でPB4Yカタリナ飛行艇による輸送船への攻撃があり、5月10日には弁天鉄橋や新居海兵団へのB24による攻撃があった。5月18日には弁天鉄橋、列車への攻撃がPB4Yによっておこなわれた。
5月19日には立川飛行機・立川航空工廠などを主要目標とするB29
5月23日には東京市街を爆撃に向かったB29の一部
6月9日には
6月18日には
6月26日には名古屋造兵廠などの名古屋の工場を主要爆撃目標としたB29が浜松駅北の板屋・助信方面や舞阪も爆撃した。
7月1日には硫黄島の米軍基地からP51ムスタングが飛来し、
7月24日・25日・26日28日には艦載機F6F,F4Uによる浜松・三方原の航空基地や工場・鉄橋・鉄道などへの攻撃がおこなわれた。空母艦載機による攻撃は遠州各地におよび、24日には
このように軍事航空基地を攻撃した後の7月29日、米英艦による浜松への艦砲射撃がおこなわれた。29日夜からの艦砲射撃はサウスダコタ、インディアナなど8隻からおこなわれ、1時間ほどで約2000発を撃ち込んだ。目標は、工場としては浜松工機部、浅野重工、日本無線、日本楽器、鈴木織機、鈴木織機高塚、遠州織機、中島飛行機新居、運輸関係では浜松駅、天竜川鉄橋、弁天島鉄橋、軍事基地では天竜飛行場、弁天島砲台、浜名海兵団などであった。さらに7月30日にはF4U、TBM、SB2Cヘルダイバー(爆撃機)による三方原飛行場への攻撃が加えられ、さらに31日にTBMによる三方原飛行場への攻撃が加えられた。浜松北部の呉松、小笠の丹野などでは缶詰爆弾も投下され、死者が出ている。これらの攻撃による市民の死者は200人を超えた。
8月1日には富山・長岡を主要目標とするB29攻撃隊の1機
以上が浜松・磐田など遠州地域への空襲の経過である。
浜松の工場群は名古屋や東京の飛行機関連軍需工場の爆撃の際に関連して空爆の対象とされ、中小都市爆撃の際には浜松は大牟田・四日市・鹿児島とともに最初の空爆対象地になった。これらの米軍の攻撃による死亡者数は、豊川での県内出身の死者を含めれば4000人を超える。
● 浜松空襲の研究調査
つぎに浜松空襲についての戦後の研究調査についてみておこう。
浜松空襲・戦災を記録する会は浜松大空襲展をおこない、証言や記録などをまとめ、1973年に『浜松大空襲』の形で出版した。中日新聞はこれらの調査をふまえ、1981年に「浜松が燃える」を連載した。空襲体験を綴ったものとしては、川合照子『遠い日記』1989年がある。
行政は空襲死亡者の調査について取り組まなかったが、
また、さまざまな形で出された戦争体験記録、たとえば『身近な人が語る戦時体験集』橋田の会1984年、
浜松の軍事基地についての調査研究論文としては、矢田勝「浜松陸軍飛行第七連隊の設置と15年戦争」(『静岡県近代史研究』12・1986年)、村瀬隆彦「静岡県に関連した主要陸軍航空部隊の概要」(『同』18・19、1992・1993年)などが発表され、戦時下の軍事基地の動向の研究がすすんだ。さらに、2001年には浜松基地形成と市民の側の動向を分析した荒川章二『軍隊と地域』が出版された。また1990年代に出版された『静岡県史』にも記事や史料が収録されている。
米国戦略爆撃調査団の資料については、B29の作戦任務報告書のみならず、艦載機報告書、目標情報票、損害評価報告書、偵察写真などの分析がすすめられてきた。それにより米軍の作戦の実態と攻撃前後の地域の状況が具体的に明らかにできるようになった。
浜松への空襲についての米軍資料の分析については、
このように、戦後60年を経て、被害者の証言記録、名簿収集、米軍資料の分析、軍事基地研究などがまとめられ、総合的な分析が可能になってきたのである。
● 浜松・磐田等空襲死亡者名簿の作成
筆者は、浜松の航空基地からの1930年以後のアジア各地への爆撃と毒ガス戦という戦争加害をテーマに調査をすすめ、『静岡県近代史研究』に「浜松陸軍飛行学校と航空機毒ガス戦」「戦争の拠点・浜松(1)(2)」を記してきた。戦争史跡調査の一部は2005年に『浜松の戦争史跡』の形で出版した。さらに空襲の実態の解明のために米軍資料の収集もすすめ、軍需工場の実態についても調査をした。
この調査のなかで、戦争被害の実態の基礎資料として、浜松・磐田など遠州空襲関係死亡者名簿の作成をおこなった。調査によって1944年末から1945年にかけての浜松をはじめとする遠州各地への空襲が60派を超え、米軍の攻撃による死亡者数は3900人を超えることがわかった。
ここに示す名簿は、そのような空襲による浜松磐田など遠州地域での死亡者約3650人、豊川での県西部を中心とする死亡者約270人の計3920人ほどの空襲死亡者名簿である。この名簿では死亡月日や死亡場所などで不明の欄が多い。この名簿記載者以外にも数百人の死亡者が存在するとみられる。
今後、関係者からより多くの情報を得て、正確なものを作成したい。そしてこの名簿が、平和な社会に向けての基礎資料となることを願う。
どこの国が空爆を実行したにしても、それは空から爆弾を落とすことによる大量殺戮行為であり、空からのテロルにほかならない。米軍による浜松への空襲以前に、浜松の部隊による爆撃はアジアの多くの民衆の命を奪い、多くの負傷者をだした。この歴史的事実を踏まえて、浜松大空襲を捉え直し、その戦争犯罪についても論及すべきであろう。国境を越えて空襲被害者の願いは、空爆による死傷者を出さないということであり、再び戦争を繰り返さないということであるだろう。死者の名前を明らかにし、どこで誰がどのようにして死を強いられたのかを知り、ひとりひとりの奪われた生の可能性を想像していくことが、人間の尊厳への理解と平和への取り組みにつながっていくと思う。
人間の尊厳を大切にし、戦争を止めることができなかった歴史的責任を踏まえ、戦争の加害を再び起こさないという歴史認識と想像力を確立することが、戦争死者の名簿を前にして求められている。戦争死者の発生を繰り返してはならないし、浜松を再び戦争と派兵の拠点としてはならないと思う。
二 浜松・磐田空襲年表
三 浜松の軍需工場と空襲
●浜松の軍需工場の空襲被害
つぎに浜松地域での軍需生産と空襲被害についてみよう。
静岡県庁蔵・静岡県『地方長官会議綴』(1945年5月)には静岡県労政課「県下工場事業場空襲被害状況調」が収録されている。この史料から
この表は4月末までの被害状況を示すものだが、その後の、5月・6月の空襲と7月の艦砲射撃により、
●浜松地域での軍需生産の状況
つぎに浜松地域での軍需生産について、より具体的にみておこう。ここでみてきた静岡県労政課「県下工場事業場空襲被害状況調」に、「
浜松地域での軍需生産状況
●浜松空襲町別死亡者数
100人を超える死亡者が出た町は、鴨江、元城、砂山、寺島、馬込、東伊場、龍禅寺、楊子、海老塚などである。ほとんどが軍需工場近くの町である。
米軍の空爆は工場のみならず工場労働者・市民の居住地帯を狙った無差別爆撃だった。それにより3500人を超える市民が生命を失った。これらの爆撃は戦争犯罪として捉え返すべきである。
また、浜松から派兵された航空部隊はアジアで爆撃を繰り返している。重慶や蘭州等での無差別空爆をおこなった陸軍部隊は浜松からの部隊であった。浜松で空爆によって死を強いられた人々の姿をみるとともに、浜松から出撃した部隊によって殺されたアジアの人々の姿を想像することも求められる。
このような爆撃の原因と責任を問い、このような事態の再発を防ぐために歴史認識を確立し、市民による戦争への非協力・不服従の行動が積み重ねられていくべきであろう。
浜松空襲市内町別死亡者数・1945年
四 米国戦略爆撃調査団資料の分析
米国戦略爆撃調査団報告書のなかの浜松空襲関係史料
アメリカ国立公文書館には米国戦略爆撃調査団(USSBS)報告書が所蔵されている。この資料の一部はマイクロフイルムにコピーされ日本の国立国会図書館憲政資料室にある。憲政資料室ではこの調査団報告書の概要を記す文書(5米国戦略爆撃調査団資料目録)を仮訳している。この訳書から主なUSSBS史料文書の所在を知ることができる。この米国戦略爆撃調査団資料などの米軍資料の紹介記事が、空襲・戦災を記録する全国連絡会議『空襲通信』1 にあり、事前に読んでおくとわかりやすい。
米国戦略爆撃調査団の資料のなかには、47空襲目標分析・空襲目標システムフォルダー・地域別攻撃目標分析(請求番号UBS11に収録)、48空襲目標フォルダー(同)、53第20・21爆撃集団作戦任務報告書(USB05に収録)、55海軍海兵隊艦載機戦闘報告書(USB06に収録)、59空襲損害評価報告書(USB15に収録)、72空襲目標情報・航空写真(USB11に収録)などがあり、これらの資料は空襲調査にあたって重要なものである。
● 戦略爆撃調査団資料の静岡県関係の研究状況
この米国戦略爆撃調査団資料を使っての静岡県関係の研究状況についてみておこう。
戦略爆撃調査団資料の作戦任務報告書から日本空襲の概略を示したものに、小山仁示『米軍資料日本空襲の全容』があり、ここには県内での空襲についても記載されている。
浜松空襲に関係する作戦任務報告書については、「作戦任務報告書 任務41号」1945年3月11日分(西形久司訳・解題「米軍資料名古屋3・12空襲の作戦任務報告書」『東海近代史研究』21 )、「作戦任務報告書 任務178号」1945年5月19日分(『静岡県史』資料編20近現代5)、「作戦任務報告書 任務206~208号」1945年6月18日分(阿部聖「浜松空襲に関する米軍資料『作戦任務報告書』1945年6月18日大空襲」『遠江』29)、「作戦任務報告書 任務306~310号」1945年8月1日分(中山伊佐男『ルメイ・最後の空襲
米軍資料に見る富山大空襲』)、「作戦任務報告書 任務317号」1945年8月7日分訳(
この作戦任務報告書のなかには爆撃航程についての報告記事があり、爆撃先、機数、投下時刻、投下高度などが記されている。たとえば名古屋への空襲を見ると、第一目標は
『静岡県史』資料編20近現代5には「24日本楽器製造」「81艦艇砲撃調査班報告 浜松地区」も抄訳されているが、写真類は掲載されていない。艦砲射撃調査隊報告「浜松地域1945年の調査」のマイクロは
これらの米国戦略爆撃調査団資料を分析し、浜松空襲についてまとめたものが、阿部聖『米軍資料から見た浜松空襲』である。静岡平和資料館をつくる会編の『静岡・清水空襲の記録 2350余人へのレクイエム』も、調査団資料を利用して静岡への空襲状況をまとめている。静岡平和資料館をつくる会は米軍が撮影した映像「爆撃後の静岡・浜松」(仮題・工藤洋三氏提供)を所蔵している。
● 戦略爆撃調査団資料からみた浜松空襲
国会図書館にある米国戦略爆撃調査団資料のうち、浜松関連の文書については以下のものがある。
47空襲目標分析のマイクロ請求番号はUSB11であり、このUSB11のRoll 1(以下U11-R1と略記)には静岡、U11-R2、U11-R3には浜松関係の写真がある。浜松の情報票には豊橋基地や豊川海軍工廠の記事も含まれている。
48空襲目標フォルダーのU11-R4には静岡や浜松の空爆目標情報が含まれている。このフォルダーには空爆のために収集された地図や工場の写真が入っている。
53作戦任務報告書についてみれば、U05 -R3に4月30日、5月19日の浜松への空襲に関する報告書が入っている。6月18日の浜松空襲の報告書はU05-R5に入っている。
55海軍海兵隊艦載機戦闘報告書については地域別の索引があり、この索引から2月16~17日、7月15日、7月24~26日、7月28~31日の、静岡県での空母艦載機による攻撃の報告書を探すことができる。これらはUSB06-R3・6・11・13・14・18・23・24・27などに含まれている。
59損害評価報告書には空爆用のリトモザイク地図、目標情報表、作戦任務要約、爆撃写真、損害評価などの書類が含まれている。この報告書の浜松分の記事はU15-R9に
72空襲目標情報・航空写真には、USB11-R6に三方原、R7に天竜、浜松などの基地の写真がある。
つぎに、これらの資料から爆撃の経過や状況を示すものをいくつか紹介しよう。
米軍は対日航空戦において目標地域番号を使用した。そこにおいては日本を90、浜松を21とし、浜松地区は「90.21」の番号で示された。米軍の示す浜松地域は、西は岡崎・豊橋方面、東は袋井・掛川方面、北は長野県の平岡方面にかけての地域となっている。
目標情報票には、浜松が横浜・名古屋間で2番目に大きな都市であること、名古屋の工業地帯につながり、航空機部品の主要な工場があること、国鉄の3番目に大きな修理工場があることなどが記されている。
米軍爆撃集団の作った浜松の日本楽器を標的にした2マイルや2千フィート毎に円が描かれた地図が残されている。日本楽器の標的番号は1219である。2千フィート毎に円が描かれた地図には、日本楽器1219を中心に、三方原飛行場2670、浜松飛行場1222、鈴木式織機1227、西川鉄工(浅野重工)1229、国鉄工場1230、浜松駅・操車場1231、鈴木式織機高塚工場1929、中島飛行機浜松工場2012、日本楽器天竜工場2013などが記入されている。目標情報表には、これらの工場のほかに遠州織機、航空塗料工場、河合楽器工場、日本形染、浜松ガスなどの名もあげられている。浜名湖周辺の地図もあり、海兵団基地や工場が記入されている。
これらの資料からプロペラ生産をおこなっていた工場を中心に軍需工場と軍事基地が米軍の攻撃対象となっていることがわかる。
米軍が1945年4月に作成した
米軍1945年5月の爆撃後に浜松地域のモザイク写真を作成している。写真には三方原爆撃場・浜松基地から中島飛行機浜松工場、国鉄工場、日本楽器などの工場が映されている。
米軍はこのような爆撃地図とともに目標情報表を作成している。主要目標とされた日本楽器の表をみると、浜松駅を中心にした工場の位置を示す航空写真、工場写真があり、主要な航空機プロペラ製造工場であるという説明がある。
上空から撮った日本楽器や同天竜工場、中島飛行機浜松工場などの軍需工場の写真なども残されている。工場の建物には番号が振られ、工場の種類もこまかく記されている。
米軍は空爆の成果を評価するために、写真を撮影して損害図を作成している。市街地爆撃については4月30日、5月19日、6月18日の空襲の写真と損害図がある。このころ標的とされていたものは、日本楽器、日本楽器天竜、鈴木織機、鈴木織機高塚、国鉄浜松工場、中島飛行機浜松工場、河合楽器、浜松駅・機関区、帝国制帽、遠州織機、東洋紡、浅野重工、ガス・紡績・ゴム・塗料などの各工場であり、浜松・三方原の飛行場基地であった。
艦砲射撃については艦砲射撃調査隊報告に国鉄工場や鈴木織機など多くの工場の被害状況が記され、多数の写真がある。艦砲射撃で目標とされた場所は、報告書によれば日本楽器、鈴木織機、鈴木織機高塚、遠州織機、国鉄浜松工場、浜松駅・機関区、西川鉄工(浅野重工)、東洋紡、日本無線、浜名海兵団、中島飛行機新居工場、弁天島鉄橋、弁天島砲台、天竜川鉄橋、天竜飛行場などであった。空爆後に米軍が撮影した破壊された浜松の街並みの映像も残されている。
損害評価報告書には爆撃の状況を示す記述もある。たとえば4月30日の爆撃では
軍需工場だけではなく軍事飛行場も爆撃された。浜松基地への爆撃状況を示す写真が残っている。滑走路や基地建物に残る爆弾跡が示されている。艦載機による空襲もおこなわれ、2月16日のホーネットの艦載機による攻撃の際の基地の地図やバンカーヒルの艦載機による爆撃や航空機の疎開や掩体を示す写真がある。艦砲射撃調査隊報告には天竜飛行場の写真も含まれている。
以上、米軍関係資料について紹介した。米軍資料からは、浜松地域の当時の航空写真や軍需工場や軍事基地の被爆状況がわかる。筆者の未見の資料も数多くあり、今後の調査が求められる。
米軍による高高度からの航空機工場の爆撃は1944年11月頃から始まるが、1945年3月ころからは夜間に大都市を焼き尽くす空襲をおこなうようになる。さらに6月ころからは中小都市を焼き尽くす空襲が始まった。労働者の居住区を焼き尽くすための燃焼用の爆弾の開発もすすんだ。軍事目標への攻撃を口実にしての市民への夜間無差別の攻撃が準備されていった。
この攻撃は軍需工場を破壊するのみならず、そこで働く労働者とその居住区を破壊して戦争遂行能力を奪おうとする戦略爆撃であった。それは夜間の非戦闘員への無差別爆撃であり、戦争犯罪であった。
米軍の上空からの写真や分析報告からは地上に生活する人々の情愛や生命の輝きはみえてこない。そのような非人道的な爆撃は形を変えて今も続けられている。戦争被害者の地平から戦争と空爆に反対する思想を練りあげていくことが、今を生きるものの課題であると思う。
五 浜松・磐田等空襲死亡者名簿
●浜松空襲死者名簿を作成して
この名簿は浜松・磐田など遠州地域の空襲での死者約3900人分の名簿である。ここでは浜松を中心に新居から磐田にかけての地区を含めている。また、
浜松を中心に新居から磐田にかけては、陸軍の爆撃基地などの軍事基地、航空機関連などの軍需工場が集中していた。そのため浜松地域は、1944年末から1945年にかけて米軍による激しい空襲と艦砲射撃を受けた。それらの攻撃によって、浜松では3500人を超える市民が死を強いられた。また磐田方面でも200人を超える死者が出た。軍務者も含めれば、浜松地域(含む磐田)では4000人を越える空襲死者があったとみられる。軍人の死者で名前が判明したものは、米兵を含めて記載した。
史料1の
史料2の
なお、旧字体を現代の字体で表記した箇所がある。
史料1と2において、重複してはいるが名前や死亡月日において異なる記載があるときには、編者の判断でどちらかを記し、異なる表記については、註の欄に記した。1と2の史料の両方に記載されていた人数は、約800人であった。
史料3の「戦災死者及び遺族名簿」から史料1と2に欠落している死亡者名約600人分を抽出した。この史料には死亡年月日と死亡場所が記されていない。そのため今後の調査資料として、史料番号3のあとにたとえば「3砂山」というかたちで、史料に記されている遺族の居住地を記した。
これらの史料1・2・3を中心に名簿を編集し、さらに史料4以下から補充した。小笠・掛川・竜洋・福田・磐田・新居・舞阪などの空襲死者も収録した。
史料9は厚生省勤労局『朝鮮人労務者に関する調査』の静岡県分史料による。朝鮮人死者については日本通運に強制連行された1名が判明している。
豊川海軍工廠での死者については県西部出身者を採録し、静岡県出身者で出身市町村名が不明のものについては「戦後遺族住所」の欄に「県」と記した。
なお、表示において、たとえば、史料4-53は、史料4の53頁に記載事項があることを示す。
この名簿作成作業で、約3900人の氏名を確認することができた。ここでは豊川での静岡県出身者の死者から西部を中心に270人余を含めた。浜松・周辺各地の空襲関連での死亡者数だけで4000人を超えるとみられるが、多くの死者名が今も不明である。空襲による浜松基地関連の軍人の死亡者は不明のものが多い。
死者の名前を明らかにすることは、空襲被害の史実究明の第一歩である。名前を明らかにし、どこで誰がどのようにして死を強いられたのかを知り、ひとりひとりの奪われた生の可能性を想像していくことが、人間の尊厳への理解と平和への取り組みにつながっていくと思う。しかし、戦後、
すでに戦後60年を経てはいるが、この名簿をより正確なものにするところから、平和にむけての作業をはじめていきたいと思う。多くの市民からの情報提供を求めたい。
●名簿作成・典拠史料
1 |
2 |
3 「戦災死者及び遺族名簿」(『偲ぶ草 |
4 浜松空襲・戦災を記録する会『浜松大空襲』1973年 |
5 庄内地区戦時体験刊行会『平和への祈り』2000年 |
6 伊藤茂寿編『戦時体験文集』1998年 |
7 『浜松 わたしの昭和時代Ⅰ』樹海社1980年 |
8 「戦争はいらない」元城校19年会2005年 |
9 厚生省勤労局『朝鮮人労務者に関する調査』1946年静岡県分 |
10 |
11 『可美村誌』可美村1985年 |
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13 |
14 |
15 『勇魂 |
16 |
17 『磐田地方の太平洋戦争』(『ながれ12号』)磐田商業高校郷土研究部1977年 |
18 |
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21 |
22 |
23 『緑伸びゆく』静岡県立浜松商業高校1998年、関係資料 |
24 『不朽の光 |
25 『いしずえ |
26 |
27 『国のいしずえ |
28 高橋廣治『昭和20年(1945年)5月19日中泉地域に於ける被爆記録』2003年 |
29 |
30 『戦争と三方原』三方原歴史文化保存会1994年 |
31 『絣のもんぺ』静岡県退職婦人教師の会小笠支部1991年 |
32 杉浦克己『艦砲射撃のもとで』1997年 |
33 『戦争と新居 |
34 飛行第14戦隊会『飛行第14戦隊戦記 北緯23度半』1994年 |
35 「顕彰碑」1955年 松林寺 |
36 「大東亜戦争忠魂碑」 1954年 松林寺 |
37 「浜名海兵団戦没者慰霊碑」1978年 |
38 「慰霊塔 」1957年 植松町第1公園 |
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40 |
41 『豊川空襲全殉難者名鑑』八七会1989年 |
●浜松・磐田等空襲死亡者名簿(略)
おわりに
ドイツのベルリンで街路に埋め込まれた小さな金属板をみた。人々に踏まれれば踏まれるほど輝きを増していくこの板には、強制収容所に送られて殺された人々の氏名・死亡地・生年・死亡年などが刻み込まれていた。街角にはさまざまなオブジェが置かれ、収容所跡にはさまざまなモニュメントがあった。それらは街頭での芸術表現でもあった。
フランスのパリ郊外のドランシーは強制収容所への移送拠点であったが、その役場の内壁にはドイツ支配のなかでこの地域で殺された人々の名が記されていた。このような形で、抵抗組織に参加して殺害され、収容所に送られて死んだ市民の名が記され、継承されていた。
ポーランドのワルシャワの墓地にはワルシャワ蜂起に参加して死亡した市民・兵士の墓があった。墓地には新しい白樺で組まれた十字があり、氏名の札がかけられ、キャンドルが置かれていた。その白樺の若木は精気を放つようだった。ソ連が解体してポーランド人はワルシャワ蜂起を自由に評価できるようになった。再建された旧市街の建物の各所に戦争死者を追悼する碑が埋め込まれていた。
中国のハルビンにある日本軍731部隊展示館には、細菌戦部隊であった731部隊によって連行され生体実験などで殺された人々の名が展示されるようになった。それらは石版に刻まれ壁にはめられている。戦後50年を経て多くの氏名が判明し、遺族への調査もおこなわれるようになった。隠蔽されてきた歴史と部隊によって殺された人々の名が一部ではあるが、やっとあきらかにされたのである。
市民の戦争死者を追悼するものとして印象に残っているものをあげると、このようなものがある。他にも多くの戦争死者を追悼する史跡がある。史跡は、史実を継承し、その失われた生の可能性に思いを馳せ、戦争と平和への問いを発するものである。戦争死の史実を明らかにし、平和にむけて追悼し運動をおこなう市民社会の強い力が、新たな戦争の時代を拒む力を形成していくと思う。死亡者名簿はこの力の基礎になるものであると思う。
死者の名前をあきらかにすることは戦争被害の実態調査においては重要な課題である。名前はその人の歴史につながり、その人に関わった多くの人々の歴史につながる。
戦争には様々な評価があり、ときには戦争を合理化する論理や宣伝が情緒的におこなわれる。しかし、戦争が平和と人道に反するものであり、そこに多くの市民の死があることは否定できない史実である。この史実の上にたって、殺戮を正当化することなく、戦争の原因を追及し、歴史認識をたかめていけば、人間の尊厳を大切にする平和な社会をつくっていくことができるだろう。
このような文脈において、戦争死者の名簿は「平和の礎」となる。ここに示した名簿は不十分なものである。市民からの情報提供によってより正確な死亡者名簿を作りたいと思う。
参考文献一覧
『戦災死者調査表
「戦災死者及び遺族名簿」『偲ぶ草
『浜松大空襲』浜松空襲・戦災を記録する会1973
「旧
「旧浜名郡下空襲被災状況一覧表・警察署資料」『同上』所収
『特殊地下壕綴』1974~2005年、
「戦時災害ニ因ル弔慰金支給領収綴」1945年8月~46年3月(
「戦災ノ概況ト其ノ処理」『静岡県ニ於ケル最近ノ重要施策』静岡県1945年7月、『静岡県史』資料編20近現代5 1993年 所収
『静岡県ノ戦災概況ト其ノ処理等ニ関スル書類』1945年7月、『静岡県史』資料編20近現代5所収
静岡県労政課「県下工場事業場空襲被害状況調」1945年5月、静岡県『地方長官会議綴』所収、静岡県庁蔵
米国戦略爆撃調査団報告書「24日本楽器製造」「81艦艇砲撃調査班報告 浜松地区」、「作戦任務報告書 任務178号」1945年5月19日分抄訳、『静岡県史』資料編20近現代5所収
米国戦略爆撃調査団報告書「作戦任務報告書」「空襲損害評価報告書」「空襲目標フォルダー」「攻撃目標航空写真」「艦載機戦闘報告書」、(英文USSBS文書)国立国会図書館憲政資料室蔵
米国戦略爆撃調査団報告書 艦砲射撃調査隊報告「浜松地域1945年の調査」(英文)
米国戦略爆撃調査団報告書「作戦任務報告書 任務41号」1945年3月11日分訳、西形久司訳・解題「米軍資料名古屋3・12空襲の作戦任務報告書」『東海近代史研究』21 1999年所収
米国戦略爆撃調査団報告書「作戦任務報告書 任務306~310号」1945年8月1日分訳 中山伊佐男『ルメイ・最後の空襲 米軍資料に見る富山大空襲』桂書房1997年 所収
米国戦略爆撃調査団報告書「作戦任務報告書 任務317号」1945年8月7日分訳
米軍撮影映像「爆撃後の静岡・浜松」(仮題)工藤洋三氏提供 静岡平和資料館をつくる会蔵
米国戦略爆撃調査団『太平洋戦争白書』(英文)日本図書センター1992年(第10巻「17中島飛行機」に浜松工場分、第12巻「24日本楽器製造」、第34巻「81艦砲射撃分析班報告書別冊B浜松」)
厚生省勤労局『朝鮮人労務者に関する調査』1946年静岡県分
『大空襲郷土撚ゆ 静岡県戦災の記録』静岡新聞社1975年
「浜松が燃える」1~58中日新聞1981年7月30日~10月9日
「
「慰霊に関する語り部のしおり」
『浜松戦災資料展』浜松戦災資料展1995年
『輝くいなほはたの音
『袖紫ヶ森
『楊子町誌』町誌編集委員会1995年
『とみつ
『汽笛ステーションまちこうば
『潮かおる浜の里
『水と光と緑のデルタ
『平和への祈り
『身近な人が語る戦時体験集』橋田の会1984年
伊藤茂寿編
『桜花百年
『可美村誌』可美村1985年
『勇魂
『豊川空襲全殉難者名鑑』八七会1989年
『国のいしずえ
『いしずえ
『不朽の光
飛行第14戦隊会『飛行第14戦隊戦記 北緯23度半』1994年
鈴木自動車工業『50年史』1970年
日本楽器『社史』1977年
『磐田地方の太平洋戦争』(『ながれ12号』)磐田商業高校郷土研究部1977年
『緑伸びゆく』静岡県立浜松商業高校1998年
高橋廣治『昭和20年(1945年)5月19日中泉地域に於ける被爆記録』2003年
『戦争と三方原』三方原歴史文化保存会1994年
『絣のもんぺ』静岡県退職婦人教師の会小笠支部1991年
『戦争と新居
杉浦克己『艦砲射撃のもとで』1997年
『平和への誓い』静霊奉賛会1996年
「顕彰碑」1955年 松林寺
「大東亜戦争忠魂碑」 1954年 松林寺
「浜名海兵団戦没者慰霊碑」1978年
「慰霊塔 」1957年 植松町第1公園
『わたしの昭和時代1』樹海社 1980年
神谷昌志編『目でみる浜松の昭和時代』国書刊行会1986年
神谷昌志編『写真でつづる
加藤幸男
川合照子『遠い日記』1989年
『戦争はいらない』元城校19年会 2005年
『静岡・清水空襲の記録 2350余人へのレクイエム』静岡平和資料館をつくる会2005年
平尾柾緒編『米軍が記録した日本空襲』草思社1995年
『空襲通信』1~8 空襲・戦災を記録する全国連絡会議 1999~2006年
金子力「米軍資料紹介-国内飛行場への攻撃」春日井の戦争を記録する会1999年
奥住喜重『B‐29 64都市を焼く』揺籃社2006年
佐々木和子「名前を記す」『季刊戦争責任研究』49 日本の戦争責任資料センター2005年秋
今井清一「空襲・戦災記録運動と空襲研究の動向」『季刊戦争責任研究』50 2005年冬
星野ひろし「東京空襲遺族会の集団訴訟」『季刊戦争責任研究』53 2006年秋
神戸空襲を記録する会編『神戸大空襲』神戸新聞総合出版センター2005年
「神戸大空襲から61年 犠牲者746人の名簿初公開」『神戸新聞』2006年3月18日付
「戦後50年日本大空襲の全容」『中日新聞』1994年8月14日サンデー版特集記事
水谷鋼一・織田三乗『日本列島空襲戦災誌』東京新聞出版局1975年
荒川章二『軍隊と地域』青木書店2001年
枝村三郎『静岡県の空襲』2006年
阿部聖「艦砲射撃調査隊報告書『浜松地域(1945年)に関する調査』について」1~4(『遠江』24・26・27・28)2001・03・04・05年、「浜松空襲に関する米軍資料『作戦任務報告書』1945年6月18日大空襲」(『遠江』29)2006年
阿部聖『米軍資料から見た浜松空襲』あるむ2006年
小山仁示『米軍資料日本空襲の全容』東方出版1995年
静岡県近代史研究会編『史跡が語る静岡の15年戦争』青木書店1994年
矢田勝「浜松陸軍飛行第七連隊の設置と15年戦争」『静岡県近代史研究』12 1986年
村瀬隆彦「静岡県に関連した主要陸軍航空部隊の概要」『静岡県近代史研究』18・19 1992・1993年
竹内康人「浜松陸軍飛行学校と航空毒ガス戦」『静岡県近代史研究』28 2002年、「戦争の拠点・浜松(1)『満州』侵略と飛行第12大隊」同29 2003年、「戦争の拠点・浜松(2)中国侵略戦争と浜松陸軍航空爆撃隊」同30 2005年、『浜松の戦争史跡』人権平和浜松 2005年