立川の旅 04・4
●陸軍飛行第5連隊の成立
立川は東京都の中央にある。狭山池から多摩川へと流れる川が多くの土砂をもたらし、それが砂川の地名の由来となったという。五日市街道は多摩と東京を結び、この街道が通る立川は交通の拠点でもある。
ここに陸軍が飛行場を建設し、各務ヶ原で編成された飛行第5大隊(のちの第5連隊)が移駐してきた。1922年のことである。飛行場建設労働者の中には朝鮮人や中国人の姿もあったという。陸軍爆撃隊である飛行第7連隊はこの立川で編成されて1926年に浜松に来た。1926年には立川に飛行機の製作所(後の立川飛行機)ができた。1932年には立川から上海へと派兵された。飛行第5連隊の正門跡は、今は公園となっている。
侵略戦争が拡大されるなかで、1933年には立川の民間航空機部門は羽田へと移動し、立川は軍事のみの飛行場となった。同年天皇ヒロヒトが立川に来ている。その後陸軍航空技術研究所、陸軍航空工廠の建設や飛行場の拡張が行われ、周辺に日立航空機などの軍需工場が建設されていき、立川は陸軍航空と軍航空機生産工場が集中する軍都として成長していった。戦時下、立川飛行機の労働者総数は4万人ほどに膨らんでいったという。
軍都化により1940年には
飛行第5連隊は1938年には飛行第5戦隊となり、39年に柏に配備された。そして43年にはインドネシア・ニューギニア方面に派兵された。
陸軍航空技術研究所での研究内容については不明のものがおおい。浜松三方原にはその研究所の出張所がおかれていたが、そこでは空からの毒ガス投下の研究が行われていた。その内容は隠蔽されている。立川は戦争犯罪である毒ガス実戦使用を研究する中枢でもあった。
このような軍事拠点であるがゆえに1945年には米軍による空爆をうけた。山中坂の地蔵堂に示された42人の死者(うち子供が32人)のように多くの市民が命を失った。市民・軍による米軍捕虜の虐殺事件も起きた。軍都化は市民を皇民化し加害者・被害者としていく歴史でもあった。
山中坂の歌碑にある「あの悲しみは繰り返さない」という詩は立川の戦争後の民衆の想いであった。
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米軍基地化と砂川闘争
敗戦にともない米軍が立川を占領し、農地に無断でブルドーザーを入れて基地の拡張をすすめていった。米軍相手の女性たちが街に集まり、騒音やガソリンが井戸水に染み出すといった基地による環境破壊がすすんでいった。立川は横田とともに米軍の首都圏の拠点基地とされ拡張がすすんだ。
朝鮮戦争にともない兵士や兵器が立川を経由して輸送されていくようになった。立川は、今度は米軍によるアジア侵略の拠点となったのである。
1955年の滑走路の拡張計画はこのような米軍のアジア戦略の下でだされてきたのだった。しかしこの動きは立川の民衆とそれを支援する労働者・学生の反対行動によって阻止されていくことになる。
滑走路の拡張計画は五日市街道を分断するものであり、米軍基地拡張以来の生活と環境の破壊の中で苦しんできた民衆の団結を生んだ。55年には砂川町基地拡張反対同盟が農地を守り、街道の分断に反対し、滑走路延長による原子力戦争基地化に反対して結成された。地域民衆により生活環境を守り侵略の軍事拠点化を阻止する組織が形成された。その活動を総評が支援していった。第1次砂川闘争である。
権力による土地収用法による強制収用行動、非暴力不服従を柱とした阻止行動、労働組合や全学連の支援、条件派形成による運動の分断、リーダーの検挙・・、このたたかいのなかから「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」という抵抗のメッセージが発せられていった。運動の力によって測量は中止に追い込まれた。地裁段階での無罪判決の獲得は全国で高まった反基地運動の高揚を反映していた。地域民衆により、拡張予定国有地での自主耕作も行われていった
ヴェトナム戦争が拡大し防衛庁が自主耕作を禁止するなかで1966年から68年にかけて第2次砂川闘争がすすんだ。立川に反戦のテント村が作られたのはこのころである。この運動はヴェトナム反戦、反戦青年委員会の運動の起点となっていくものでもあった。この中で68年に米軍は基地の拡張の中止、翌年には立川からの撤退を表明した。立川基地の返還は77年のことだった。当時の米軍基地を示すものが今も立川に残っている。
この返還の背景には、すでに米空軍の横田基地が4000メートル滑走路をもつ拠点として形成されてきたことがある。立川を「返還」して自衛隊基地とし、横田防衛のための補完基地とする目論見があったといえよう。自衛隊移駐に対しては、市長が先頭にたっての反対デモをおこなうなどの反対運動が行われたが、1972年には自衛隊の移駐がはじまる。
このような「返還」の動きは、沖縄「返還」や東富士で演習場の米軍による管理を自衛隊側に移管しその上で米軍射撃訓練を継続していった動きと同様のものだった。
立川の基地は「防災」を前面に出し、横田基地を防衛するとともに首都圏での治安弾圧を主眼とし、さらにかつての陸軍航空拠点にあった研究機能を継承する基地群として再編されていった。また跡地が天皇ヒロヒトを賛美する公園として整備されていくことになる。
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立川での反軍・反基地運動
立川で自衛隊監視テント村が生まれたのは72年であった。活動の経過をみると、70年代には反軍放送、反戦広告塔設置、テント村通信の発行、砂川での反戦旗、80年代には新滑走路反対阻止行動、新事務所の設置、C1飛来反対デモ、天皇公園反対行動、90年代には砂川秋祭り、横田訴訟参加、自主耕作連絡会参加、官舎へのビラいれ、ビッグレスキュー反対行動などがある。2000年以降は新たにつくられる昭和天皇記念館建設の阻止やイラク反戦に取り組んできた。
軍都立川の歴史は80年に及ぶ。その中で地域運動は戦争と軍隊そのものに反対して兵士自身に呼びかけ、また天皇制にNO!という視点を持った運動を形成してきたのである。
ここでみてきたように立川での基地と民衆の歴史はけっして一地域の問題ではなく、陸軍航空基地、米軍基地、自衛隊・天皇公園の歴史の中で、反戦平和の思想と運動のあり方を問う、普遍的な問題提起がなされてきたといえるだろう。
2004年2月末におきた立川反戦ビラ検挙事件は、表現の自由、生存権にかかわるものである。今回の事件は、反戦の表現によって自衛官が「被害」を語り、反戦を語った行動が、犯罪とされ投獄されたものである。イラクへの侵略戦争を支持し派兵したものの戦争責任はまったく問われていない。2ヶ月にわたる拘束はまさに「良心の囚人」である。アメリカ大使館前での表現の自由への規制の具体的な事例を見れば、現状が平和への意思表示を許さないものであることがわかる。そのような規制や弾圧があることは権力の側の危機のあらわれでもある。
04年4月25日の立川での全国集会で「戦争に向かう動きを押しとどめましょう。(仲間をわたしたちの手元に取り返し)ぜひ一緒にかちましょう」とテント村のメンバーは語った。それはイラクでの戦争の占領と派兵の停止を求める全世界の人々につながるものでもある。
約50年前、「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」と人々は語った。権力は心に刻まれた反戦の思いを消すことはできないし、立川軍都80年の歴史の中で培われた反戦平和の水脈を絶つこともできないといえるだろう。立川の街を歩きながら、かつて映像でみたテント村の高く掲げられ風に揺れた数本の旗を思い出していた。人々が行動で示した平和の種は時空を越えて芽をだすものであると思う。 (