三菱財閥による強制連行・
           戦時労働奴隷制について

                             

はじめに

三菱財閥は三井財閥と並んで日本の帝国主義戦争を支えたコンツェルンである。三菱財閥の主要な生産は鉱業と重工業にあった。それらの現場には戦時下、数多くの朝鮮人・中国人が連行された。また、アジア各地での侵略戦争とそれによる占領地の拡大によって、三菱は各地で資源略奪に向けての事業をおこなった。そこでは現地の民衆が戦時動員された。

戦時下日本へと三菱財閥関連で連行された朝鮮人は一〇万人を超えるとみられる。アジア各地で三菱が動員した人々も数多い。連行先で死亡してもその連絡がないまま、遺骨が今も現地に残されているものもある。最近では、九州の三菱鯰田炭鉱、北海道の三菱美唄炭鉱での死者の未返還の遺骨が発見されている。連行状況や証言などからみて、連行された人びとは強制労働のなかにあった。その状況を労働奴隷制としてみていくこともできるだろう。

ここでは、三菱財閥による戦時下での強制連行・労働奴隷制について、その全般的特徴、三菱と戦争、連行者数、死亡者数、抵抗の順にみていきたい。

 

1 三菱財閥による強制労働の全般的特徴

 

戦時下の労働力不足にともない、三菱は、日本での鉱業・重工業の生産、地下工場建設において朝鮮人・中国人を連行して労働を強いた。三菱の石炭、銅などの鉱産資源と軍用機、軍艦などの兵器は戦争帝国日本をささえていた。

当時「大東亜共栄」の名により「アジア解放」にむけての「聖戦」が宣伝されていたが、その戦争のための生産現場は、アジア民衆への抑圧と搾取の場であった。連行者用の建物は美辞麗句で表現されていたが、実際は強制労働収容所であった。連行された人びとによる労働は戦時の奴隷労働であり、性的奴隷までも使っての労務管理がおこなわれた。

だが連行された人びとは、団結しての帰還、自由を求めての逃走、民族の独立を求めて地下組織を作るなどの、抵抗をすすめた。生存と解放へのたたかいがすすんだということができる。連行先では半数以上が現場から姿を消しているところも多い。

敗戦にともない企業側は連行関係資料の隠滅をおこなった。連行関係資料の多くが失われた。しかし、残存している資料・名簿から連行状況を知ることができる。連行企業は政府から朝鮮人・中国人を使用して損失を得たとして、戦後すぐに日本政府から補償金を得ている。

戦後五〇年をむかえる一九九〇年代に、連行された人びとは、被害者個人への賠償を要求し、国際法をふまえ、裁判などでその戦争犯罪を追及しはじめた。三菱関連では連行朝鮮人による三菱長崎造船、三菱広島、三菱名古屋女子勤労挺身隊などでの裁判があり、連行中国人関連の裁判にも三菱への連行者が含まれている。二〇〇三年には三菱高島・崎戸炭鉱へと連行された中国人が裁判を起こした。二〇〇四年には三菱槇峰鉱山へと連行された中国人が裁判を起こすという。

連行朝鮮人の裁判の中で三菱側は、認否を拒否して史実を認めず、「時効・除斥」により不法行為や賃金不払いを正当化し、国策や「別会社」を口実にいまもその責任をとろうとしない。日本の判決はそれに追随している。さらに最近では『強制連行はなかった』というキャンペーンが歴史改ざんをすすめるグループからおこなわれるようになった。

 戦争責任を回避しようとする国家・資本に対し、民衆が人間の尊厳の確立をめざし、史実を確定することで、平和な社会と歴史を自らの側に獲得できる。

強制連行され強制労働の中で生命を失った人々は数多い。アジア民衆の共同作業によって、戦時での労働奴隷の連行状況、死亡者、抵抗状況などの実態が解明され、それらが史料とともに明示される必要がある。その作業によって連行した企業側の社会的責任もいっそうあきらかになるだろう。

つぎに、三菱財閥の戦争との関係を示し、そのうえで、三菱による連行者数の具体的状況、死亡者の状況、抵抗の順にみていきたい。

 

2 三菱と侵略戦争

 

三菱は一八七四年の日本による台湾侵略で武器兵員を輸送し、一八七五年の江華島事件の際にも兵員を輸送した。一八八〇年代には政府から長崎造船の経営権を獲得し、高島・鯰田といった九州の炭鉱の経営を行っていった。一八九〇年代には軍艦の建造をはじめ、佐渡や生野の鉱山の経営権を政府から譲り受けた。

一九一一年には朝鮮の兼二浦で経営をはじめ、一九一〇年代には美唄や大夕張などの北海道の炭鉱経営に入った。このような事業の拡大の中で一九一八年に三菱鉱業が設立された。三菱系炭鉱では早くから朝鮮人を使用した。一九一七年には美唄・高島・上山田で使用しはじめている。兵器生産の面では、神戸造船で潜水艦の建造を始め、長崎兵器で魚雷生産を始めた。一九二〇年代にはサハリン南部での石炭開発をすすめていった。一九二八年には三菱航空機が設立され、日本の軍用機の主要生産企業となっていった。

一九三〇年代には朝鮮各地で鉱山開発に入る。一九三四年には造船と航空機部門が合体して、三菱重工が成立した。三菱長崎で軍艦、三菱名古屋で軍用機、三菱東京では戦車が製造された。中国東北に三菱機器工場、台湾での船渠などの建設がすすんだ。

アジア太平洋での戦争の拡大とともに三菱は各地で資源を収奪し現地民衆を酷使した。国内の他の資本下にある鉱山などを自己の資本下に組み込みながら、一九四〇年代前半、軍需用に製鋼・東京金属・三原車両・名古屋発動機・水島航空機・川崎機器・広島造船機械・京都発動機・静岡発動機・熊本航空機・名古屋機器・茨城機器・三菱化成の工場がつぎつぎと建設された。建設・工場労働・地下工場建設に朝鮮人の連行が判明している箇所も数多い。

三菱重工の資本金は一九三四年に五五〇〇万円であったが一九四五年には一〇億円となっている。軍需に対応し国家と結合した巨大な独占資本となったのである。一九四二年に造船統制会が設立されたが、その会長は三菱から出た。鉱業部門をみると、三菱の戦時下の石炭生産は年七〇〇万トンを超えるようになり、全国生産比の一四パーセントほどとなった。

このように三菱は日本の侵略戦争の拡大とともにその資本を成長させていった。

三菱の鉱業と重工業は日本帝国主義の戦争遂行になくてはならないものであった。その資本の意思は国策形成の一翼となり、朝鮮や中国から民衆を連行して奴隷労働を強いていくことになる。三菱の生産は連行された人々やアジア各地での資源収奪の現場での強制労働によってささえられていた。これらの現場での抵抗は三菱資本のみならず戦争をすすめる国家の根底を揺るがすものでもあった。

 

 3 三菱への朝鮮人連行の状況

 

 

@三菱の鉱業への朝鮮人連行者数

朝鮮人が連行された三菱系の炭鉱・鉱山をあげると、炭鉱では九州の新入・方城・鯰田・上山田・飯塚・勝田・高島・崎戸、北海道の大夕張・美唄・茂尻・雄別・尺別・浦幌など、鉱山では佐渡、生野,明延、中瀬、尾平、槇峰、細倉、手稲、新下川などがある。

一九四六年に政府厚生省は供託金の関係で朝鮮人の名簿の提出を各県に指示している。この名簿の一部は残存している(「朝鮮人労務者に関する調査」)。これらの朝鮮人名簿から、以下の三菱系の鉱山・炭鉱への連行がわかる。名簿には氏名・本籍地が記されているものが多い。

兵庫の生野鉱山の名簿をみると一三四〇人分(三九〜四五年)がある。この名簿は全連行者を示すものとみられる。一三四〇人中八二三人が逃亡している。死亡者は一六人。連行当初は慶南山清、昌寧、陝川、咸安、忠南洪城、公州などからの連行であった。四四年には京畿龍仁、安城からの連行となり、四五年には江原寧越から連行している。

兵庫の明延鉱山については八九八人分(四二〜四五年)がある。明延には協和会の史料によれば四二年六月までに約五〇〇人が連行されている。名簿の人員にこの初期の連行者数を加えると約一四〇〇人となる。逃走は五二二人(内解放前の逃走は四二五人)であり、生野と同様に半数以上が逃亡して自由を求めていることがわかる。死亡は七人となっている。  

兵庫の中瀬鉱山一八一人分(四四〜四五年)の名簿もある。この内逃走は七〇人である。中瀬鉱山については「健康保険厚生年金保険・被保険者資格喪失届」が発見されていて、これによっても氏名がわかる。

宮城の細倉鉱山の名簿をみると、鉱山側による統計では九三二人分、内逃亡五八二人・死亡九人とあるが、名簿でその数を数えると九六三人分、内逃亡五二七人・死亡九人となる。はじめは全北任実、その後は慶北軍威、英陽、安東などからの連行が多いが、四四年九月からは江原寧越、春川からの連行がおこなわれた。

 秋田の尾去沢鉱山の名簿には六八二人分(四四年〜四五年)がある。名簿は官斡旋・徴用分のみであり、京畿富川、加平、金浦、利川、楊平、広州などから連行している。この名簿は連行者の一部を示すものである。解放後、朝鮮人連盟と尾去沢鉱山側とでかわされた「給与金」についての「覚書」が残っている。尾去沢鉱山内伊藤組の三四人分の名簿もある。

秋田の小真木鉱山一六五人分も四四年から四五年にかけてのものであり、京畿水原、安城、高陽などからの連行がわかる。

炭鉱については、福岡の鯰田炭鉱三〇五一人分がある。鯰田へは、全北益山、金提、扶安,井邑、淳昌、全南求礼,慶北尚州、忠北報恩、京畿驪州、利川、竜仁、楊州、江原楊口、江陵、麟蹄、黄海殷栗などからの連行が多い。逃亡は一四二一人、死亡者は五三人である。連行者千人ほどが欠落しているとみられるが、炭鉱への連行状況が最もよくわかる名簿である。鯰田分の連行状況については、厚生省勤労局調査名簿から連行状況を分析したものを表で示しておくので参照してほしい。

 長崎の高島炭鉱については一二九九人分(一九四五年の現在員のもの)がある。死亡者や逃走者は含まれていない。名簿には未払い金の表があり、一二九九人分、約二二万五千円が未払いとなっていることがわかる。高島(高島坑・端島坑)への連行者は四千人ちかいとみられる。

 長崎の崎戸炭鉱約二八九九人分(ほかに通帳名簿が五三九人分)も残されている。

高島(端島分)と崎戸については埋火葬関係書類が発見され、連行期の死亡者の一端が明らかになっている。

 ここでみてきた厚生省名簿以外からも連行状況が明らかになっている。

佐渡鉱山へは一二〇〇人が連行された。連行地は忠南が中心であり、全北からも連行された。四五年には佐渡から二一九人が福島(中島飛行機地下工場建設)、一八九人が埼玉の地下工場建設へと転送されている。

香川の三菱直島精錬所については保険者名簿から一三一人分の氏名がわかっている。また連行状況が『募集日誌』からわかる。

大日本産業報国会が作成した『殉職産業人名簿』からは一九四〇年から四二年にかけての労災死者の一部を知ることができる。

伊豆でボーキサイト代替鉱として採掘された明礬石の鉱山に、名古屋三菱から朝鮮人が転送されたケースもある。この伊豆の明礬石鉱山には中国人も連行されている。

ここで、三菱の炭鉱で最も多くの死亡者を出している北海道石狩炭田の美唄炭鉱についてみておきたい。三菱美唄炭鉱には一九四二年六月までに二一五〇人が連行され、一九四五年六月現在で二八一七人が在籍している。連行状況から、三菱美唄への連行者は六千人ほどとみられる。なお美唄には三井の美唄炭鉱もあった。

美唄の死亡者については埋火葬関係書類から転記した名簿が残されている。この資料は整理されて、白戸仁康「美唄町朝鮮人死亡者名簿」として『戦時外国人強制連行関係資料集』V朝鮮人2上に収録されている。転記され残存している埋火葬死亡者名簿を参照することで、三菱関係者を拾い上げることができる。三菱関連の死亡者数は二七〇人ほどとなる。四四年五月の事故の朝鮮人死亡者は七〇人に及ぶ。美唄炭鉱には鉄道工業、黒田組、地崎組などが坑内下請の形で入り、そこにも連行朝鮮人がいたことがわかる。これらの組での労働は監獄部屋(タコ部屋)に監禁されての奴隷労働であり、死後遺骨が放置されたものもある。最近札幌で発見された未帰還の遺骨の一部はこのような下請けの組のものであった。

三菱系の鉱山炭鉱には、北海道をみると、鉄道工業、原田組、黒田組,団組、地崎組、松村組、井出組、土屋組などが坑道工事を請け負っていた。その中にも連行朝鮮人がいたのである。

石狩炭田にある三菱大夕張にも四千人ほどが連行されたとみられる。三菱系の雄別炭鉱にも数千人が連行されている。

 三菱系の大きな炭鉱は一〇数箇所におよぶ。そこには三千〜四千人の規模で朝鮮人が連行されている。このような連行状況から三菱の炭鉱へは約五万人の朝鮮人が連行されたとみられる。これに鉱山への連行者を加えると三菱鉱業への連行者数は六万人近くなると推定できる。

 

A三菱重工(造船・飛行機・兵器工場)への朝鮮人連行

 

長崎造船へは厚生省名簿の長崎県分の表によれば、一九四四年に三四七四人、四五年に二五〇一人の計五九七五人が連行された。この長崎造船への連行者については数値のみがわかっている。「長崎市朝鮮人被爆者一覧表」からは、長崎造船・福田寮への黄海道長渕などからの連行者約八〇人分の氏名がわかる。また三菱徴用工生存者同志会の金順吉作成名簿から釜山からの連行者の一部がわかる。長崎の三菱の原爆碑にも十数人の氏名が刻まれている。

長崎製鋼への連行者については一四三人分がある。名簿によれば四五年慶北迎日(浦項市)からの連行者のうち二九人が配置前に逃亡した。長崎電機への連行があったこともわかる。

原爆で全滅した長崎兵器には朝鮮人女子勤労挺身隊が連行されていたといわれるが、その資料は発見されていない。

名古屋三菱(航空機生産)にも連行されていたが、連行者の数の詳細は不明である。一二歳から一四歳ほどの朝鮮少女が連行されたのは道徳工場である。裁判によって連行者の一部が判明している。当時の地震での死亡者の氏名もわかっている。

広島の造船・機械工場へは約二八〇〇人が連行された。広島については裁判の中で、供託名簿(京畿平沢一〇人分)、広島東社会保険所での年金加入者の確認(三二人)などが確認されている。供託は一九四八年九月に一九五一人分がなされたという。一九四六年にソウルの太占寺で二四六人分の慰霊祭がもたれたという。このときの資料や同志会などの名簿から連行者名簿を作成することができるだろう。

神戸の造船工場への連行については厚生省名簿に一九九六人分がある。これは四四年九月・一〇月のものであり、内逃亡は六二七人、死亡一二人、出身が北の平南中和・江西・順川・江東・大同・龍岡・平壌などであることがわかる。証言ではこの名簿に記された時期以外にも連行があったとするものがあり、この名簿は連行者の一部とみられる。連行者数は三千人をこえたのではないか。

山口の彦島、北九州の若松、横浜にも三菱の造船工場があった。正確な連行数は不明である。アメリカでの訴訟の原告には三菱横浜造船へと連行された者がいる。

北九州の三菱化成牧山、化成黒崎工場、兵庫の三菱電機伊丹、化成伊保工場については厚生省名簿がある。牧山は全北完州・沃溝八五人分、黒崎は本籍不明四二七人分である。黒崎の場合逃亡が二六三人と多い。伊丹は全北錦山中心の七六人分(内徴用は五〇人・逃亡は四人)、伊保は京畿富川などの四八人分(内逃走は一〇人)であり、氏名がわかる。これらは四四年から四五年にかけての連行者の名簿である。

ほかに川崎機器、京都発動機(知事引継書に二二七人の在籍・四五年六月)、富山疎開工場などへの連行が明らかになっている。

重化学工業関連での連行者は、長崎六千、神戸三千、広島三千、その他の造船工場、化成・電機、飛行機工場などを入れれば、連行者数は二万人近かったのではないかと考える。

工場建設にもたくさんの朝鮮人が動員されている。名古屋重工整地工事、長崎兵器大橋工場建設、水島航空機工場建設では、大林組によって四二年六月までにそれぞれ二一四人、一七七人、一三六人が現場に連行されている。長崎造船のドッグ掘削や熊本の健軍航空機建設でも連行されたとの調査報告がある。福島の製鋼広田工場建設にも動員されていた。

戦争が継続し、米軍による日本各地への空襲がはじまるようになると、主要軍需工場の地下工場化がすすむ。三菱の軍需工場の移転もすすめられていった。当時この地下工場建設を多くの土建資本が請け負った。地下工場建設は国策としてすすめられ、大規模な地下工場建設には二千〜三千人という数の朝鮮人が動員された。

三菱の長崎、熊本、広島、倉敷、名古屋、横浜などの工場では大規模な地下工場化がすすみ、特に、名古屋の飛行機工場を中心とする三菱の工場群の疎開・地下工場化は近県の岐阜、富山、長野県にまで及ぶものであった。厚生省名簿資料から、名古屋の三菱重工の長野仁古田地下工場工事に約千人(西松組・戸田組・丸木組)、里山辺工事に約六〇〇人(熊谷組)が連行されていたことがわかるが、実際にはそれぞれ三千人ほどが動員・連行されていたとみられる。また三菱重工長野建設部が組織され、そこにも連行朝鮮人が配置されていたことがわかる。愛知の楽田、岐阜の久々利,平牧にも三菱発動機関連の巨大な地下工場が建設され朝鮮人が連行された。 

これらの工事への朝鮮人の動員数は数万人規模であり、それらの現場にも連行された朝鮮人がいたのである。

なお、三菱は炭鉱からの石炭を港に運び輸送した。そのための輸送・倉庫・港湾労働を多くの労働者が担った。そこにも朝鮮人が多く含まれていた。戦時下港湾業の統制によって各港湾で現地の有力企業を中心に港湾業が再編された。室蘭、神戸、東京、大阪ほかの主要港湾には連行された朝鮮人・中国人の姿があった。かれらは三菱の貨物も運送したとみられる。室蘭の調査では連行者による運送が明らかにされている。

朝鮮人女性が「慰安婦」として性的奴隷されていたところもある。美唄・大夕張・方城・高島・崎戸ほか炭鉱の多くがそのような施設を持ち、熊本の健軍工場建設工事にも「慰安所」があったという。

ここでみてきたように、炭鉱鉱山での約六万、重工業での約二万、地下工場建設での数万人の数字から、三菱関連での朝鮮人連行者数を約十万人と推定したい。それは日本本土での労務関係の連行朝鮮人の一割ほどになる。

 

B 三菱鉱業への中国人連行

 

三菱への中国人連行についてみてみよう。

外務省報告書の数値によれば、炭鉱では、美唄二八九人〔内死亡二九〕、美唄鉄道工業四一五人〔死亡九〇〕、大夕張二九二人〔死亡八五〕、大夕張地崎組三八八人〔死亡一四八〕、雄別土屋組二五三人〔死亡五人〕、勝田三五二人〔死亡八七〕、飯塚一八九人〔死亡二〇〕、高島端島坑二〇四人〔死亡一五〕、高島新坑二〇五人〔死亡一五〕、崎戸四三六人〔死亡六四〕、鉱山では尾去沢四九八人(死亡八三)、槇峰二四四人〔死亡七〇〕におよぶ中国人が連行され死亡している。

この数値によれば三菱の鉱業部門への中国人連行者数は計三七六五人となり、そのうち七一一人が死亡している。愛知の三菱大府飛行場拡張、長野の里山辺と岐阜の川辺での三菱地下工場建設にも中国人を連行している。神戸の造船所へも港湾に連行された中国人が派遣されている。三菱財閥関連での中国人連行者数は四千人を超え、連行中国人総数の一割以上になる。戦後、三菱鉱業は政府からこれらの連行によっての「損失」補償金約二百八十七万円を獲得している。

また植民地であった台湾から少年工が高座海軍工廠に連行され、そのうちの一部が名古屋三菱工場(大江・道徳)に転送されている。連合軍捕虜も連行され、三菱の細倉鉱山,尾去沢鉱山、生野鉱山、明延鉱山、神戸造船、長崎造船、横浜・神戸の三菱倉庫での労働を強いられた。

 

4 侵略戦争とアジア各地での三菱の事業の拡大

 

三菱は侵略戦争の拡大とともにアジア各地へと侵出した。

朝鮮半島での三菱の鉱業は、金提、青岩,佑益、海州、蓮花、月田、花田里、宝生、三光、鉄嶺、甘徳、大同、大宝、茂山,下聖等の鉱山や朝鮮無煙炭,清津精錬、兼二浦製鉄などでおこなわれた。一九三〇年代に活発になったこれらの鉱業への現地での動員状況は不明である。

サハリンでは南樺太炭鉱鉄道を支配し、内幌、塔路、北小沢の炭鉱を所有した。サハリンへと連行された朝鮮人は一万人以上であり、三菱系への連行は下請現場に動員された朝鮮人も含めると二千人を超える。戦争末期には三菱系の炭鉱から約千人が九州へと転送された。

中国では石咀子、八面通、招遠,南支第一の鉱山、太文口、准南、新泰の炭鉱などを支配した。日本アルミニウム高雄工場を建設し、台湾や江南の造船所も所有した。

戦争の拡大とともに東南アジアへと侵出した。シンガポールに事務所をおき、昭南造船を設立、タイのコブケブ鉱山[]、インドネシアのロガス炭鉱、チンブルン鉱山、バンカ鉱山、パレンバン・パリクパバンの石油、ビルマのタボイ鉱山[タングステン]、マレーのバトアランの炭鉱・耐火煉瓦,フィリピンのバラカレ鉱山、マランガス・ブララカオ・マナトの炭鉱、サンマウリシオの銅・亜鉛、ミネラルリゾーセズ鉱山、マリタオ鉱山などを開発し、軍の支配化で収奪をすすめ、現地の労働者を酷使した。収奪した資源の輸送にも多くの労働者が動員された。

 

5 三菱関連の連行朝鮮人死亡者数について

 

つぎに三菱関連の事業所での朝鮮人死亡者についてみてみよう。

福岡の炭鉱については福岡県「労務動員計画ニ依ル労務者事業場別調査表」に一九四四年一月までの死者数が記されている。それによれば、新入二〇、鯰田二七、方城二〇、上山田四四、飯塚十一、勝田一二となる。鯰田については厚生省名簿から五三人分の死者の氏名がわかるが一九四四年までに四三人が死亡している。この例から、この福岡県の報告がかならずしも正確ではないことがわかる。鯰田の名簿は不十分なものであり、死亡者の数はさらに多いとみられる。貝島資本の大之浦炭鉱へは約一万人が連行されているが、一〇五人分の死亡者名が明らかになっている。

このような死者の状況から、三千から四千人の規模の連行があった筑豊の三菱系炭鉱での死者は、ひとつの炭鉱で五〇人以上存在したとみていいだろう。そのうち死者の氏名が一定数わかっているのは、鯰田の五三人、方城の四七人分のみであり、上山田関連とみられる万霊塔には子どもを含めて五〇人余の名前がある。福岡のほかの三菱系炭鉱については、わずかな数がわかるだけである。福岡の三菱系炭鉱での死亡者数は三〇〇人を超えるであろう。

なかには死後も遺骨が返還されなかったものがある。戦後調査され韓国へと返還されていった遺骨もあるが、氏名は不明である。飯塚市内の寺院に放棄されていた遺骨を安置する追悼堂(無窮花堂)が建設されるなかで、三菱鯰田の名簿から遺族の連絡先がわかり、最近になって返還されたケースもある。

長崎の高島〔端島坑〕、崎戸の炭鉱については埋火葬関係書類から死亡者の一部があきらかになっている。三菱崎戸では中国人が抵抗、二七人が検挙され刑務所で被爆死している。

北海道の美唄については死亡者のほぼすべての約二七〇人分、大夕張については数名のみ、茂尻については殉職者名簿や赤平市史などから三五人分、雄別については四一〜四二年分で十八人分があきらかになっている。北海道での三菱系の炭鉱での連行期の死者は五〇〇人を超えるのではないか。解放後放置された遺骨もある。

残存資料から、鉱山では、生野、明延、中瀬、佐渡、尾平、槇峰、細倉、尾去沢などでの死亡者約五〇人の名前・連絡先がわかる。これらは死者の一部を示すものである。

工場関係では長崎・広島で原爆被害を受けている。そのほかの事業所でも死者は多いとみられるが、その詳細は不明である。

 

 連行された人々の抵抗

 

 ここで連行された人々による抵抗についてみておこう。鉱山炭鉱関係でいえば、厚生省名簿で鯰田、生野、明延、細倉の連行状況と逃走の状況がわかる。これらの名簿では、連行者の五割以上が逃走しているケースが多い。

炭鉱では事故や虐待による死亡が多く、生死をかけて逃亡を試みるケースが多かった。この生産現場からの離脱は戦争遂行力の低下に結びついた。

 連行された人びとを含めての争議や独立運動も各地で起きていった。北海道の例を中心にみてみよう。

 朝鮮人連行は、一九三九年五月に石炭鉱業連合会が連行を求め、六月には北海道石炭鉱業会が三菱九〇〇人、北炭・三井二八〇〇人ほか、計五八一〇人分の「集団移入」を厚生省に求め、七月には労務動員実施計画綱領が策定されてすすめられた。連行労働者の統制・監視のための協和会の組織化もすすめられた。九月末に忠北道庁が茂尻二〇〇人、慶北道庁が美唄七〇〇人、大夕張二五〇人、雄別の千人の連行を承認、一〇月に入り各炭鉱・鉱山へと連行されていった。

 連行された人びとはすぐに抵抗している。一〇月末、手稲鉱山でスト・帰国要求、美唄で入坑拒否、十一月手稲で労災死を契機に抗議行動、一二月には雄別浦幌で改善要求スト、一九四〇年一月には美唄で就労拒否、待遇改善要求、落盤死に対しスト、二月には殴打に抗議してスト、三月には大夕張で殴打抗議・労務係更迭要求ストなどが続いて起きている。

 炭鉱側は四〇年九月末、大夕張に「慰安所」をつくり一二人の朝鮮女性を連行している。このような「慰安所」が各地の炭鉱に設立されていった。二年が経過した四一年には「定着奨励」の名による継続が強要され、皇民化が一層強化された。

 炭鉱下請企業に連行された朝鮮人の抵抗も強まっている。たとえば、四二年三月には美唄鉄道工業団組で殴打を契機に逃走計画、八月に雄別鉄道工業で殴打に抗議、一〇月茂尻土屋組で契約違反に対し改善要求サボというように、暴力的管理や劣悪な労働生活環境に対して抵抗していったことがわかる。

 朝鮮人が大量に連行されていた夕張地区の炭鉱を中心に組織的独立運動も展開された。活動の中心となったのは、三菱大夕張井出組に連行された集団とともに渡日した安在浩(平山昌成)であった。かれは四三年一〇月に検挙されるが十一月取り調べ中に逃亡、十一月に天塩で再検挙された。かつては元山で活動し、井出組連行者の通訳として紹介され大夕張に来ている。かれは井出組の朝鮮人や大夕張の連行者寮の通訳、朝鮮料理屋(星の家)の支配人などを組織、そこを拠点にし、夕張地区に抵抗組織を広げ、北炭夕張の南亭の営業主や夕張炭鉱の通訳を仲間にしていった。さらに札幌などで朝鮮料理店を経営し息子が独立運動にかかわっていた孫邦柱と連携し、砂川、美唄、幾春別にも組織を拡げていったという。権力は組織的朝鮮独立運動とみなして、四三年から四四年にかけて関係者の検挙をすすめていった。

 潜入する憲兵のスパイもいるなかで、連行者用通訳を組織し、連行者用の料理店(慰安所)を抵抗の拠点としながら、多数の連行者の解放と朝鮮の独立をめざし、採炭のサボタージュがすすめられた。このような抵抗が組織されていったことが北炭の史料からあきらかにされている。ここでは自己回復、自由解放を求めての活動が展開されていたといえるだろう。

 解放後、一〇月中旬、北海道で朝鮮民族統一同盟が結成されるが、その委員長は一〇月はじめに釈放された安在浩であり、かれとともに、孫邦柱や金興坤らの姿があった。現場の朝鮮人・中国人は起ちあがり、帰国や生活条件の改善、賠償などの要求をだしていった。一〇月末の朝鮮民族統一同盟の大会では「強制移入労働者」を酷使した資本家への慰労金要求がだされている。しかし占領軍と企業は賠償については基本的に拒否する姿勢を示している。

 一一月三日北炭幌内炭鉱での交渉の際、安が「過酷ニ取扱ッタ者ニ対スル代償ハ当然支払フベキデアル」というと、朝鮮人が背後から「坑内作業ノ苛酷ナル情況ヲ誇大二説明シテ喚ク」と北炭側は記している。それは「誇大」な説明ではなく真実であり、当然の要求であった(金興坤の自伝や守屋敬彦氏の調査による)

ここでは北海道での抵抗の状況をみてきたが、このような連行朝鮮人の抵抗は全国各地でおこなわれていった。

 

 おわりに

 

ここでみてきたように、三菱財閥は戦時期、鉱業、重工業、工場建設で多くの朝鮮人・中国人を使い、またアジア各地で現地労働力を使い資源を収奪した。

企業としての戦争責任を自覚するならば、三菱は三井とともに被害者個人への賠償にむけて、基金を率先して設立する立場にある。ドイツでの基金の設立はその先例となりえるだろう。企業側はその社会的責任をとるためにも、企業自らの活動によって厚生年金の名簿や残存資料から連行者名などその実態を明らかにするべきである。

三菱関連での裁判で三菱がとってきた対応をまとめれば、史実を認知せず、賠償を時効とし、連行は国策であり、責任はないというものだった。これまでの三菱側の対応には、連行と安全の軽視、強制労働下での死、連行史料の隠蔽、遺骨の放置、史実の不認知、国策への責任転嫁、責任回避などがある。これらの対応は連行企業としてその社会的責任を取ろうとする姿勢を示すものではなかった。

一方、放置された遺骨は今もある。二〇〇三年一〇月には、三菱鯰田炭鉱へと連行されて死亡した金長成氏の遺骨が市民団体の努力によって遺族へと返された。二〇〇四年五月には、三菱美唄へと鉄道工業によって連行されて死亡しその遺骨が放置されていた具然侮≠フ遺族が判明している。いまも残る遺骨はこの問題の解決を呼びかけつづけているように思う。

三菱傘下の企業で最も多くの朝鮮人を連行したとみられる三菱鉱業は戦後、石炭部門と金属部門とが分離して別会社となった。石炭部門を継承した三菱鉱業はセメント部門を統合して一九七三年に三菱鉱業セメントとなり、この三菱鉱業セメントは、分離していた金属部門の三菱金属鉱業と合併して一九九〇年に三菱マテリアルとなった。この三菱マテリアルは資本金が九九〇億円を超える多国籍企業となり、韓国・中国にも関連会社をもっている。

三菱マテリアルはその創業をホームページでは一八七一年とし、企業理念にグローバルスタンダード経営を掲げ、自らの事業活動を、時代をリードし時代のニーズにこたえるものにするとしている。国際的な観点に立ち、三菱鉱業が一九三九年から四五年の間の約六万人の朝鮮人強制連行の史実を認め、先行する過去の強制労働の清算に関する事業に学びながら、その責任をとるための活動をすすめることは、時代をリードしそのニーズにこたえることであるだろう。

二〇〇四年、三菱自動車のリコールをめぐっては、企業ぐるみの隠蔽、安全性の軽視、企業内倫理の欠落、事なかれ主義、社会的無責任などが問われた。三菱ふそうはこの事件での「お詫びと誓い」において、社内に品質諮問委員会・企業文化変革推進委員会を創設することを示した。企業文化変革推進委員会では「風通しの良いオープンな企業文化の創造」をすすめるとしている。 

三菱は強制連行とその被害者への対応においても、このリコール問題で見られたようにその事実と責任を認め、三菱グループ内に調査と賠償基金設立のための特別委員会を設立し、被害者の尊厳回復にむけて、国際的な動きに学びながら、オープンな活動を開始すべきであろう。  

連行被害者の尊厳の回復は第一の課題であり、この課題の解決にむけての作業が三菱には求められている。

 

本稿は各地での市民による調査報告の成果によっている。調査活動の多くが一九九〇年代におこなわれたものである。以下、作成する上で参考にした文献をあげる。

 

参考文献

厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」一九四六年

大日本産業報国会『殉職産業人名簿』一九四二年頃

美唄町文書からの転記「美唄町朝鮮人関係死亡者調査書」

本願寺札幌別院「遺骨遺留品整理簿」一九六九年                                    

北海道立労働科学研究所「研究調査報告一二号」(長澤秀編『戦時下強制連行極秘資料集』T緑陰書房一九九六年)

福岡県特高課「労務動員計画二依ル移入労務者事業場別調査表」一九四四年

「長崎朝鮮人被爆者一覧表」長崎市一九八二年

金興坤「怒りの海峡」(『人間雑誌』七草風館一九八一年)

朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』四・五 三一書房一九七六年

長澤秀編『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』緑陰書房一九九二

林えいだい編『戦時外国人強制連行関係史料集』二明石書店一九九一年

林えいだい『死者への手紙』明石書店一九九二年

林えいだい『朝鮮海峡』明石書店一九八八年

長崎在日朝鮮人の人権を守る会『原爆と朝鮮人』四・一九八六年

金光烈『足で見た筑豊・朝鮮人強制労働の記録』明石書店二〇〇四

朝鮮人強制連行実態調査報告書編集委員会『北海道と朝鮮人労働者』札幌学院大学生活協同組合一九九九年

三菱鉱業セメント社史編纂室『三菱鉱業社史』三菱鉱業セメント一九七六年

城田登山村喜晴白西紳一郎『三菱軍需廠』現代評論社一九七一年

白戸仁康編『戦時外国人強制連行関係史料集』V朝鮮人2上 明石書店一九九一

筑豊石炭鉱業史年表編纂委員会『筑豊石炭鉱業史年表』田川郷土研究会一九七三年

杉山四郎『語り継ぐ民衆史』北海道出版企画センター一九九三年

杉山四郎『続語り継ぐ民衆史』同一九九七年

朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行強制労働の記録・北海道千島樺太編』現代史出版会一九七四年

朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行真相調査の記録兵庫編』柏書房一九九三年

朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行真相調査の記録中部東海編』柏書房一九九七年

芝竹夫『炭鉱と強制連行』筑豊塾二〇〇〇年

全国交流集会九州編『九州の強制連行』全国交流集会九州実行委員会一九九九年

『太平洋戦争中の細倉鉱山における朝鮮人労働者の実態』宮城県朝鮮人犠牲者慰霊実行委員会一九六三年

桑原真人『近代北海道研究序説』北海道大学図書刊行会一九八二

上野志郎『室蘭における中国人強制連行強制労働の記録』中国人殉難者全道慰霊祭事務局一九九四年

『知っていますか北海道での中国人強制連行』日中友好協会北海道支部連合会一九八九年

全国一般長崎連帯支部長船労組『平和と都市長崎における三菱の兵器生産』第二版二〇〇三年

『三菱は未払い賃金を支払え!』三菱広島元徴用工被爆者裁判を支援する会一九九六年

『元朝鮮女子勤労挺身隊に対する損害賠償当等請求事件第二次訴訟訴状』名古屋三菱訴訟弁護団・支援する会二〇〇〇年

「百萬人の身世打鈴」編集委員会『百萬人の身世打鈴』東方書店一九九九年

浄土卓也『朝鮮人の強制連行と徴用』社会評論社一九九二年

大塚一二『トラジ福島県内の朝鮮人強制連行』一九九二年

神奈川と朝鮮の関係史調査委員会『神奈川と朝鮮』神奈川県一九九四年

京都府朝鮮人強制連行真相調査団『京都府の朝鮮人強制連行』一九九一年

亀島山地下工場を語り継ぐ会『亀島山地下工場』一九九〇年

田中宏松沢哲成編『中国人強制連行資料』現代書館一九九五年

野添憲治編『秋田の朝鮮人強制連行』彩流社一九九九年

証言する風景刊行委員会『証言する風景名古屋発』風媒社一九九一年

里山辺朝鮮人中国人強制労働調査団『里山辺における朝鮮人中国人強制労働の記録』一九九二年

松本市史近現代部門編集委員会『松本市における戦時下軍事工場の外国人労働実態調査報告書』一九九二年

長澤秀「貝島炭鉱と朝鮮人強制連行」(『青丘学術論集』一四 韓国文化研究振興財団)一九九九年

長澤秀「戦時下南樺太の被強制連行朝鮮人炭鉱夫について」(『朝鮮人強制連行論文集成』明石書店一九九九年)

守屋敬彦「アジア太平洋戦争下の被強制連行朝鮮人の反日独立闘争」(佐世保工業高専『研究報告』三七)二〇〇〇年

守屋敬彦「日本敗戦直後の北海道石狩空知炭田での被強制連行中国人朝鮮人の闘争」(同『研究報告』三六)一九九九年

澤田純三「太平洋戦争下の雄神地下工場について」(『近代史研究』一五 富山県近代史研究会)一九九二年

西田秀子「戦時下北海道における朝鮮人『労務慰安婦』の成立と実態」(『女性史研究ほっかいどう』

一札幌女性史研究会)二〇〇三年

真宗大谷派名古屋教区教化センター『第一三回平和展』二〇〇二年

竹内康人「三菱高島炭鉱への朝鮮人強制連行」(『在日朝鮮人史研究』三三)二〇〇三年「筑豊の炭鉱史跡と朝鮮人追悼碑」(『在日朝鮮人史研究』三二)二〇〇二

                                                       (竹内)

 

 

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