昭和天皇記念館批判2005・1

 昭和天皇自然館問題

 私のほうからは、昨年、浜名湖花博(静岡国際園芸博覧会)に登場した「昭和天皇自然館」を材料に、その天皇館展示での賛美の状態と歴史の偽造について考え、現在建設中の記念館の問題点についてみていきます

2004年のちょうど今ごろ、2・11の前日でしたが、地元の新聞に、花博会場に昭和天皇自然館をつくるという計画が報道されました。「昭和天皇の心を伝える自然館を造る」と。私は地元の2・11集会に行ったのですが、集会のときにさてどうしようかと考えざるをえませんでした。その後、建設を批判する要請書を出し、様子を見ていたわけです。

 しだいに概要がわかり、ここに持ってきた静岡新聞社の公式ガイドブックには「昭和天皇は『雑草という草はない』とのお言葉からもうかがえるように、身近な植物に目をむけ、すべてのものに対して分け隔てなく慈しむ心をもたれた」、さらに「その温かいお人柄と豊かな感性」云々と紹介されています。

こんなものをつくるなんて困ったものだと思っていたら、東京・立川のほうから関心を持った市民団体が見学にくるということになりました。花博当局とも直接交渉したいと考えていましたので、一緒に要請行動をしました。花博側は、最初は会わないと言っていたのですが、繰り返し応対を求め、なんとか要請の場を設定できました。

要請用に「いらない天皇賛美館」というポスターを作り、会場内の自然館の前で記念写真を撮り、最後にこの会場に掲げてある「天皇主義施設はいらない」の幕を掲げたときに「しまいなさい」と規制されました。

 この昭和天皇自然館の体験を分析することで、いま狙われている昭和天皇記念館の内容についても考えたいと思います。

 昭和天皇自然館の展示を問うなかで、花博当局ともさまざまな交渉をしました。昭和天皇自然館建設には、7050万6450円をかけています。今立川に造っている昭和天皇記念館の場合は、周辺整備を含めて約50億円です。

交渉やその後の電話でのやり取りのなかで、花博当局はこんなふうに言っていました。「昭和天皇の植物研究は花博と一致する部分がある」「植物研究以外には触れない、触れると趣旨が異なってくる」「植物研究だけを考えると花博にふさわしい」と。自然館は仮設形の建物で、会期が終わればつぶす予定ということも言っていました。

 この「昭和天皇自然館」の展示内容は電通が企画をしています。自然館の立派なガイドブックに沿って館の展示内容について紹介したいと思います。

これは、昭和天皇が「ご幼少時にお作りになられた」という植物標本です。それから、「植物研究者」昭和天皇を強調する写真があります。この本には、若くりりしい姿で顕微鏡の前に座っているヒロヒトの写真があり、年老いても研究を継続しているというような写真も入っています。

さらに見ていくと年表がありますが、この年表の1942年から47年までは空白なのです。つまりヒロヒトがアジア太平洋地域での戦争に関与していた時期については、空白になっているのです。

最後のほうには、昭和天皇自然館の建物の写真があります。館は7つの宮家を象徴して七角形をしているというのです。

 自然館の構造についてみてみると、最初にみんなで立ったまま、建物の外でドアが開くのを待たされます。ドアが開いて中に入ると、そこにスクリーンがあって、ここで7分ぐらいの「生物学者昭和天皇」という映像が流れます。

 映像はこんな内容です。ヒロヒトは60年間自然研究をし、33の新種を発見した。幼少時から生物への興味があって10歳から野外研究をした。突然、画面に紫色の大きな蝶が出てきて、美しいオオムラサキ、その名前は「ジャパニーズ・グレートエンペラー」と解説が流れます〔全然関係ないのですが、紫の映像はきれいでした(笑)〕。さらに、静岡県の須崎は生物研究の本拠地であり、昭和天皇は海を荒らさないように採集した。「世の中に雑草という植物は存在しない」という思いで研究をした。「生物への慈しみ深い御心」は幼少から一貫していた。標本箱はその原点。そして「わが国のたちなおり来し年々にあけぼのすぎの木はのびにけり」という彼の復興の歌が紹介されます。

 映像が終わると、スクリーンがバッと開くのです。人々はやっと立ち見の束縛から離れて、中に入ることができます。そこには、少し広い円形の空間があって、その中央に小さい頃に採集して作ったという標本箱が一個だけ置いてあるのです。横に「御親筆」の紹介がありました。

左方に行くと、「生物学ご研究の足跡」という、さきほど紹介した年表を中心に、幼少時の写真などを貼りつけた展示がありました。その横には「昭和天皇の自然観」というコーナーがあり、伊豆の自然の風景やアメリカに行ったことなどを紹介していました。

さらに最後のコーナーに行くと、「エコロジスト昭和天皇と呼ばれていた」といった解説までありました。

 最初に入ったときに、記述を批判的にじっくり読んでいたら40分ほどかかりました。結局、ひとつの昭和天皇体験をしたというわけです。

このような展示から「昭和天皇自然館」とはいったい何なのだろうと考えたわけです。4点ほどにまとめてみました。

まず、標本を囲むように見入らせて、敬意の視線を内面化させる。そして仰ぎ見させて、敬語の羅列の波の中に入れていくということです。私も、ここで紹介する中で「ご幼少」などとついしゃべってしまいますから、天皇用語にはまってしまうというか、洗脳されるわけです。また、見学者からは天皇体験をさせて、聖性や神格化のまなざしを刷り込んでいるという意見もありました。

それから、幼少の頃から特別者として形容し、「みどりを愛するエコロジスト」として描いています。生物学者を前面に出して、政治的な側面を捨象しています。ここでは、戦争責任が隠蔽されています。

これは、ヒロヒトが死んだ後の、新しい天皇陛下万歳の表現といえるでしょう。ヒロヒトの賛美と隠蔽を含めての偽造が行われています。このようなヒロヒト像を示すことで、服従の精神構造や奴隷根性というものを再生産していくわけです。

昭和天皇ヒロヒトの在位60年のうちの前半は、治安維持法の改悪から始まって、「満州」侵略・中国前面侵略・アジア太平洋戦争、そして敗戦という20年です。このような展示空間では、その間のアジア2千万人の戦争死者のまなざし、民衆の抵抗、殺されていった人々の呪詛や民衆の歴史的な痛苦といったものが後景化されているわけです。

昭和天皇の死後以後、「みどりと平和」のヒロヒトという形で形容してきたイデオロギーが、ここでは、生物学研究を展示するという形で示されたわけです。

 もう一つの特徴としては、花博のこの自然館は公的施設であり、公的施設の中では戦争についての評価が書けない。花博だから書けないというよりも、公的な施設で、もし昭和天皇と戦争について記述した場合、彼らは「侵略」とは書けないわけです。侵略と書けば当然、責任が問われてくる。かつ「聖戦」とも書けない。聖戦と書けば、自分たちの戦争が正しかったということになるわけですから、国際的な問題となる。現状では、彼らはヒロヒトと戦争について、その評価を書けないのではないかと思いました。

戦争を正当化する記録は、私的な靖国神社の遊就館の記述などに任せ、それらを捨象しながら、天皇について展示していくのではないかと私は思いました。

「昭和聖徳記念財団」の三菱人脈

 さて、このような昭和天皇自然館を踏まえて、では今度は立川につくられている昭和天皇記念館の展示はどうなっていくのだろうか、という点についてみておきたいと思います

 情報公開で開示された資料などから、展示のケースを見ると、三つの柱があるのではないかと思います。  

一つめは、今回さきがけのように建設された昭和天皇自然館に示されたように、ヒロヒトを生物学者として提示して美化する。二つめは、彼の生活用品や遺品、あるいは儀式のときの衣装等を示して、人間として身近な存在としてヒロヒトを示す。三つめは、「巡幸」と彼らは言っていますけど、日本の戦後の復興と地方巡回というものを前面に出し、先ほど沖縄の歌がありましたが、戦後の日本の平和主義を作りあげ、また欧米に行って外交にもかかわった平和的な人物として提示する。このような形で「平和とみどり」をテーマに提示するのではと、私は思います。

 まさに賛美と隠蔽による偽造というものが行われようとしているわけです。それを推進しているのが「昭和聖徳記念財団」です。

 この昭和聖徳記念財団は、天皇は「国民と苦楽をともにし、終戦のご聖断と国民の救済を行い、巡幸によって国民を鼓舞し、民心の安定や活力の源になった」、「その聖なる徳を後世に伝えていこう」という考え方で運営されている財団です。

 現在の「財団」の理事長である藤村正哉という人は三菱マテリアルの相談役であり、かつ日韓文化交流基金や日韓経済協会の会長もしていました。要するに、日韓に非常に太いパイプを持っている人物です。金大中政権が誕生したときには、金大中と会って話もする、そういうポストにいた人物です。

理事長が三菱関連のリーダーであり、財団を三菱関連の人脈がかなりバックアップしています。事務局長も三菱出身といいます。そして三菱銀行なども財政的な支援をできるような形で人を送り込んでいます。そこに財界・政界・神道が組み合っています。

 「昭和聖徳記念財団」の前身である「昭和天皇崇敬会」という団体を作った大槻文平という人物も三菱関連の人物で、三菱鉱業の社長を経て70年代には日経連の会長も務めた人です。三菱鉱業というのは日本の大企業の中でも朝鮮人や中国人の強制連行を最大規模で行った企業だったわけです。

大槻は1928年に三菱鉱業に入社し、主に炭鉱の労務管理を任されます。50年代には石炭から石油へのエネルギー転換の中で多くの炭鉱が閉鎖されますが、大槻はこのときたくさんの労働者を解雇しています。かれは「首切り文平」といわれたそうです。日経連の会長を経て、三菱の金曜会代表となり、80年代には中曽根行革(臨時行革審議会)のリーダーになり、ヒロヒトの死後「昭和天皇崇敬会」を作ったという人物です。藤村はこの大槻の活動を継いでいるわけです。

 3ヒロヒトへの「呪詛」

私は天皇制についてそれほど考えてきたほうではありません。1980年代末に天皇が病気となり、「自粛が叫ばれ、運動会やコンサートが中止になったときに、この国はこんな国だったのか、天皇主権のままだし、戦争責任も問えないのか、と思ったわけです。そのときに感じたのは、天皇制というのは、人間の存在に対して失礼なものであり、それによってわたしたちの生活がめちゃくちゃにされる、あんなものにやられてたまるかという感覚でした。

 その後、天皇制について考える中で印象に残っているのは、1990年代に、アジアの戦争被害者から戦争犯罪の責任者を処罰するという視点が出されたことです。戦争犯罪の責任者処罰のテーマというのは、日本の戦後の中で、日本民衆の自らの力によっては提示されてこなかった視点だと思います。

その視点を90年代に、アジアの戦争被害者が、いわゆる「慰安婦」問題を中心にして提示しました。それを日本の民衆運動が受け止める中で、2〇〇〇年に入って、天皇ヒロヒトの責任を問う形で、日本軍性奴隷制(「慰安婦」)の犯罪を問う女性国際戦犯法廷が開かれました。戦争犯罪に対する、あるいは戦争責任に対する責任者処罰の視点、民衆の側から責任者を処罰していく、そういう視点が出たのが、9〇年代の一つの最大の特徴なのではないかと思います。だからこそ、彼らはそれを恐れ、NHKが女性法廷を報道したときに、圧力をかけてカットさせたのだと思います。

 ちょうど、この話の準備をしていたときに、静岡で香月泰男展が開催されました。わたしはこの香月泰男の作品の「朕」を見てさまざまなことを考えました。

 実は、昭和天皇自然館に対して、立川や東京の皆さんと抗議行動に行ったとき、立川の皆さんが主催者へ出した要請文の中に、「呪詛」という言葉があったのです。この要請のとき、その「呪詛」という言葉を聞きながら、天皇制は、侵略や抑圧、あるいは人権侵害の歴史の中で、民衆のなかに、言葉では語りきれない怨念や「呪詛」をもたらしたものなのだと思いました。そしてわたしなりの呪詛への想いを当局者に語りかけたのです。

 そういった「呪詛」について考えながら、「朕」という作品を前にし、画集をみるとこう書いてあったのです。

 「人間が人間に命令服従を強制して、死に追いやることが許されるだろうか。民族のため、国家のため、朕のため、などと美名をでっち上げて……。朕という名のもとに、尊い生命に軽重をつけ、兵隊たちの生死を羽毛の如く軽く扱った軍人勅諭なるものへの私憤を、描かずにはいられなかった。敗戦の年の紀元節の営庭は零下30度余り、小さな雪が結晶のまま、静かに目の前を光りながら落ちてゆく。兵隊たちは凍傷をおそれて、足踏みをしながら、古風で、もったいぶった言葉の羅列の終るのを待った。我国ノ軍隊ハ世々、天皇ノ統率シ給フ所ニソアル……朕ハ大元帥ナルソ、サレハ朕ハ……朕ヲ……朕…… 朕の名のため、数多くの人間が命を失った」と。香月は1970年にこの「朕」を書いたのです。それから5年後、ヒロヒトはインタビューを受けたとき、「戦争責任は文学的表現の問題」と言い放ったのです。

 香月はヒロヒトが生きているときにこの「朕」を書いています。その香月がちょうどこの作品を書いているときに、立花隆がインタビューしてまとめたものが『私のシベリア』という本です。ここにいいことが書いてありました。

彼は、『1945』という作品で「赤い屍体」を描いています。この「赤い屍体」というのは「満州」で彼が見た、現地の人に皮を剥がれた日本人の姿です。彼はこういっています。「『赤い屍体』からこそ、日本の戦後の出発、つまり『赤い屍体』を問うことからこそ、日本の戦後の出発はあるべきだ」と。「黒い屍体」は広島にありました。でも広島の「黒い屍体」ではなくて、加害者になった一民衆の視点から、戦後の問いをしていくべきだ、ということを彼は主張しています。

 「戦争の本質への深い洞察も、真の反戦運動も、黒い屍体からではなく、赤い屍体から生まれ出なければならない。戦争の悲劇は、無辜の被害者の受難よりも、加害者にならなければならなかった者により大きいものがある」「日本人の一人一人にそれを突きつけて歩くことができたなら」「もう戦争なんて馬鹿げたことの起こりようもあるまいと思う」と。

 こういう戦争世代の「呪詛」の思いと、戦後の、例えば「君が代」を拒否し、再び子どもたちを戦場に送らないという人々の思い、あるいは靖国に再び統合されることを拒否した宗教者の人たちの闘いなど、こういったものが結合する形で、1980年代の後半のいろんな天皇制との闘いがあったと思います。さらにアジアの戦争犠牲者の声を踏まえて、現在があるというふうに思っています。

 そういう中で、昭和天皇記念館のようなものが現われてくることに対して、私はどうしても納得ができないというか、許せないというのが、基本的な思いです。                    (竹内)