清水地域での朝鮮人強制連行

 

 静岡県の清水は貿易港としてよく知られている。 しかし、 戦時下の強制連行の実態についてわかっていることは少ない。

 朝鮮人の強制連行先で現在わかっているところをあげると、鈴与・日軽金・清水港運送・豊年製油・日本鋼管・黒崎窯業などがある。これらの連行先以外に港湾、基地工場建設、その他の土木現場に多くの朝鮮人が動員されている。そこには強制連行された現場から逃れてきた朝鮮人もいた。

 「静岡県の朝鮮人強制連行を記録する会」はこのような実態をあきらかにするために現地調査をおこなってきた。 ここでは現地調査と発見された史料の分析をまとめ、清水地域での朝鮮人強制連行の真相究明の第一歩としたい。

 

  @清水の強制連行前史

 日本帝国主義によって朝鮮半島が植民地とされたのち朝鮮と清水をむすぶ定期航路がひらかれ、 清水へと大豆・米・豆かすなどが運ばれてくるようになった。 また一九二〇年代後半から清水で働く朝鮮人労働者が増え、 三〇年代に入ると四〇〇人から六〇〇人ほどになった。

 このころ朝鮮人労働者たちは土木・港湾荷役・製材・運送などの仕事をしていた。 朝鮮人が増えてくると相互扶助と管理統制のための組織がつくられ、清水融和親睦会(一九二八年、清水内鮮同和会(一九三〇年)が設立された。当時朝鮮人が就労していた場所をみてみれば、 静清国道工事・清水上水道工事・港湾埋立工事・日本平道路工事などがある。

 朝鮮人が増加し、また恐慌の波が清水をおそうなかで、 朝鮮人が階級的に連帯して争議をおこすようにもなった。 一九三一年には清水上水道工事の現場で二度にわたって争議となった。

 五月に朝鮮人一〇〇名と日本人二〇名ほどの労働者が賃上げをもとめてストライキをおこし、 九月には二五名あまりの労働者の解雇撤回をもとめて争議となった。 九月の争議のときには、 清水・三保間で埋立工事をしていた朝鮮人五〇名ほどか連帯のストライキをうっている。

 この清水上水道争議のリーダーであったのが崔南守である。崔南守の活動をおってみると、 渡日後、駿東郡小山町で朝鮮人労働友和会の結成に関与し(一九二四年)、神奈川で朝鮮労働同志会の代表となり(一九二五年)、在日労総神奈川県朝鮮労働組合の結成に参加、 同労組の寒川支部長として活動してきた(一九二七年頃)。 その後、 清水へ来て、 清水上水道工事現場で争議団のリーダーとして活躍した。

 のち熱海へと移動し、熱海失業者同盟を結成(一九三二年)、 翌年この失同を東豆労働組合へと改組した。 東豆労組はメーデーの企画や争議にかかわり、 朝鮮人と日本人との共同の闘いをすすめた。 この東豆労組は人民戦線運動を地域で担っていったが、 一九三七年一二月に弾圧され、 解散へとおいこまれた(崔南守らの活動については不明なことが多い。ご教示を願う。) 東豆労組のような朝鮮人の民族的・階級的な活動がおしつぶされていくなかで、 朝鮮人の皇民化と侵略戦争への動員がつよめられていった。

 朝鮮人への皇民化政策の動きをみてみれば、一九三四年には清水内鮮同和会を二月十一日の 「奉祝」 へ動員し 「君が代」 を歌わせ 「遥拝」 をさせた。 日中全面戦争がはじまった一九三七年一〇月には 「皇軍感謝」 のために 「慰問金」 をあつめさせた。

 清水地域は軍需生産の拠点となっていき、軍需工場がつぎつぎに建設されていった。 朝鮮人はこれらの工場建設や軍需生産に動員されていくようになった。

 一九四一年秋には協和会清水支会が事業主と共催して六九人の会員に、 日軽金青年学校講堂で講習会をおこなった。

 アジア太平洋戦争がはじまると一九四二年八月には清水署で協和会清水支会の指導員会がもたれた。 そこでは日本語を教育し、 勤労報国隊をつくり、 報国貯金をすすめ、 青年の軍事訓練をおこなうことを決めている。 朝鮮人を翼賛体制へと統合していこうとしたのである。 一〇月には青年勤労報国隊がつくられ、 同じころ、 清水市万世町在住の青年が朝鮮人志願兵となっている。

 一九四三年には勤労奉仕隊による港湾荷役が三日間おこなわれ、 傷病兵への 「慰問」 もとりくまれた。

 これらは協和会の皇民化活動の一部であるが、 日帝が侵略戦争を支えるために朝鮮人を動員していったことがわかる。

 協和会清水支会については今後の資料発掘がもとめられる。

 

 A鈴与

 

 清水の港湾業を握っていた鈴与商店ははやくから強制連行された労働者を使った。「移入朝鮮人労務者状況調」によれば一九四二年六月までに一一九人を連行した。 鈴与は朝鮮人を築地町の「清和寮」に収容した。 そこで夜、 訓話や日本語教育をおこなったが、 一九四二年六月での実在数が四九人であることから半数以上が逃走などにより離脱したようである。 一九四五年八月には四〇人が残っていたと鈴与は厚生省に回答をよせているが、 一九四二年六月から一九四五年八月までの連行状況についてはわかっていない。

 築地町での聞き取りによれば、 現在の鈴与港湾センターの敷地に朝鮮人寮 (収容所) があったという。 築地町には連行された人々のほか、 渡日した人々が多く住んでいた。 これらの朝鮮人は鈴与の煉炭工場や船内の荷役運搬などに従事していた。

 一九四二年八月には港湾業への国家統制が一港一社の形で強められ、 鈴与の港湾運送部門を中心に清水港湾運送が設立された(翌年、社名は清水港運送へ)。

 一九四三年には軍と運輸通信省の統制下で日本港湾業界が設立され、 鈴与はその設立委員の一人となった。 この業界の下に各地の港湾業者がくみこまれた。

 清水港の回漕業務は清水港運送へと統合され、 のちには鈴与の倉庫業務・燃料販売部門もこの会社へと吸収された。 このような状況のなかで鈴与は一九四二年一〇月、 業務部を設立し、 軍需工場・軍施設へと労働者を派遣し請負うという 「労務供給」 をおこなうようになった。 この業務部が朝鮮人寮の管理をするようになった。 業務部の一九四四年〜四五年の派遣先と労務内容をみてみれば以下のようになる。

 陸軍需品本廠芝浦出張所清水集積所  清水駅の木材建築材料のトラック輸送、 静岡周辺の材料の荷馬車輸送、 積みおろし。

 横須賀海軍施設部清水集積所  駒越・宮加三の集積場所へ丸太材他を輸送、 集積、 船積作業。

 陸軍立川航空廠清水集積所  労務供給・貯油

 東亜燃料工業清水工場  燃料製品を立川航空廠集積所へ運搬、 製油原料用ゴム取扱、 場内雑作業。

 日立製作所清水工場  建設材料の取扱、 運搬、 場内作業。

 三菱重工・住友金属静岡工場  建設材料の運搬、 製作機械の運搬、 場内作業、 静岡駅前に出張所設立。

 日軽金清水工場  労務供給。

 豊年製油清水工場  原料大豆の揚荷、 運搬、 製品の貨車積、 場内作業。

 港湾内船舶  内航船の貨物取扱作業、 浜からの荷馬車運搬。  『鈴与一七〇年史』 から)

このような派遣・請負を業務とした鈴与の下で朝鮮人が多く組みこまれていった。

清水港運送への強制連行については、 厚生省勤労局 「朝鮮人労務者に関する調査」 から一九四四年九月、 忠清北道陰城郡から七四名が連行されたことがわかる。 また清水港運送へは一九四五年一月、 中国河北省出身の中国人が一六〇人連行された。 中国人は連行途中に四人が死亡、 就労中に三二人が死んでいる。 これらの中国人は清水港運送の下につくられた 「華工管理事務所」 によって管理された。 朝鮮人労働者は陰城郡からの連行者以外にも多数いたと思われるが実態はわかっていない。

 強制連行された労働力を使うなかで、 一九四五年三月、 清水港運送では 「戦時服務規則」 がつくられている。 この規則は一九四三年の 「応徴士服務規則」(厚生省)をもとにつくられたものであり、兵営規則を職場に導入したものであった。そこでは、「帝国臣民」の本分を貫くため「至誠報国」にむけて「服従」を説き、 職場内での「敬礼」をもとめ、「大御心」を「奉載」して事業場を「統率」すると説いている。

 清水港運送は一九四五年四月に準軍需会社の指定をうけるが、 職場の統制強化・戦場化はこのようにすすんでいた。 この下で、連行された人々への搾取はさらにつよめられていったといえるだろう。

 当時の状況について、 鈴与で親方として仕事をしていた八木新作さんの話をまとめるとつぎのようになる。

  「一九三八年私は親方になった。 当時五〇〜六〇人、 多いときは二五〇人を使って沖の積み降ろしの仕事をした。 缶詰の仕事・お茶の仕事は船が夜中に入ってのことが多かった。 昼間は大連からの石炭・木材・大豆の仕事が多かった。 当時、 鈴与が港湾を一手に握っていた。 国策によって清水港運送がつくられ、 私は 『組頭』 から『隊長』 とよばれるようになった。  『小頭』 『班長』 とよばれた。 一九四三年には 『指導員』 となった。 五〇〜六〇人くらいの朝鮮人が波止場の築地町に住んだ。 朝鮮から手紙がきた。 中国人は 『華人』 とよばれ、 梅田町に寮がつくられた。 中国人を阿部労務部長と指導員の私が下関へと迎えにいった。 急行を貸し切って連行した。 六つの班にわけてあちこちの現場に派遣した。 派遣先は荷役・石炭部・日本鋼管・日軽金などだったと思う。 青いゲートル姿ではしとコップをぶらさげて仕事にいった。 寮内に警察がいて管理していた。 新潟に余分な人間がいるということで特高課部長と私とで中国人通訳をひとり、 連れにむかえにいった。 途中上野駅で空襲にあった。 亡くなった中国人は駒越の畑にいって埋めた。 戦後それを火葬にした」(一九九二年取材・当時八九歳・清水市在住)。

 鈴与は回漕・倉庫・燃料部門などを中心に清水港の支配的地位にあった。 清水地域での朝鮮人強制連行の実態をあきらかにするためには鈴与の史料公開が不可欠である。

 

 

  B日軽金

 

 日軽金関係への強制連行については富士川発電工事、明礬石開発(西伊豆)、日軽金工場の三つの面から考えていくことができる。

 一九三九年から日本軽金属の工場建設と富士川発電工事がすすめられていった。 日軽金の工場は静岡県では清水と蒲原につくられ、 アルミニウム生産に必要な電力供給のために富士川の水を利用して水力発電所がつくられた。 富士川ぞいに導水路 (トンネル) が静岡県内だけでも約二〇キロメートルにわたり掘削された。 このトンネル工事にたくさんの朝鮮人が動員された。

 富士川発電工事を請負ったのは大倉土木・西松組・飛島組であり、 その下にたくさんの朝鮮人が集められた。 一九三九年の「日軽金富士川発電所飛島組名簿」(七〇五人分) をみれば六〇%近くが朝鮮人名である。 一九三九年八月末、 各組毎に協和会がつくられた。 これらの組の協和会は一九四〇年三月に静岡県協和会の清水支会と大宮支会に統合された。一九四〇年の清水支会の人員をみれば二二九〇人、 大宮支会は一三九七人であり、 このうちのかなりの人々が富士川発電・日軽金建設に動員された労働者と思われる。

 中央協和会の 「移入朝鮮人労務者状況調」 によれば、 県内の富士川発電工事へと一九四二年六月までに西松組は五四五人、 飛鳥組は二五五人、 大倉土木は五九一人を連行している。 統計すると一三九一人となる。 これらは日本の労務動員計画による 「募集」 段階での連行者数である。これ以外にも多数の朝鮮人がさまざまな形であつめられている。

 清水から東へ約二〇キロメートル先に富士川があり、 日軽金蒲原工場を横にみながら富士川を上っていくと、 支流に当時朝鮮人によって掘削された導水路の露出部分がある。

 慶尚南道晋州から連行された金在山、 鄭成和らの強制貯金反対ストライキが一九四〇年九月に富士郡松野村下稲子八幡沢(大倉土木の現場)でおきている(司法省刑事局の調査) このような争議や逃走による抵抗がおこなわれていった。

 強制連行された朝鮮人の労働力を利用して建設された日軽金工場と発電所によってアルミ生産がおこなわれた。 主な原料はアジア太平洋戦争によって東南アジア・ビンタン島から収奪したボーキサイトであった。蒲原・清水の両工場で生産されたアルミは航空機材料としても利用され、侵略戦争で使われていった。日本が東南アジア・太平洋地域で敗北を重ね、 ボーキサイト輸入がとだえるようになると、 代用鉱のひとつとして伊豆の明礬石の開発がすすめられた。

 一九四三年には西伊豆に宇久須鉱業と戦線鉱業が設立され、 日軽金は戦線鉱業仁科鉱山に積極的にかかわった。 一九四四年、日軽金は清水工場で明ばん石からアルミナを生産する体制を確立した。 一九四五年には仁科港の整備がすすめられ、 西伊豆の明礬石を海上輸送で清水へと運び、 アルミ生産をする準備をすすめた。

 鉱山労働力として一九四五年二月までに宇久須鉱業と戦線鉱業へと朝鮮人がそれぞれ約五〇〇人ずつ、中国人がそれぞれ約二〇〇人ずつ強制連行された。戦線鉱業の索道建設を請け負ったのは鹿島組であり、仁科選鉱場建設は栗原組が請け負っている。この下にも多数の朝鮮人が動員されている。 戦線鉱業で働いていた朝鮮人は土木関連の労働者を含めると二〇〇〇人ほどになったという。

 このようにアルミ生産のための原料採掘の場でも朝鮮人が強制連行されている。 連行された人々は逃走をくりかえして抵抗している。 戦線鉱業からは一九四五年の三月から七月の間、 毎月二〇人以上が逃走し、 四月には五〇数人が逃走した(厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」)。

 朝鮮人の逃走増加のなかで戦線鉱業へと連行された中国人の抵抗もつよめられた。 中国人は一九四五年一月に連行されたが、 連行途中で二二人、 到着してからも八二人が死亡している。 次々に倒れる仲間をみながら抗日兵士・共産党員を中心に組織化がすすんでいったようである。 一九四五年六月に中心メンバー八人が検挙され、 松崎署へ投獄された。 八人はのちに清水へと転送された(華僑総会資料による)

 西伊豆での明礬石によるアルミ生産が軌道に乗る前に、連行された人々は八・一五解放をむかえた。

 以上みてきたように日軽金は建設と原料採掘において、多数の強制連行者を使った。日軽金清水工場の桟橋(一九四二年完成、清水組請け負い )、日本発送電清水火力発電所(一九四一年完成、間組請け負い)などの建設現場にも多数の朝鮮人が動員されていたと思われる。日軽金内には竹中工務店の現場事務所があり、その下に朝鮮人が就労していた。

 「周吉氏(一九二三年生、清水市在住)は言う。

「一九四四年末、三保の日軽金工場のなかにあった竹中工務店運輸部の運転手となった。日軽金敷地内に朝鮮人が一〇〇人くらいいた。工場は完成していたが改造や拡張の仕事がおこなわれ、朝鮮人が基礎づくりなどの土木作業をしていた。日軽金へは中国人を村松から毎晩小さな船に乗せて連れてきて働かせていた」(一九九六年取材)。

日軽金工場内への強制連行については不明である。日軽金の青年学校内で協和会の講習会がおこなわれていること(「協和事業」一九四二年一月)、「移入朝鮮人労務者状況調」に日軽金の項があることから、朝鮮人が日軽金への連行・動員が推定できる。

 日軽金は関係史料を公開し、企業の戦争責任を明らかにすべきであると思う。

 

   C清水の軍需工場

清水で軍需工場がつぎつぎに建設されたのは一九三九年ころからであった。 当時建設された工場をあげれば、 日軽金清水工場・東亜燃料・日本鋼管清水造船所・日立製作所清水工場・黒崎窯業 (鶴見窯業) 清水工場などがある。 他の工場での軍需生産への転換もすすんだ。 それにともない、 工業用水の整備、 鉄道、 上水道の三保への延長、道路整備、 岸壁建設、 埋立工事、 電力施設の建設などがすすめられた。 これらの工事にはたくさんの朝鮮人が動員されていった。

 労働力が不足するなかで、朝鮮人を強制連行して動員した工場もあった。

 厚生省勤労局 「朝鮮人労務者に関する調査」をみると清水地域での連行の一端を知ることができる。 強制連行にかかわりの深い鈴与と日軽金については不明な点が多いが、 他の工場への一九四四年からの連行についてはつぎのようになる。

 レンガを生産していた黒崎窯業についてみてみよう。 共同出資により一九四〇年八月、鶴見窯業清水工場が完成し、 一九四四年九月、 この清水工場は黒崎窯業へと合併された。

 この工場へは一九四四年八月に、 慶尚北道高霊郡を中心に五〇人、 一二月に京畿道開城から二四人、 一九四五年二月にはソウルを中心に三九人が連行された。 連行総数は一一三人であるが、 このうち六三人が逃走に成功している。 連行者から三人が徴兵された。

 一九四五年三月には黒崎窯業から一〇人余が逃走に成功した。 黒崎窯業での逃走率は五六%であり、 この数字から連行された人々の自由への想いをみることができる。 なお 『黒崎窯業五〇年史』 では一九四四年九月現在の推定人員として清水工場での朝鮮人労務者数を四八人としている。

 日本鋼管清水造船所へは一九四五年四月、 金羅北道完州郡を中心に八人が連行されている。 日本鋼管の清水造船所へと連行されて働いていた朝鮮人は八人ではなく、 他にもいたと思われる。学徒動員された人によれば、「朝鮮人が最も高く危険な所で働いていた」という。

 調査に同行した趙氏は「日本鋼管は朝鮮人・囚人・学徒を大量に動員した。 囚人収容所は折戸の陸上貯木場の近くにあった。 戦後すぐに朝鮮人が争議をおこした。 日本鋼管への労務動員は日の出埠頭からおこなわれていた。 かつて日本鋼管に史料を出すよう求めたが出さなかった」という。

 豊年製油清水工場へは一九四五年四月、 全羅北道益山郡から四二人が連行されている。 そのうち一九人が逃走している。 豊年製油は日本が中国侵略によって奪った大豆を大連から輸送して製油をしていた。この製油労働に朝鮮人を使ったのである。

清水市松原町には豊年製油で働いていたという朝鮮人の飯場跡がある。 近くの岡町にも朝鮮人飯場があったが、そこにいた人々はすでに帰国したという。 岡町の飯場の人々がどこで働いていたのかについてはわからなかった。

日本鋼管と豊年製油は全羅北道から連行しているが、全羅北道での生存者調査によれば数名の生存が確認されている。被連行者の中には一九三〇年生まれ、当時一五歳の人もいた。

 日通静岡支店には一九四四年一二月に忠清南道論山郡から四七人が連行されたが、 二一人が逃走した。 当時日通は軍需関係の輸送部門を担当していた。 ここで働かされていた朝鮮人は清水へと仕事にくることもあったであろう。 死亡者が一人でている。

 日通静岡支店分の史料には 「退職手当については後、 朝鮮人連盟より一人宛千円 (逃亡者五百円) の要求があり、 之を一人三百円 (逃亡者百五十円) にて承諾せしめたるも委員長・労働部長更迭の結果、 要求固執、 未解決の状態なり」 とあり、 朝鮮人連盟の側が要求を掲げて闘いをくんでいったことがわかる。

 厚生省名簿にある黒崎窯業・清水港運送・豊年製油・日本鋼管の連行者名簿から逃走率をみれば二四八人中、 一一八人が逃走しているから逃走率は四二%となる。

 厚生省名簿と現地調査によってわかったことは以上である。 名簿に掲載されている企業が過去の強制連行について自ら究明し、 実態をあきらかにしていってほしく思う。

 

  D清水の軍事基地

 清水地域へは軍事基地も建設されていった。 一九四四年九月に開隊した三保の海軍航空隊基地の建設にも朝鮮人が徴用された。 さらに三保へは「特攻艇震洋」の基地も建設された。 三保には今もコンクリート製の収艇庫が残っている。 各地の朝鮮人動員による震洋基地建設状況からみて、 三保基地建設へも朝鮮人が動員されたと思われる。 周辺でのききとりによれば、「住民の立ち入りは禁止されていたため、 詳細は分からない」とのことであった。

 同じころ重砲兵学校・航空学校なども建設されている。 これらの軍関係施設建設へも朝鮮人動員があったと思われる。「三保にあった高射砲部隊には朝鮮人兵士五〇〜六〇人がいた。日軽金の同胞と兵士が会えば話をしていた」と「周吉氏は言う。清水への朝鮮人兵士の連行もあったようである。

 朴得淑さんらは佐世保・長崎・熊本・富士・三保へと軍事飛行場関係の建設工事へと動員された。 一九四五年春には清水から掛川の中島飛行機地下工場建設現場へと連行されている。 当時清水に在住し、朴さんらと共に掛川へ夫と共に移動した権さんはつぎのように語る (一九九〇年取材・当時六三歳・掛川市在住)

 「掛川へ行ったのは清水が空襲にあった直後であり、 朝鮮人一〇世帯ほどが軍のトラックで運ばれて掛川原谷へきた。 軍の命令による工場建設であった。 夫は清水へと 『募集』 され連行されてきた同胞の世話人をしていた。 清水へと連行されてきた人々は、中国からの木材や食料を倉庫に運搬する仕事をし、寮もつくられていた」。

 アジア太平洋戦争期、 清水へと二千人をこえる朝鮮人が移動してきているが、 これらの人々が総動員体制下、 どのような形でどこへ動員されていったのかについてはあきらかではない。 それをあきらかにするためには清水警察署内におかれていた協和会支会などの関係史料の発掘がもとめられる。

 朝鮮半島から強制連行されたがその現場から逃走し、 仕事をもとめて清水へとやってきた人々もいた。

 樺太へ連行されたのち逃走し、 清水へきた朴基男氏(故、一九二二年生)の場合をみてみよう。

 朴氏は二〇歳で一五歳の妻をもつことになった。 結婚して七ヵ月後の夏のある日 (一九四二年ころ)、外へ出たきり連行されて消息を絶った。 徴用され樺太へ連行されたが、逃走して清水へきた。 やっとのことで家族に連絡し、出会うことができた。 家族が清水へきたのは一九四五年のことだった。 朴氏は一九六七年に四五歳で亡くなった。

 「日本はひどいことをした。 忘れません。」と妻の全徳順さん (清水在住・六六歳) はいう。

九州・飯塚の炭鉱へと連行され、のちに逃走して清水へときた金應斗氏(八三歳・清水在住)はつぎのようにいう。

 「日本は怨恨の地、 一生を台無しにされた恨の地が日本だ。 一九四二年、私は三六歳だった。 結婚して子どもが二人いた。 二年間の条件で徴用され、 勤労報国隊の名で一二〇人が順天から九州・飯塚の炭鉱へと連行された。 腹が減って仕事ができなかった。 落盤によって一人、二人と死んだ。 私は額に傷を負った。 圧迫された。 一二〇人のほとんどが逃げた。 泣いても泣ききれない。 女房や子どもと生き別れにされた。 上の子は五六歳になるはずだ。 裸で、パンツ一枚で仕事をさせられ、 一二時間働いた。 九ヵ月後、 辛抱しきれず、 四人の友達と便所の小窓を外し、 一人出ては縄で引っぱりだして逃げた。 九キロほど歩くと駅があり、 朝六時半ころ切符を買い、 今の大村収容所の辺りにいった。 そこでは軍の飛行場を建設中であり、 親方に人夫にこないかといわれ、 飯場に入って仕事を得た。 飛行場工事で働いていたのは全て朝鮮人だった。 そこでトロ押しの仕事をして四〇日くらい働いた。 そこから名古屋の飛行場建設現場へいき、 その後、 鳥取県米子で堤防工事をし、 岩手県から姫路へいき、 四国では鹿島組の仕事をした。 そして日立清水工場の石垣積みの仕事をした。 空襲があって八・一五となり、 われわれは解放された。 つらいのは自分の子ども・女房とはなればなれになったことだ。 弟は七四歳、 とても気になっている。 南北統一すれば故郷へ帰れるのだが…。 私から故郷と青春、 家庭を奪い、 あの惨めな人生を強いた悪魔の亡霊を、八〇歳の峠をこえた人生の末路から消してくれる日はくるのだろうか。」

 ここで紹介した朴氏や金氏のような人々が清水には数多くいたであろうし、 これらの人々の多くが軍需関係工場の建設、 軍需工場での労働、港湾荷役の仕事へと動員されていったと思われる。

 一世世代は高齢化しているのでききとりをはやめにすすめていきたい。

 日本は15歳の少年や結婚したてや子育て中の青年らをつぎつぎに強制連行した。それにより故郷と青春と家庭を奪われた人は数多い。この強制連行という戦争犯罪は戦後50年を経た現在も清算されていない。

 

  E清水朝鮮人無縁納骨堂

 一九四五年の八・一五解放にともない、 連行された人々の帰国にむけての取り組みがはじまった。 清水地域でも朝鮮人連盟が結成された。 朝鮮人は団結し、未払い賃金を要求し争議に参加した。また 帰国を要求し、民族教育にもとりくんだ。 清水市浜田町には朝鮮人連盟清水支部の事務所がおかれた。

 清水市の図書館「朝鮮と日本の親善のために」 という碑と記念に植樹された松がある。 この碑は一九五九年に朝鮮への帰国者と総連清水支部(委員長金竜学) が建てたものであり、 当初、 旧図書館跡に建てられたが、 市水道局の建設と区画整理にともない、移転されて、小学校を経て現在の場所にある。

 清水地域へ連行されたり、 渡日して働いたりするなかで無縁仏となった人々の骨を納める 「清水市朝鮮人納骨堂」 が清水市北矢部の火葬場入口左側にある。

 この納骨堂にある骨は清水の各寺から東海寺へと委託されていた無縁仏である。 一九五六年五月、 総連清水支部が市長に要請して小建物を設置した。 一九六五年七月には旧納骨堂が北矢部(火葬場)に建てられ、 同年九月には石碑もつくられた。

 旧納骨堂の石碑には次の詩がハングルで刻まれた。

 異域万里 他国で

 つらく かなしくも 犠牲となり

 無住孤魂となった あなたがたよ

 あなたがたの 白骨も 霊魂も

 主人があり 祖国が あるものを

遠くない 将来に あなたがたを

 つれにくる その日まで

 安らかに ねむりあれ

 一九六五年九月五日、 清水朝鮮人有志 (庚妙達さん訳)

 旧納骨堂は山の斜面にあり、 暗く湿気の多いところにあったため、 扉は腐り、 内側の骨壷用の台は朽ち、 遺骨は変色し、 包装布等は見るに耐えられない状態になっていた。

 一九七七年九月、 納骨堂の移転新築を総連清水支部が要求し、 改修をおこなった。 一九九一年、 清水の朝鮮人団体(総連と民団)が共に新築を市に要求し、その結果新しい納骨堂がつくられることになった。 新築をもとめるなかで、 一九九一年七月、 旧納骨堂内の調査がおこなわれた。 そのとき、 九三人分の骨が確認されたが、氏名があったのは三〇骨であり、そのうち四骨は判読不明であった。 他の六三骨については氏名不詳であった。

 一九九三年三月、 新納骨堂前で一二〇名あまりが参加して追悼会がもたれた。 この会は新納骨堂の完成を祝い、 日帝統治下に渡日し無縁仏となることを強いられた人々を心に刻み追悼する会であった。

 追悼会での追悼文(ハングル)をまとめると以下の内容になる。

 「国を奪われた者は言葉も文字も名前も奪われ、 臣民として日本帝国につくすことを強制され、 希望も体も奪われて悲運の生涯を送ることになりました。 名前も故郷も知ることのできないあなたがたは、侵略者の本性を告発し、全ての原因がどこにあり、元凶がだれであるのかをよく知っています。同胞を強制連行し、無住孤魂の悲惨な姿に落とした者たちの犯罪は決して許されません。歴史は必ずそれを清算するでしょう。 日本国民と平和・友好のなかで共存し、民族の自主独立と尊厳を守りぬき、 統一された祖国の地へあなた方を安置する日まで、安らかにお眠りください。

 無縁の骨たちは今も、 日本帝国主義の植民地支配のもとでおこなわれた朝鮮人強制連行という戦争犯罪を告発しつづけている。 強制連行の実態はここ数年少しずつあきらかになってきたが、 清水地域についてみれば、 強制連行にかかわった企業の関係史料の多くが隠されたままである。

 無住孤魂となった人々の鎮魂のために、 また日本と朝鮮に住む民衆が平和な関係をつくっていくためにも、強制連行の真相究明は急務である。

 静岡県の朝鮮人強制連行を記録する会の現地調査等であきらかになったことは以上である。 読者の皆さんからの清水での強制連行・強制労働の実態をあきらかにしていくための情報提供、協力を願う。

                                  1997    

 

参考文献

清水地域関係分

『清水隣保館関係資料』 清水市立中央図書館蔵

『清水市史資料近代』 『同・現代』 清水市 一九七三・七二年

『日軽金二〇年史』 日軽金 一九五九年

静岡県地理教育研究会 『富士川の変貌と住民』 大明堂 一九七六年

中央協和会 「移入朝鮮人労務者状況調」一九四二年(『静岡県史資料二〇近現代五』 静岡県一九九三年)

朴慶植編 『在日朝鮮人関係資料集成』 四・五・三一書房 一九七六年

朴慶植編 『朝鮮問題資料叢書四』 三一書房 一九八二年

中央協和会 『協和事業年鑑』 一九四二年 (復刻・社会評論社)

静岡県社会事業協会 『静岡県社会事業概覧』 一九四一年

厚生省勤労局 「朝鮮人労務者に関する調査 (静岡県分)」 一九四六年

東京華僑総会蔵 「事業場報告書関係書類」 一九四六年

鈴与一七〇年史 鈴与 一九七一年

『黒崎窯業五〇年史』 黒崎窯業 一九六九年

『日本鋼管株式会社四〇年史』 日本鋼管 一九五二年

『豊年製油株式会社二〇年史』 豊年製油 一九四四年

「清水海軍航空隊資料」 清水市中央図書館 一九九三年

山本リエ 『金嬉老とオモニ』 創樹社 一九八二年

静岡県立松崎高校郷土研究部 「戦争中のアルミニウム鉱山について」 一九八二年

金浩 「日本軽金属による富士川発電工事と朝鮮人労働者動員」(『在日朝鮮人史研究』 一九・一九八九年

「朝鮮と日本の親善のための碑」 清水市立中央図書館

原口清・海野福寿 『静岡県の一〇〇年』 山川出版社 一九八二年

「納骨堂関係資料」 朝鮮総連清水支部蔵

『静岡県労働運動史』 静岡県労働組合評議会 一九八四年