福岡「強制連行とは何か」研究集会参加記
2006年11月3日から5日にかけて強制動員真相究明ネットワーク主催による研究集会がもたれ、韓国の真相糾明委員会の10人を含む80人ほどが参加し、活発な討議をおこなった。
●強制連行概念について
報告の後、強制連行概念を中心に討論がおこなわれた。さまざまな意見が出されたが、その感想を記しておきたい。
強制連行という言葉の使用は歴史認識と結びつくものである。歴史認識とは何かと考えれば、現実をそのまま捉えるのではなく、そこにあるさまざまな要素の対立や拮抗関係、矛盾をつかみながら、よりよい新たな関係性を見据えて歴史像を描くということであるだろう。歴史を捉える地平や人間観、主体論が問われているといってもいい。
移入や労務動員という用語は国家権力が当時から使ってきたものである。その用語をそのまま使うのではなく、連行されて労働を強いられ、場合によっては死亡連絡や遺骨の返還さえなかった民衆の立場から歴史を表現するとするならば、強制連行という表現は歴史用語として欠かせない。この用語への共同の主観性の確立こそ求められると思う。
強制連行・強制労働概念においては、植民地支配下での精神の操作や身体への圧力による甘言や暴力による動員とその現場での拘束性をふまえ、その強制性こそが確認されるべきだろう。特に精神への統治支配の問題点を重視すべきだろう。徴兵徴用による戦争動員の再発を防ぐには、徴兵徴用の強制性をとらえなおし、それを人間の奴隷化として理解することの共有が求められるだろう。
植民地支配は植民地民衆をその帝国へと同化させるためにさまざまな手段を用い、奴隷精神を内面化させ、その支配に服従させ、生命をささげる人間を作り出していく。朝鮮での皇民化政策はそのひとつである。連行された人からの聞き取りのなかで、連行を美化する発言さえ現れることは、この支配の力の強さとその犯罪性が今も継続していることを示しているといえるだろう。日本人を含めて皇民化とは奴隷化政策であり、帝国主義戦争はそのような戦時奴隷を析出する体制であったと思う。奴隷化されているからこそ、他国民衆を殺し、性の奴隷を蹂躙することもでき、さらに「英霊」の枠に収められ、死後も収奪されてきたのである。
歴史認識とは皇民化された存在をそのまま実態として描くのではなく、そのような存在がどのようにして形成されてきたのかをとらえ、その存在に構造化されている植民地支配の強制性や暴力性を抉り出していくことにある。そのような営為がなければ、植民地支配や強制連行・強制労働を問題として提示できない。
近代帝国主義の戦争は植民地民衆をも自国の戦争に労務や軍務へと動員する総力戦であった。この戦争を動員された民衆の視点から捉えなおし、帝国の性的奴隷や労働奴隷とされた民衆自身を歴史の主人公として表現していくということ、このことが1990年代以降の被害者証言の続出と裁判闘争の展開のなかで、歴史を表現するものに問われてきたことであると思う。
朝鮮人が強制連行された時期は世界各地で強制労働がおこなわれていた。このような労働の基礎に戦争が遂行されていたわけであり、強制連行概念の提示の基底には、この強制労働のありようを繰り返さないという想いがある。それは歴史認識でもある。この時代を戦時労働奴隷制として捉え、その一形態として軍務・労務への朝鮮人強制連行を加えて考えていくことができればと思う。
「徴兵には志願もあるから強制連行ではない」「女子勤労挺身隊員は労働奴隷でない」という見方もあるが、天皇の兵士へと「志願」させたり、13~4歳の少女を工場労働へと「志願」させるように追い込んでいった植民地支配の皇民化政策の構造的暴力が問題であるし、その精神の奴隷化の罪を遡及しながらつかんでいくことが歴史の記述であると思う。その本質は人間の奴隷化であるだろう。過去のありようを正当化するのではなく批判的に捉え、証言だけを絶対視せず、現実の主体に組み込まれている植民地支配の仕組みを分析することが大切だろう。
集会では農業報国青年隊の評価についても、それが、皇民化世代の中堅層を支配の下層へと組み込み、報国の宣伝に使い、他の動員への前段の活動や労働動員態勢の拡大として利用されたことが紹介された。そのような動員過程から、強制性を読み解くべきだろう。
最近、「歴史修正主義者」が筑豊で動き、書籍を出して筑豊の負のイメージとして炭鉱犠牲者や強制連行という概念を否定している。そこでは植民地支配という概念をも否定している。このような立場からすれば、連行朝鮮人は「産業戦士」のままである。そこには強制性についての概念理解や歴史認識がなく、現実をそのまま正当化して記事を連ねるという姿勢しかない。そこでは強制性の否定につながる事柄をつなぎ合わせて自己の論を正当化している。だが、死者・遺族一人一人に対してこのような言説は通用しない。人間の尊厳の復権への視点がないからである。
連行朝鮮人の死者数は軍人軍属に関してはすべてではないが、約2万人の名簿を厚生省が作成している。しかし、炭鉱・工場などの労務現場での死者についてはまとまった死者名簿がない。
炭鉱での死亡者数の個別分析をみれば、連行者1万人規模の炭鉱では150人近いものがあり、3000人規模では50人を超えるケースが多いように思う。大きな事故で1度に100人を超える死者があった炭鉱もある。朝鮮人を数千人規模で連行した炭鉱は50箇所を超えているから、死亡状況からみて、炭鉱での死者数は4000人をこえるといっていいだろう。
北海道・福岡については連行期の朝鮮人死者名簿を作成したが、筑豊での最近の埋火葬関係資料から判明した死者数を加えると人数はさらに増え、計3500人ほどになる。ほかに、全国各地の判明分の死者数が約1500人分あり、現在手元に集約した連行期の労務動員関連の朝鮮人死者の数は5000人ほどになる。死者の状況がほとんどわからない炭鉱や工事現場も多く、集約できた数は労務現場へと連行された朝鮮人死者数の半数以下であるとみられる。労務動員関連での死者数は1万人を超えると見られる。ここには子どもの死者は除いたが2~3倍の死者があったと考えられる。
このようにみてみると、軍務・労務への連行と日本のみならず南洋・中国各地への連行における朝鮮人死者数は少なくとも3万をこえるといえるだろう。日本内で幼くして死を強いられた子どもたちも多い。未記録・未集約の死者を加えれば、この時期に数万人の朝鮮人の死者があったことは史実である。
子どもをふくむこれらの死者のうち遺骨が帰っていないものもある。1970年代以後に 韓国へと返還されたものもあるが、その歴史が明らかにされず、名簿が整理されないまま返還されたものも多いため、遺族へと返還されていないものも多い。日本に残され、地底に埋まったままのもの、海底に消えたもの、破砕されたものや無縁のままのものも多い。これらの遺骨については今後の真相調査が求められていえるだろう。現時点で寺院に残されている遺骨が少ないことや企業の残存資料の記述を根拠に、既成概念として「遺骨の未返還・死亡未通知」「連行犠牲者6万」をあげ、それらを間違いとしてしまうことはできない。
遺骨の未返還や死亡の未通知のものが実際にあり、1970年代まで未返還の多くの遺骨が寺院に残されたままになっていた史実をみつめ、連行状況や死亡状況の具体的な把握が求められているというべきだろう。
神岡鉱山関連では2006年になって寺院に残されていた遺骨の連絡先が判明した。このような現地での具体的な取り組みが尊厳回復に向けての活動として一つ一つ共有されていくべきだろう。また研究者の持っている資料コピーなどが共有されるような空間が必要だろう。参加者の一人は「加害者としての自己の立場を見なければつぎつぎに蚕食されていくことを自覚すべき」と語ったが、植民地支配での動員における強制性ついて理解する方向性がなければ、知らないうちに押し流されていることになるだろう。
筑豊では市民団体による朝鮮人関係の埋火葬関係資料の公開請求によっていくつかの自治体では公開がすすんでいる。それらの資料をこの調査の前後に分析したところ、麻生、古河目尾、住友忠隈、三菱飯塚、貝島大之浦などの炭鉱での死亡者名が数多く含まれていた。また、
強制連行の調査研究は、人間の尊厳の回復、歴史認識の共有、歴史的責任の理解、東アジアの平和にむけての民衆の共同作業であるが、その作業の前提として強制連行概念の確立と理解の共有化が求められる。
(2006年11月)