2008.10.11「無差別爆撃国際シンポジウム」東京

20081011日、東京で「無差別爆撃国際シンポジウム・世界の被災都市は空襲をどう伝えてきたのか」が開かれた。この集会は東京大空襲・戦災資料センター・戦争災害研究室が主催し、ゲルニカや重慶からの報告者も参加した。

集会でははじめに、東京大空襲・戦災資料センター館長の早乙女勝元さんが、戦争体験を追体験する時代に入り、平和記念館建設要求や空襲被害者による提訴という状況の中で戦争体験をどう継承していくべきかが課題となっていると問題を提起した。続いて戦争災害研究室長の吉田裕さんが集会の趣旨を、直接体験者が減少する中で記憶として継承し、展示していくこと、無差別爆撃は今も続いているのであり、その空爆を支える思想や社会関係を解明し、被害者の補償を進めていくこと、空爆を一国史の枠組で捉えずに旧交戦国との関係を問題にし、国際的な先例から学ぶことの三点にまとめた。

ゲルニカ平和博物館のイラッチェモモイショさんと重慶三峡博物館の李金栄さんがそれぞれの空爆の実態と展示の状態について映像を紹介しながら講演した。

ゲルニカ博物館が建設されたのは1998年のことであり、2003年にゲルニカ平和博物館と改称された。この博物館は、「平和の文化」を主張し、平和の思想や概念の紹介、人間同士の関係性からの問題の解決、攻撃した者たちとの和解、今日の平和の状況についての考察などを呼びかけている。1997年にはゲルニカの空爆についての「記録センター」が創設されている。

その館長のイラッチェモモイショさんは、ゲルニカの位置、スペイン内戦とゲルニカ爆撃、爆撃機種と1937.4.26空爆の実態、爆弾と焼夷弾と機銃掃射、ゲルニカをめぐる議論・証言、ピカソの作品、ゲルニカ平和博物館の建設と展示、平和の文化などについて、映像を紹介しながら話した。当時、フランコ側はゲルニカ空爆の責任を認めず、逆にバスク共和国軍によるものとした。また、今日までスペイン軍はゲルニカ空爆への関与を認めていないという。

紹介された映像の最後にはアメリカによるバグダッドの空爆の映像があり、そこには、今も続く空爆への強い怒りとその中止への想いを感じた。

 集会の冊子にはゲルニカ平和博物館の理念が紹介されている。そこには、歴史は私たちが感受性を使って和解への道を示す舞台であり、ともに平和に形を与えることができる場所であること、展示は答えを出す問いを生んでいく思考に火をつける導火線になりえること、「平和そのものが道」であり、平和の思考・概念などを問い、歴史と証言に学び、攻撃者との和解を通じて、世界の他の和解や平和調停にすすむこと、「決して忘れず、復讐もせず」などと記されている。

ここにはゲルニカ空爆を通じて、平和と和解への文化・関係・教訓・普遍性を獲得していこうとする姿勢がある。平和そのものが道であり、展示を「平和への思考の導火線」とするという視点には学ぶことが多い。

日本軍は1938年から1943年にかけて重慶を爆撃したが、その死傷者は25千人余という。1990年代には中国国内での証言収集や研究もすすみ、2001年には中国で『重慶大爆撃図集』なども発刊されている。20063月には重慶爆撃の被害者が日本政府に対し謝罪と賠償を求めて提訴した。

この間、重慶での調査をすすめてきた重慶三峡博物館の研究員である李金栄さんは、博物館の展示を映像で紹介し、重慶大爆撃の体験者15人の証言を示しながら重慶爆撃の特徴と実態について話した。

李金栄さんはいう。

重慶大爆撃は都市や住民を攻撃の対象とし、空爆で直接、大規模に住民を虐殺したものである。この空中からの住民虐殺という戦争犯罪は、清算や制裁を受けることなく、現代戦争のモデルとなっている。東京裁判では重慶爆撃などの都市爆撃による虐殺は訴訟の対象から除かれた。重慶市博物館では1980年代から重慶爆撃の資料を集め、2000年からは聞き取りの専門員をおいて、調査をすすめた。その中で聞き取り資料160人分、写真資料250枚を収集した。このなかには「5.3,5.4」大爆撃の生存者、5.27爆撃の生存者、大隧道死亡事件の生存者、近郊の梁平などの空襲目撃者、黒石子での埋葬証言者などがある。

空中から爆弾を投擲する行為は新しい虐殺行為であり、重慶の被害者はその後も長く続く空爆の歴史の初期の被害者である。この戦争犯罪は今も清算されずに賠償も受けていない。この戦争責任を問わなければ、人々の心の痛手は癒されない。この戦争の様式は現代戦争のモデルとなり、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争と大規模な都市爆撃で多数の重慶の「5.3,5.4」の悪夢が繰り返されてきた。重慶爆撃の犯行を清算できなければ、空中からやりたい放題に都市を爆撃するという行為を根本からなくすことができない。教科書事件と靖国参拝事件の発生にみられるように日本は戦争を反省していない。「歴史を鏡とし、歴史をして未来を語らしめよ」と考える。

以上が李さんの発言の要約である。李さんの発言にも、朝鮮・ベトナム・イラクと続いてきた都市への無差別爆撃への強い怒りとそのような爆撃の廃絶への強い想いがある。戦争犯罪を犯罪として自覚し、その清算を進めることなくして、現在の空からの殺戮をとめるとはできないのである。

この2人の話の後、戦災資料センターの山辺昌彦さんが「日本の平和のための博物館における空襲研究と展示の歴史と現状」という題で話した。

山辺さんは1970年代になってから東京大空襲の本格的な研究が始まったとし、大阪や横浜で研究が主導されていった経過を説明した。大阪での空襲と加害の展示にふれ、死没者名簿作成や空襲死者もモニュメントの建設についても紹介した。歴史博物館や平和博物館での展示の状況についても詳細にまとめ、最近の出版状況についても紹介した。さらに東京の戦災資料センターの活動についてもまとめた。そして、各地の平和資料館での中国への爆撃についての展示状況を示した後、無差別爆撃と国際法、日本空襲の概観、東京大空襲の経過と実相、被害者への補償など、研究の到達点と課題について話し、1922年のハーグ空戦規則とその国際慣習法化、無差別爆撃の歴史での東京と重慶、博物館と空襲展示のあり方などについて問題を提起した。

これらの発言を受けて、前田哲男さんが記憶の継承についてコメントした。前田さんは近年の研究と責任追及の状況を紹介し、20世紀が「空爆の世紀」であり、「都市の記憶」「共通の記憶」として共有すること、日本人が加害の記憶として空襲を語ることの大切さ、今も重慶や東京の空襲が清算されていないこと、現在も続く集団殺害、戦争犯罪としての空爆を問うことなどを語り、重慶の空爆とその記憶の回復、賠償要求への支援・連帯を呼びかけた。

集会には参加できなかったが、イギリス・コベントリー大学・平和和解研究センターのアンドリューリグビーさんは「戦争を後世に伝える」という題でコベントリーとドレスデンの事例を紹介する論文を出した。要約すると次のようになる。

コベントリーはイギリスの中規模の都市であるが、「平和と和解の都市」と称している。コベントリーはイギリスの軍需産業の中心地であったため、ドイツによる空爆を受けた。特に19401114日には11時間の及ぶ爆撃を受け554人が死亡した。聖ミカエル大聖堂も破壊されたが、首席司祭は平和と和解こそが壊滅から立ち上がる力になると考え、このような司祭の思考は継承された。地域の社会主義者らや市政関係者は交際的な連帯と親善を求め、他の破壊されたヨーロッパの街との関係を構築した。市政のリーダーによるキールやリディツェなどとの交流もすすめられた。地域の市民団体や平和活動家はコベントリー国際理解委員会を設立し、冷戦下での平和運動をすすめた。近年、宗教界、市政、地域の市民運動の3つの力で平和と和解に取り組む「コベントリー平和月間」が取り組まれている。

ドレスデンではドイツ統一以後、市民のやり方で空襲と犠牲者を祈念していく自由を得た。「1945213日」という組織が設立され、平和・人間性・責任についての根本的問題を議論し、追悼の現代的形態を模索するようになった。平和と寛容の精神を持って、敵であった人々とも平和的な協力を続けていこうとしている。コベントリーの体験は、敵同士であった者が和解にむけて国際的・国内的・地域レベルで協同することが未来への希望を生み出すというメッセージを発信している。

以上が要約である。空爆の犯罪性を自覚し、戦争責任をふまえて平和と和解に向かう市民の運動が、新たな世界の獲得につながる。博物館の展示は、そのような平和にむけての思考の導火線となりえる。空爆と戦争が廃絶される世紀にむけての思いを受けてさまざまな質問が出され、活発な討論がおこなわれた。

 浜松の陸軍部隊によるアジア空爆の歴史と浜松空襲への歴史を統合して把握する作業に取り組んでいくことの大切さを感じた。                                                 (竹内)