2010・9・18 アメリカ元捕虜・家族との交流会

 

2010年9月18日、東京で「アメリカ元捕虜・家族との交流会」がもたれた。日本政府は1995年から「平和友好交流計画」により、10年間、イギリス・オランダ・オーストラリアの元捕虜を招待してきた。しかし、アメリカの捕虜は除外されていた。2009年5月、駐米大使が「全米バターン・コレヒドールの会」の最後の大会に出向いて謝罪の意を述べ、日本への招待計画の検討を明言した。政府は「日米相互理解促進計画」を立てて1800万円を予算化し、2010年の来日となった。それにより、元捕虜グループは来日して外相と会見、外相は日本政府を代表して捕虜への非人道的扱いに対して謝罪した。その際、訪日団は政府による企業の謝罪への働きかけも求めた。また訪日団は京都東山区の霊山観音を訪れ、陸軍作成の捕虜死亡者名簿の複製資料を閲覧した。

この来日のなかで今回の交流会が設定されたが、それは市民団体による外務省への要求によるものだった。

日本軍は30数万人の連合軍将兵を捕虜とした。そのうち「白人」系は約14万人であり、多くが占領地での強制労働に使役された。国別にみれば、英軍は約5万人が捕虜となり、1万2千人が死亡した。豪軍では約2万2千人が捕虜となり、8千人が死亡した。米軍では約2万7千人が捕虜となり、1万1千人以上が死亡した。米民間人も約1万4千人が収容され、1500人ほどが死亡した。米軍捕虜の死亡率は4割と高いものである。

この連合軍捕虜の一部、約3万6千人が日本国内に連行された。かれらは炭鉱や軍需工場など130か所を超える箇所で労働を強制された。その労働のなかで3500人ほどが死亡した。日本への輸送途中での輸送船の撃沈や食料不良による死者も多い。連行された人々は、連行船を「地獄船」、その労働状態を「奴隷」と呼んでいる。

今回来日したのは、日本や「満州」での収容と労働体験を持つ元米兵捕虜である。それらの人々の経歴をみておこう。

団長のレスター・テニーさんはフィリピンで捕虜となった。テニーさんは「バターン死の行進」を強いられ、オドネル収容所からカバナツアン収容所を経て、日本に連行された。連行された福岡の三井三池炭鉱では1日12時間の労働を強いられた。テニーさんは日本企業の道義的責任と名誉ある行動を求め、経団連に対して謝罪を求める書簡を送っている。しかし、経団連からは返事がない。

ジョセフ・アレクサンダーさんはミンダナオ島で捕虜になり、川崎の鉄工所(日本鋼管扇町工場)で労働を強いられ、大森の捕虜収容所で解放を迎えた。アレクサンダーさんは2003年に川崎の工場を3度訪問するなかで、会社側から口頭での謝罪を受けた。

エドワード・ジャックファートさんもミンダナオで捕虜になった。ジャックファートさんは「鳥取丸」で日本の川崎に連行された。昭和電工では爆薬原料の容器詰め作業、三井埠頭では米袋を貨車に運ぶ仕事を強制された。1945年7月25日の空襲では収容所の防空壕が直撃され、22人の捕虜が死亡、翌日爆撃で死んだ仲間の肉片を片付けされられた。

 ドナルド・L・ヴァーソーさんはコレヒドールで捕虜となり、カバナツアン収容所などで死体埋葬などをさせられた。マニラ埠頭から日昌丸の船倉に押し込められ、日本の飯塚の日鉄二瀬炭鉱に連行された。そこでは平手打ちや殴打などの暴力による労働を強いられた。炭鉱での労働から逃れるために自分の腕を折るものもいた。

 アール・M・スツワボさんもコレヒドールで捕虜となった。スツワボさんはビリビッド収容所、カバナツアン収容所、パラワン島を経て、船に乗せられて連行された・砂糖と銅を積んだ船倉に押し込められ、砂糖の上で寝て、そこで排尿するという状態だった。日本の四日市に連行され、石原産業の四日市工場で熱した銅を型に流し込む労働を強いられた。

 ロバート・ローゼンタールさんはフィリピンで捕虜となり、バターン死の行進を経て、奉天収容所に連行された。奉天(現在の瀋陽)には4500人の捕虜が連行され、工場労働などを強いられた。

ジャニス・トンプソンさんの父親ロバート・トンプソンさんはコレヒドールで捕虜となり、ビリビッド収容所を経て、奉天収容所に連行された。乗船した鴨緑江丸、江の浦丸はともに撃沈された。最後にブラジル丸に乗せられて門司に送られ、さらに奉天に送られた。ブラジル丸の乗船者1619人には十分な水や食事が与えられなかった。そのため傷や病気による死者が続出し、生きて門司に着いたのは450人弱であり、さらに到着後2週間以内に150人が死んだ。ジャニスさんは映像作家である。最新作品には『バターンの悲劇』があり、元捕虜団体の「アメリカ防衛戦士の会」の次世代グループの会長として活動している。

ナンシー・クラアグさんの父親は「バターン死の行進」を経て、台湾・高雄での江の浦丸への爆撃による傷で死亡した。遺体は台湾の集団墓地に埋められ、戦後、ハワイの国立太平洋記念墓地に改葬された。遺族として次世代の活動をおこなっている。

 交流会では訪日団の紹介と経過報告がなされ、NGOの若い世代や研究者、同世代の元シベリア抑留者などさまざまな世代や団体から意見や質問が出された。

今後の第1の課題は、強制労働企業による謝罪である。テニーさんは強制労働への企業の道義的責任と名誉ある行動を求めて、次のように語っている。

「責任を取ることは、名誉ある行為です。そして日本が名誉を重んじる国であることは、世界中が知っています。同様に、何千人ものアメリカ人捕虜を奴隷にし、生きるために必要な最低の世話さえ施さなかった企業は、自ら進み出て、無実で武器を持たない捕虜たちを奴隷として虐待し、食事もまともに与えず、医療も提供しないという悲惨な扱いをしたことを、謝罪すべきだと思います」(「捕虜日米の対話」HP記事による)。 

強制労働企業によっては会見を拒否し、その史実さえ認知しないものもある。その背景には、連合軍捕虜のアジア各地での強制労働と虐待について、日本政府自身が総括的な調査を行っていないことがある。

まず第1にその真相調査を政府自身がおこなうべきだろう。その調査結果をふまえて、謝罪がなされるべきであり、また、その謝罪は実質的な賠償行為を示す行動をともなうべきである。企業による史実の認知と謝罪、賠償も欠かせない。賠償はたとえば、強制労働企業による和解にむけての平和基金設立などの形ですすめることもできる。他にもその記録を出版したり、死者の名を刻んだ追悼碑をつくることもできるだろう。経団連はそのような活動の調整をおこなう立場にある。市民団体による企業への要請行動も必要だろう。

戦時下、人間を奴隷化したことを直視し、その再発を防ぐ取り組みを行うことによって平和にむけての共同性が形成されていくと思う。サンフランシスコ平和条約で解決済み、過去のことは知らない、別会社であるといった言質は、決して被害者や遺族の同意をえるものではない。

 

(経歴と捕虜関係の数値は、POW研究会と「捕虜日米の対話」による集会資料・HP、伊吹由歌子「太平洋戦争の連合軍捕虜たち:事実認識・教育と癒し・和解」による)。

 

※ 2010年8月25日カリフォルニア州下院は、高速鉄道計画入札企業に対する戦時中の捕虜輸送の関与情報の明示を求める法案を可決した。この法案は州上院でも可決されている。これは強制収容所や捕虜収容所の列車輸送に関与した企業が当時の輸送記録や被害補償をおこなったかの情報を入札に先立って開示するというものであるが、州上院では捕虜のみならず朝鮮人の連行輸送経緯も審議されたという(毎日新聞2010.8.27)。

旧国鉄では主要な駅に朝鮮人を連行して配置していた。日本通運の拠点地域には朝鮮人が連行され、国鉄と密接な関係を持っていた。連合軍捕虜のなかには日通での強制労働を強いられた人々もいる。また、国鉄は朝鮮人・中国人・連合軍捕虜を連行先に輸送する役割を担っていた。新幹線に当たる「弾丸列車」用トンネルの掘削工事にも多くの朝鮮人が連行されている。

JRが新幹線システムをもって世界に参入するのであるならば、この強制連行・強制労働問題に対する歴史的責任への取り組みが不可欠である。そのことを、このカリフォルニア州法は示している。JRはこの問題の資料を明らかにし、強制労働者輸送への歴史的責任をとる行動を示すべきときである。(T)