飛行第31戦隊による海南島攻撃
海南島近現代史研究会第3回総会での報告から
○海南島近現代史研究会第3回総会
2009年8月9日、海南島近現代史研究会第3回総会が大阪市内でもたれ、海南島に関する研究報告と討論がもたれた。報告は、海南島での現地調査報告、海南島の震洋特攻基地調査、陸軍爆撃隊による海南島攻撃、当時の海南島での戦争報道の分析、海南島セミナーの中止問題などさまざまなテーマでなされた。
総会に参加し、浜松の爆撃隊と海南島攻撃について話す機会があった。
以下はそのときの報告の要約である。
○飛行第31戦隊による海南島攻撃
第1次世界戦争を経ての軍の近代化政策によって、浜松に陸軍航空部隊の爆撃隊がおかれたのは1926年のことです。この部隊を中心に陸軍の爆撃訓練がおこなわれ、基地も拡張されていくわけですが、毒ガスの投下訓練もおこないます。
●飛行第12戦隊と飛行第60戦隊
「満州」侵略戦争が始まると、浜松からも爆撃隊が派兵されます。この部隊を中心に満州で飛行第12大隊が編成され、のちに飛行第12戦隊となります。ここに飛行第12戦隊の満州侵略からアジア太平洋戦争末期までの行動地図がありますが、満洲から中国各地、さらにシンガポール、ビルマ、フィリピン、そしてインドへと爆撃を繰り返していくことになります。1933年の熱河作戦での爆撃作戦の写真などをみると、北京郊外の密雲などの爆撃ではすでに無差別爆撃をおこなっているといえます。満州での抗日部隊への爆撃写真をみても集落を爆撃しています。このころから無差別爆撃が繰り返されていたわけですが、それがよく知られてはいないのです。
中国への全面侵略戦争が1937年7月から始まりますが、このとき浜松では飛行第6大隊・飛行第5大隊が、戦争が始まるとすぐに編成され、派兵されていきます。これらの部隊が1938年にそれぞれ飛行第60戦隊、飛行第31戦隊に編成されます。浜松は陸軍航空爆撃隊の増殖の場であったわけです。
この飛行第60戦隊が中国大陸でどのような爆撃を行ったのかについては、中国での飛行第60戦隊の爆撃地図をみてください。この戦隊については爆撃写真集も残されていますが、重慶・蘭州をはじめ、中国各地の都市を無差別に爆撃しています。この飛行第60戦隊は飛行第12戦隊や飛行第98戦隊と共同して重慶爆撃をおこなっています。
さて、この飛行第60戦隊はアジア太平洋戦争にむけて浜松に戻り、1941年11月に浜松から新田原、嘉義、海口を経てプノンペンにすすみます。そして、ペナン、ラングーン、シンガポールを爆撃していきます。
海南島は中国南部を制圧するための拠点とされましたが、さらにインドシナからマレーへと東南アジア侵略にむけての出撃拠点として使われていきます。陸軍部隊は三亜からコタバルに向かっていきます。
浜松での他の動きをみておきます。浜松の陸軍飛行学校が中心になり、満州や浜松で航空毒ガス戦の訓練もおこなっています。また戦争末期の沖縄戦では義烈特攻隊が編成されますが、この部隊の輸送は爆撃隊が担い、浜松から出発しています。浜松は爆撃戦、航空毒ガス戦、特攻作戦の基地になっていくわけです。
●飛行第31戦隊
ここで、浜松から派兵され、海南島への攻撃もおこなった飛行第31戦隊についてみてみましょう。この部隊は軽爆撃隊です。この部隊は陸軍の地上部隊を支援して抗日軍への攻撃をおこない、1939年2月10日の海南島の攻撃の際には、海口飛行場の近くの演豊墟を爆撃しています。そのときの爆撃写真が戦隊史に掲載されていますが、集落への爆撃とみられます。爆撃によって殺傷された人々も多いでしょう。
飛行第31戦隊の動向をみると、この後中国南部の制圧戦に投入されます。海南島を占領し、中国南部の制圧に利用しようとしたわけですし、資源も略奪しました。のち海南島は東南アジア侵略の拠点にもなります。
飛行第60戦隊の動きについてもみておけば、1940年10月頃に海南島を爆撃し、11月には海口飛行場に一時移駐しています。
ここでみてきた爆撃は陸軍部隊によるものですが、これ以外にも海軍を含めて多くの爆撃がおこなわれました。海南島近現代史研究会による2008年の現地調査報告をみても、海口の石山鎮・春騰村での聞き取りに、遊撃隊の村を日本軍の飛行機が1週間ほど爆撃したとあります。海南島の現地資料を読み込めば、多くの爆撃事例が判明すると思います。
飛行第31戦隊は海南島攻撃ののち、ノモンハン戦争に投入され、アジア太平洋戦争ではビルマ各地を爆撃します。そして隼の戦闘機部隊に改変され、フィリピン戦に投入され、特攻の先駆けにもされます。部隊は壊滅状況になり、残留兵は遊撃部隊とされ、人肉食状況にも追い込まれます。スパイ容疑で現地住民を殺害しますし、このような状況下で生き残った兵士は少数でした。
●陸軍爆撃隊の写真
さて、浜松から派兵された陸軍爆撃隊による爆撃の写真をみてみましょう。これらは部隊史、防衛省の図書館、古書店から入手した資料から撮ったものです。満洲侵略での抗日部隊爆撃、重慶・蘭州・西安などの爆撃、昆明・保山などの援蒋ルート爆撃、シンガポール爆撃、ラングーンなどビルマの都市の爆撃、インパール爆撃など様々な写真が残されています。これらの多くが無差別の都市や集落への爆撃であり、これによって多くの民衆の生命が奪われたのです。
このように浜松はアジア爆撃にむけての派兵拠点となり、軍事基地として強化されます。また地域の企業の軍需産業化もすすみます。その果てに浜松への米軍による空爆や艦砲射撃がおこなわれたのです。浜松の空襲についても調べていますが、その歴史を明らかにする前に、浜松の爆撃隊が中国をはじめアジア各地で何をしたのかを明らかにし、その上で、浜松の空襲について調べようと思いました。部隊の戦隊史や写真などを調べて爆撃の歴史を調べ、毒ガス戦についても調べました。日軍暴行資料集のようなものが中国で出されていますが、それらを読むと必ず、爆撃被害について記されています。このような中国側の記事と部隊史の記述とを照合してみました。
シンガポールやマレー半島の戦争被害については、蔡史君編『新馬華人抗日資料1939−1945』に許雲樵編の「馬来亜華僑殉難名簿」があります。そこからマレー・シンガポールでの空爆によって死亡したとみられる人々をあげてみましたが、300人ほどになりました。これらは被害の一部を示すものです。
●戦争死者の名前を知ること
浜松から派兵され、各地で強化され、増殖した部隊はアジア各地を爆撃しました。多くの民衆がそれにより殺傷されたのです。浜松への空襲の歴史はそのような戦争加害の歴史をふまえて記されるべきと考えます。なお、浜松空襲関係の死者名簿も作成しましたが、その数は3500人を超えています。
1人1人の戦争死者について名前を知る作業は大切なものであると思います。そのような作業の蓄積、その作業のアンサンブルによって歴史認識の変革がすすめられると思います。戦争の歴史を絶たれた民衆の生命の無念の地平から表現すること、戦争死者を固有名詞できちんと記録することが大切であると思います。
海南島では、月塘村で戦争死者の氏名を刻んだ碑ができました。長仙聯村では戦争死者の氏名を含めての調査報告書が2008年に出版されています。これが、1939年の海南島攻撃から70年を迎える現在の状況です。侵略の実態を明らかにし、その史実を戦争死者ひとりひとりの側に立って記していく作業はいまもすすめられているわけです。その作業の蓄積が戦争を廃絶する力になると思います。過去の清算とは民主・人権・平和の実現に向けての民衆による歴史獲得の運動であると思います。
空爆の歴史、空爆の廃絶についても同様です。最近、空爆を問う形で、荒井信一『空爆の歴史 終わらない大量虐殺』や東京大空襲・戦災資料センター『東京・ゲルニカ・重慶 空襲から平和を考える』(DVD付)といった本も出されています。みなさんとも共同して、歴史の真実を明らかにすることができればと思います。
(2009年8月9日の大阪での報告を要約・補充)