ねえね 生駒 孝子
ねえね
いつも誰かの妹分だったわたしを、初めてあなたはそう呼んだ
会社に行けなくて壁に頭を打ち続けた朝から3ヶ月
ようやく復帰したあなたの話し相手に、
私が選ばれた理由を、あなた自身も知らない
けれど毎日ベルは鳴る
他愛ない世間話、子供のサッカーや、仕事の愚痴や、
取り留めの無い話はどこまでも続く
「ダメだ」
突然、一言だけのメールが届く
8回:9回:ベルは空しく響き続ける
また「恐くて出られない」の?
あなたはどこで頭を抱えて震えているの?
痛む背中をさすってあげるよ
「温かくて痛みが溶けてくよ」
2日後、いつものようにベルが鳴る
「おはよう、ねえね」
「ひとの気も知らないで」呑み込んだ言葉が
私ののど元で地団駄を踏んでいる
あなたの一言に一喜一憂する私の心は
どれだけ健康なのだろう
「かならず春はくるよ」
にわか「ねえね」は、今日も自信満々な演技を繰り返してみせる
「かならず春はくるよ」
朝 生駒 孝子
ひざ掛けの上から、太ももをさすりながら
トラックを走らせる
ヒーターはまだ効かない
黒くうねった川が、心細さを思い出させる
私の目は、闇の中に灯を探し始める
あった
土手を下り始めると、灯が一つ浮かんでいる
その窓には、堆く重ねられた材料を前に働く人がいる
前掛けを掛け、背を丸めた小柄な女工がひとり
他に何もない
しんしんと冷たい色の空気が振動する
ああ、同じ朝だ
私はみぞおちの辺りに、じんわりと温まるのを感じて
ほっとため息を吐く
そうしてようやく視線を戻すのだ
さあ、今日も一日が始まる