戦争の拠点・浜松1 

「満州」侵略と陸軍飛行第一二大隊

はじめに

1飛行第七大隊第三中隊の「満州」派兵

2飛行第一二大隊の編成と反満抗日運動への弾圧

3飛行第一二大隊と熱河侵略

4飛行第一二連隊への改編

5飛行第一二戦隊によるアジアでの空爆

おわりに

 

  はじめに

 

 一九三一年一一月、浜松の陸軍航空基地(飛行第七連隊)で飛行第七大隊第三中隊(軽爆撃)が編成され中国東北部(「満州」)へと派兵された。この部隊に浜松からの重爆撃部隊を加えて一九三二年六月に編成された部隊が飛行第一二大隊である。

 飛行第一二大隊が作成した写真集に『満州事変記念写真帖』『満州事変出征記念写真帖』がある。前者の『写真帖』には中国東北各地での空爆のときの状況が註をつけてこまかく記されている。この『写真帖』と防衛庁防衛研修所戦史室『満州方面陸軍航空作戦』から、一九三一年一一月から三三年五月までの飛行第七大隊第三中隊、飛行第一二大隊の中国東北での動きをみ、中国側の史料からその加害の状況を考えたい。それをとおして浜松で編成された爆撃部隊が中国侵略で果たした役割をあきらかにし、浜松が戦争の拠点であった歴史を記したい。

 空爆は大量殺戮攻撃であり、その東アジアでの歴史は浜松を拠点とし、中国東北からはじまる。

 

 一 飛行第七大隊第三中隊の「満州」派兵

 

 飛行第七連隊は一九二五年二月に立川で編成された。この部隊は軽爆撃と重爆撃を任務とするものであった。浜松での陸軍の航空基地建設を大倉土木が担った。飛行場の建設工事には朝鮮人を含めた多くの労働者が従事した。立川から浜松への第七連隊の移駐は一九二六年五月だった。基地関連工事はその後もすすめられ、大軽油庫、飛行機庫、兵舎、兵器庫、地上射撃場などがつぎつぎに建設されていった。 

一九三〇年一月段階での陸軍航空部隊の配置状況をみると、飛行第一連隊(各務原・戦闘四中隊)、飛行第二連隊(各務原・偵察二中隊)、飛行第三連隊(八日市・戦闘三中隊)、飛行第四連隊(大刀洗・戦闘二中隊・偵察二中隊)、飛行第五連隊(立川・偵察四中隊)、飛行第六連隊(平壌・戦闘一中隊・偵察二中隊)、飛行第七連隊(浜松・軽爆二中隊・重爆二中隊)、飛行第八連隊(屏東・戦闘一中隊・偵察一中隊)となっている。当時の中隊の編成規模は戦闘中隊が一二機、偵察・軽爆中隊はそれぞれ九機、重爆中隊は六機であった。

 浜松には陸軍航空としては唯一の爆撃部隊がおかれていた。のちにみるように侵略戦争の拡大とともに爆撃部隊は浜松から中国へと派兵され、現地で増強されてさらに各地へと配備される。浜松は実戦とそのための訓練・研究の拠点となり、浜松から派兵された部隊は増殖をくりかえすことになる。

 一九三一年九月一八日、日本(関東軍)の謀略によって中国東北部での侵略がはじまる。日本が奉天(現瀋陽)を占領すると、中国側は錦州を拠点に抵抗し、東北部各地では反満抗日連勤がはじまっていった。

 一〇月八日、関東軍は錦州への無差別爆撃をおこなった。この空爆を担ったのは平壌の飛行第六連隊で編成され派兵されていた独立第八中隊(偵察)、同第一〇中隊(戦闘)であった。空爆は機体に二五キロ爆弾を四発ずつ真田ひもで吊るし、目測で投下するというやり方でおこなわれた(以上防衛庁『満州方面陸軍航空作戦』による。以下日本側の動きについては主にこの本からまとめ、中国側史料で補足をしていく)。中国側によれば一〇月九日の調査で死亡二三人、重症二六人、軽症三人とある(『苦難与闘争一四年上』一七九頁)。

 関東軍は空爆によって張学良らの東北政権への威嚇をはかり、戦争を拡大し侵略をさらにすすめようとした。しかしこの空爆は国際的な批判を受けた。一方、日本国内では桜会によるクーデター計画の発覚(一〇月事件)にみられるように軍部政権樹立にむけてのファシズムの動きがつよまっていた。

 一一月一六日、偵察・戦闘・軽爆の各一中隊の派兵命令(臨参命第四号)が出された。軽爆中隊は浜松の第七連隊で編成され、その部隊名は飛行第七大隊第三中隊とされた。八七式軽爆機九機が浜松から大刀洗、蔚山を経て奉天にむかった。途中三機が故障した。派兵された将兵の人員は一一六人だった。

 この飛行第七大隊第三中隊は派兵されるとすぐに中国東北部での空爆をおこなっていく。それは一一月末湯崗子西方(鞍山市西南)の抗日軍や一一月二四日の太子河を渡河する部隊への空爆である。『苦難与闘争一四年上』では一一月二七日、北寧鉄道(白旗堡と銭陽河の間)と大虎山で日本軍機による投爆があったとする(一八二頁)。

 この飛行第七大隊第三中隊に加え、重爆中隊の増派命令が出され、一二月二八日には寒地訓練の名目で周水子に飛来していた浜松基地の八七式重爆機の四機が飛行第六大隊第一中隊として関東軍の隷下に入った。浜松から派兵された軽爆・重爆部隊を加え、一二月末から「匪賊討伐」を口実とした錦州への攻撃がはじまる。日本は抗日部隊を「兵匪」とよんで殺戮した。

 錦州の防衛のために中国側は盤山・大虎山などに軍の拠点をおいていた。飛行第七大隊第三中隊は一二月二五日、大石橋飛行場へと展開し、北寧鉄道営口支線の装甲列車を爆撃、二九日には盤山市街の部隊を爆撃した。また溝?子への空爆もおこなった。日本によって盤山は二九日、溝?子・大虎山は三〇日に占領された。

 飛行第六大隊第一中隊(重爆)は三〇日に一機が北寧鉄道営口支線東側を威嚇飛行、他機は奉天西飛行場に展開し、通遼を爆撃した。このような空爆による支援のもとで一九三二年一月三日、日本は錦州を占領した。『苦難与闘争一四年上』によれば一月一日に一〇機による錦州への空爆があった(一八九頁)。大隊による錦州への空爆もおこなわれたとみられる。

 飛行第一二大隊の『写真帖』には三一年一二月末の盤山、溝?子への空爆跡を示す写真や三二年一月の大石橋飛行場での格納や整備を示すものがある。また三二年一月二四日におこなわれた大虎山の抗日部隊への空爆を示すものもある。

 重爆部隊は一月八日、浜松へと帰るが、軽爆部隊は中国東北部にとどまり、二〇師団に協力し、本渓湖や鳳凰城東側山地の抗日部隊根拠地を爆撃するなどの作戦をおこなった。

 『日軍暴行録遼寧分巻』には一月二五日大虎山北方の梨樹営子(阜新・国華)を一四機が爆撃したとある(四八頁)。

 日本は「上海事変」をおこし、一方で軍用機の支援の下でハルビン攻撃をおこなった。飛行第七大隊第三中隊は二月五日のハルビン占領につづいて、六日にハルビン飛行場に展開、他の中隊と共に退却中の抗日部隊を攻撃、七〜八日には車両・騎兵密集部隊などを攻撃し、一〇日奉天に戻った。

 

 二 飛行第一二大隊の編成と反満抗日運動への弾圧

 このハルビン占領によって関東軍は「満州」の主要都市を制圧したことになり、三月には「満州国」建国を宣言する。しかし各地で反満抗日の運動が形成されていた。

 九・一八以後の抗日の動きについてみておけば、閻宝航らによって東北民衆抗日救国会が設立され、各地で義勇軍が結成されていく。たとえば遼西では東北民衆自衛義勇軍第一路軍、遼南では遼南救国軍(李純華ら)、遼東三角地帯では三一年一〇月に東北民衆自衛軍(ケ鉄梅ら・三二年三月には東北民衆自衛義勇軍第三八路軍へ)、他に五六路軍(劉景文ら)、三五路軍(李子栄ら)、大刀会など、遼東・東辺道では三二年三月に遼東民衆自衛軍(唐聚五ら)が結成された。吉林でも三二年一月末、吉林自衛軍(李杜・丁超ら)が結成され、二月には吉林東部で中国国民救国軍(王徳林ら)が結成された。四月には黒竜江抗日救国軍(馬占山ら)が設立され、ホロンバイル・ハイラルでは三二年九月に東北民衆救国軍(蘇炳文・張殿九・謝珂ら)が結成されていく。このように各地で抗日義勇軍が蜂起していくのである。浜松から派兵された部隊はこれらの抗日軍への弾圧用に使われていく。

 飛行第七大隊第三中隊はハルビンから奉天へ帰ると、すぐにハルビン以西の吉林自衛軍を攻撃するためにハルビンヘと展開、二月一九日、巴彦の抗日司令部を爆撃、二〇日には枷板帖の部隊を爆撃するなど、攻撃をくりかえした。

 三月一七日には王徳林らの救国軍部隊を弾圧するために寧安に展開し、一八・一九日と五虎林・哈家屯を爆撃、四月七日には方正に展開し、依蘭の司令部などを偵察部隊と共に攻撃し、五〇キロ爆弾九六発や重爆弾・「焼夷」弾など計一四四発を投下した。『写真帖』には方正市街地司令部や依蘭市街無線電信所への爆撃などの写真がある。方正と依蘭への攻撃では「焼夷」弾が使われたことも記されている。

 五月二八日には馬占山らの抗日救国軍との戦闘を支援するために再びハルビンヘと展開、東支鉄道沿線、松花江、呼海鉄道沿線などの抗日部隊を爆撃した。さらに泰安鎮へと展開し、呼蘭方面へと爆撃をすすめ、呼海鉄道以東へと攻撃をすすめた。

 『写真帖』には五月三〇日阿城北方正紅旗、六月六日五常鎮、六月一六日での攻撃や三門宗家付近の写真がある。

 このような黒竜江での抗日救国軍との戦闘がはじまるころ、日本国内では五・一五事件がおこされている。日本は中国東北での抗日軍との戦闘能力を一層強化するために、六月に浜松から重爆部隊を派兵し、すでに展開している軽爆部隊と合体させて飛行第一二大隊を編成した。

 飛行第一二大隊は第一中隊(重爆一中隊)、第二中隊(軽爆一中隊)の編成であり、当時軽爆機は八八式六機、重爆機は八七式四機であった。大隊の拠点は「新京」(現・長春)におかれた。一九三二年一二月の飛行第一二大隊仮営門の写真には高圧電流を流す鉄条網も写されている。

 重爆中隊の浜松から「満州」への移動は六月二〇日であり、七月八日以後、第一二大隊第一中隊として黒竜江での抗日部隊への攻撃に加わった。

日本軍の爆撃部隊名は不明だが、このころ各地で空爆が行われている。

 五月下旬には寛甸(遼寧)での攻防戦で爆撃がおこなわれ、中国側の部隊の一団が壊滅し、城内の住民も被害をうけた(『偽満州国史』四九三頁)。

 六月二三日、日本車は朝陽・二車戸溝を飛行機の偵察と爆撃の支援下で攻撃するが抵抗を受けて退却、三三年一一月には日本が報後攻撃をおこない五七人の村民男性を殺害した(『日偽暴行』二一六頁)。

 七月二三日には日本軍機が承徳を爆撃した(『中国抗日戦争大事紀』二九頁)。

 八月一九日には、五機が盤山の高昇上空から投弾・掃射をおこない五〇人余が爆死、負傷者は一〇〇人余の被害となった(『日軍暴行録遼寧分巻』一四八頁)。

 このような日本軍の攻撃と弾圧をはねのけ、八月二八日、抗日義勇軍二一・二四路軍が奉天を攻撃している。このため九月に入ると「満州」南部の抗日軍への攻撃が強化された。飛行第一二大隊第二中隊は奉天に展開し、一五日頃まで遼東、東辺道の抗日軍攻撃に加わった。山城鎮飛行場や鳳凰城飛行場へも展開し、地上部隊を支援した。『写真帖』には八月、錦州近くの太盧花廟山岳、老爺嶺山地や九月一一日の東辺道・前七台への爆撃写真がある。

 九月二七日には抗日義勇軍が錦州を攻撃したことへの報復攻撃として大雷溝への爆撃を含めた攻撃がおこなわれた。爆撃によって、四肢がちぎれ血肉が飛散する惨状となった。日本軍は民衆を広場に集めて抗日軍の居場所を問いつめ、空き家に火を放った(『日軍暴行録遼寧分巻』六五頁)。

 一〇月九日、日本軍は北票の三宝営子へと飛行機による爆撃支援のもとで侵攻した。李海峰らの抗日義勇軍が日本の特務を捕えたことが口実とされた。攻撃によって義勇軍は三宝営子を離脱、日本軍は三宝営子を義勇軍拠点とみなして放火し、住民を銃撃した。死者は百数十人、焼失家屋は百余戸という(『日偽暴行』二一一頁)。

 この二件の攻撃に第一二大隊が参加していたかは不明である。写真帖に残されている第一二大隊が空爆した抗日部隊の拠点においても、場合によっては爆撃後日本車が制圧し村を焼き人々を殺すという行為がおこなわれたであろう。

 この一連の抗日部隊への作戦のなかで、飛行隊は九月には皇姑屯で一般民を空爆、一一月には東辺道北隣で「帰順者」への爆撃という「誤爆」をした。防衛庁の戦史叢書にはこの二例が記されている。空爆による一般民衆への被害は常にあったとみられる。

 一〇月には内モンゴルのホロンバイル方面の民衆救国軍への攻撃に第一二大隊が加わった。

 一〇月八日に日本軍機が救国軍や中東鉄道西側を爆撃した(『日軍暴行録黒竜江分巻』七三頁)。一一日からは爆撃がくりかえされるようになり、一五日には日軍機三機がハイラル駅・鉄道を空爆、この日、第一二大隊第一中隊の重爆機はチチハルからハイラルまで飛行し、中国側に接収されていた輸送機を空爆、一六日にはハイラル扎蘭の中東鉄道沿線を爆撃した(『日軍暴行録黒竜江分巻』七三頁では毒ガスも使用とする)。一七日には六機の重爆撃機とともに中国陣地を攻撃した。二六日には日軍機がハイラルの東北民衆救国軍総司令部を爆撃した。 

二七日、第一二大隊の全隊がチチハルに展開した。一一月六日には訥河県城内の電信局、一一月一〇日にはチチハル西方嫩江右岸の抗日軍などを空爆(『写真帖』)、一一月末からの扎蘭付近の攻撃では一〇〇キロ・二〇〇キロの爆弾を用いて鉄道を爆破、一二月一日〜三日にかけて重爆隊は博克図で列車を爆撃、軽爆隊は景星付近の抗日軍を爆撃し、三日には馬占山が潜伏中と伝えられたハイラルの製粉工場を爆撃した。

 一二月末には吉林東境の抗日軍への攻撃が計画され、三三年一月一日、第一二大隊第二中隊は偵察隊とともに牡丹江飛行場へと展開した。飛行隊は戦闘や警備に協力し、二四日に「新京」へと戻った。

 南・北・東の反満抗日義勇軍の主力はここでみてきた日本車の攻撃によって三三年一月には後退を余儀なくされた。しかし抵抗者たちは抗日遊撃隊となって「満州国」統治に抵抗しつづけていく。

 

 三 飛行第一二大隊と熱河侵略

 三三年に入り、日本軍は熱河省の占領をねらって攻撃をすすめた。一月三日には軍機の支援下で山海関を占領、六日には軍機の支援下、石河陣地を攻撃し、秦皇島近くの村々を爆撃した(『中国抗日戦争大事紀』三五・三六頁)。

 通遼方面の抗日軍への攻撃もすすめられ、一月二二日開魯城内のケ文の宿舎をねらっての空爆がおこなわれた。『写真帖』には二五目に開魯付近の抗日軍を攻撃するために集結した重・軽爆機の写真がある。

 『九・一八事変図片集』の「狂轟濫爆」の項に開魯で被爆した民家・食料店の写真が三葉収められている。空爆によって多くの民衆が被害を受けていたことがわかる。

 『中国抗日戦争大事紀』の一月二三日の項には日軍機が連日開魯を爆撃とある(三七頁)。二三日には投弾数十としている。開魯は二月二四日、日本軍によって占領された。

 日本軍は熱河省占領とともに長城をこえて河北省へと侵入する。この熱河作戦には飛行第一二大隊全隊が参加した。二月二〇日には錦州飛行場へと集結。主な攻撃は二五日の朝陽西方の大営子・大平房付近の歩騎兵、二六日の約一五〇〇の兵、三月二日、四日の承徳方面に退却する兵への爆撃がある。四日の投弾量は一六七五キロにおよんだ。三月五日には長城近くの界嶺口まで兵を追い、対杖子付近を爆撃した。

 三月一〇日からは長城線での戦闘となった。第一二大隊は三月一三日以降、抬頭営、建昌営などを空爆した。三月中旬の羅文峪での戦闘でも飛行機が使われた。三月下旬には主力を緩中飛行場へと展開し、冷口付近や?東地区を爆撃した。『写真帖』には三月五日対杖子、三月一二日古北口、三月一六日喜峰口西方望楼、三月二三日建昌営、三月三〇日冷口付近八道河などへの爆撃写真がある。

 四月には古北口、南大門、興隆などへの攻撃に加わった。四月一一日?橋梁(永平西方)、四月一三日抬頭営市街、四月一八日密雲市街、二三日からは南天門付近の陣地を爆撃した。『写真帖』によれば密雲への爆撃は高度二千メートルから十五キロ爆弾五四発を連続投下するというものだった。この密雲への爆撃は無差別攻撃といっていい。

 五月九日、第一二大隊第二中隊の軽爆隊を承徳飛行場にすすめて第八師団を支援、第一二大隊主力は建昌営飛行場にすすみ第六師団を支援、重爆隊は綏中飛行場から戦闘を支援した。

 第八師団は五月一一日、新開嶺付近の兵を攻撃した。その攻撃に重爆隊も参加、第八師団は三日間の戦闘で石匣鎮を占領、投下爆弾は四四〇発におよんだ。一方、第六師団は五月一二日?河を渡り、第一二大隊は対岸陣地を空爆し、渡河を支援した。『写真帖』には五月一一日新開嶺、一三日永平西方三家唐付近、遵化城壁などへの爆撃写真がある。新開嶺では二五〇キログラム爆弾も使われた。

 『中国抗日戦争大事紀』には五月一九日、日本軍は密雲を占領、二〇日には第八師団が密雲、第六師団が玉田一帯に集結、同日、日軍機十一機が北平(北京)上空を威嚇飛行とある(四六頁)。『写真帖』から第一二大隊が五月二五日にはさらに前進して玉田飛行場に展開していたことがわかる。このような形で北京占領への威嚇がおこなわれ、そのもとで三一日に塘沽での停戦協定が成立する。六月五日、日本軍の撤収とあるが、日本軍は密雲、石匣鎮、建昌営、玉田に兵力を残しての撤退であった(『中国抗日戦争大事紀』四九頁)。第一二大隊は「新京」へと撤退した。

 「満州事変」から熱河作戦が終わるまでの日本の空中勤務者の戦死者は二五人、そのなかには「新京」での着陸時の残弾爆発事故死が六人いる(一九三二年一二月二三日)。他方、多くの中国民衆が空爆によって生命・家族・財産を失い、負傷者も数多く出た。その傷は生涯痛み続けたであろう。

 

 四 飛行第一二連隊への改編

 一九三四年の春、飛行第一二大隊は九三重、九三双軽、九三単軽へと機種を変える。一一月には飛行第一二大隊から飛行第一二連隊となった。第一二連隊は第一二大隊を第一大隊とし(重爆一中隊・軽爆一中隊)、さらに浜松から派兵された重爆二中隊を部隊に加えて第二大隊とした。

 第二大隊が浜松を出発したのは一二月一七日のことだった。拠点は公主嶺となった。

一九三一年の開戦時に、浜松にしか配置されていなかった爆撃部隊は一九三五年一二月には以下のように増殖していた。

 飛行第七連隊  浜松 軽爆二中隊・重爆二中隊

 飛行第六連隊  平壌 軽爆二中隊(三三年に配備)・戦闘一

飛行第八連隊  屏東 軽爆一中隊・戦闘二

飛行第九連隊  会寧 軽爆二中隊・戦闘二

飛行第一〇連隊 チチハル 重爆二中隊(三六年一〇月浜松から)偵察二

飛行第一二連隊 公主嶺 重爆四中隊

飛行第一四連隊 嘉義  重爆二中隊

飛行第一六連隊 牡丹江 軽爆二中隊(一二連隊から軽爆を抽出)戦闘二

 飛行第一二連隊はここで重爆隊となり、軽爆は第一六連隊へと移行した。

 一九三七年七月、中国への全面的な侵略戦争がはじまると、陸軍の爆撃隊が中国大陸へとつぎつぎに派兵された。三八年八月には陸軍の航空部隊は戦隊へと改編された。この全面戦争にともない派兵された部隊は、飛行第五大隊(軽爆・第三一戦隊)、飛行第六大隊(重爆・第六〇戦隊)、飛行第九大隊(軽爆・第九〇戦隊)、独立飛行第三中隊(重爆・第九八戦隊)、独立飛行第一五中隊(重爆・第九八戦隊)、独立飛行第一一中隊(軽爆・第四五戦隊)などである(カッコ内の戦隊名は三八年八月に改編された名称)。

 「満州・朝鮮」の爆撃隊も改編された。改編された部隊は第一二戦隊(公主嶺・重三中)、第一六戦隊(海浪・軽三中)、第五八戦隊(佳木斯・重三中)、第六一戦隊(チチハル・重三中)、第九戦隊(平壌・軽二中)、第六五戦隊(宣徳・軽二中)などである。

 

 五 飛行第一二戦隊によるアジアでの空爆

 飛行第一二大隊から改編された飛行第一二連隊は、のち飛行第一二戦隊(重爆)・第五八戦隊(重爆)・飛行第一六戦隊(軽爆)に分離し、中国をはじめアジア各地を爆撃することになるが、その動きをみておこう。

 中国への全面侵略がはじまると、第一二連隊は錦州に集中し、独断で天津へと飛来し、七月二六日には廊坊を空爆した。三九年のノモンハン事件ではハイラルに展開しタムスク飛行場・サンベース市街・ハルハ河左岸陣地を空爆、四一年八月飛行第六〇戦隊とともに重慶や蘭州への戦略爆撃に参加した。アジア太平洋地域への戦線拡大にともない、プノンペンに展開、四一年一二月マレー作戦、ビルマ作戦、四二年一月シンガポール攻撃、二月スマトラ作戦などに参加、四二年一一月にはスラバヤに展開し、ジャワ周辺の作戦に参加、四三年五月ビルマのレグーに展開し、インドのチッタゴン・カルカッタなどを爆撃した。四四年七月にはフィリピンのクラークに移り、一一月ケンダリー・モロタイを攻撃し、四五年七月屏東へと移動した。

 飛行第一二連隊の第二大隊(重爆)は第五八戦隊となる。

 五八戦隊は三九年六月佳木斯に移り、四〇年八月、広東に展開し、桂林攻撃に参加した。その後佳木斯に戻るが、四三年二月スマトラに展開、四三年七月上海対岸の大場鎮に展開し、漢口から零陵への攻撃をおこない、八月二三日には重慶を空爆した。一〇月にスマトラ島メダンに展開して船団を護衛、四四年六月独立飛行第三一中隊を編成した。四五年一月、コンポンクールに展開し、ビルマ攻撃に参加、のち台湾へ移る。

 第一二大隊の軽爆部門から編成された飛行第一六連隊(のち第一六戦隊)は第二次ノモンハン事件に参加し、アジア太平洋戦争にともないフィリピン攻撃に参加し、パターン・コレヒドール攻撃をおこなう。四二年六月以降、彰徳に展開し、河南・湖南での作戦により司令部や部隊への攻撃をおこなう。四四年一月から三月には遂川、衡陽の米軍基地を攻撃、七〜八月には?江、安康を攻撃、一〇月には成都への爆撃をおこなう。四五年一月、老河口を攻撃、その後平壌に移り、五月には沖縄戦に投入された(『航空隊戦史』『陸軍航空の鎮魂』による)。

 飛行第一二戦隊の動きをみると、ロシア、中国、マレーシア、シンガポール、フィリピンと各地で空爆をおこなっていることがわかる。サンベース(ロシア)や重慶、蘭州、シンガポールなどでの空爆は無差別爆撃であり、大量殺戮につながるものであった。これらの空爆によって死傷した人々や破壊された建物は、計り知れない数である。

 ここで蘭州の例をみておこう。

 飛行第一二戦隊は飛行第六〇戦隊・第九八戦隊と共に一九三八年一二月、重慶への戦略爆撃をおこない、三九年二月には蘭州への爆撃をおこなっている。蘭州はシルクロードの東端にあり、交通と軍事の拠点であった。

 蘭州への三九年二月の攻撃は一二日、二〇日、二三日とおこなわれた。ともに市街地への無差別攻撃であった。二月二三日の空爆によって、唐代の建築である普照寺蔵経楼が被弾、唐代の経典を焼失した。市街地にも多数の爆弾が投下され、死傷者は百人あまりとなった。二〇日の攻撃では九八戦隊の伊式重爆機二機、二三日の攻撃では一二戦隊の伊式重爆機三機が撃墜された。この空爆をおこなった陸軍の重爆部隊のすべてが浜松から中国へと派兵され、戦隊へと改編された部隊である。

 これらの空爆への蘭州民衆の怒りは大きかった。一九三九年二月二七日から三月二日にかけて「敵機残骸展覧会」がもたれ、伊式重の残骸、航空兵の死体や所持品が展示された(『蘭州文史資料第八集』二七頁)。飛行第九八戦隊の隊史、『中国方面陸軍航空作戦』(一四〇頁)や『蘭州文史資料第八集』の記述(大尉の名が「二井」と判読)から、展示されたのは二〇日に墜落した第九八戦隊の「上田機」である。展示会には日記・地図・護身符・大尉の家族写真もあったという。機内で発見された七人の死体は文史資料では「鬼子」と記されている。

 無差別爆撃をおこなう「鬼子」をつくりあげたシステムとその責任を問うことは再発を防ぐためにも大切なことであると思う。

 

 

 おわりに

 ここでみてきたように浜松から中国東北へと派兵された爆撃部隊は一九三二年三月には方正などの市街地へ「焼夷」弾攻撃をおこない、各地の抗日義勇軍に対して空からの殺戮攻撃をおこなっている。三三年の開魯・建昌営・抬頭営・密雲などへの空爆は戦略爆撃の様相を呈している。

 浜松陸軍飛行学校で一九三九年に爆撃技術教育を受け、飛行第九〇戦隊の第一中隊長として中国で空爆をおこなった山崎武治はつぎのように記す。

「軍事拠点といってもひっきょう民衆の部落(ママ)」「巻き添えになる婦女子・子どもも多かろう」「一役ごとに念仏唱えたい心境」「幸いな事に爆撃だけで悲惨な修羅場が眼に映らないのが救いであった」と(『飛行第九〇戦隊史』二〇四頁)。

 この記述から、軍事拠点への攻撃の多くが一般集落であったこと、悲惨な死体を自らは見ないで済むことを理由に殺戮を容認していく思考がうかがえる。

 航空機による爆撃の導入により、人間は大量殺戮を「効率」的におこなうようになり、殺戮という加害への自覚は薄れていった。

 郭沫若は詩「最も怯懦な者こそ最も残忍だ」でつぎのように批判する。残忍な爆撃が錦州にはじまり、上海・南京・広州・武漢・重慶と続き、爆弾が役下されるのはいずれも中国の土地であり、死ぬのはすべて中国人民である。千人針や護身符を身につけ、自身は危険のない場から「英雄」の本領を発揮しようとする。そのような最も怯儒懦な者こそ最も残忍である、と(前田哲男『戦略爆撃の思想』上九六頁)。空爆は人間が自らを「怯懦」で「残忍」な方向へと疎外することでもあった。

 強力な武器を用い空爆によって軍事的な勝利を得たとしても、組織的に侵入し殺人を実行することは犯罪であり、その倫理における敗北は明らかである。そのような行動は国境を越えての人間的な信頼を得ることはない。民衆の抵抗は継続し、日本は撤退せざるを得なかった。

 前田哲男は『戦略爆撃の思想』で、日本が関わった「空からのテロリズム」の歴史を直視することを述べ、重慶爆撃を無差別大量殺戮史における「失われた環」(ミッシングリンク)としている(下・二九〇頁)。戦略爆撃は都市そのものを対象とし、侵攻とは別の見地から遂行され、対人殺傷兵器を多用する。重慶爆撃ではそれが組織的・反復的・持続的におこなわれたとする(下・一九○頁)。

 「満州」侵略戦争時の中国東北での第一二大隊の空爆は重慶・蘭州などへの戦略爆撃の起点となる攻撃であった。「失われた環」は重慶爆撃のみならず第一二大隊がおこなった空爆にもあるといえるだろう。

 浜松が戦争の拠点となり、浜松から派兵された爆撃隊が中国東北でおこなったこと、侵略戦争が拡大するなかで東アジア各地への空爆を都市への戦略爆撃を含めておこなったことは、ひとつひとつ記述されなければならない。それは、ひとつひとつが「失われた環」であるからだ。

 浜松からの「空のテロリズム」の歴史をみすえ、無差別大量殺戮のない歴史を展望することは人間性の回復につながる。いまも、「聖戦」「英霊」の思考によって「鬼子」とされたままの隷従の風景が、わたしたちの眼前にある。あらたな「怯儒と残忍」の精神をすすめる戦争国家を超え、公正と寛容による非暴力反戦の思想と行動が共同の主観性を獲得すること、その思いは二〇〇三年三月末からはじまった米軍によるバグダット空爆という現実のなかでより強いものとしてある。

 このような現実は、民族・宗教・国家を超えて人間の尊厳を共有し、人々が友好的に繋がっていくこと、殺される側の視点に立ち「殺すな」のメッセージを示しつづけていくこと、戦争犯罪と戦争責任についての理解を深め追及すること、侵攻の兵士をつくり戦場へと駆りたてる戦争マシンの国家システムを止揚することなどをよびかけているように思う。

 

*写真は飛行第一二大隊『満州事変記念写真帖』から転載した。掲載写真のうち一葉は『満州事変出征記念写真帖』から転載した。これらの飛行第一二大隊関係写真帖は二〇〇二年に古書店から入手した。

 

参考文献

飛行第一二大隊『満州事変記念写真帖』一九三三年ころ

飛行第一二大隊『満州事変出征記念写真帖』一九三三年ころ

飛行第一二大隊『アルバム』(隊員作成)一九三三年ころ

防衛庁防衛研修所戦史室『満州方面陸軍航空作戦』朝雲新聞社一九七二年

防衛庁防衛研修所戦史室『中国方面陸軍航空作戦』朝雲新聞社一九七四年

近現代史編纂会『航空隊戦史』新人物往来社二〇〇一年

陸軍航空碑奉賛会『陸軍航空の鎮魂 総集編』 一九九三年

前田哲男『戦略爆撃の思想』社会思想社一九九七年

鈴本隆史『日本帝国主義と満州』塙書房一九九二年

村井信方編『飛行第九〇戦隊史』飛行第九〇戦隊会一九八一年

飛行第九八戦隊誌編集委員会『あの雲のかなたに』一九八一年

斉福霖編『中国抗日戦争大事紀』北京出版社一九九七年

趙冬暉・孫玉玲編『苦難与闘争一四年上』中国大百科全書出版社一九九五年

孫玉玲編『日軍暴行録遼寧分巻』中国人百科全書出版壮一九九五年

郭素美・車霽虹編『日軍暴行録 黒龍江分巻』中国人百科全書出版壮一九九五年

武月星編『中国現代史地図集』中国地図出版壮一九九九年

姜念東他『偽満州国史』大連出版社一九九一年

宋梅英編『日偽暴行』吉林人民出版壮一九九三年

瀋陽市図書館編『九・一八事変図片集』対外貿易教育出版壮一九八七年

『蘭州文史資料第八集』甘粛省新聞出版局一九八八年

佐藤正人「蘭州空爆・重慶空爆・アフガニスタン空爆」(『パトローネ』四八号)二〇〇二年一月

     (初出『静岡県近代史研究』二九号、二〇〇三年、二〇〇六年補充)