戦争の拠点・浜松(二)
中国侵略戦争と浜松陸軍航空爆撃隊

                           

はじめに

一 陸軍爆撃戦隊の動向

1 飛行第十二戦隊・飛行第十六戦隊 2 飛行第六〇戦隊

3 飛行第九八戦隊         4 飛行第十四戦隊

5 飛行第三一戦隊         6 飛行第七戦隊・浜松教導飛行師団

7 飛行第六一戦隊・飛行第六二戦隊

二 中国での都市爆撃の状況

1 河北省・天津   2 河北省・景県   3 河南省・信陽

4 湖南省・平江   5 湖南省・衡陽   6 陜西省・西安

7 陜西省・延安   8 陜西省・宝鶏   9 陜西省・潼関

10 陝西省・安康  11 陝西省・漢中(南鄭)  12 甘粛省・蘭州

13 四川省・重慶  14 四川省・梁山    15 四川省・成都

16 福建省・建甌  17 浙江省・金華・衢県 18 雲南省・昆明

19 雲南省・保山  20 山西省

おわりに

 

 

はじめに

 

ここでは中国全面侵略にともない、浜松から派兵された陸軍飛行部隊が中国大陸でおこなった空爆の歴史についてみていきたい。

一九三七年七月、中国での全面侵略戦争がはじまると、浜松飛行第七連隊からは飛行第五大隊、飛行第六大隊、独立飛行第三中隊が派兵された。台湾の飛行第十四連隊からは独立飛行第十五中隊が派兵された。この台湾の部隊は一九三六年末に浜松飛行第七連隊から要員が送られて編成されたものだった。満州に派兵されていた飛行第十二連隊や飛行第十六連隊もこの戦争に参加した。この満州の部隊は満州侵略戦争にともない浜松の飛行第七連隊から派兵されていった部隊が再編されたものであった。これらの連隊や大隊は一九三八年に飛行戦隊へと再編されていく。

浜松は陸軍爆撃部隊の拠点とされていた。侵略戦争の拡大により浜松からの派兵が繰り返されていった。

以下、主要な部隊の中国をはじめアジア各地での空爆についてみていき、浜松から派兵された部隊の空爆による中国民衆への加害の状況について考えたい。陸軍飛行戦隊の各戦隊史などからその空爆の経過をたどり、被害状況について中国側資料からみていきたい。

 

一 陸軍爆撃戦隊の動向

 

陸軍爆撃部隊の動向については、各戦隊の部隊史と防衛庁防衛研修所戦史部『中国方面

陸軍航空作戦』・伊澤保穂『日本陸軍重爆隊』などの記述からみていく。

 

1 飛行第十二戦隊・飛行第十六戦隊

 はじめに飛行第十二戦隊についてみてみよう。この戦隊については粕谷俊夫『山本重爆撃隊の栄光』、飛行第十二戦隊戦友会会報『無題の頼り』、伊藤公雄『碧空』などがあり、写真帳なども残されている。

この部隊は浜松の飛行第七連隊を母体としている。飛行第七連隊が立川から浜松に移駐したのは一九二六年一〇月のことであった。第七連隊は重爆・軽爆それぞれ二中隊で編成されていた。満州侵略戦争がはじまると、一九三一年末には浜松から飛行第七大隊第三中隊が派兵され、中国東北部各地で抗日部隊への空爆を繰り返していった。

 この部隊は一九三二年公主嶺で飛行第十二大隊へと再編され、翌年熱河作戦へと投入された。熱河作戦では万里の長城を越えて、北京周辺の密雲市街の爆撃をもおこなった。この爆撃は残された写真から無差別爆撃といっていい。一九三四年には浜松から飛行第十二大隊へとさらに重爆二中隊が派兵され、大隊は飛行第十二連隊となった。この部隊から軽爆部門が分離され、飛行第十六戦隊が編成されていった。飛行第十二連隊は重爆部隊となった。

 一九三七年七月九日、飛行第十二連隊は拠点としていた公主嶺から錦州へとすすみ、七月十一日、連隊長の独断によって天津へと侵入した。一九三七年七月二六日、廊坊を爆撃し、以後、張家口・太原など各地を爆撃して地上からの侵攻を支援した。その後公主嶺に戻り、一九三八年八月に飛行第十二連隊の第一大隊から飛行第十二戦隊、第二大隊から飛行第五八戦隊を編成した。

 一九三八年九月末、公主嶺から彰徳に移動し、信陽への侵攻を支援して、九月末、信陽・鄭州、一〇月に入って氾水・鞏県・?池・洛陽・遂平・確山・許昌・南陽などを爆撃した。飛行第十二戦隊の中隊長が残した写真集をみると遂平・確山・洛陽・?池・南陽への攻撃は市街への空爆である(『飛行第十二戦隊中国要地爆撃写真帳』)。

 一九三八年十一月には陸軍による中国奥地への侵攻爆撃部隊として使われた。十一月一四日には包頭から蘭州への空爆をおこなった。これは陸軍重爆部隊による初めての蘭州爆撃だった。さらに五原・神木などの市街を爆撃し、一九三九年一月には漢口を拠点に、重慶を三次にわたって爆撃し、二月には運城を拠点として、再び蘭州を爆撃し、三月には、延安・臨憧・平涼・西安・洛陽・清豊・宝鶏など渭河周辺の諸都市を爆撃した。三月末から四月にかけては彰徳を拠点に、山西省の市・集落の爆撃を三〇回ほどおこない、洛陽や西安への爆撃もおこなった。飛行第十二戦隊の爆撃地は抗日拠点とみなしていた路安・陽城・襄垣・渉県・楡社・南陵場・姚村集・大菜園・林県・夏城・屯留・密県・垣曲などであるが、写真帳をみると爆撃は市街地・集落中心へとおこなわれているものが多い。これらの爆撃をおこない、五月に公主嶺に戻っている。

 飛行第十二戦隊は一九三九年六月から七月にかけてノモンハンでの戦争に投入され、その後、公主嶺に戻り、九七式重爆撃機T型に改編した。

 一九四一年には二七機編成となり、二月公主嶺から福生へと内地航法訓練をおこない、福生から浜松へと飛行した。三月にはシンガポール攻撃を想定しての合同訓練に参加し、群山で訓練をおこない、五月には各務原で九七式重爆U型に改編、七月満州での関特演に参加し、八月には華北で爆撃を行っていった。八月末には、鳳翔・保寧・重慶・蘭州を爆撃、九月には韓城・朝邑・華陰・西安を爆撃し、九月末には南京から嘉義を経て、広東(天河飛行場)にすすんだ。九月末から詔関・南雄・衡陽を爆撃した。そして、マレー侵攻作戦によって十二月六日にプノンペンに入った。このプノンペンへの移動の段階で十二戦隊は十一機を失っている。

 一九四一年十二月からの東南アジアへの侵略戦争にともない、ペナン・シンガポール・ビルマの市街地を爆撃し、一九四二年五月には雲南の保山市街、さらにインドのチッタゴン飛行場やインパール市街などを爆撃していった。このインド爆撃は陸軍最初のものであった。飛行第十二戦隊戦友会の会報『無題の便り』十六号(一九六三年)には防衛庁戦史資料室保管分の爆撃写真の目録があり、『無題の便り』三三号(一九九三年)には三〇枚を超えるシンガポールへの爆撃写真やビルマやインドでの爆撃写真が収録されている。これらの写真の多くが都市部への無差別爆撃を示すものである。

 飛行第十二戦隊は一九四二年後半からアンボン島周辺やオーストラリア海域の哨戒などをおこない、一九四三年三月からはインドのフェンニー飛行場、四月に入りインパール市街などを爆撃し、五月には中国への支援ルートの拠点である昆明を爆撃した。

その後、スマトラ方面で哨戒活動をおこなうが、一〇月から十二月にかけてインド・アッサム地方への攻撃をおこなった。爆撃先はチッタゴン・カルカッタ・コックスバザーなどである。さらに一九四四年三月にはインパール作戦支援のために、レド・インパール・パレルほかを爆撃した。

一九四四年七月にはフィリピン戦にむけ、跳飛弾攻撃を訓練した。一〇月にはレイテ湾での攻撃に参加、十一月から十二月にかけてケンダリーやナムレアから米軍の前線であるモロタイ島への攻撃をおこなった。

一九四五年三月の「飛行第十二戦隊作戦命令」をみると、装備に関する指令が記されている。五号装備の項をみると各編隊三番機に「カ四弾十四」(燃焼弾)、その他「い五〇キログラム弾十四」「ろ一〇〇キログラム弾七」などの記載があり、五〇〇キログラム・二五〇キログラム爆弾にくわえ、さまざまな爆弾を所持していたことがわかる。

この戦隊は一九四五年七月にフィリピンからシンガポールを経て台湾に撤退、群馬への撤退の準備中に敗戦を迎えた。

なお、防衛庁防衛研究所図書館には飛行第十二戦隊のほかに六〇戦隊・三一戦隊・九〇戦隊などの爆撃関係の写真帳が保管されている。

飛行第十二戦隊は日本の侵略戦争において最前線で活動した部隊だった。中国大陸では満州侵略での抗日部隊攻撃に始まり、熱河作戦では長城を越えて爆撃をおこない、重慶・蘭州・西安など各地の都市や山西省の各地の抗日拠点を爆撃した。さらにシンガポール・ビルマ・インドへの爆撃もおこなった。これらの爆撃でアジアの民衆は多くの死傷者を出した。

この飛行第十二連隊第二大隊から、飛行第五八連隊が一九三八年八月に編成されている。この部隊はスマトラに派兵され、一九四三年七月には零陵、八月には重慶を爆撃した。

飛行第十二戦隊が拠点としていた公主嶺で、一九四二年十二月に飛行第七四戦隊が編成されている。この部隊へと一九四三年五月に飛行第七戦隊から約百人が編入された。一九四四年四月には北海道・計根別にすすむが、十一月にはフィリピン戦へ投入された。十二月には飛行第九五戦隊とともに、高千穂空挺隊を輸送しての「特攻」着陸や菊水「特攻」隊を編成しての攻撃をおこなった。

一九四二年十二月に鎮東で編成された教導飛行第九五戦隊が一九四四年一月に飛行第九五戦隊となった。この部隊も北海道からフィリピン戦に投入され、「特攻」部隊を編成したが、戦力の低下のなかで一九四五年には飛行第七四戦隊に吸収された。

飛行第十六連隊はここでみてきた飛行第十二連隊から一九三五年に軽爆部門が独立して編成された部隊である。

この連隊も一九三七年七月天津へと侵攻し、九月には牡丹江に戻った。一九三八年八月には飛行第十六戦隊となった。

この飛行第十六戦隊については、本間正七『回想 ああ戦友 飛行第十六戦隊・教導飛行第二〇八戦隊』がある。この戦隊は一九三九年にはノモンハン戦、一九四一年十二月には北部フィリピン戦に投入された。

一九四二年には河南・湖南での攻撃をおこなった。一九四三年二月から三月には安康・漢中・虞氏・老河口・梁山・万県・公安付近などを攻撃し、四月には東姚、五月末には洛陽・黄河などを爆撃した。七月から九月にかけて宝慶・衡陽・万県・建甌を爆撃した。九月から一〇月にかけて各務原や鉾田で機種を改変した。一〇月から十二月にかけて建甌・長陽・磨市・麗水・恩施・常徳・衡陽・遂川を攻撃した。

一九四四年には、桂林・遂川・柳州・南寧・詔関・建甌・老河口・衡陽・長沙・吉安・内郷・洛陽・虞氏・安康・梁山・玉山・?江・新津・成都など、飛行場・軍事施設などへの攻撃を繰り返していった。

飛行第十六戦隊の戦史によれば、一九四四年五月十一日の遂川攻撃では、集束爆弾(タ弾)を使っている。当時、飛行第十六戦隊とともに爆撃をおこなっていた飛行第九〇戦隊の戦史にも、六月五日の漢中攻撃で使用したという記述がある。市街地への爆撃もおこなわれ、飛行第九〇戦隊による七月の衡陽爆撃は市街地への爆撃だった。この飛行第九〇戦隊の隊員は浜松で軽爆撃の訓練を受けたものが多かった。また、中国側資料には衡陽虎形山一帯で日本が飛行機と砲によって毒ガスを使用の記事があり(『侵華日軍的毒気戦』三四五頁)、軽爆隊は毒ガス弾を使用したと考えられる。なお、飛行第十六戦隊は一九四五年五月に沖縄戦に投入された。

この飛行第十六戦隊から飛行第二百八戦隊が一九四一年三月に編成されている。第二百八戦隊は一九四二年十二月には南方への派兵に向け、浜松で準備と訓練をおこない、一九四三年二月に横須賀からトラック島に向かい、五月、ラバウルを経てニューギニア・ブーツ東飛行場にすすんだ。ブーツを拠点にナッソウ湾・マザブ・ファブアなどへの攻撃を繰り返すが、一九四四年、ホーランジアからマニラへと後退した。十一月末、マニラから台湾兵の空挺部隊員(「薫空挺隊」)を乗せて「特攻」攻撃をおこなった。のち台湾に移動するが、マニラに残置した隊員で帰還できたのは数人だった。

  

2 飛行第六〇戦隊

 

つぎに飛行第六〇戦隊についてみていきたい。この戦隊については飛行第六〇戦隊小史編集委員会編『飛行第六〇戦隊小史』がある。

浜松の飛行第七連隊から重爆隊の飛行第六大隊が編成されたのは一九三七年七月十一日のことであり、派兵の正式な命令は七月十五日に出されている。七月十九日、第六大隊は錦州へと派兵され、七月二七日には天津飛行場に到着した。翌日には南苑飛行場や兵舎、七月三〇日には天津の南開大学を爆撃した。その日のうちに南苑にすすみ華北での侵攻作戦を支援していった。八月には南口・張家口・大同・馬廠・柴溝堡・王口鎮・小王庄・滄州などを爆撃した。

一九三七年九月には河北省への侵攻作戦にともない、保定・石家荘・満城・?県などを爆撃した。九月中旬の保定への爆撃は市街中枢への攻撃だった。九月下旬からは山西省の太原占領に向けての攻撃をはじめ、一〇月には順徳・楡次・忻口鎮・葦沢関・汾陽・平定などを爆撃し、十一月八日には太原北城門に五〇〇キロ爆弾を投下するなどの空爆をおこなって太原への地上からの侵攻を支援した。さらに十一月には洛陽・西安の飛行場を攻撃、十二月には?県・范県・曲陽・林県などの市街地を爆撃した。十二月末からは山東省での侵攻作戦に投入され、旧軍鎮・刀家荘・炒米店の鉄道橋脚・東平・泰安の駅や列車などを爆撃した。

一九三八年に入ると彰徳を拠点とし、済南への攻撃を支援した。一月から三月にかけて臨汾・徐州・帰徳・洛陽・遼県・沁源・襄陽・西安・徐州など飛行場や陣地を攻撃した。四月から八月にかけては黄河南方への侵攻を支援し、台児荘・磊口・西安・下台村・帰徳・蘭封・鄭州・潼関・信陽・豊楽鎮などの飛行場や陣地を爆撃した。鄭州・潼関への爆撃は市街地への攻撃だった。八月、飛行第六大隊は飛行第六〇戦隊と第九六飛行場大隊に再編された。

九月には南苑での訓練を経て安慶にすすみ、武漢侵攻作戦に投入された。一〇月末の武漢占領までに爆撃した場所は徳安・英山・葉家集・光山・信陽・確山・田家鎮・漕家鎮・竹瓦店・武漢・南昌・麻城・中舘駅・楊家山・白?街・小金山・拓林・?津・甘木関・株州・咸寧・帰義などであり、このうち、徳安・英山・信陽・南昌・麻城・咸寧への攻撃は市街地爆撃を含むものであった。武漢占領後は武漢以南の南昌・荊州・沙洋鎮・衡陽・衡山などへの爆撃をおこなっている。

十二月に入ると蘭州・重慶などへの長距離侵攻作戦を準備した。拠点を漢口とし、十二月二六日には重慶に向かうが密雲のために中止、故障機一機が途中全爆弾を投下した。

一九三九年一月には三次にわたり重慶の市街地を爆撃した。二月に運城へと移動し、洛陽・潼関・平涼を爆撃、三次にわたり蘭州の飛行場や市街地を爆撃した。三月には永昌・西安を爆撃した。

三月中旬には襄東作戦に投入され、五月までに宣城・襄陽・?家店・秋家集・保安鎮・独樹鎮・棗陽・?江・沙洋・荊門・宜昌・南鄭などを爆撃した。六月には南苑を拠点に、抗日軍に対する掃討作戦を支援して済源・洛陽、八月には五原、九月には延安・寧夏・西安を爆撃した。

飛行第六〇戦隊は重爆撃機のみによる奥地への侵攻計画により三六機編成へと強化されていった。一九三九年一〇月一日付の『飛行六〇戦隊戦闘規範』をみると「独力長躯進攻シ敵国中枢ヲ攻撃シ以テ其ノ形而上下ヲ粉砕震撼スルニアリ」と記されている。このような戦略爆撃の思想をもって、飛行第六〇戦隊は一〇月に入ると運城を拠点に、第二次の奥地侵攻作戦をおこなっていった。この作戦により、数派におよぶ西安をはじめ、渭南・延安・南鄭・?陽・蒲城・洛陽・宝鶏・平涼などへの爆撃をおこなった。十二月には第三次の奥地侵攻作戦がたてられ、十二月末、三次にわたる蘭州の市街や飛行場への爆撃がおこなわれた。

一九四〇年一月から五原作戦に参加し、三月には南苑に移動、四月には衡源鉄橋攻撃をおこなった。四月に漢口に移動して宜昌作戦に投入され、五月に安康・転斗湾・襄陽・焚城鎮・張家湾・比源・光仁・老河口・南陽などを爆撃した。

その後、運城に移動し、西安・南鄭を爆撃した後、南苑に戻って、第四次の奥地侵攻作戦の訓練をおこなった。六月に入り、運城から重慶・梁山・北碚・西安などを爆撃していった。天候不良のために一時期、南苑に戻るが、七月下旬から爆撃を再開した。七月には合川・成都・北碚・銅梁、八月にはいり璧山・宝鶏・重慶・南充・武功・咸陽、九月には宝鶏・安康を爆撃した。

一九四〇年九月にフランス領インドシナ占領作戦に向けて南部にすすみ、十一月、海南島・広東・霊山城・陸屋・平吉・雅子踊・平銀・高橋麗など欽寧周辺などでの空爆をおこなった。十一月中旬に広東から南苑に戻り、一九四一年一月に第六〇戦隊の編成は二七機へと縮小された。

一九四一年三月には広東からジャラム・ハノイにすすみ、四月から五月にかけて雲南への爆撃をおこない、中国への支援ルートを破壊しようとした。爆撃先は昆明・蒙自・阿迷・箇旧・谿街などである。攻撃目標であった攻果橋への爆撃は失敗した。

戦隊は華中に戻り、運城にすすんだ。そこで第五次の奥地侵攻作戦を準備し、一九四一年八月から九月はじめにかけて重慶などへの爆撃をおこなった。爆撃先は保寧・延安・天水・武功・宝鶏・西安・咸陽・渭南・潼関・自流井・重慶である。この作戦は九月上旬に中止され、南方への転用のために、浜松へと戻ることになる。

一九四一年十一月、飛行第六〇戦隊は浜松を出発し新田原・嘉義・海口を経てプノンペンにすすんだ。マレーへの攻撃命令は十二月六日に受けている。当初ペナンを空爆する予定であったが、アロルスターを爆撃し、のちペナン・ラングーンを爆撃した。そして一九四二年一月中旬から二月初旬にかけてシンガポールを空爆した。シンガポールが占領されると、三月にはフィリピン戦に投入され、三月から五月にかけてコレヒドールなどを空爆した。五月に米軍が降伏すると、クラークフィールドから浜松に向かい、七月満州の拉林に展開し、訓練や警備をおこなった。

一九四三年七月には武昌を拠点とし、七月下旬から八月上旬にかけて、衡陽・零陵・桂林・建甌・?江などを爆撃した。九月にはツーランからハノイにすすみ、九月と十二月に昆明の飛行場などを爆撃した。

一九四四年二月にはマダン方面の作戦に投入されるが、四月末にはフィリピンへと後退した。七月には水戸に戻った。 

八月下旬には南京に向かい、九月にかけて、遂川・建昌などを爆撃し、運城から、重慶付近の新津・広湲・興中・双流の飛行場などを爆撃した。運城を撤退した後にも成都・?州・梁山・西安などを爆撃している。一〇月にはフィリピンへの空輸などをおこなった。

一九四五年二月には硫黄島を攻撃し、三月末からは健軍を拠点とし、沖縄戦に投入された。

飛行第六〇戦隊は陸軍飛行爆撃隊の中心となった部隊であり、一時期、三六機編成となり、菱形の編隊を組んで爆撃機単独で奥地への侵攻作戦を担った。それにより重慶をはじめ中国各地の都市を爆撃している。戦略爆撃を担い、他の都市での市街地への爆撃も多い。この戦隊は陸軍部隊のなかで中国での爆撃の回数が最も多い部隊といえるだろう。

なおこの飛行六〇戦隊とともに、中国各地を爆撃した軽爆撃部隊に飛行第九〇戦隊がある。飛行第九〇戦隊については村井信方編『飛行第九〇戦隊史』がある。この部隊は中国全面侵略とともに平壌から中国に派兵された部隊である。一九三九年にこの九〇戦隊の中隊長となった山崎武治は浜松陸軍飛行学校での爆撃教育を受けての派兵であった(『飛行第九〇戦隊史』一九四頁)。この部隊は浜松の基地との関連が深い部隊であった。

 

3 飛行第九八戦隊

 

飛行第九八戦隊は一九三八年八月、中国に派兵されていた独立飛行第三中隊と独立飛行第十五中隊から編成された重爆部隊である。この戦隊については飛行第九八戦隊誌編集委員会『あの雲の彼方に飛行第九八戦隊誌』、角本正雄編『写真で綴る飛行第九八戦隊の戦歴』がある。 

独立飛行第三中隊は一九三七年七月に浜松の飛行第七連隊から華北に派兵された部隊であり、独立飛行第十五中隊は同年八月に台湾・嘉義の飛行第十四連隊から華中に派兵された部隊である。第三中隊は石家荘・太原、第十五中隊は上海・南京を攻撃していった。

一九三八年八月に統合されて飛行第九八戦隊が編成されると、武漢や信陽への攻撃を支援した。爆撃先は西安・漢口・長沙・衡陽・衡山ほかの飛行場や軍事施設だった。

十二月二六日には中国奥地への侵攻作戦を担い、重慶市街東部への推測爆撃をおこなった。重慶への爆撃を一九三九年一月十五日までに四次にわたっておこなった。二月には蘭州や延安を空爆した。重慶や延安への爆撃では市街地に爆弾を投下している。

一九三九年三月には華中の地上作戦を支援した。奥地侵攻作戦用に一中隊を飛行第六〇戦隊へと編入した。七月には山西での作戦を支援した。この間に西安・洛陽・平涼を爆撃している。一九三九年十一月に奉天へと移動し、九七式重爆撃機T型に改変、十一月には敦化を拠点にし、抗日部隊を攻撃した。

一九四〇年七月末、南方軍の指揮下に入り、八月、フランス領インドシナ侵攻の交渉への威嚇飛行をおこなった。さらに韶関・桂林への爆撃をおこない、一〇月、敦化に戻った。

一九四一年六月には岐阜で九七式重爆U型に改変し、敦化に戻り、関特演に参加した。

一九四一年八月末には華北にすすみ、九月にかけて運城を拠点に重慶・蘭州・潼関・三原・咸陽・西安などの爆撃をおこない、九月には南苑にいった。『写真で綴る飛行第九八戦隊の戦歴』にはこの時期の写真が一〇枚ほど収録されている。潼関・三原・咸陽への爆撃写真には未熟搭乗員による演習を兼ねての攻撃と記されている。

十一月に南方に向けて派兵された。サイゴン到着は十二月四日だった。東南アジアへの侵攻作戦のもと、十二月七日には船団を援護し、十二月八日にはスンゲイパタニ・アロルスターの飛行場を爆撃した。さらにペナン島・クアラペスト・シャンタン市街・ラングーン政庁などを爆撃した。

 一九四二年一月から二月にかけてシンガポール爆撃をおこなった。『あの雲の彼方に飛行第九八戦隊誌』にはシンガポール爆撃時の陣中日記が収録されている。それを読むとシンガポール爆撃が雲上からの推測爆撃を含むものであったことがわかる。また、「征け 聖戦に征刀かざし 世界平和の 彼岸や近し」とし、上空からシンガポール島を見て、「血沸き肉躍るの感あり」とも記している(一二四〜五頁)。このような記述から、日本が人間を軍隊に組み込み、そこでの支配と服従によって、攻撃を正当化し嬉々として殺戮をおこなうものたちをつくりあげていたことがわかる。

戦隊は三月中旬にはスマトラ上陸作戦を支援し、三月下旬から四月にかけてビルマ各地を空爆した。五月には雲南の保山市街を爆撃、さらにチッタゴン飛行場・インパール市街・軍施設を爆撃した。一九四二年六月初めにスンゲイパタニに移動、八月にはマラッカ海峡で対潜哨戒活動をおこなった。

十二月下旬から一九四三年の一月中旬にかけて、カルカッタ空爆を六次にわたっておこなった。さらにトンバイク・モンドウの地上軍やチッタゴン市街などを爆撃した。二月上旬にスンゲイパタニヘと戻るが、二月末から四月はじめにかけてオークランズ・チンスキア・フェンニー・バザリー・アコーラなどの飛行場を爆撃した。

一九四三年四月二八日と五月一五日には、雲南の昆明を爆撃した。六月、スンゲイパタニからスマトラへいき、メダン・サバンに展開し、インド洋哨戒をおこなった。一〇月、スンゲイパタニへ戻り、チッタゴン・コックスバザーの港湾、十一月にはベンガル湾の哨戒、十二月にはキタポールドッグ、チッタゴンを爆撃した。

一九四四年一月末、日本へと移動をはじめ、アロルスター・サイゴン・海口・嘉義・那覇・新田原をへて浜松に帰着したが、すぐに鹿屋に移動した。機種改変にともなっての整備教育を浜松でおこない、その訓練を豊橋でうけて、鹿屋で夜間雷撃訓練をおこなった。この訓練を経て、一九四四年一〇月にはフィリピン戦にともなう二派の雷撃攻撃を台湾沖でおこなうが、二〇機以上を失い、一三〇人余の戦死者を出した。さらに、一九四五年三月後半から五月にかけて沖縄沖の戦闘に投入され、三〇数機、二二〇人ほどが戦死した。七月に児玉に移動し、そこで敗戦を迎えた。

飛行第九八戦隊は日本軍の全面侵略を支援する爆撃をおこない、重慶などへの戦略爆撃もおこなった。シンガポールやビルマでの爆撃を繰り返した。インドへの爆撃をもっとも多くおこなった部隊でもある。最後には、台湾沖・沖縄沖での攻撃に使われ、隊員から多くの戦死者を出している。

 

4 飛行第十四戦隊

 

飛行第十四戦隊については飛行第十四戦隊会『飛行第十四戦隊戦記北緯二三度半』、久保義明『九七重爆隊空戦記』がある。重爆隊である飛行第十四連隊は、一九三六年八月に浜松飛行第七連隊から要員が派遣され、十二月に台湾の嘉義で編成された。兵舎・格納庫・飛行場・爆撃場の建設が昼夜に及ぶ突貫工事ですすめられた。翌年七月の中国全面侵略にともない、飛行第十四連隊から独立飛行第十五中隊が上海に派兵された。浜松から派遣された飛行第十四連隊創設準備委員長が中隊長となっての派兵だった。この中隊は上海・南京戦に投入された。

飛行第十四連隊は一九三八年八月に飛行第十四戦隊となった。一九四〇年七月にはフランス領インドシナ侵攻にむけ海口にすすんだ。一九四一年三月から四月にかけては福州方面で爆撃や威嚇飛行をおこなった。

一九四一年五月には淅江省を中心に各地を空爆した。爆撃先は金華・義烏・蘭谿・玉山・衢県・広信・広豊・新昌・歙県・麗水などであり、市街への爆撃が多い。七月には海口にすすみ、八月、雷州半島の船舶・鳥石の港湾を爆撃した。ハノイにまですすんだが、すぐに海口から嘉義へと戻り、八月下旬から九月はじめにかけて、福州からの撤退を支援し、古田・小村・百済・東張・東頭前・福清などの軍拠点を爆撃した。

一九四一年十一月末には南方侵攻への動員令によって、潮州にすすんだ。十二月八日にはフィリピン攻撃をおこない、ルソンのバギオ米極東軍司令部を爆撃した。つづいて、イバ・クラーク・デルカルメンの飛行場を爆撃した。十二月十六日からは天河を拠点として香港の要塞への爆撃をおこなった。

一九四二年十二月下旬から一九四三年一月はじめにかけて、ツゲガラオを拠点に再びフィリピン各地を爆撃した。マリベリス・オラニ・バランガ・バガック・スピックなどへの攻撃は市街地への爆撃であった。一月中旬にはハノイから蒙自・南寧を爆撃した。その後、バンコクのドムアンにすすみ、ナコンサワンに移動しながら、一月下旬から三月はじめにかけてモールメン・ラングーン・マンダレー・メイミョウなどの飛行場や軍事拠点を爆撃した。三月十六日にはトングー市街を爆撃した。

一九四二年四月に福生に戻って九七式重爆U型に改変し、六月マレーのケチルに派兵された。一〇月にはビルマ戦線に投入された。一〇月下旬にトングーからメークテーラにすすんでインド攻撃を準備、一〇月末にオークランズ飛行場を攻撃、十二月にはチッタゴン港、カルカッタ市街・埠頭・飛行場などを攻撃した。

一九四三年三月にはラバウル島のココボにすすみ、ワウやブナの飛行場、ナッソウ湾やポポイの上陸部隊への攻撃をおこなった。一九四三年十一月にはチモール・ハルマヘラ・ニューギニアなどにすすみ、哨戒・船団の護衛などをおこなった。

一九四四年三月にはフィリピンへと撤退し、五月末にはパラワン島の抗日部隊を攻撃した。七月嘉義に戻り、花蓮港で跳飛弾攻撃の訓練をおこなった。この訓練には浜松から教官が来ている。一〇月には杭州で夜間訓練をおこなった。一〇月末にクラークフィールドにすすみ、十一月はじめにかけてレイテ島の飛行場を攻撃した。十一月にはナムレアやケンダリーからモロタイ島を爆撃した。このなかで戦力を失い、十二月末、四式重への機種変更のために日本の水戸へとむかうことになった。

四月、浜松の基地へと義烈特攻隊の整備支援隊員や同隊を輸送する第三独立飛行隊要員を出し、五月には浜松で四式重の伝習教育を受けた。

第三独立飛行隊員の隊長以下将校は浜松の松月という料理旅館に泊まっていた。そのなかに瀬崎武夫がいた。かれは大分県出身、朝鮮で家族と暮らしていたが京都の高等工芸に入校し、そこから学徒動員によって入隊していた。一九四四年暮に帰省したが、満州に行くことや婚約を解消することを求め出ていき、音信不通になった。敗戦の少し前に浜松の部隊から遺品が届き、そのなかに手帳があった。手帳には五月二三日の日付に赤丸があり、もし戦死の知らせがあったらこの日を命日とすることを求めた記載があったという。五月二三日の沖縄への出撃は一日延び二四日だった。

年末に弟のビルマでの戦死公報が届き、さらに武夫が一九四六年一月に死亡したとする戦死公報がくると父は二月に死亡した。手帳には「芸子」の本名があり、子どもができていたら力になってほしいことが記されていたという。「芸子」は昼に勤労奉仕し、夜は松月で「一人一人専属で親身に世話をしていた」からである。その松月は空襲をうけ、多くが亡くなったという(『飛行第十四戦隊戦記北緯二三度半』四二三頁〜)。

戦争をすすめていた帝国は、人間をこのような形で結びつけ、引き裂き、生命を奪った。前線にこのような関係をつくりあげたものたちの戦争の責任こそ問われねばならない。

 

5 飛行第三一戦隊

 

飛行第三一戦隊については飛三一友の会『飛行第三一戦隊誌』がある。中国全面侵略がはじまると、一九三七年七月十五日、飛行第七連隊から軽爆隊の飛行第五大隊が編成された。この部隊は七月二四日には浜松から天津へと派兵され、七月二九日には天津の福旦大学を爆撃、八月末には南苑にすすみ、永定河での作戦を支援、一〇月には太原の飛行場や源平鎮・沂口鎮を爆撃した。十一月には太原を拠点に抗日軍を攻撃、十二月下旬には杭州にすすんだ。

一九三八年にはいると、銭塘江右岸・太湖南西・南京付近の抗日部隊を攻撃、三月には臨汾・石家荘・新郷・鄭州・湿県・石楼などを攻撃、四月には浮山の抗日部隊を攻撃、五月には帰徳の陣地などを攻撃した。六月末には九七式軽爆へと改変した。

一九三八年八月には飛行第三一戦隊へと改編された。南京近くの抗日部隊を攻撃したのち安慶へすすみ、八月末、抗日部隊を攻撃した。

一九三九年一月には華南の肇慶や花県東方の軍陣地を攻撃し、二月には海南島の海口東方飛行場近くにある演豊墟の陣地を攻撃した。三月には赤石勘埠や九江以西の陣地を攻撃した。五月には青塘?・矢翁源の司令部、高要の舟艇を爆撃し、五月末には詔関を爆撃した。六月には海南島や潮州での作戦を支援し、竜川南方の抗日部隊を攻撃した。

一九三九年八月には天河から北満の嫩江へと移り、八月末にはハイラルへとすすみ、ノモンハンでの戦闘に投入され、ソ連軍を攻撃、九月末嫩江に戻った。

一九四〇年一月には第二中隊を広東に派兵、一月末から桂林や南寧・賓陽の抗日部隊を攻撃した。一〇月はじめにはハノイ・ジャラムへすすみ、一〇月下旬には南苑に戻り、華北の抗日軍を攻撃した。十二月には隊員が白城子での毒ガス(イペリット)訓練に参加し、被毒した。

一九四一年二月には嫩江東南・五大連湖・小興安嶺などの抗日共産軍を攻撃した。五月には大連・群山での海上航法訓練をおこなった。一〇月三〇日に嫩江から地上部隊、十一月十五日には航空部隊が南方へ出発し、十二月六日にはインドシナのツーランに結集した。十二月九日にはナコンを確保し、一〇日にはドムアンにすすんだ。タボイを爆撃後、ロップリーにすすんだ。

一九四一年十二月末から一九四二年二月初めにかけてラングーンのミンガラドン飛行場への攻撃を繰り返し、二月三日にはラングーン市街を爆撃した。その後、ランパン・ミンガラドン・プローム・マグウエを拠点に、ビルマ各地の飛行場・軍事拠点を攻撃した。七月はじめには満州に戻った。軽爆隊は九九式襲撃機隊と九九式双軽爆撃機隊に分離することになったため、飛行第三一戦隊は九九式襲撃機への改変にむけて鉾田に行き、八月末、嫩江に戻った。一〇月には敦化へと移動した。

一九四三年九月、襲撃機隊が戦闘機隊へと再編されることになり、一〇月に嫩江に戻り、十一月には白城子に移動して戦闘機隊教育を受けた。十二月には九七式戦闘機、翌年一月には一式戦闘機の補給を受けた。

一九四四年六月には南方への派兵命令を受けた。七月末にフィリピンのネグロス島ファブリカ飛行場にすすんだ。地上部隊は船での移動の際、バシー海峡で雷撃によって沈没し二四〇人中一一六人が死亡した。

一九四四年九月十三日、二機が爆装による米艦船への攻撃をおこない、「特攻」攻撃のさきがけとされた。九月中旬にクラーク、一〇月はじめにはマバラカットに移動した。ここから台湾沖やレイテ艦船攻撃などをおこなった。十一月下旬にファブリカに移り、隼集成戦闘機隊が編成され、「特攻隊」も編成された。十二月には「特攻機」の掩護出動をおこなった。

一九四五年一月六日には戦闘隊全員に「特攻」命令が出された。マバラカットの三一戦隊の残地隊からリンガエン湾艦船への三機の「特攻機」がでた。三月空中勤務者はボルネオに撤退し、五月シンガポールで解隊した。

整備員約一三〇人は脱出できずに遊撃第一中隊を編成し、現地に残るが、戦闘と飢餓のなかで生存者は三〇人のみだった。飛行第三一戦隊の死者は三七〇人であるが、そのうちフィリピンでの死者は三三〇人だった。『飛行第三一戦隊誌』は「息を引き取った直後の戦友の遺体から、大腿部が切り取られている姿を、山道などでよく見かけた」「その切断部は鋭利な刃物で切った跡を示している」という「奇妙な噂」を紹介している(四二四頁)。かれらが極度に飢え、人肉食さえおこなわれていく状況へと追い込まれていったことがわかる。住民を殺害することもあった。「言葉の通じないことも手伝って、『問答無用』とばかりに兵は若者を銃剣で刺し殺し、自分は軍刀で老人を斬殺した」(四二六頁)

中国全面侵略にともない、浜松から派兵された第五大隊は飛行第三一戦隊となり、中国各地での地上侵攻作戦を支援し、爆撃を繰り返した。さらにノモンハン戦・ビルマ戦へと投入された。その後満州北部で襲撃機隊とされ、さらに戦闘機隊へと改変されて、フィリピン戦へと投入された。フィリピン戦では「特攻」命令を受けた。残地部隊の生存者はわずかだった。この部隊の歴史は、侵略戦争での陸軍航空部隊のアジア爆撃の歴史とそのなかで日本軍の兵士たちの生命が軽視されていった状況を示すものである。

 

6 飛行第七戦隊・浜松教導飛行師団

 

飛行第七連隊については飛行第七戦隊史編集委員会『飛行第七戦隊のあゆみ』がある。この戦隊はここでみてきた各戦隊の母体であったが、一九三八年には飛行第七戦隊となった。一九四一年七月末、浜松から関特演参加の名目で、飛行第十二戦隊の拠点である公主嶺に移動し、一九四二年九月にはジャワのカリジャッジにむけて出発した。一九四三年七月にはニューギニアの東ブーツへとすすみ、攻撃を繰り返した。

一九四四年二月には戦力低下と機種の改変のために浜松に戻った。九月鹿屋、一〇月赤江に移動して雷撃訓練をおこない、十一月にはフィリピン東方やタクロバン沖で艦船への雷撃をおこなった。十二月にはサイパン島への攻撃をおこなった。一九四五年三月から六月にかけては沖縄戦に投入された。

爆撃の研究・教育をおこなってきた浜松陸軍飛行学校は一九四四年六月に改編され、浜松教導飛行師団となり、攻撃と教育研究をおこなう部隊となった。同時期に浜松陸軍飛行学校の毒ガス戦部門は三方原教導飛行団となっている。浜松教導飛行師団には司令部・第一教導飛行隊・第三教導飛行隊・研究飛行隊がおかれた。

浜松教導飛行師団が一九四四年九月末に作成した研究企画書「昭和十九年度一〇月以降研究企画」(一九四四年九月二五日)には附表があり、研究計画が記されている。 

附表一から航空総監指示による研究事項をみると、輸送船団への攻撃、電波警戒網を突破しての攻撃、機上電波兵器を利用する攻撃、海洋哨戒・電波兵器を利用・逆用する捜索、敵航空基地に対するゲリラ戦法、電波兵器を利用しての雲中・雲上からの爆撃といった研究が企画されている。輸送船団攻撃では雷撃・空雷・跳飛弾等による攻撃や夜間攻撃などがあげられている。電波兵器については多摩研究所との協力が記されている。ゲリラ攻撃については、夜間を重視して電波兵器も利用し、攻撃要領(時期・目標・兵力・攻撃部署)を研究するとしている。

 附表二での部隊の基礎研究をみると、高高度精密爆撃・夜間飛行場攻撃要領・爆撃大編隊に対する空中爆撃・キ六七(四式重爆機)による戦闘法・無線方向探知機による航空誘導・自動射撃照準機による射撃法・夜間操縦向上のための計器と照明装備・天測法実用化・空中勤務者の能率的教育法・重爆隊の戦闘規範の補充などがあげられている。

この研究企画が出された後の一九四四年一〇月末には、第一教導飛行隊からフィリピンへの「特攻」隊である富嶽隊、十一月にサイパン基地への攻撃をおこなった第二独立飛行隊が編成され、第三教導飛行隊からは飛行第百十戦隊が編成された。

飛行第百十戦隊は十一月末から十二月はじめにかけてサイパン攻撃をおこない、第二独立飛行隊を吸収し、一九四五年二月には硫黄島、三月には沖縄周辺の艦船を攻撃、四月には沖縄戦での「特攻」攻撃に組み込まれていった。

また、一九四四年一〇月に鉾田で編成された第三独立飛行隊は十一月に浜松で重爆撃機に改変され、一九四五年五月には沖縄戦「特攻」隊である義烈空挺隊の輸送隊となった。

このような浜松からの部隊の編成とその後の戦闘経過を見ると、この研究企画にある船団や基地への攻撃計画が実戦に移されていったことがわかる。浜松は研究・教育・派兵の拠点であったわけであるが、このような研究とその実行は多くの青年に死を強いることになった。 

フィリピンでの「特攻」隊であった富嶽隊用の四式重を各務原で受領した久保義明は「胴体全体が爆弾になっていた」「これは飛行機というより棺桶だと感じた」と記している(『九七重爆隊空戦記』一九九頁)。

この富嶽隊の飛行隊員のなかに浦田六郎がいた。かれは大阪出身であり、当時平塚で暮らしていたが、一九三九年ころ関東軍兵として広島を出発して牡丹江で現地入隊した。一九四三年に所沢の飛行整備学校に入り、一九四四年五月、卒業とともに浜松の飛行隊に配属された。一〇月二六日浜松から富嶽隊員として出発し、艦隊捜索中にラモン湾東方で「行方不明」になった。十一月七日のことだった。

かれは満州で士官候補生を「志願」したが、戸籍謄本を提出したところすぐ「志願」を却下され、その後「特攻隊」要員として内地送還となったという。その原因は一番目の兄勝次が大阪・信太山の野砲兵連隊で兵士委員会を組織し、一九三〇年に検挙されたことによるとみられている。勝次は懲役三年の判決をうけ、服役。出所して東京で暮らすが、「精神異常者」として特高に付き添われて帰阪した。一九四〇年ころ脳病院に隔離され、一九四三年に三五歳で死亡した。

子どものころ浦田六郎とともに暮らしていた女性は、かれの性格を非難がましい雰囲気がなく、にこにこしたやさしい性格であり、「わたしをどこまでも受け入れてくれるやさしさ」を持っていたという。かれの性格はかれだけのものでなく家風なのだと思っていたが、六郎の兄勝次の反軍活動とその死、勝次を非難することなく自信を持って暮らしていた家族、やさしかったという親戚や近隣のことを知ってつぎのように言う。

「あれほど私たち一家を愛してくれた浦田さんが、生家の重大な秘密を胸に固く抱いて、にこにこしていたのかと、それが二五歳で死ななきゃならないと覚悟した人との姿だったかと思うと、胸がはちきれそうになる」「戦争は終わったのになぜ彼は生き続けられなかったのか、と思うともう涙が溢れてくる」と(梶川涼子「浦田さんのこと」)

ひとりの人間の死に心を集めるさまざまな人々があり、多くの戦争死者へのそのような人々の数は計り知れない。戦争の史実をそのような人々の地平から考えていきたいと思う。戦争国家に抵抗する人間が破滅を強いられるのではなく、破滅されるべきは戦争国家そのものである。

 

7 飛行第六一戦隊・飛行第六二戦隊

浜松からは、ここでみてきた部隊以外にも多くの重爆撃隊・軽爆撃隊が編成され、アジア各地に派兵され、戦争末期には「特攻隊」に組み込まれている。

飛行第六一戦隊については竹下邦雄編『追悼 陸軍重爆飛行第六一戦隊』がある。

重爆隊の飛行第六一戦隊は一九三八年八月に飛行第一〇連隊第二大隊から編成された。飛行第一〇連隊は、一九三五年に浜松からチチハルに派兵された部隊と飛行第一〇大隊とで編成された部隊だった。飛行第六一戦隊はノモンハン戦に投入され一九三五年六月にはタムスクやサンベースなどを爆撃した。

一九四一年にはフランス領インドシナへの上陸部隊の空中掩護をおこない、一九四二年九月にはスマトラ・メダンへ、一九四三年三月にはジャワ・スラバヤへすすんだ。

一九四三年六月にはラウテンからオーストラリアのポートダーウィン・ブロックリーク飛行場を空爆した。一九四三年八月に浜松で百式重へと機種を改変した。一〇月にはニューギニア戦線へと投入され、飛行第七戦隊とともに攻撃をおこなうが、一九四四年一月頃までに戦力の大半を失った。そのため第七戦隊から五〇人余が転属することになった。四月にはワクデからナムレアへと撤退をはじめた。残置隊員八七人のうち六〇人余が栄養失調や空襲で死亡した。

一九四四年五月、ナムレアから西部ビアクやモロタイなどの基地を攻撃するが、戦力を失い戦闘不能になった。一〇月、四式重爆撃機へと機種を変え、人員を補充するために浜松へと戻った。一九四五年一月末に三一機でシンガポールへと向かい、二月コンポンクーナンにすすんだ。六月二五日にはスラバヤからパリックパパン沖艦船へと「特攻」雷撃攻撃(「七生神雷隊」)をおこなった。死亡した六一戦隊の隊員は二一人、誘導の海軍機の隊員も三人が死んだ。

海軍機の死者の中には江藤親思がいた。かれは「未帰還」であったが戦死公報には「敵艦ニ突入壮烈ナル戦死」とされていた。この伯父の史実を調べた江藤親は、「戦争の記憶を生々しく引きずる人々の悲しみは永遠に記録されなければならない」「新たな悲しみが生み出されることがないよう努力することがわたしたちの務めだ」と記している(「毎日新聞」一九九九年九月二日付・東京朝刊)

重爆隊の飛行第六二戦隊については『七三部隊回想記』(飛行第六二戦隊・第六三飛行場大隊)がある。この戦隊は一九三九年七月に浜松で編成され、一九四〇年一〇月に帯広を拠点とした。一九四一年十一月各務原で機体を偽装、浜松で整備・訓練ののち、十一月末、南方に向けて浜松を出発した。

一九四二年十二月八日にはコタバル上陸作戦に参加し、タナメラ飛行場を爆撃した。十二月末から一九四二年二月はじめにかけてラングーン(ミンガラドン)・モールメン・トングーなどを爆撃し、二月中旬サイゴンで九七式重U型に改変、プノンペンで訓練をおこなった。三月中旬にはクラークフィールドにすすみ、四月はじめまでフィリピンでの攻撃をおこなった。

一九四二年四月には南京と武昌に分散してすすみ浙?作戦に投入された。五月から七月にかけて麗水・玉山・?江・衢県・龍游・衡陽・桂林の飛行場などを爆撃した。一九四二年八月、帯広へともどり、一九四三年三月にはアッツ・キスカ島への空輸をおこなうなど北方で活動した。一九四三年十一月浜松で百式重に改変し、訓練をおこなった。

一九四四年一月、浜松から南方へと派兵され、二月マレー・スンゲイパタニで訓練をおこなった。三月にビルマ・マウビへとすすみ、三月から五月にかけてインパール市街への爆撃を含めてインパール作戦を支援した。三月末のレド油田への攻撃では九機中八機が撃墜され七〇人が戦死した。五月スンゲイパタニへともどり、戦力回復の訓練をおこない、八月北ボルネオで跳飛攻撃訓練や船団掩護をおこなった。飛行第十二戦隊と雁部隊を編成し、一〇月にはレイテ湾で攻撃をおこない、十一月にはモロタイ島を攻撃した。一九四四年十二月、日本にもどり、一月、福生で四式重に改変した。

一九四五年二月下旬に飛行第六二戦隊は「特攻部隊」に指定され、そのとき「特攻」指定に反対した戦隊長は更迭させられた。三月、別府湾で跳飛弾攻撃の訓練をおこない、三月に東海沖、四月に沖縄東方、五月には沖縄周辺での「特攻」攻撃をおこなった。六月には西筑波に移るが、八月の空襲で壊滅的な打撃を受けた。

浜松で一九三九年に編成された飛行第六二戦隊は、戦争末期の一九四五年はじめに部隊全体が「特攻」隊に指定されたのである。

また、一九四一年十一月末、浜松で編成され、十二月十五日に南方へと派兵された第一野戦補充飛行隊も「特攻」隊をだすことになった。この部隊については高瀬士郎『第一野戦補充飛行隊』がある。この部隊は空中勤務者の補充のための教育部隊であり、偵察・軽爆・重爆・戦闘の科があった。

一九四四年一〇月には戦闘機でカーニコバル諸島のイギリス空母を目標に「特攻」、一九四五年には実戦部隊となり、一月末にはスマトラ南西洋上でイギリス艦船へと重爆機六機(三四人)で「特攻」(「七生皇楯第二飛行隊」)がおこなわれ、七月末にはブケット沖でイギリス艦船への軍偵機で「特攻」(「七生昭道隊」)がおこなわれた。

フィリピン戦では先に記した富嶽隊だけでなく、一九四四年十二月、飛行第九五戦隊と飛行第七四戦隊が百式重で、空挺隊員を乗せての着陸やネグロス周辺で「菊水隊」を編成しての「特攻」攻撃をおこなっている。沖縄戦用に六二戦隊は「特攻」部隊とされ、110戦隊からも「特攻」部隊が編成された。義烈隊の空挺隊員は重爆機で輸送した。

このようなかたちで重爆撃機による「特攻」攻撃がおこなわれた。

以上、浜松から派兵された爆撃隊によるアジア各地での空爆の経過をみてきた。アジア各地での空爆によって多くの民衆が死を強いられた。爆弾の下には人間がいたのであり、その爆撃は多くの悲しみを生んだ。また、天皇制軍隊に組織され、自己の生命を尊重しない思考で規律された軍人たちは、戦争末期には雷撃隊・跳飛弾攻撃隊・「特攻」隊などとされ、多くの兵士がその生命を失った。

飛行第十四戦隊はフィリピンに残留部隊を残した。『飛行第十四戦隊戦記北緯二三度半』には残留隊員がみた死亡兵士の姿が記されている。他の部隊の一人の兵士が戦闘帽をかぶり座ったように死んでいた。二日後には服もはち切れんばかりの水ぶくれになり、死臭があたり一面に漂っていた。五日目には目の玉が落ちて大きな穴が二つあき、鼻も落ちて骸骨の様相となった。死臭は一〇メートル手前にまで流れてきた。二週間すると頭は真っ白な骸骨になってころがっていた(四四一頁)。このような形で捨てられた兵士もいた。そこは死の山だった。

「天皇の御楯となり吾は死す 神となる身の心たのもし」「命より名こそ惜しまん若桜 死ぬべき時に散りてこそ咲く」(『同』四〇一頁)と、兵士は戦場で詠んでいる。しかし実際は棄民であった。兵士たちは、天皇に忠誠を尽くし、「死は鴻毛より軽し」と英霊思想の内面化を強いられていた。「特攻」死はその果ての姿だった。

戦争を肯定し賛美する者たちが死者に与えた美辞麗句をはぎとり、その真実をつかみ、その戦争の責任を追及し、このような戦争を再び起こさないことが求められているように思う。

つぎに中国での空爆の具体的状況についてみていきたい。

 

二 都市爆撃の状況

 

陸軍爆撃部隊による爆撃地は多くの地域にわたる。ここでは中国側資料と各戦隊史にある爆撃の記述を照合しながら、地域での具体的な被害状況をみていきたい。中国側資料としては『日軍侵華暴行実録』(一〜四)、『侵華日軍暴行総録』や各地域での文史資料、報道記事などを利用する。

 

1 河北省・天津

浜松から派兵された飛行第六大隊(のちの飛行第六〇戦隊)は一九三七年七月三〇日に天津市内の南開大学を爆撃した。『飛行第六〇戦隊小史』には「抗日共産党の拠点」を「爆砕」と記されているが、実際は大学を略奪の対象として破壊したとみられる。飛行第五大隊は七月二九日に前夜の天津飛行場への攻撃の報復として福旦大学を爆撃した。

南開大学の各建物には石のプレートがはめ込まれている。学校資産管理室のものをみると一九三七年に日本侵略軍に破壊され、一九五四年に修復されたことなどが記されている。

化学教室として使われている第二教学楼はかつて思源堂として使われていた。この建物は一九二三年に建てられた。碑文には、一九三九年七月、日本侵略軍が飛行機・大砲で大学を攻撃、この建物も被弾し火事になったが、抗日戦争後に修復したことが記されている。

秀山堂として使われていた建物は一九二二年に建てられた。碑文には一九三七年七月三〇日、日本侵略軍の爆撃によって廃墟となったことが刻まれている。

図書館にあった二〇万冊に及ぶ書籍は日本軍に略奪された。戦後に返還された本はその一部の四五〇冊余りだったという。また大学の鐘も略奪された。この鐘は卒業式のときに卒業生の数だけつくことが習慣になっていた。攻撃により南開大学は火の海となり、人々はイギリスの租界地へと逃れ、涙を流して燃える天津の街を見たという。

南開大学の劉福友氏は「当時大学構内には兵士はいなかった。それなのに日本軍は徹底的な破壊をした。それは文明を憎み、潰すことであり、本当に野蛮な行為だった。九・一八事変のとき、南開大の創始者張伯ュ博士は東北地方へ調査団を派遣する活動をし、占領に反対する気持ちを持っていた。日本軍はそのような精神を憎んだのだろう」という(一九九二年取材)

当時南開大学には三千人の学生が在籍し、その名は全国に知られていた。張伯ュは「読書救国」を主張してきたが、この破壊に対して、南開大学が物質的に破壊されてもその精神は一貫している旨を語っている。この南開大学への攻撃は中国側の大きな怒りを生んだ(『日本在華暴行録』六九〇頁)。

ここで、大学への爆撃をみておけば、日本軍機は、一九三七年八月十五日には南京中央大学、一九四〇年七月四日には重慶中央大学、一九四〇年一〇月十三日には雲南大学などを爆撃している。日本軍の侵攻によって文化施設のおおくが破壊された。上海の事例を見ても市立博物館・市立図書館・国立同済大学・上海商学院・上海法学院や小中学校など、全壊となっているものが多い。

 

2 河北省・景県

一九三七年九月二六日、河北省の景県を日本軍の爆撃機三機が襲った。この攻撃によって一一〇人以上が死亡し、一九〇人以上が傷ついた。その空襲の状況をみてみよう(『日軍侵華暴行実録二』四二頁以下)。

日本軍機は市場の群集に向かって機銃掃射を浴びせた。食糧・布・果物などが散乱し、逃げようとする人々の喚声、傷ついた人々の呻き声、空襲への怒りの声が一帯を覆った。また日本軍機は南関・南城門・南門大街・文廟・教会を爆撃した。爆撃によって、死体が街にころがり、目や手足に傷を負って助けを求める人々の声が街に響いた。観音廟付近での爆発では七〇人以上が死亡した。死体が積み重なって血が満ち、人肉や脳髄があたり一面に飛び散った。南門里の王洪魁(十八歳)や老庄の農民王風祥の場合、頭骨が裂けて脳漿が流れでた。南関の李小多の場合、腹が裂け、腸が外に出た。そのためかれは両手で腹を押さえ、悶えて転がり、苦しんで死亡した。被爆によって南門里の染物屋では張麻子をはじめ計七人が死亡した。多くの人々が身体に傷を負い、家屋や家族を失い離散した。

一九三七年九月下旬、日本軍は河北・山西の拠点の攻略をすすめていた。九月下旬には保定を占領し、さらに石家庄や太原への侵攻をすすめ、後方拠点への空爆をおこなった。景県は河北から山東省済南に向かう交通の要衝にあり、日本軍が攻撃をおこなったとみられる。

この攻撃をおこなった部隊名は不明だが、陸軍爆撃隊であった可能性が高い。浜松から派兵された爆撃隊や浜松で訓練された爆撃技術によって、このような風景が各地で繰り広げられていったのである。

 

3 河南省・信陽

一九三八年九月から一〇月にかけて飛行第六〇戦隊は武漢攻略に向けて各地で爆撃をおこない、徳安・英山・信陽・南昌・麻城・咸寧などで市街地への爆撃をおこなっている。

飛行第六〇戦隊がかかわったとみられる九月末の信陽・?集への爆撃をみてみよう。日本軍機は?集花山寨を爆撃し、死傷者は百人を越えた。熊徳元はそのときに精神を破壊され、「飛行機が来たぞ!来たぞ!逃げろ!」叫ぶようになり、二年後に死亡し、家族は離散したという(『日軍侵華暴行実録二』五七八頁)。

 

4 湖南省・平江

一九三八年一〇月十九日、飛行第六〇戦隊は平江を攻撃した。

日本軍機は平江の主要な街路・建物を爆撃し、機銃掃射もおこなった。この攻撃により市内には血と肉が飛び散り、市街地からは出火し、街は瓦礫の山となった。爆死者は二百人、負傷者は五百人を超えた。北街の彭家祠堂・傷兵医院では六〇人余の重症者が爆死した。その死体に完全なものはなく、二〇メートルあまりの高さにまで吹き飛ばされ、善彗庵の屋根や高灯の柱に飛び散った。宋家塘では防空壕が直撃され、壕内の約五〇人が死亡した。体はばらばらになり、その惨状は正視できないものだった。また、東街北や北門の鳥龍廟に燃焼弾が投下され、六百余棟が焼失し、市民はさまざまな財産を失った(『日軍侵華暴行実録四』二八三頁)。

 

5 湖南省・衡陽

衡陽市・衡陽県は日本軍による空襲を数多く受けたところである。『日軍侵華暴行実録四』には衡陽市四一次、衡陽県五二八次の空襲を受けたとある(三一〇頁)。

飛行第六〇戦隊・九八戦隊は一九三八年十一月に衡陽飛行場を爆撃している。同時期、衡陽市街も爆撃された。市街の北生街・両頭忙・帝主宮・堰塘巷などが被爆し、死傷者は千人ほどとなったという。また、一九三八年十一月、飛行第六〇戦隊は衡山を攻撃している。十一月八日の爆撃で衡山市街は廃墟となった。死傷者は千人以上とみられる(『日軍侵華暴行実録四』三〇一・三二〇頁)。

その後、飛行第十二戦隊は一九四一年九月に、飛行第六二戦隊は一九四二年五月・七月に、飛行六〇戦隊は一九四三年七月末から八月にかけて衡陽の飛行場・停車場などを攻撃している。飛行第九〇戦隊・第十六戦隊も衡陽飛行場への攻撃をおこない続け、飛行第九〇戦隊は一九四四年七月、衡陽の占領にむけて市街を爆撃している。

 

6 陜西省・西安

 陜西省の東の山西省は抗日軍と日本軍との地上戦の場になった。陜西省を日本の地上部隊は占領できなかった。そのため日本軍は航空部隊を使って爆撃を繰り返した。陜西省への爆撃は『日軍侵華暴行実録四』(六七二頁)によれば、二百回以上、死傷者は六千人とされ、新聞記事の報道によれば、五〇余の地域に及び、死傷者は約一万人という。集中して爆撃された場所が省都の西安であった。

 西安への爆撃による死傷者数については統計によって数値が異なるが、二千五百人前後とみられる。劉春蘭『抗戦時期日本飛機轟爆陜西実録』では死亡者一二四四人、負傷者一二四五人の計二四八九人とし、『西安史話』では死傷者計を二六八三人としている。爆撃回数については六六次とするものと一四五次とするものがある(『西安日報』二〇〇四年十二月九日付)。いずれにせよ、西安は数多くの空爆を受けたのである。

 西安への最初の爆撃は一九三七年十一月に陸軍の重爆撃隊によっておこなわれた。新型重爆撃機に改変し、飛行場を目標にしての攻撃だった。このとき西安を爆撃した部隊は一九三七年七月の盧溝橋事件以後に、浜松から派兵された重爆撃部隊であった。

当初西安の飛行場へと爆撃がおこなわれていったが、一九三八年十一月ころから市街地への爆撃がおこなわれるようになった。

 一九三九年三月七日、飛行第十二戦隊と飛行第九八戦隊が西安を爆撃した。市街地への爆撃がおこなわれ、馬坊門・東西大街・蓮湖公園・糖坊街・北城根などが被害を受けた。天水行営が被爆して、死者六四人・負傷者四三人を出した。この日の死傷者は六百人余という(王民権『日機轟爆陜西実録』・前掲『西安日報』記事)。さらに三月十四日・十五日と飛行第六〇戦隊・十二戦隊・九八戦隊による軍事施設も目標にしての爆撃がおこなわれた。 

一九三九年四月二日、七機が市街上空を旋回し、五〇弾あまりを投下した。一〇箇所ほどが被害を受け、市民一〇人あまりが死傷した(『侵華日軍暴行総録』陜西省の項)。この爆撃をおこなったのは飛行第十二戦隊である。

 一九三九年一〇月一〇日からは飛行第六〇戦隊による西安爆撃がはじまった。一〇月十一日には十二機が市区東北の大華綿紡績工場を爆撃した。当時この工場は軍用布を生産していた。約三〇弾が投下され、工場は破壊された。労働者十二人が死亡し、四人が負傷した。一九四一年五月六日には再び大華綿紡績工場が爆撃され、二〇余弾が投下された(『侵華日軍暴行総録』陜西省の項)。

この一九三九年一〇月の爆撃をおこなったのは飛行第六〇戦隊であり、一九四一年五月の爆撃は飛行第九〇戦隊がおこなった。

 一九四〇年六月三〇日の爆撃は飛行第六〇戦隊によっておこなわれた。戦隊は成都爆撃に向かったが、密雲のために中止し、西安の市街地や軍施設を爆撃している。この爆撃による死傷者は四百人以上という。

 一九四一年九月十二日の爆撃は飛行第十二戦隊・第九八戦隊・第九〇戦隊によっておこなわれた。爆撃は二派にわたり、市街地の西安駅・崇耻路・北城培・六合新村・雷神廟街・九府街・紅埠街・蓮花池街などが爆撃された(王民権『日機轟爆陜西実録』・前掲『西安日報』記事)。『写真で綴る飛行第九八戦隊の戦歴』にはこの日の爆撃写真があり、無差別爆撃の状況がわかる。

 ここでみてきた爆撃は市街地への爆撃が多く、それによって数多くの労働者や市民が死傷した。

 なお、朝日新聞社『支那事変写真全集六荒鷲部隊』にはこの西安への爆撃やのちに記す延安・蘭州などへの爆撃の写真が掲載されている。

 

7 陜西省・延安

中国共産党の根拠地であった延安に対しては、一九三九年二月一四日、飛行第九八戦隊が軍官学校と市街を爆撃し、同年三月六日には飛行十二戦隊が軍官学校などを爆撃した。

一九三九年九月八日には日本軍機が二派四三機で延安を襲った。二百弾余りを市街の北街や西山に投下し、死傷した軍人と市民は五八人だった。同年一〇月十五日、四派にわたって日本軍機七〇機ほどが空爆をおこない、投弾数は二二五弾におよんだ。死亡者は一〇人、負傷者は十三人、市街の一部が火の海となった。一九四一年八月四日には二七機から百弾が投下され、市民六人が負傷した(『侵華日軍暴行総録』陜西省の項)。これらの爆撃をおこなったのは飛行第六〇戦隊である。

 

8 陜西省・宝鶏

宝鶏への爆撃は二〇回ほどおこなわれている。陸軍部隊をみると一九三九年三月には飛行十二戦隊が、同年一〇月には飛行第九〇戦隊と飛行六〇戦隊が爆撃をおこなっている。

飛行第六〇戦隊は一九四〇年八月十八日には宝鶏市街を「赤色ルートの要点」として爆撃し、さらに八月三一日、九月二日と連続して空爆を加えている。

八月三一日の宝鶏への爆撃について、『侵華日軍暴行総録』(陜西省の項)からみてみると、この日、三派三六機が郊外を爆撃し、百余の燃焼弾を投下した。そのうち二一弾が宝鶏申新紡績工場へと投下され、労働者一名が死亡、織機が破壊され綿花が焼失した。太白廟近くの中学校施設、闘鶏駅、龍泉巷、中山西路、姜城堡、渭河南郷村等も被爆し二〜三〇人が死傷した。

一九四一年八月には日本軍機が三派にわたって宝鶏・渭河の両岸を爆撃し、市民二〜三百人が死傷した(『侵華日軍暴行総録』陜西省の項)。戦隊史や戦隊の記録によれば八月に飛行第六〇戦隊・九〇戦隊・九八戦隊が宝鶏を爆撃している。中国側の記録にある一九四一年八月の爆撃はこれらの部隊によるものとみられる。

 

9 陜西省・潼関

一九三八年七月一〇日、日本軍機が潼関を爆撃した。県城内の東大街・張家巷・楊家巷・永坡巷などが被爆し、死傷者は二人だった。一九三九年二月二一日には潼関の南北街・頭層山・二層山・第一巷などが被爆し、市民三人が死亡し、多数の市民が負傷した。二層山での負傷者は四〇人に達した(『日軍侵華暴行実録四』六七三・六七四頁)。この爆撃をおこなったのは飛行第六〇戦隊である。

なお、一九四〇年九月中旬には毒ガス弾が投下され麒麟山麓の防空壕の七人が窒息死した(『日軍侵華暴行実録四』六七七頁)。この攻撃の日本側部隊の詳細は不明である。

 

10 陝西省・安康

一九四〇年九月三日、日本の重爆撃機が安康を襲った。はじめに二四機が旧城の西から東へと、さらに十二機が新城の西部を爆撃した。爆弾と燃焼弾によって市内全部が炎に包まれた。特に悲惨だったのは旧城中部の龍窩街が廃墟になったことだった。ある一家では来客十九人が死亡し母子だけが助かった。北正街では兵士二百人ほどが被爆した。この日の死傷者は千五百人を越えた。また、燃焼弾とともに毒ガス弾を投下したという(『日軍侵華暴行実録四』(六七一頁・六七七頁)。この爆撃は飛行第六〇戦隊がおこなった。

飛行第六〇戦隊は一九四〇年五月一日にも安康を爆撃している。この日の爆撃では五里飛行場が爆撃され、二〇〇人の市民が死傷した(『日軍侵華暴行実録四』六七六頁)。

 

11 陝西省・漢中(南鄭)

余晴初「抗戦時期日寇轟爆漢中実録」(『抗戦時期的漢中』)には漢中(南鄭)への日本軍による空爆の経過がまとめられている。

飛行第六〇戦隊の戦隊史には、一九三九年一〇月に延安・西安など要地を時には中隊ごとで攻撃し、二五日には南鄭飛行場と市街を爆撃したと記されている。一〇月二五日の爆撃については『日軍侵華暴行実録四』(六七五頁)に記載があり、三五機が何家庄・七里店・五郎廟・五家巷・東関・北関・文廟などを爆撃、八三人が死亡、七〇人が負傷したという。この頃、南鄭に対しては、一〇月二〇日に二六機が城門近くを爆撃、二六日には十六機が東門や東北部を爆撃し百人余が死亡というような攻撃が続いていた。

飛行第六〇戦隊による一九四〇年五月二十日夜の漢中への爆撃では、東部郊外の黄家坡・西北医学院へと四〇発以上が投下され、医学院教授楊其昌や母子ら十四人が死亡し、十七人が負傷した(『抗戦時期的漢中』七七頁)。

一九四一年八月二九日には二八機が南門新市場などに七〇余弾を投下している(『日軍侵華暴行実録四』六七八頁)。この攻撃は飛行第九〇戦隊によるものである。

 

12 甘粛省・蘭州

甘粛省の省都である蘭州は交通の要衝であり、政治的軍事的拠点である。ソ連からの支援物資は蘭州を経由して各地の前線へと運ばれていた。一九三七年一〇月には蘭州へとソ連から航空部隊が派兵され、ソ連の軍事・外交関係の代表所が設立されていた。

甘粛省への爆撃による被害状況は爆死者六六〇余人、負傷者六八〇余人であり、蘭州では二五二人が死亡している(甘粛省档案館資料による、『雅虎中国』二〇〇五年四月七日付)。

蘭州の東飛行場への爆撃が一九三七年十一月十五日に飛行第十二連隊によっておこなわれている。その後、陸軍航空隊は重慶や蘭州などの中国奥地への戦略爆撃の準備をすすめ、一九三八年末から重慶への爆撃をはじめ、一九三九年二月には蘭州への爆撃をおこなった。このときの被害状況について『日軍侵華暴行実録四』『蘭州文史資料選輯八』からみてみよう。

一九三九年二月九日には飛行第六〇戦隊が平涼を爆撃した。この爆撃により、平涼では死者一二六人、負傷者五一人の被害がでた。

二月十二日には飛行第十二戦隊が靖遠市街を爆撃し、死者三人、負傷者三〇人を出した。同日、飛行第六〇戦隊と飛行第九八戦隊は蘭州の東飛行場一帯を爆撃し、死者三人・負傷三〇人をだした。

十二日の飛行第十二戦隊による靖遠への爆撃状況をみよう。この日は農暦の春節の前であったため、人びとは新年を迎える準備のさなかだった。これまで靖遠は爆撃されたことがなかったので、警報も防空常識もなかった。そこに機銃掃射と爆撃が行われ、高志仁(師範学校生・一八歳)、楊永興(商業・四二歳)の生命を奪った。学校には弾痕が残り、教師の宿舎は爆撃された。このとき四四弾が投下されたという(『蘭州文史資料選輯八』四五・四八頁)。

二月二〇日には飛行第十二戦隊・六〇戦隊・九八戦隊が蘭州東飛行場・西固城・蘭州市街に投弾、二五人が爆死し十七人が負傷した。

二月二三日には飛行第六〇戦隊と十二戦隊が蘭州市街を爆撃した。市街の中山市場・東大街・黄家園・学院街・貢元巷・黄河沿・南関・東城壕一帯が爆撃を受けた。この日の攻撃によって、唐代の建築である普照寺が被爆し、経典六三五八巻が焼失した。死傷者の計は百人を超えた。

三月七日には飛行第十二戦隊が平涼を、三月一五日には九八戦隊が平涼を爆撃した。『侵華日軍暴行総録』(甘粛省の項)によれば、三月七日には市街に六〇弾が投下されて死者七人・負傷者一人、三月一五日には飛行場と市街が爆撃され、七四弾の投下によって、死者六人・負傷者二人の被害がでた。

さらに、一九三九年十二月二六日から二八日にかけては飛行第六〇戦隊が蘭州を爆撃した。三日間の爆撃で二千弾余が投下され、七五人が爆死し、五五人が負傷した。五一七戸・一八三五人が帰る家を失った。一九四一年八月三一日には飛行第十二戦隊が蘭州を爆撃した。死者は七人、負傷者は一〇人だった。これが蘭州への最後の大規模な空爆となった。

 

13 四川省・重慶

一九三八年二月から一九四三年八月にかけて重慶への爆撃がおこなわれた。国民政府の拠点となった重慶に対し、日本軍は戦略爆撃をおこなった。その空爆は市街地への無差別爆撃となり、多くの市民が死傷した。この爆撃で一万千九百人近い市民が爆焼死し、一万四千人余の市民が負傷し、破壊された家屋は三万軒余という。

これまでみてきたように、中国各地への爆撃は市街地への爆撃を含むものが多く、学校・宗教施設・医院など非軍事施設も爆撃され、非戦闘員も多数死傷している。日本軍による爆撃は国際法に反する戦争犯罪であった。

重慶爆撃については前田哲男『戦略爆撃の思想』があり、爆撃の状況やその背景が記述されている。ここでは西南師範大学歴史系・重慶市档案館編『重慶大轟爆』、重慶抗戦双書編纂委員会編『抗戦時期重慶的防空』、『侵華日軍暴行総録』、『飛行第六〇戦隊小史』などから重慶爆撃の状況をみていきたい。

陸軍の爆撃部隊は重慶への爆撃を四次にわたっておこなっている。

第一次は一九三八年一二月末から一九三九年一月にかけてである。

一九三八年一二月二六日、飛行第六〇戦隊と飛行第九八戦隊が重慶への攻撃を計画した。しかし、密雲のために飛行第六〇戦隊は爆撃を中止したが、一機の故障機が全爆弾を投下している。飛行第九八戦隊は市街地東部へと推測しての爆撃をおこなった。

陸軍の重爆撃部隊(飛行第十二戦隊・六〇戦隊・九八戦隊)は一九三九年一月七日・一〇日・十五日と三派の重慶爆撃をおこなった。

一月七日には密雲のなか、長江に沿って街や港への推測を含めての爆撃をおこなった。爆弾は巴県土主場・青木関・魚界灘・璧山蒲元郷などに投下された。死者は四人、負傷者は七人だった。一月一〇日には巴県土主場・双河場・鹿角場・馬家店などに投下した。

一月十五日には市街地の三門洞街・国府路・曽家岩・学田湾・中四路や江北の青草項・漑瀾渓・陳家橋・劉家台・人和鎮などを爆撃した。爆死者は一一九人、負傷者は一一六人に及んだ。

第二次の爆撃は一九四〇年六月から八月にかけての爆撃である。爆撃は海軍機と共同しておこなわれ、陸軍航空部隊からは飛行第六〇戦隊が参加した。

このときの爆撃で陸軍が製造した「カ四弾」という燃焼弾が使われた。この爆弾は弾体のなかに黄燐溶液を吸い込んだゴム片と火炎剤を詰めこみ、炸裂すると火炎弾となったゴム片が百メートル四方に飛び散るというものだった。人体の場合、皮膚を貫いて内部でくすぶり続けたという(『戦略爆撃の思想』上二九九頁)。

六月六日、飛行第六〇戦隊は白市駅飛行場を爆撃(死者四人・負傷六人)、梁山飛行場も爆撃した。六月一〇日海軍機は市街を爆撃、六〇戦隊は梁山飛行場を爆撃した。

六月十一日、重慶市街と江北への爆撃がおこなわれ、六〇戦隊は江北市街や金陵兵工廠を爆撃した。投下爆弾は百発を超えた。この日の重慶空爆による死者は六四人、負傷者は一七二人だった。

六月十二日にも市街地への爆撃がおこなわれ、飛行第六〇戦隊は江北市街を爆撃した。江北の野猫洞・沙家溝・梁沱河・鷂鷹岩・打魚湾・東昇門・楊家渓・木関沱・金沙門・覲陽門・問津門・演武庁・上横街・平儿院・火神廟・新城菜園・放生池街・三山廟・荒林街・四楞碑・水府宮・宝蓋寺などが被爆した。市街各地で火災が発生し、電話線が切断され、たくさんの難民が出た。この日の重慶市街と江北市街への攻撃によって、死者は二二二人、負傷者は四六三人におよんだ。

六月十六日、飛行第六〇戦隊は重慶市街を爆撃した。この日の爆撃で陝西路・新街口・左営街・中正路・神仙洞街・観音岩・中一路・国府路・学田湾・大渓溝・林森路・儲奇門・人和街・張家花園・双渓溝・曽家岩が被爆した。死者は四〇人・負傷者は五〇人であり、市街地各地で出火した。

六月二四日、飛行第六〇戦隊は北碚市街を攻撃し、海軍機は重慶市街・江北を爆撃した。爆撃による死者は二一人、負傷者は六七人だった。北碚の街道・金鋼碑・果園・水嵐?・魚塘湾・毛背沱などが被爆した。六月二五日の爆撃では、飛行第六〇戦隊は重慶に向かうが、故障機が発生したために梁山飛行場を爆撃した。

六月二九日には飛行六〇戦隊は重慶大学や周辺の工場地帯を爆撃した。この日の爆撃による死者は十二人、負傷者は十九人だった。

七月二二日、重慶が密雲であったために、飛行第六〇戦隊は付近の要地への爆撃指令によって合川の工場地帯を爆撃した。

七月三一日に飛行第六〇戦隊は北碚と銅梁を爆撃した。海軍機は市街・江北を爆撃した。北碚では南京路・上海路・中山路・中正路・体育場・黄桷鎮などが被爆した。爆撃による死者は六二人、負傷は二二六人だった。

八月二日、飛行第六〇戦隊は璧山を爆撃した。この日、璧山・広安・瀘県・隆昌・大竹などが爆撃された。死者は五七人・負傷者は百三人だった。八月三日、飛行第六〇戦隊は銅梁を爆撃した。死者は七人、負傷者は九人だった。

八月十九日・二〇日と飛行六〇戦隊は海軍機と共同して重慶市街を爆撃した。

十九日には、六〇戦隊は二五〇キログラム爆弾九〇発・カ四弾(燃焼弾)五三発を投下した。市街の大梁子・中華路・林森路・花街子・厚慈街・和平路・百子巷・棉絮街・魚市街・関廟街・草葯街・鼎新街・木貨街・守備街・十八梯・第三模範市場・較場口・演武庁・金紫門・磁器街・至軽宮・康寧路・棗子嵐?・中二路・飛来寺・燕喜洞・神仙洞・中一路・民生路・南区公園・国府路・学田湾・武庫街・両浮支路・張家花園・春森路・牛角沱・大田湾・浮図関・菜園項・羅家湾・両路口など七〇余箇所と江北の廖家台が被爆し、火災が発生した。市街の「新民報」・川東師範学校・国民党軍事委員会・政治部・中央組織部・ソ連・イギリス・フランス大使館・仁愛医院など多くの施設が損害をこうむった。死者は一八一人、負傷者は一三二人、家を失った人は二千人に及んだ。

この日の爆撃は「八・一九大爆撃」と呼ばれている。

八月二〇日には市街の繁華街に大量の燃焼弾が投下された。会仙橋・小梁子・蒼平街・機房街・大梁子・夫子池・臨江路・天官街・望龍門・西二街・西三街・西四街・陝西街・白象街・打銅街・東水門・復興路・模範市場・小什字・行街・千厮門・順城街などが被爆した。各地に火の手があがり、銀行区も火災に襲われて大きな被害を受けた。外国施設や南岸・江北も被弾した。死者は一三三人、負傷者は一四八人に及んだ。

重慶防空司令部調査によれば、この八月十九日・二〇日の爆撃によって投弾数は八〇〇余発、死者は三一四人、負傷者は二八〇人、破壊家屋は八一四五軒という。この二派の爆撃は重慶の都市機能の多くを破壊するものだった。さらに飛行第六〇戦隊は八月二一日には南充・梁県を爆撃していった。

陸軍爆撃部隊による第三次の攻撃は一九四一年八月中旬から九月はじめにかけておこなわれた。

一九四一年八月十一日、飛行第六〇戦隊が重慶を爆撃した。この日、両路口・大田湾・国府路・曽家岩・学田湾・南岸・江北が爆撃され、被害は死者五七人、負傷者六五人だった。

八月十七日・十九日と飛行第六〇戦隊は自流井の製塩所を目標にして爆撃をおこなった。十七日の自流井への爆撃では郭家?・竹湯元・光大街・土地坡・黄葛坡・夏洞寺・王家塘・五営村・鳳凰項、貢井の篠渓街などが被爆した。死亡者は三六人・負傷者は六九人だった。十九日の爆撃は居住区へとおこなわれ、死亡者は二四人、負傷者は四六人だった。

八月二七日、飛行六〇戦隊は重慶市街北西の工場・倉庫群を爆撃した。

八月三〇日には飛行第六〇戦隊・十二戦隊・九八戦隊と海軍機による重慶爆撃がおこなわれた。飛行第六〇戦隊は蒋介石らの軍事会議場を狙って爆撃をおこなった。南岸の老君洞・向家坡・黄桷?・黄山・汪家花園などが攻撃され、蒋介石の黄山官邸雲岫楼が爆撃をうけた。市街地や小龍坎・沙坪項なども攻撃された。この攻撃によって死者三三人・負傷者八八人の被害がでた。

八月三一日には飛行第六〇戦隊と海軍機が重慶を爆撃した。市街国府路・上清寺・中三路・学田湾などが被爆し、死者四二人・負傷者二三人が出た。益世報編集部と印刷工場が全壊した。

九月一日には飛行第六〇戦隊は大波口製鉄所を爆撃した。それにより、労働者九人が死亡し一五人が負傷した。

この八月の攻撃は昼夜を問わない爆撃であり、市民を疲労させるためのものであった。警報は頻繁に鳴り、市民は防空壕での執務や地下での工場生産を強いられた。

最後に、陸軍爆撃隊による第四次の重慶攻撃についてみておこう。

この攻撃は一九四三年八月二三日に飛行第五八戦隊によっておこなわれた。この戦隊は一九三八年八月に公主嶺で飛行第十二連隊から分離・編成された部隊である。爆撃によって重慶郊外の小龍坎・石門・馬王場・黄泥湾・陳家坪・烟灯山・邵家湾・聯芳橋などが被爆し、中央工業学校試験所・石門紡績工場も被害を受けた。死者は十五人、負傷は三二人だった。

以上が、陸軍部隊がかかわった重慶への爆撃とその被害状況である。海軍部隊は継続的に重慶を爆撃してきたが、陸軍部隊が共同することでその破壊力は倍増し、多くの市民が死傷したことがわかる。しかし、これらの爆撃は重慶市民の抵抗意識を破壊できなかった。

 

14四川省・梁山

重慶の項でみてきたように、重慶への爆撃の際に梁山への爆撃をおこなっている。ここで梁山への爆撃状況についてみておきたい(『侵華日軍暴行総録』四川省の項)。

飛行第六〇戦隊は一九四〇年六月六日に梁山を攻撃し、飛行場・県城・天笠郷・城西郷を爆撃した。六月一〇日には飛行場・県城・城西郷・天笠郷・仁賢郷を爆撃した。六月二五日には県城・天笠郷を爆撃した。一九四一年八月三一日には飛行場・県城・聚奎郷などを爆撃、爆死者五人、爆傷者八人をだした。

一九四三年以後、軽爆隊の飛行第九〇戦隊による攻撃が続き、一九四三年五月二九日には飛行場・県城・城西郷・天竺郷などを爆撃した。一九四四年五月三〇日には県城・城西郷・安勝郷を爆撃し、七人の死者と六人の負傷者を出した。八月二九日には飛行場・県城・城北郷・擂鼓坪などを爆撃、死者四人・負傷者六人をだした。

一九四四年九月二五日には飛行第六〇戦隊が飛行場・県城・城北郷を爆撃した。

なお、一九四三年八月八日に日本軍機が梁山に侵入し、爆弾二〇発と細菌弾四発を投下した。衛生院は細菌弾であるとし、消毒がなされたが、翌年、細菌弾投下地域で病気が発生、柏家・石安・福禄・城東などで一二三人が死亡した(『侵華日軍暴行総録』一二二〇頁)。

 

15 四川省・成都

成都への空爆についてみてみよう(『侵華日軍暴行総録』四川省の項)。

一九四〇年七月二四日、飛行第六〇戦隊は市街東南の春照路から?泉街、紗帽街から拱背橋の一帯に爆弾と燃焼弾を投下した。各所で火災が起きた。現場から死体が収集されたが、顔が焼け焦げたもの、黒焦げになったもの、手足の無いもの、血肉を失い頭骨だけになったものなど悲惨な状況だった。諸葛井の李一家四人の爆死や幼子を抱いたまま爆死した女性など、死亡した民衆は一〇二人、負傷者は一三三人に及んだ。救出隊員の死傷者は一五三人となった。

飛行第六〇戦隊は一九四四年九月・一〇月にも成都の新津飛行場などを爆撃し、同年一〇月には飛行第一六戦隊・九〇戦隊が成都の飛行場を攻撃している。

 

16 福建省・建甌

建甌へは百回を超える爆撃があった。そのなかで一九四二年七月十一日の大爆撃と一九四三年一〇月二日の禄馬巷防空壕直撃事件が忘れがたい爆撃として記されている。

一九四二年七月一〇日・十一日と建甌の飛行場と市街への攻撃をおこなったのは飛行第九〇戦隊だった。一九四三年一〇月二日の建甌への爆撃は飛行第十六戦隊がおこなっている。

一九四二年七月十一日の爆撃は銘三路の大同旅社付近への燃焼弾投下から始まり、その後、市街地へと爆弾と燃焼弾が投下された。逃げ惑う人々へと機銃掃射がおこなわれた。爆撃によって中山路・中正路・銘三路三条主街が大きな被害を受けた。爆撃後の焦土に慟哭の声が響いた。この爆撃により三五四棟が被災し、死傷者は二八五人となった。

一九四三年一〇月二日の日本軍機七機による爆撃の際、禄馬巷ではある夫婦の養女の結婚を祝って人々が集まっていた。警報が鳴り、人々は防空壕に入ったが、その防空壕を爆弾が直撃した。この防空壕への直撃で八七人が死に、生き残ったのは二人だけだった。李添炎の家族は四代七人が死亡した。楊益三の家族からは三人が死亡したが、このように二〜三人が死亡した家族が多かった。死体は損傷し分別できない状態だった(『日軍侵華暴行実録四』五〇九頁〜)。

飛行第十六戦隊の記録には第三中隊六機が建甌攻撃、続いて第二撃とあるだけである。飛行第十六戦隊は九月から建甌飛行場攻撃を始めている。市街地をも爆撃していったとみられる。

 

17 浙江省・金華・衢県

 一九四一年五月、飛行第十四戦隊は浙江省各地を爆撃した。

一九四一年五月十五日には金華駅を爆撃し、鉄路と車両を破壊した。死傷者は二〇人余だった。同日、飛行第十四戦隊は義烏市街、五月十六日と二二日には蘭谿市街、五月十七日には衢県市街、五月一八日には広信市街・新昌市街、五月二〇日には歙県市街、五月二一日には麗水市街などを爆撃している。

五月十七日の衢県での爆撃の状況をみると、投弾と機銃掃射によって三〇人余が死亡した(『侵華日軍暴行総録』浙江省の項)。

一九四二年五月から六月には飛行第六二戦隊と九〇戦隊が衢県や玉山などを爆撃した。

この攻撃によって衢県は日本軍によって占領された。

占領によって住民は衢県から避難していった。この避難民の中に高熊飛氏がいた。かれは一九三九年、金華で生まれたが、金華への空襲が激しくなるなかで衢県へと移動していた。衢県への攻撃とともに逃避するが、日本軍が撤退したために衢県にもどろうとした。しかし住居は爆弾で壊され住むことができなかった。そのため福建省に移動し戦時の省都となっていた永安に移るが、一九四三年十一月日本軍の空爆によって母親とともに右腕を失った。四歳のときのことである。その後、差別をのりこえ就職し結婚した。高氏は無差別爆撃への謝罪と賠償を求めて語る。「わたしの右腕は日本軍の飛行機の爆弾でなくなってしまいました。そのためのその後のわたしの人生には大きな困難が待ち受けていました。この原因をつくった戦争を心の底から憎み、二度と再び戦争が起こらないようにしたい」と(『中国人戦争被害者の証言』五八頁)。

このとき永安へと爆撃をおこなった部隊名は不明であるが、そのほかの地域を爆撃した陸軍部隊によっても、たくさんの死傷者がでている。その爆撃は高氏のような苦しみを持った数十万人の人々をつくりあげたといえるだろう。

 飛行第十四戦隊は一九四一年一月十八日には南寧市街(現・広西壮族自治区)を爆撃している。この爆撃で四三〇人が死傷した。南寧への空爆の中で、最大の被害を与えた爆撃となった (『新華網』二〇〇五年三月二日付)

 

18 雲南省・昆明

日本軍は一九四〇年ベトナムから中国にいたる鉄路を切断した。これに対し一九四一年、中国側は雲南からビルマにいたる支援路をつくりあげた。これを?緬公路という。昆明や保山はその沿線にある拠点都市だった。この支援ルートを破壊するための空爆がおこなわれたが、それは市民への無差別爆撃を含むものであった。

昆明への爆撃は当初、海軍部隊がおこなっていたが、陸軍部隊も攻撃をおこなうようになった。『侵華日軍暴行総録』(雲南省の項)から爆撃状況をみてみよう。

一九四一年四月から五月にかけては飛行第六〇戦隊が爆撃をおこなっている。

飛行第六〇戦隊による一九四一年四月八日の爆撃は昆明の市街を狙っておこなわれた。爆死者二六人、負傷者三八人がでた。四月二六日には市街と小西門外の趙家堆・梁家河などが爆撃され、爆死者七人、負傷者九人が出た。四月二九日には市街爆撃がおこなわれ、爆死者七八人・負傷者九九人がでた。五月七日には北部郊外が爆撃され、爆死者六九人・負傷者六九人がでた。五月十二日には南区が爆撃され、死亡者三人・負傷者十七人がでた。

一九四三年四月二八日には飛行第十二戦隊と飛行第九八戦隊が飛行場と周辺の村を爆撃し、爆死者五七人・負傷者四四人をだした。五月十五日にも爆撃をおこなっている。九月二〇日には飛行第六〇戦隊が昆明飛行場を爆撃した。五月十五日の爆撃とあわせて死者が三三人、負傷者が六九人でている。さらに飛行第六〇戦隊は十二月十八日と二二日に昆明の飛行場を爆撃し、死者十二人・負傷者十一人をだした。

一九四四年十二月には飛行第九〇戦隊が昆明の飛行場を攻撃している。

日本軍機による昆明の爆撃は六七次におよび、爆死した民衆は一四三〇人ほど、負傷は千七百人以上となるという。ここでみた陸軍部隊の爆撃だけでも死者数と負傷者数はそれぞれ三百人ほどとなる。

一九四〇年冬の昆明への爆撃の体験者鄒硯儒氏は言う。木・電線・屋根の上などに吹き飛ばされた身体の一部が残り、街は死体で満ち、慟哭が天に響いた。日本侵略者に人間性は無い。爆撃が終わると機銃掃射もあった。歴史を忘れてはいけない。日本人は南京大虐殺をいまだ承認しない。警戒が必要だ、と(『雲南日報』二〇〇一年七月十八日付)

 

 

19 雲南省・保山

保山への一九四二年五月四日の爆撃は、現地では五・四保山大爆撃と呼ばれている。

保山市内には日本軍による占領から逃れて中国各地やビルマから逃れてきた難民も含め、たくさんの人々がいた。当日、市場に人びとが集まり、中学生たちは運動会を開催していた。 

そこに日本軍機があらわれ、はじめに城南地域を爆撃し、つぎに城北地域を爆撃した。雲南省立保山中学の校舎は被爆し、校長の段宝光をはじめ学生三〇人ほどが死亡した。保山県立中学も爆撃され、男子中学生三〇人余が死亡した。馬里街にあった女子部の校舎には燃焼弾が投下され、すべてが焼失した。その際、女子第五班の学生三〇人余は燃焼弾の直撃を受け全員が焼け死んだ。学校前の広場では五〇人ほどが爆死した。華僑中学も爆撃され、多くの教師・学生が死傷した。運動会会場の公園も爆撃され、学生百人余、観衆三百人余が死傷した。 

爆撃で一家が全滅した家庭もあった。上巷街の孔憲章の一家は燃焼弾により十二人中一〇人が死亡した。鉄楼街の李尚武の一家は十四人中十三人が死亡した。旧県街の店で子どもに乳を飲ませていた女性は顔を吹き飛ばされた。かの女は座ったまま鮮血を流していた。ビルマから逃れてきていた三家の華僑の父母六人が手や頭を吹き飛ばされて死亡し、花摘みに行っていて難を免れた子どもたちは血と肉にまみれた父母を見て泣き叫んだという。

このような日本軍による攻撃は五月五日・十三日・二三日・二四日にもおこなわれ、この五月の爆撃による保山市民の死亡者は三八二八人、負傷者は四一八人、破壊家屋は一九六七軒という(『侵華日軍暴行総録』雲南省の項)。一九四二年五月はじめの爆撃は飛行第十二戦隊と第九八戦隊によるものである。

 

20山西省

 飛行第九〇戦隊は一九三九年二月から三月にかけて掃討作戦を支援し山西省北部を爆撃している。

飛行第十二戦隊は一九三九年三月末から四月にかけて山西省南部の市・集落の爆撃を三〇回ほどおこなった。飛行第十二戦隊は抗日拠点とみなしていた路安・陽城・襄垣・渉県・楡社・南陵場・姚村集・大菜園・林県・夏城・屯留・密県・垣曲などを爆撃したが、『飛行第十二戦隊中国要地爆撃写真帳』をみると爆撃は市街・集落中心へとおこなわれている。

『飛行第九〇戦隊史』には、一九三九年九月の包頭攻撃に際して、「軍事拠点といってもひっきょうは民衆」の集落であることが記されている(二〇四頁)。飛行第十二戦隊が爆撃したところも同様である。写真帳をみると市街地や集落に爆弾が落下され爆煙があがっている。そこには多くの民衆がいた。山西省の抗日拠点に対して日本軍は「三光作戦」をおこなうが、飛行第十二戦隊はその戦闘を空から支援したのである。

 『日本侵華戦争時期的化学戦』と『中国山西省における日本軍の毒ガス戦』には一九三八年秋の楡社県河峪鎮輝教村での日本軍機による毒ガスの雨下の状況が記されている。輝教村の孟全明・白守銀・何潤四・石友杰・石新華の証言に拠れば日本軍機が低空で侵入し、毒ガスを雨下した。村民は四〇〇人ほどだったが、二〇〇人ほどが中毒症状を示した。人体に水泡ができ、痛くて痒く、黄色い水が出たという。証言と症状から雨下したのは糜爛性のガスであったとみられる。武郷県蟠龍鎮でも同様の証言がある。

この飛行機によるガス雨下の研究・教育は浜松陸軍飛行学校がおこなっていた。そこでの訓練を経て各爆撃隊へと隊員が派遣された。このときのガスの雨下は陸軍の爆撃隊によるものといっていいだろう。

なお、『中国山西省における日本軍の毒ガス戦』から山西省での飛行機による毒ガスの使用についてみてみれば(三七・八九頁〜)、一九三七年一〇月十八日代県雁門関、一九三八年六月十五〜二〇日離石県、一〇月一日代県灘上村、一九三九年三月二八日〜三一日高平・陽城・晋城・長治、十一〜十二月夏県付近、十二月中条山、十二月四日堡子山、十二月五日店頭・坦山・朱家庄、一九四〇年四月十八日翼城県官門村・大青窪、六月十三日晋城県外山村、九月十四日晋城県、一九四一年三月一〇日垣曲県垣曲・同善鎮、五月八日垣曲県横皋、一九四三年四月二五日陵川県?西村馬儿坪などがある。

このうち一九三九年三月二八日〜三一日の高平・陽城・晋城・長治などへの毒ガス攻撃については飛行機からの投下爆弾に毒ガス弾が含まれていたとある。飛行第十二戦隊は三月二九日に陽城を爆撃しているから、このときに毒ガス弾をも投下したのかもしれない。

山西省をはじめ中国大陸での飛行機による毒ガスの使用の実態について今後の調査が求められる。

 

おわりに

以上、浜松から派兵された陸軍爆撃部隊のアジア各地での爆撃の経過をまとめるとともに、中国での被爆の状況をみてきた。浜松から派兵された飛行部隊は派兵先で強化・増殖され、侵攻作戦の支援や戦略爆撃をおこない、中国の市街地への爆撃もおこなった。それによって多くの市民が死傷した。その攻撃は無差別の爆撃をともなうものであり、戦争犯罪であった。残されている各戦隊の爆撃写真類からも無差別市街爆撃の史実を知ることができる。

重慶爆撃の際、幼少であった王群生氏は、一九三九年、罪のない重慶市民が血と汗を流している風景を見て、「この時から私は、『戦争とは何か、侵略とは何か、正義とは何か、平和とは何か』を考え始めた」という。そして軍国主義の魂を呼び起こそうとする動きを批判し、爆撃の史実を示しながら、平和の花がいたるところに咲くことを人々に呼びかけている(二〇〇二年八月六日広島集会での発言)。

また、一九四四年十一月飛行第九八戦隊に配属され、沖縄戦に投入された朝鮮人隊員尹根燮氏は、当初は戦争に正当な理由があると考えていたが、しだいに無為なものであり道徳的にも許されないものであると考えるようになったとし、つぎのように記す。「数千数万の若者たちの命が、天皇や日本帝国のために、無用のもののように投げだされるのをみるのは哀れであり、しかも単にかれらが戦争屋の道具であるという理由で」。「純真な同僚が、特攻隊に加わり、微笑を浮べ、手を振りながら死んで行った」「戦争は、結果的に弱小国への侵略を偽装したものであった」と。そして「この戦争は、多くの真理をわれわれに教えてくれた」。「(キリスト者として正義の立場から)不正な国家にたいして、断固として戦わなければならない」と語る(『あの雲の彼方に飛行第九八戦隊誌』一八一頁)。

あらたな戦争と派兵の時代となり、過去の侵略戦争を正当化する動きが強くなってきた今こそ、このような戦争体験者の視点を継承し、浜松の軍事基地を起点とした派兵と戦争の歴史を示したいと思う。その歴史は非人間化と大量破壊兵器による殺戮の歴史であり、繰り返してはならないものである。

ここでみてきた事例は中国での爆撃の歴史の一部である。今後の調査でその実態はいっそうあきらかにされるべきである。その作業を積み重ねることが、空からのテロリズムを終焉させる民衆の歴史につながっていくことを願う。

 

参考文献

 

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高瀬士郎『第一野戦補充飛行隊』防衛庁防衛研究所図書館蔵

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