20078月の浜松市呉松町での毒ガス缶掘削調査によせて

                          

 

 200788日、浜松市呉松町の山林で毒ガス缶の掘削調査がおこなわれた。「1950年以降に毒ガス缶らしきものが数人によって埋められた」という情報からレーダー探査がおこなわれ、今回の掘削調査になった。周辺14ヘクタールを立入禁止とし、自衛隊の化学戦部隊も配置しての大掛かりな調査だった。この掘削調査の結果、びらん性毒ガス貯蔵用の「きい剤運搬貯蔵容器・甲」が発見されたが、中は空であり、毒ガス成分は検知されなかった。

 浜松で毒ガス缶が発見される理由は、浜松に陸軍航空部隊が置かれ、空からの毒ガス攻撃の研究・訓練がおこなわれてきたからである。陸軍航空部隊は1920年代後半には空からの毒ガス攻撃を研究し、浜松に置かれていた爆撃部隊(飛行第7連隊)はその訓練をおこなうようになった。

飛行第7連隊から浜松陸軍飛行学校が編成されると飛行学校が研究・訓練を担うようになり、「満州」での毒ガスの投下や撒布の訓練もおこなうようになった。そして、中国側の証言・資料にあるように、航空機からの毒ガス弾の投下をおこなった。ときには雨下(撒布)もおこなったとみられる。

戦争末期には航空毒ガス戦部隊である「陸軍三方原教導飛行団」が独立して編成された。陸軍航空技術研究所の三方原出張所もおかれ、毒ガスを保管していた。空襲が激しくなると航空部隊の三方原北方への疎開もおこなわれた。戦後、浜松北方の引佐郡に毒ガスが保管されていた理由がここにある。当時確認されている毒ガスは、教導飛行団のイペリット16トン、ルイサイト2トン、技術研究所出張所の毒ガス缶1本分である。

敗戦後、毒ガスは浜名湖に投棄されたが、浮上した毒ガスによる死者もでた。米軍の指示で1950年に浜名湖の毒ガスを回収し、遠州灘に再投棄している。今回、発見された毒ガス缶はこのような経過の中で、何者かが呉松町に埋めたものである。米軍は日本軍の毒ガス使用については免責した。それは米軍自身が化学兵器を使用してくための対応だった。

 最近、埋設された毒ガスが問題になっているが、それは中国大陸での実戦使用から解明されるべきものである。大久野島での戦後の毒ガス処理の写真には航空用の爆弾が数多く映されている。実際にそれらの毒ガス弾が中国大陸で使用されたこと、浜松の部隊での関連でみれば、航空攻撃での使用について解明することが求められていると思う。

 発見された毒ガス缶は大久野島の資料館に展示されているような特殊な容器である。毒ガスが入っていなくてよかったと安心するだけではなく、毒ガスが実際にどのように使われてきたのかについても、政府自身が調査し、公表してほしいと思う。

                                                    竹内