一〇 引佐・細江・三ケ日
1 引佐 渋川の凱旋記念門
陸軍歩兵のほかに、海軍兵・近衛兵・看護兵・砲兵・輜重兵・通信兵などの形で多くの青年がこの渋川を中心とした山村地域から戦場へと連れて行かれたことがわかります。
この門はつくられてから百年近くになりますが、門は建設時の面影を残しています。門の赤いレンガは森の湿気を吸い、苔の緑とカビの黒色を帯びています。大木が散在するなかにある神社の階段もまた変色し、一部は崩壊し周囲の森の木々の緑と一体化しています。近くの農協の前には神社から移された樹齢六百年といわれるイチョウの木が残っています。
一九一四年年八月に日本はドイツに宣戦布告し、十一月には青島を占領しています。この神社の鳥居は天皇即位式を記念して翌年の一〇月につくられています。幟立は満州への侵略が始まる前年の一九三〇年一〇月につくられています。鳥居も幟立も戦争をすすめていた時代のものです。
「戦争勝利万歳」の雄叫びがかつてこの地にありました。それから一〇〇年が経過していますが、戦争に勝つことではなく、戦争をしないことが正義や道義となったといえるでしょうか。その時代にここでは公然と語られなかった反戦の思いが復権したといえるでしょうか。現在でも日露戦争後百年を「戦争勝利・英霊賛美」の文脈で宣伝する人たちがいます。そのような考え方を押しとどめる心性が確立しているといえるでしょうか。
凱旋門の前に立ち、かつての戦争賛美の行列と戦死者の葬列を想像しながら、そのような思いを持ちました。この国は再び派兵の拠点となっています。戦争賛美への抵抗線は、この凱旋門を反戦平和の門へと読みかえていく思想的な作業によって形成されるように思います。約百年前のこの門はそのような反戦への想像力を求めてやまないといえるでしょう。
2 引佐 井伊谷小の碑
井伊谷小学校グランドの北には戦勝記念碑と「忠魂碑」があります。記念碑には日清一五人、日露八二人、第一次世界戦争十一人の戦争参加者の名があります。この碑は一九二六年に井伊谷村が建てたものです。
忠魂碑も一九二六年に建てられ、そこには「台湾守備」での「陣没者」の名があります。この村からも台湾を植民地とするための戦争に動員されたことがわかります。日露戦争での死者は一〇人です。一九二八年の「支那事変」(山東半島への派兵)での死者四人が追加して刻まれています。
井伊谷小には「皇紀二六〇〇年」を記念した「至誠一貫」と刻まれた碑があり、その横にはコンクリート製の二宮金次郎(尊徳)像があります。
戦争末期、この井伊谷小には「本土決戦」用部隊であった第一四三師団(護古二二二五一部隊)の司令部がおかれていました。その下に歩兵第四〇九部隊が浜名湖伊藤から天竜川にかけて配置され、歩兵第四一一部隊が浜松地区、歩兵第四一二部隊が浜北宮口地区に配置され陣地構築をおこなっています。
井伊谷小の碑や戦時下の状況から、台湾植民地化、日露戦争、山東出兵,第一次世界戦争、天皇制崇拝、「本土決戦」期などの歴史を考えていくことができます
3 引佐 金指 鈴木織機地下工場跡
金指の赤十字病院の北側に、鈴木織機が空襲を逃れるために地下工場をもつ疎開工場を作りました。当時、鈴木織機は造兵廠関連の兵器を生産していました。
4 細江 出ガ谷一四三師団兵舎跡
宝林寺の北側の出ガ谷には戦争末期・本土決戦部隊の兵舎が立ち並びました。建物は現在では残っていませんが,当時は軍事拠点とされていました。近くの御塚山では本土決戦用のゲリラ戦の訓練がおこなわれていたといいます。中川小も軍が使用しました。毒ガス戦用の部隊であった三方原教導飛行団の一部もこの近くに疎開したとみられます。
5 細江 中川 一九四〇年の墜落碑
一九四〇年の七月十八日、中川小から二キロほど南に爆撃機が墜落しました。現在、船越造園の用地の一部がえぐられたようになっていますが、それはこのときの事故によるものといいます。道路の横に小さな追悼の碑があります。
6 細江 都田川河口
毒ガス戦部隊だった三方原教導飛行団は敗戦にともなって浜名湖に毒ガスを投棄して、毒ガス戦を隠蔽しようとしました。しかし、一九四七年七月、
7 細江 根本山の壕
細江と浜松の境界にある一二九メートルの根本山に一四三師団の部隊が陣地を築きました。山頂からは三方原・館山寺・細江方面を眺望することができます。軍の拠点とされた理由がわかります。
山頂には竪状の抗口が残っています。また北側の蜜柑園を山頂に上がっていく途中に壕があります。大きな壕であり、竪坑とつながっているとみられます。
8 三ケ日 朝鮮人兵士耕作隊
三ケ日地域に本土決戦用に配備された一四三師団の中に朝鮮人兵士約二〇〇人で編成された耕作隊があったといいます。この隊がどこに存在したのかは現在調査中です。
一九四五年になると、朝鮮人の耕作隊が編成されるようになり、食糧生産や航空機燃料となるようなアルコール原料作物の生産が各地でおこないました。小銃は与えられずに、鍬やスコップを持たされていました。
9 三ケ日 浜名惣社神明宮の戊辰戦争碑
三ケ日の神明宮の境内に戊辰戦争に遠州報国隊員として参加した縣栄雄の碑があります。碑が建てられたのは一九一五年の十一月のことです。碑によれば縣は一九〇三年に六〇歳ほどで病死しています。
10 大輪山(稲荷山)の墓地の兵士の碑
町内を一望できる大輪山には霊田稲荷神社があり、そこに「紀念碑」があります。そこには日清・日露・第一次世界戦争に参加した兵士の氏名が刻まれています。刻み方は「勲八等 前原久治郎」というように勲功を示した後に氏名を記しています。
記された人数は日清戦争三一人、日露戦争一九九人、第一次世界戦争六九人に及びます。ここには「明治二七・八年戦役従軍」と記され、日清戦争とは書いてはいません。この碑の横には一九二〇年代半ばに三ケ日尚兵会の建てた碑が二つあります。
この碑では、天皇の臣民として「戦役」に「従軍」し「勲功」をあげたという文脈のなかで「顕彰」されています。生命の尊厳や兵士によって死を強いられた側への視点はまったくありません。そこには人権や友好平和の回路がないのです。
大輪山の北西の共同墓地には兵士の墓もあります。
小川英夫の碑文によれば、一九四〇年十二月に現役兵として召集され、中部第四部隊に入れられました。一九四一年四月に大阪から派兵され、広東の黄浦に上陸し、歩兵第二二九連隊第二中隊に編入されました。アジア太平洋戦争が始まるとともに、香港攻略戦に投入され、四一年十二月二一日に香港島橋山で右胸部貫通銃創により戦死しました。二二歳の若さでした。
その碑の横には夏目利一郎の墓があります。かれは一九三七年一〇月九日に上海呉淞に上陸しました。しかし、右大腿部骨折破片創、右手爆創の負傷をし、一〇月一五日に死亡しました。碑文は当時の
「天皇陛下万歳」が史実であるかどうかは不明です。天皇に万歳を語る形で、自らの生を終わらざるをえなかったとすれば、そのような人間を作りあげた者たちの責任は重いというべきでしょう。
大輪山南方の金剛寺にも兵士の墓があります。
豊田八六の墓碑には、新城の警察に勤務していましたが、豊橋の第十八連隊に入り一九三七年上海へ派兵されました。大場鎮付近の戦闘で頭部貫通銃創のために戦死、二九歳でした。
近くに陸軍航空兵の墓碑が二つ並んでいます。それらは名倉芳一と武のものです。碑文によれば、名倉芳一は一九三八年に陸軍少年航空兵に「志願」し、四一年に朝鮮の第八一部隊に配属されました。アジア太平洋戦争にともない牡丹江へと出動して待機、四二年四月平壌付近龍興里の上空で爆撃訓練中に故障事故のために死亡、二二歳でした。
名倉武も一九四〇年に少年航空兵を「志願」しました。四三年一月にはマレーへと派兵され、各地の爆撃に参加しました。四四年には陸軍最初の雷撃部隊の乗員となり、四四年一〇月には台湾での航空戦に投入されます。一〇月十三日、機は被弾し、台湾の山中に不時着・炎上し、死亡。二一歳の若さでした。この部隊は飛行第九八戦隊です。
戦争はこのような形で前途のある青年たちを飲み込んでいったのです。戦争国家は個々人の能力を選別していき、戦争に参加させる形でその能力を搾り取っていったといえるでしょう。
11 三ケ日 独立戦車第八旅団司令部
三ケ日には本土決戦用に配備された独立戦車第八旅団の司令部が置かれました。この旅団は満州で編成された部隊が転用されたものです。三方原の北方には戦車第二三連隊が置かれました。なお気賀には第三砲兵司令部も置かれました。井伊谷には第一四三師団の司令部もありましたから、二俣線沿線の山間部には本土決戦用にたくさんの地下壕陣地が作られました。