十二 浜松の地下壕

 

浜松でのアジア太平洋戦争末期の軍地下壕構築の状況についてみてみましょう。浜松市には一九七四年からの『特殊地下壕』綴りがあります。この資料から、浜松市内の軍や町内会による「特殊地下壕」の分布状況をまとめることができます。

資料には約二百件の市内の特殊地下壕の事例があります。この資料は地域ごとに集約したものではありません。市民からの情報により埋め立てや入口の閉塞について記し、現地の地図が付されています。資料の分析にあたり、地域ごとに分類し、地下壕分布地図を作成してみました。

地下壕分布地図から、浜松市の壕のおおくが軍による構築物であると考えられます。

その理由は以下です。トーチカ一つを除き、壕のすべてが馬込川よりも東にあり、東海道線よりも北にあります。壕が集中している地域は都市中心部ではなく、市の北西方向の広沢・鹿谷・冨塚・和合・神ヶ谷・住吉・幸・有玉・半田・大人見・伊左地などであり、これらの町は高台の浜松基地の周辺にあります。浜松基地の南部に集中している壕に沿って東西に線を引いていくと防衛ラインが見えてきます。上島・鴨江・広沢などの小学校には陣地構築部隊が展開したという文書史料がありますが、その周辺に実際に壕があったことがわかります。基地近くの和合・冨塚では丘陵や川ぞいに壕が点在し、疎開のみならず遊撃戦陣地の様相を呈しています。鹿谷・住吉には拠点とされていた壕がありました。

この資料から、アジア太平洋戦争末期の浜松基地防衛のための二〇〇余の軍関連地下壕の構築状況が明らかになりました。一九六〇年代までに破壊された壕も多いでしょう。浜松市北方の都田にも壕が構築されています。細江や浜北の資料を追加すれば、基地北方に展開・疎開した部隊による陣地構築状況も明らかにできるでしょう。

これらの地下壕群は戦争史跡であり、文化財です。その構築目的・構築主体についての調査・記録が求められ、保存も検討されるべきものです。これらの軍地下壕群の分布をみれば、壕が軍事基地防衛と遊撃戦を想定して構築されたものであり、市民の安全を守るためにつくられたものではないことを知ることができます。

当時、軍の壕建設への朝鮮人兵士の動員が他の地域の調査では報告されています。伊左見や三ケ日では朝鮮人農耕隊の存在が明らかになっています。一九二〇年代半ばの浜松基地建設においてすでに多くの朝鮮人が動員され、三〇年代の基地拡張にも動員されています。おそらく戦争末期には壕掘削に動員されたでしょう。

全国五千箇所という「特殊地下壕」は、侵略戦争末期の戦争遺跡です。浜松の軍事地下壕群はその存在をもって軍都浜松の歴史を語りかけています。それらは戦争の愚かさと平和を語るものとして、文化財としての調査・保存を求めているように思います。