十三 浜松での朝鮮人強制労働
強制連行前史 陸軍飛行第七連隊基地建設
日本による朝鮮半島の植民地支配にともない浜松へと多くの朝鮮人が居住するようになったのは一九二〇年代はじめのことです。
新聞記事から朝鮮人の就労現場をおってみると、 鴨江丸紡・菅原本工場・常盤鈴愛など女工(一九二二)や、鷲津工場(一九二二)、天竜川鉄橋下護岸工事(一九二三)、三方原での軍飛行場建設(一九二六)、新居土木工事(一九二八)、浜松上水道工事(一九三〇)、浜名湖埋立工事(一九三三)、馬込川改修工事(一九三五)、気賀湖北線工事(一九三六)などの工場や土木現場があります。
この中から三方原での軍飛行場建設 (陸軍飛行第七連隊基地建設) についてみてみれば、一九二六年に大倉組の下で雇われた人びとは一千人をこえたといいます。二六年一〇月現在六〇〇人の土木労働者が基地建設に従事していましたが、そのうち二〇〇人が朝鮮人でした。工事が一段落すると朝鮮人は解雇されましたが、
浜松にはその後、 陸軍飛行学校、三方原教導飛行団(毒ガス航空戦用の秘密部隊)、航測連隊基地などが次々に建設されていくことになりますが、これらの基地建設にも多くの朝鮮人が動員されていきました。 朝鮮人労働の遺蹟として基地の排水用に掘られた「長池」が残っています。
飛行場建設工事がすすめられていった一九二六年には朝鮮人団体の「相愛会静岡県本部」
朝鮮人強制連行〜鈴木織機と日通浜松支店
侵略戦争が拡大されるなかで、浜松の軍事基地は陸軍爆撃の拠点基地として強化され、浜松の基地は中国・東南アジアへの派兵拠点となり、派兵された部隊は重慶への無差別爆撃にむけての陸軍部隊の中核部隊となっていきました。
浜松の工場の多くが軍需生産を行なうようになり、
日本は一九三九年から朝鮮人強制連行政策によって朝鮮半島から日本へと労働力を動員していきました。浜松へと連行された朝鮮人については鈴木織機と日本通運浜松支店へと連行された人々の名簿 (厚生省勤労局が一九四六年に集約したもの)が残されています。また、中村組が請負った磐田浜名用水幹線工事に「募集」されてきた朝鮮人の名簿も残されています。この中村組の工事の名簿には連行現場から逃亡してきた人も多数入っているとみられます。
一九四〇年代の主な強制労働の現場としては、 鈴木織機、日通、中村組の他に、浜松基地拡張工事などの軍工事、天竜川上流の久根・峰之沢の鉱山、掛川地下工場建設などの地下工場建設現場があります。
中国への全面戦争がはじまると鈴木織機の軍需工場化がすすみました。一部は兵器工場となり、 高塚工場が新設され武器生産が強化されました。 鈴木織機が生産した兵器には、各種榴弾、 手榴弾、高射砲弾、迫撃砲弾、対戦車砲、機関砲、高射機関銃、照準器などがあります。鈴木織機は一九四二年に陸軍、四三年には海軍の管理工場となり、重要な軍需工場のひとつとされました。 四五年に入ると二俣と金指へと地下を含めての疎開もはじめました。
この鈴木織機へと一九四五年一月一六日、 平安北道寧辺郡から一一八人 (内一人は五月に追加)が集団連行されてきました。連行された人々は旋盤、鍛工、大工、運搬、雑役などの仕事を強いられました。 四月に四人が病気のために帰され、七月に四人が逃亡。残ったのは一一〇人となり、日本の敗戦によって解放をむかえた人々は九月一〇日に帰国しました。
朝鮮人と高塚工場の鍛工現場で一緒になった学生は、班長が荒い言葉でしかりつけていた、日本人以上に食事に困っているようだったと記しています。
日本通運は戦争下軍需輸送部門の中心となり、 軍需輸送の特別部隊を編成していました。 日通浜松支店へは一九四五年三月二三日に忠清南道礼山郡などから三七人が連行されてきました。
この中のひとり、「青木鳳世」は一九四五年六月一八日の浜松空襲の際に爆死しました。 逃亡者は二二人であり、 連行された人々の約六〇%を占めています。 五月、病気の二人が帰され、一人は日本軍へと徴兵されました。八・一五解放後の八月三〇日に、残っていた一一人が帰国していきました。