一 浜松の陸軍航空基地と戦争
ここでは、過去の侵略戦争期に浜松の陸軍の航空基地が戦争の拠点としてどのような役割を果たしたのかについて記します。
浜松での航空基地の建設
浜松に航空基地ができたのは一九二六年のことです。立川から飛行第七連隊が移駐してきました。現在のホンダの事務所のところに基地の司令部がおかれました。第七連隊は軽爆撃と重爆撃を任務とする部隊です。当時は浜松にしか爆撃部隊は置かれていませんでした。
建設に多くの朝鮮人が従事したのも特徴です。
その後の基地拡張にも多くの朝鮮人労働者が動員されます。その史跡が長池です。この池は三方原の基地からの排水をためるもので一九三〇年代の末に掘られたものです。
侵略戦争がすすむにつれ、爆撃部隊は各地に派兵され、そこで増殖していくことになります。浜松は爆撃とは兵の拠点となったわけです。一九三三年には第七連隊の練習部が浜松陸軍飛行学校として独立します。今の航空自衛隊の浜松基地司令部のところを拠点としました。
「満州」侵略戦争と飛行第十二大隊
一九三一年九月に日本軍の謀略によって満州侵略戦争が始まります。十一月には浜松から軽爆撃部隊が派兵されます。部隊名を飛行第七大隊第三中隊といいました。
この部隊は十二月に浜松から派兵された重爆撃部隊とともに抗日軍の拠点だった錦州を攻撃します。最初の錦州空爆には浜松からの部隊は参加していないのですが、その後におこなわれたハルビン、遼東半島、ハイラルなど満州各地での抗日軍への空爆には、浜松から派兵された部隊が大きく関与しています。
三二年六月にはこの部隊は飛行第十二大隊という名で再編されます。そして三三年になると熱河作戦に動員され、万里の長城を越えて北京近くの密雲にまで空爆をしていきます。当時の行動を見るとすでに無差別爆撃の様相を呈しています。空爆は空からのテロルに他なりません。空から爆弾を落とすことによる大量殺戮行為です。
この飛行十二大隊が作成したものに「満州事変記念写真帖」があります。そこには満州各地での空爆の状況が写真とともに記されています。日本軍は「匪賊討伐」を口実に戦線をひろげていきました。殺されたのは抗日義勇軍であり中国の民衆です。現在のイラクでの米軍による殺戮と同じような状態がここにあったのです。
この部隊は中国への全面侵略が始まると飛行第十二戦隊、第十六戦隊となってアジア各地に展開し空爆を繰り返すことになります。なお三五年には浜松から飛行第一〇連隊(軽爆撃)が満州へと派遣されます。この部隊は後にほかの部隊とともにノモンハンでの戦争に参加します。また、浜松から部隊を派遣して台湾の嘉義に重爆の部隊をつくっています。後に飛行第一四戦隊となって南方での爆撃をおこないます。
陸軍飛行学校と航空毒ガス戦
浜松陸軍飛行学校は設立当時から空からの毒ガス爆弾の投下訓練などの実験をおこなっています。毒ガス爆弾の製作のための効果試験もおこなっています。爆弾にはイペリットや青酸ガスなども使われていました。三八年にはハイラルで、四〇年には白城子で浜松陸軍飛行学校が主導的な立場をとって航空毒ガス戦の訓練をしていることが防衛庁の史料からもあきらかになっています。
中国戦線でも航空機による毒ガス投下が実戦で使われたと見られます。中国側資料を見ると航空機からの投下の記事がたくさんあります。複数の資料から投下を立証できるものに宜昌での投下があります。窮地に追い込まれた日本軍を救うための投下でしたが、防衛庁の戦史には投下の日のその内容は記されていません。中国側資料には投下の日の状況が詳しく記されています。不発弾に毒ガス弾があることもわかっています。
中国全面侵略と浜松の部隊
一九三七年七月の全面侵略の開始にともない、浜松から飛行第五大隊(軽爆撃)、飛行第六大隊(重爆撃)が派兵されました。さらに独立飛行第三中隊、飛行第七連隊が派兵されます。三八年にはそれぞれ、飛行第三一,六〇、九八、七戦隊となり中国での空爆を繰り返すことになります。
さらにアジア太平洋での戦争が始められると東南アジアへの空爆に参加し、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、さらにはインドまで空爆しています。現地での空爆には浜松に出自を持つ部隊がかかわっていました。
先にあげた飛行第十二戦隊と三七年に派兵された飛行第六〇戦隊、飛行第九八戦隊が海軍と共同して行ったのが中国重慶での無差別爆撃です。重慶爆撃をおこなった陸軍の爆撃部隊は浜松から派兵された部隊だったのです。
蘭州への空爆も行っています。中国側史料をみると蘭州で撃墜された飛行第九八戦隊の飛行機などが現地で展示されたことがわかります。
飛行第六〇、九八、三一、九〇戦隊について戦隊史からすこしみていきます。
飛行第六〇戦隊史からは中国各地での空爆状況がよくわかります。蘭州を空爆した写真もあります。この爆撃雲の下には蘭州市民がいるのです。
飛行第九八戦隊の戦隊史には空爆前後の蘭州市の写真があります。シンガポールでの空爆についても詳細がわかります。また韓国出身兵の手記もはいっています。かれはこの戦争で、若者たちの命が天皇や日本帝国のために無用なもののように投げ出され、戦争屋の道具とされた ことを記し、不正な国家に対し断固として闘わねばならないとしています。正しい指摘だと思います。
飛行第三一戦隊史には浜松での「出陣式」や中国肇啓、海南島での空爆の写真があります。この戦隊は軽爆撃部隊だったのですが、後に襲撃機に改編され最後にはフィリピン戦に投入されます。地上残存部隊が人肉食の状況に追い込まれていったことも、はっきりとは書いてありませんが記されています。また現地人をスパイとして惨殺したことも書かれています。
飛行第九〇戦隊史を見ると、浜松で教育を受けて中隊長になったことや、空から爆撃をしても残酷な状況が直接見えないこと、敵陣といっても民衆の集落であることが記されています。
これらの空爆が空からの殺戮攻撃であり、アジアの多くの民衆の命を奪い、多くの負傷者をだしたものであることはあきらかです。手足を失い戦後を生き続けた人々も多かったでしょう。この歴史的事実を踏まえて、浜松大空襲を見ていく必要があると思います。
未完の戦争責任と反戦平和を示す戦争遺跡
一九四四年には航空毒ガス戦専門部隊として三方原教導飛行団が設立されます。また飛行学校からはフィリピン戦にむけて「特攻」部隊が編成されていきます。沖縄戦では陸軍空挺部隊による「特攻」作戦がおこなわれますが、部隊は浜松で編成され輸送を重爆撃機が担いました。
敗戦にともない、三方原の毒ガスは浜名湖に捨てられるなどして処分されましたが、戦争犯罪を告発するかのように戦後も浮上し、工事中に土の中から発見されています。幹部は、実験はしても実戦には使わなかったとして、その責任を取ろうとはしませんでした。米軍は自らが使用したいためにその責任の追及をやめました。毒ガス戦という戦争犯罪の歴史は埋もれたままでありその責任は取られていないのが現状です。この上に現在の軍拡と派兵があるのです。
浜松各地には陸軍航空部隊や空襲を示す多くの史跡があります。それらは反戦平和を示す貴重な史跡です。その意義を再度捉えなおし浜松の戦争史跡群として保存していくことが求められていると思います。