四 浜松駅周辺

 

新町 夢告地蔵

浜松駅の北東の新町に夢告地蔵があります。この地蔵は一九四五年四月の米軍の爆撃によって被爆して倒れ、のちに再建されたものです。               

もともとこの地蔵はコレラによって死亡した人々を追悼して一八五八年に建てられ、「延命地蔵」と呼ばれました。しかし一八七四年に火災にあい、さらに廃仏毀釈の動きのなかで取り壊されることになり、地中に埋められてしまいました。

一九一九年、地蔵が地上に出たいと夢に現れたことをきっかけに掘り出しが始められました。地蔵は三日後に掘り出され、「夢告地蔵」と呼ばれるようになりました。この地蔵は当時性の奴隷とされていた女性たちにも信仰され、多くの女性が参拝したといいます。

一九四五年四月三〇日の米軍の爆撃により、神明宮本殿が直撃弾を受け庚申堂・稲荷宮なども木っ端微塵に飛散しました。地蔵の頭部は吹き飛ばされ、体は傷だらけになりました。さらに七月二九日には艦砲射撃にあいました。艦砲射撃の際には、吹き飛ばされた呉服店の倉にあった布地が、焼け残った柳の枯れ枝に十色以上引っかかっていたといいます。

戦後、堂は復元され、一九五一年に現在の場所に置かれました。一九七六年には堂が新築されました。

地蔵の左脇には、壊れた小さな地蔵が数体分あります。爆撃で破損したとみられる延命地蔵の由来碑もあります。庚申堂の碑(一九八六年)には一九四五年四月三〇日の空襲被爆のことが記されています。一九二〇年の玉垣、大正期(一九一九年)と天保期の灯篭、なども空爆の炎をくぐりぬけて今もあります。

地蔵菩薩とは、釈迦の死後、弥勒菩薩が出現するまでの間、衆生を救済する菩薩をいいます。もともと地蔵とは大地を意味し、その名の由来には、大地が生物を慈しむという徳性が込められています。地蔵信仰は、地獄の苦しみまでも救済するものとして民衆に広まり、道祖神信仰とも結合していきました。

この史跡から、平和な社会と文化の形成にむけての夢を読み込んでいくこともできるように思います。地域の民衆による戦争のない社会と平和的自治の実現は夢のひとつです。

 

2 被爆プラタナス 浜松市民の木(JR浜松駅前)

浜松市は一九六四年に、空爆のなかで生き残ったプラタナスを「市民の木」と命名しました。          プラタナスは一九二九年に四六本が植えられました。それは一九三〇年の天皇裕仁の来浜と三一年の全国産業博覧会を控えての植樹でした。     天皇が通ったことから道は「御幸通り」とよばれました。一九四五年の米軍による空爆で生き残ったプラタナスは三本でした。

最初に市民の木とされたプラタナスは一九六七年に旧道から新川公園に移植され、一九八一年に緑化推進センターに移植されました。一時は枯死寸前でしたが、再生しました。いま浜松駅前にある木も空爆の中で生き残った木であり、もう一本は浜松城公園にあります。

プラタナスは再生力の強い木です。プラタナスの樹皮は毎年はがれ落ちます。木は友情と慈愛を示し生命力を象徴します。それは平和的精神を示すものともいえます。時折、この木の前で市民団体が反戦平和を訴える行動をおこなっています。

3 JR浜松駅・広小路

 浜松地域へは三〇回ほどの空襲がありました。国鉄の浜松駅は空爆の目標となりました。一九四五年七月二九日夜の艦砲射撃では駅前の防空壕が直撃され、一度に五〇人ほどが死亡することもありました。

 近くの寺に引き取り手のない埃まみれの死体が並べられていたといいます。駅周辺にはたくさんの爆弾が投下され、現在も工事中に不発弾が発見されることがあります。

 広小路には焼けた死体が何体も並べられ、遺族との対面をしました。体がばらばらにされたもの、首・手・足がもがれたもの、真っ黒こげになったものなど悲惨な場面であったといいます。

 

4 広小路 静岡銀行浜松支店の建物

 この建築は一九二八年に遠州銀行の本店として建てられたものです。四三年に静岡銀行へと統合され、浜松支店となりました。空爆によって菅原、伝馬、高町、名残、山下、板屋などの支店は焼失しましたが、この建物は残りました。この建物の地下に逃げ込んだ人々は助かりました。この建物は開発がすすむ中で残されているものであり、産業遺跡であるとともに戦争史跡です。

 六月十八日の大空襲のあとには、この建物のコンクリートの上に、頭髪を乱し血みどろになった裸の女性の死体が鰹か鮪のように放置されていたといいます。

 

5 田町 遠江分器稲荷神社の玉垣

 この神社の玉垣は空襲で崩れたものを組みなおしたものです。木々は市が保存樹林としています。江戸末期、万延のころの灯籠なども残っています。

 

6 池町 芳蘚

この寺には空爆で破壊された大渕真龍の顕彰碑の台座が残っています。台座は寺の玄関先右側にあります。寺の住職であった大渕真龍は一九三七年に死去しましたが、その年に顕彰碑が立てられました。しかし、空爆で碑は破壊されました。碑の拓本が寺に残されています。

 

7 有楽街 黒田稲荷神社

 この神社は五穀豊穣・商売繁盛・家内安全を願って、鍛治町の人々によって江戸期につくられました。幕府の崩壊後も人々によって維持されてきましたが、一九四五年の戦火で荒廃しました。戦後、鍛治町の六丁目有志が有楽街の入り口に神社を復元し建立しました。

 

8 肴町 大安寺

 一六六三年創建の大安寺も戦火で焼け落ちました。「浜松手引 観世音第二二番霊場延明地蔵大菩薩」と刻まれた一九一七年の碑が残っています。

 戦争の継続と米軍による無差別空爆は浜松市街地を焼け野原にしました。この再建された大安寺に立ち、空襲で焼けた街の姿を追想することもできます。

 

9 五社神社諏訪神社の被爆碑

諏訪神社の創建は坂上田村麻呂の東方侵攻の際からとされています。五社神社は曳馬城内で創建され、その後この地に建設されたといいます。一九一四年には国宝建築とされました。しかし、一九四五年の戦火により、両神社は焼け落ちました。一九六〇年に両者が合祀される形で再建されています。

神社の入口に賀茂真淵が森暉昌を顕彰して建てた「光海霊神」の碑があります。この碑の上部は一九四五年六月一八日の空爆で破損しています。神社の周辺を囲う玉垣一部も戦火を越えて今に至っています。

国家神道の体制の下で神道は戦争を支える役割を果たしました。神道が過去の戦争を正当化し天皇を崇拝したことを自省し、そのような思考から離別することが、神道自身の責任のとり方であり、未来に向かっての姿ではないかはないかと思います。

 

10 五社公園 戊辰戦争記念碑

 五社公園に「戊辰の役報国隊紀念碑」という碑があります。この碑は日露戦争後の一九〇七年に建てられました。戦争に参加した八八人、隊員六〇人などの名を刻んでいます。戊辰戦争は江戸幕府を倒し、近代天皇制を確立することになった戦争でした。

 その後の天皇制のいっそうの強化と日露戦争などの戦争の拡大の中で、好戦的な動きを強めるためにこの碑がつくられていったとみることができます。

 

11 五社公園 「誠忠碑」

 この碑は在郷軍人会浜松市連合会の発起によって一九一九年に建設され、浜松尚義兵会によって運営されてきました。第一次世界戦争後には民衆の労働運動や植民地での独立運動が高まりますが、碑はそのような動きに対抗するように建設されました。戦後は「鳩の塔」と呼ぶようになりました。

 この碑は天皇中心の帝国憲法の下で、兵士として天皇への忠誠を誓うことを表現したものです。碑はその志向を地域で支えた在郷軍人会という組織の存在を示すものです。

 

12 五社神社 「行幸記念碑」

 一九三〇年、天皇裕仁は浜松に来て、飛行第七連隊、高射砲第一連隊、高等工業、日本楽器ほかを回り、錬兵場で行進を見ました。この記念碑はそれを記念して、一九三二年に浜松市がたてたものです。碑には当時の市長により、飛行第七連隊などに天皇が「畏クモ」「行幸」したこと、その「聖恩二感涙」・「十一萬市民等ク空前ノ光栄」などと記されています。そして「聖代ノ皇化二浴シ」「東海有数ノ工業都市」となったとし、産業を振興し人心を和していくことで「洪恩二奉答」することなどと記されています。

 天皇を神聖不可侵なものとする時代において、いかに行政が国家に隷従していたのかがこの碑文からわかります。このように天皇に隷従し軍備を拡張して海外侵略をすすめますが、結局浜松市民から一万人を超える戦争死者と戦災死者をだすことになり、大地と社会は荒廃しました。

 

13 鍛治町 金山神社の再建

 江戸幕府崩壊後、現在のところに神社が移されています。この神社は鍛治町町民と鉄工関係者の信仰の場でしたが、一九四五年六月十八日の空襲で灰燼に帰しました。一九二一年の幡立、一九二〇年の狛犬の台座、一九一四年の鍛治町氏子による柱ほかが残っています。神社は一九六〇年に再建されました。

 

14 鴨江寺 忠孝碑

 鴨江寺も全焼しました。戦後植えられた黒松の幹はその太さを増して今に至っています。寺の入り口には江戸後期の常夜燈が残っています。

戦後再建された観音堂の右側に、壁に隠れるように「忠孝は大日本の二柱」と記した碑があります。碑の建設は一九三五年の五月でした。 両脇には父母に心を尽くして仕えるのが人の道という歌と「大君の御ためならば み民われ 火にも水にも 入りては仕えむ」という天皇のために生命を捨てて服従していくことを示す歌があります。現在、この「大君」の歌は壁に隠されるように建てられています。

戦後、天皇に命を捧げるような強制は無くなりましたが、思想や信教の自由の実現には市民の不断の努力が必要です

 

15 鹿谷 憲兵隊浜松分隊跡

鹿谷町には憲兵隊の分隊が置かれていました。姫街道を高町から三方原方面に上がっていくと、「公園前交番北」の標識があり、そのすぐ左側の民家の横に「陸軍用地」「第二号」と刻まれた標柱があります。この標柱はここがかつて陸軍用地であったことを示しています。

ここは浜松市街から三方原の陸軍航空部隊や高射砲部隊に向かう地点であり、憲兵が兵士・市民を監視する拠点でした。この鹿谷から広沢・蜆塚のかけてたくさんの地下壕が掘られています。特に大きな壕が文芸館のところにありました。

 

16 木戸 被爆した蔵

 馬込川の東方に戦火で焼け残った蔵があります。野口商店の横にある蔵の壁は空襲によって焼けたためもろくなっています。野口商店の庭には艦砲射撃によってひびが入り破損した庭石が残されています。

 

17 浜松城公園 浜松市戦災被爆者慰霊碑 

公園グランド近くにあるこの碑は一九七九年三月に建てられました。碑の上には空爆によって苦しむ姿を示した人物像があります。空爆は空からの無差別大量殺戮攻撃でした。
 碑には、浜松市の戦災死者数三五四九人、重軽傷者四八七〇人、全半壊家屋七五三六戸、全焼家屋四六二戸、投下爆弾三〇八一発、焼夷弾七九五五三発、艦砲の砲弾二〇〇〇発、襲撃飛行機B二九・五五七機、小型機五〇〇機、全市七〇パーセントが被災とあります。 
 碑文には、とくに六月十八日の空襲によって市の中心部が一瞬にして紅蓮の炎に包まれ、「死の街」となったと記されています。碑文の最後には「悲惨な戦争の絶滅を期し」、三千余名の戦災死者の冥福を祈り、「世界の恒久平和を祈念」すると記されています。
 戦争の絶滅、世界の恒久の平和、これらは過去の戦争で市民が学んだ事柄であり、その平和への想いを、市民は一九七九年にやっと刻むことができたのです。

戦争を正当化する動きはいつの時代にもあります。その動きを封じ込める市民の活動が大切です。この戦争絶滅・恒久平和への想いを市民の生命と生活を守る楯としていくことが課題です。

 

18浜松城公園 浜松の朝日親善植樹碑 

浜松城天守閣の脇(美術館方面)に、「朝日両国永久親善万歳 朝鮮民主主義人民共和国帰国記念植樹 在浜松朝鮮公民一同」と記された碑があります。この碑は一九五九年に建てられました。
 浜松に朝鮮人が大量に動員されたのは一九二五年の三方原での陸軍飛行場建設工事でした。
 戦時期には基地の拡張工事、中島飛行機工場や日本無線工場など工場建設、地下工場建設工事への朝鮮人の動員がおこなわれました。奥天竜の鉱山や鈴木織機・日本通運などへの強制連行もおこなわれました。戦後、朝鮮人連盟が結成され、帰国・生存権擁護・民族教育などのための活動がおこなわれました。

日本の独立と朝鮮の分断の中で五〇年代後半から朝鮮への帰国運動が始まりました。この碑は浜松の朝鮮人史を示す貴重な碑です。北東アジアの平和と隣国との友好のための活動は今も求められています。

 

19 三組 菩提寺の被爆墓

 三組町の菩提寺は空襲で全滅し、墓石は戦後に再配置されました。倉田倉太郎の墓碑は空爆で破損しています。倉太郎は一九三九年三月に包頭付近へと派兵されましたが、八月に戦病死しました。二二歳でした。墓は一九四〇年に建てられましたが、浜松への空爆によって破損しました。

 境内には鈴木政次の墓があります。かれは一九四五年八月十三日にハイラルの「安保山陣地」で戦死しました。ソ連軍との戦闘によるものです。敗戦の二日前のことです。