五 浜松市周辺での市民の死亡者数

 

『浜松市史三』〔一九八〇年〕に死亡者二九四七人分の町別の統計があります。浜松市戦災被爆者慰霊碑では三五二九人とされているので、この数字には約六〇〇人が欠落していることになります。しかし、各町での死者の状況を知るひとつの資料であり、死者の多い町の順に転記します。

 町別にみると、海老塚一七六人、竜禅寺一五二人、鴨江一五〇人、寺島一五〇人、砂山一三一人、揚子一一四人、馬込一一七人、東伊場一〇一人、元城一〇五人、旭八三人、尾張八七人、東田七五人、中島七五人、佐藤七四人、板屋六六人、中沢六三人、相生六二人、常盤六一人、ほかとなります。これらの町の合計は、全死亡者の約三分の二の死者数となります。これらの町はいずれも駅周辺です。 

 浜松駅周辺には軍需工場が集中していましたが、空爆は、米軍による無差別爆撃であり、一般市民の大量死をもたらしました。それは米軍による戦争犯罪でした。

 ここで『浜松大空襲』『偲ぶ草』などの体験記から空襲の状況をみていきます。

一九四五年二月一五日には浜松の基地が三派にわたる空襲を受けました。飛行機の下に退避した百人余の兵士が死傷したといいます。格納庫の屋根が吹き飛ばされ、当時特攻機用の爆弾懸吊具などを製作していた陸軍航空廠浜松分廠も炎上しました。この日、南小も爆撃され焼失しました。十六日には九七式重爆機が撃墜され、金指駅西方に墜落しました。そこにはのちに碑が建てられました。

 四月三〇日には連尺の十字路に百三十部隊の新兵百余が集合していたところを直撃され、多くの兵士が手足を失い胴体を寸断されたものもいました。楊子の石川鉄工も爆撃され多くの死傷者を出しました。そこでは一八〜二〇歳の女性が被爆しました。背骨が折れ、内臓が露出し虫の息で「殺して」と言っていたといいます。芳川小学校も爆撃され、兵士二人が即死し、羽目板には兵隊の血肉がばらばらになって張りついていました。芳川の改修工事に動員されていた人びとも死傷しました。東洋紡で女子寄宿舎が爆撃を受け、十七〜八歳の一四人の少女が爆死しました。首のないもの、手足のないもの、腹部から大腸の出るものなど悲惨な状況でした。

四月の空襲では軍需工場があった竜禅寺や寺島が大きな被害を受けました。大きな木の枝には肢体や服地が引っかかり、親たちが、手足がばらばらに飛び散ったわが子の体を捜し求めたりする姿が見られるなど、地獄そのままの風景であったといいます。胴体だけになった娘や消し炭のようになってしまった父親の姿と対面した人びともいました。なかには寺の庭木に両手と腰から下を失ってぶら下がり、片方の眼球は頬まで垂れ下がっていたものもあったといいます。

竜禅寺に住んでいた住民は、家の両隣の防空壕が直撃を受け、東隣の床屋の妻の足が大腿部から足にかけて地面から出、西隣では一五人が埋まり、遺体が掘り出され並べられたと記しています。

『楊子町誌』には、爆撃にあって吹き飛ばされた体の一つ一つを救護所へ集めたこと、うめき声が夜まで聞こえたこと、自宅で伊藤愛吉、ふきゑ、久子、かねの夫・妻・子・母の四人が爆死したことなどが記されています。

 この四月三〇日の空襲による死亡者は約一千人です。

 五月十九日の空襲の際、遠州病院へは負傷者が殺到しました。腹部から腸が露出したもの、臀部をもぎ取られ直腸が切れて大便が出ているもの、顔面が半分吹き飛ばされたものなど、悲鳴・哀願・怒号が満ちていたといいます。

中島の防空壕で四人が死亡した状態をみれば、現場には一人の姿もなく、吹き飛ばされた壕の杭の間に誰のものかはわからない大腿部の筋肉が挟まっているだけだったといいます。

この日の砂山町の壕への直撃では五人が粉々になり、土や肉の塊が砂にまみれていました。骨のない白髪の混じった頭から背中にかけての皮膚と肉の塊や服地の切れ端から肉親を判別するという状況でした。人々は砂にまみれた肉の塊を分け合って埋葬しました。

防空壕への直撃は人身を挽き肉のようにしてしまい、泥と混じって人数さえわからなくしてしまうといいます。

五月十九日の空襲では、浜松商業の生徒が防空壕への直撃で死亡するなど、子どもたちも数多く死亡しました。

この日の死者数は四〇〇人を超えるとみられます。

六月十八日の空襲の様子をみると、尾張町では公衆防空壕で三〇余人が窒息・焼死しました。野口町では母親が赤ん坊を抱え道端で焼死していました。

元目町角の防火用水には頭から半身を水に入れて母親が死亡し、近くには子ども四人が間隔を置いて倒れていました。道路上には死者が多数放置されていました。なかには、小学生が臍の部分から二つに裂かれたものもありました。

鴨江では壕の入り口近くに着弾して女性たちの下半身が埋まり、焼死しました。

 新町西では硝子店の前の防火用水の中で女性が幼児を抱いて死んでいました。完備さで表彰を受けた新町のある防空壕では一家五人が蒸し焼き状態で死亡しました。

馬込川からは悶え苦しむ人々の異様な声が響いていました。

 蒸し焼きになって黄褐色にずりむけたもの、黒焦げで男女の識別すらできないもの、防火用水に首を突っ込み、体をへし折って死んだもの、それらをトタン板に乗せ、集めて積み上げ、軍が不発弾の油脂を抜き取り、それを死体にかけて焼いたといいます。市内一面に死体を焼いた異臭が数日間漂ったのです。

六月十八日の空襲による死者数は約一八〇〇人です。市街地が一夜にして廃墟になりました。

六月二六日の空襲では板屋町に首がなく内臓がはみ出している女性の死体がありました。

七月二九日の艦砲射撃は軍事基地と軍需工場を狙ったものでした。目標は浜松工機部・浜松駅・日本楽器・東洋紡績・日本無線・西川鉄工・鈴木織機・遠州織機などでした。七〇分間で二一六〇発が撃ち込まれたといいます。

浜松駅の防空壕が直撃を受けました。この直撃での死者は五〇人を超えました。街には棺が並べられました。東海道線の列車も直撃を受けました。客車は「鉄棺」となったといいます。鮮血と肉片が車内に飛び散りました。なかには顎や足を失った人もいました。このときの艦砲射撃では約二〇〇人が死亡しています。

七月に入っての艦載機の襲撃の増加と艦砲射撃は米軍の上陸を予感させるものでした。

今はすっかりと変わった街並みから、爆焼死した三五〇〇余の生が存在したこと、それらの一人一人の死の状況や奪われた生の可能性を考えることもできます。また、その情景から、日本軍によるアジア各地での空爆で死を強いられた人々の状態を想像することもできると思います。