六 浜松市東部 

蒲・将監・冨吉・植松・ 領家・楊子・頭陀寺・ 三和・中野町

 

1 蒲神明宮 平和塔

 蒲神明宮にある平和塔には上新屋、丸塚、上西、西塚、神立、植松、将監、子安、大蒲、宮竹の各町の計一六〇人余の死者名が刻まれています。

この塔の左には日露戦争を記念した大きな碑があります。碑は二人の戦死者、七人の負傷者を含め五三人が戦争へと動員されたことを示しています。碑文は「自衛」「膺懲」などの言葉で戦争を正当化しています。このような戦死の賛美の志向が、平和塔に刻まれているような多数の人々の死をもたらすことになったといえるでしょう。

ここには西南戦争、日清戦争(韓国内)での死者も記されています。

日露戦争で戦死した一等卒伊藤治作は一九〇四年八月の遼東での戦闘で「決死隊」に入り爆薬を投げるなか戦死したとされています。飯山多三郎は同年一〇月に遼東の孤家子で死亡しています。

日露戦争で浜松出身の兵士は豊橋の歩兵第十八連隊に所属し、第二軍の下で遼東半島での激戦地であった遼陽や沙河での戦闘に投入されています。最大の激戦地は遼陽の首山堡高地での戦闘でした。浜松出身の兵士もここで多くの死亡者を出しています。

 

2 蒲 中島飛行機浜松工場建設

蒲の北部には中島飛行機の浜松工場が建設されました。工場排水用の工事がおこなわれ、芳川が植松方面まで拡幅されました。工場建設関連工事には朝鮮人労働者の姿もありました。この工場は一九四四年十二月の東南海地震で壊滅的な打撃を受けました。この工場の疎開がすすめられ、掛川の原谷に近くに地下工場建設がすすめられました。その現場には二千人を超える朝鮮人労働者が動員されました

 

3 将監 摸擬原爆弾投下地点

 一九四五年七月二六日、米軍五〇九混成群団の特別爆撃作戦によって、長崎型原爆と同型とみられる五トンの巨大爆弾が将監町に投下されました。それは広島・長崎への原爆投下にむけての訓練でした。

投下地点は将監町バス停・マルワ食品の近くです。大きな穴が開き、半壊家屋は九棟、小壊は六五棟に及びました。百メートル以上離れていた家屋でも大きな振動で家屋の形がゆがんだといいます。

 

4 冨吉 救世平和観音像と「慰霊碑」

 富吉町の本誠寺の正面に一九九三年に救世平和観音が置かれました。その横には一九八二年の報恩塔があります。塔には、南無妙法蓮華経が広く流布し、それにより「日本国の一切の衆生の盲目を開ける功徳」をもたらし、「無間地獄の道」をふさぐことを念じる碑文があります。塔の横には「能滅衆生闇」とも刻まれています。

 この地域も戦争によって大きな被害を受けています。戦争という地獄への道を封じることと衆生の解放に向けての想いがこれらの像と碑から感じられます。

 この寺の横にある植松第一公園には日露戦争の際、一九〇四年一〇月に満州魏家楼子で戦死した「故杉浦一郎之碑」と戦死者と戦災死者の慰霊塔があります。

 この慰霊塔には死亡年月、氏名、死亡場所が記されています。戦争で、いつ誰がどこで生命を失ったのかがわかります。このように記すことで、見るものに不再戦と平和への想いを与えるように思います。

 戦死したところを見てみると、一九〇四年沙河魏家楼子、一九三七年上海、蘇州、一九三九年、江蘇、ノモンハン、一九四二年ソロモン、ニューギニア、一九四四年中国南方海上、台湾東方海上、フィリピン、マリアナ、湖南、ニューギニア・サルミ、バシー海峡、フィリピン、マーシャル・タロア、レイテ、フィリピン・ブルベラ、一九四五年ルソン・シソン、江西・蓮花などです。

戦線の拡大に伴い、ルソン・クラーク、ネグロス、ビルマ・パブン、中国、ルソン、湖南、バターン、フィリッピン・フンドンアン、ミンダナオなどでの死者が年々増え、アジア各地で死を強いられたことがわかります。また戦後も病気や病院での死亡がありました。

戦災の場合を見れば、河合楽器、鈴木織機、竜禅寺フイルム工場、鴨江、北寺島、満州龍山、自宅防空壕など、工場への動員場所での死や満州移民によっての死があったことがわかります。  一九四五年四月三〇日の空襲では小山さわ、ときわ、綾子、魚子、恵美子、鈴子、佐恵子の七人が自宅の防空壕で命を失っています。また満州龍山での死亡日は八月一六日のことでした。

この碑から戦争が地域民衆の生活を蹂躙していったことを知ることできます。自国の民の尊厳を奪うことによって、侵略がおこなわれていったと思います。

 

5 植松  円通寺の被爆山門と陸軍航空兵の墓

円通寺の山門の左側の柱は空爆の際の炎によって黒ずんでいます。山門の黒い焼け跡から赤い炎がふきあげていった状況を知ることができます。

円通寺の墓地には、陸軍航空兵准尉観峰品三郎の墓があります。碑には軍歴が刻まれています。それによれば、浜松から満州へと派兵されていた飛行第一二大隊に一九三三年十二月に入り、のちに陸軍航空技術学校、浜松陸軍飛行学校を卒業しました。三七年に華北へ爆撃隊として派兵され、八〇余回の爆撃をおこなうことになります。三八年十一月彰徳付近の爆撃の際に、風雨のため河北晉県に不時着して交戦、戦死しました。二五歳でした。墓碑は二年後の一九四〇年に建てられています。

この墓の横には陸軍歩兵少尉竹内常太郎の墓があります。一九四〇年に豊橋の歩兵十八連隊補充隊に召集され、幹部候補生となり豊橋予備士官学校に入ります。四一年曹長となって中部二部隊に配属され、八月に華中へ派兵されました。九月に永安南方で戦死しています。二一歳の若さでした。

墓碑を見るとみな二〇代の若さです。この国の政策によって他国へと送り込まれ、若くして殺し殺される関係へと追いやられていったことがわかります。このように派兵されて死んだ日本の兵士は二〇〇万人もいたのです。また、このような兵士たちによって死を強いられたアジアの人々はこの一〇倍にのぼります。そのような戦争を計画した政治の戦争責任には重いものがあります。

「勲七等功六級」などという評価で飾られても、失った命は帰ってきません。勲功の評価の高さは他国の民の苦しみに比例しているといっていいでしょう。浜松の飛行爆撃隊がおこなった空爆で生命を失った中国をはじめアジアの人々の数は計り知れないものです。

円通寺は、浜松から派兵された部隊による中国での空爆・戦闘、この浜松への米軍の空爆、そして若い青年を戦争のマシンへと組み込んでいったこの国の歴史と戦争責任などを考えていくことができる場であるように思います。

 

6 領家 栄秀寺の戦死戦災死者慰霊碑

領家の一九八五年に建てられた戦死・戦災死者の追悼碑には戦死者二三人、戦災死者二四人の名前がきざまれています。戦死者には河村姓が四人います。

墓地の奥には、陸軍砲兵だった河村光芳の墓があります。一九三六年に浜松の高射砲第一連隊に入隊、一九三九年十二月に輸送指揮官として華北へと派兵されました。四〇年一月に帰還しますが、八月には華南のビルマ作戦に派兵されました。四一年一月に広島船舶砲兵隊に転属し、広島陸軍病院で戦病死しました。二五歳でした。

兵士の墓碑を読んでいくと、軍隊と基地がつぎつぎに若い青年を飲み込んでいったことがわかります。戦争は青年の未来を作ることはできませんでした。戦死者をどんなに「英霊」と呼んで国家が賛美しても、残された家族の悲しみは消えることはありません。

墓碑は戦争の悲しみを今も語り伝えています。これらの若い兵士たちの放った砲弾や爆弾によってアジアの人々も殺され、苦しみました。そのような苦しみも踏まえて、平和の思想と運動が創造されていかなければならないと思います。

 

7 楊子橋 被弾の痕跡

馬込川にかかる楊子橋は一九五七年に修繕されています。この橋の北側には一九四五年の空襲のあとを示す被弾の痕跡が約五〇箇所残されています。円形にコンクリートがもぎ取られているところは、機銃掃射による弾痕と見られます。

この橋は戦争下の米軍による浜松への空襲を示す貴重な史跡です。

 

8 楊子 林泉寺 動員学徒追悼・慈光観音像

一九四五年四月三〇日の浜松空襲によってたくさんの動員学徒が死亡しました。この碑は動員現場で死亡した娘を追悼する母親の願いを受けて、一九九九年に建てられたものです。観音像は一〇代の若い女性の表情をしています。動員学徒を追悼して建てたことが像の横に記されています。

楊子・相生の一帯には鈴木織機、河合楽器、浅野重工業ほかの軍需工場が集中していました。そのために激しい空爆を受けました。これらの工場には多数の女子学生が動員されて労働を強いられていました。

河合楽器のピアノ工場では爆弾倉や脚扉をつくるようになっていました。動員された女学生は小鳥のように機銃で狙われ、爆弾の直撃によってジュラルミンの粉のように吹き飛ばされて消えたといいます。

河合楽器で一四人が死亡した芥田学園には「やすらぎの像」(一九八〇年)があり、河合楽器と鈴木織機で二九人が死亡した西遠女子学園には「愛の灯の像」(一九五九年)があります。学校では平和を求めての追悼行事がおこなわれています。

なお、鈴木織機には朝鮮人が強制連行されていました。鈴木織機に連行された朝鮮人の名簿が残されていますが、名簿に記載されている連行者は、一九四五年に朝鮮北部から連行された人々です。

 

9 頭陀寺 被爆した墓碑

 頭陀寺も激しい空爆にあい、寺院は焼失しました。四月三〇日の空爆では二五〇キログラム爆弾によって警防団員六人をはじめ多くの市民が死亡しています。五月一九日には五〇〇キログラム爆弾が投下されています。

寺の墓地には、被爆によって欠けた墓が残っています。墓は陸軍兵士だった瀬ア仲次郎のものです。碑文の一部は欠けていますが、瀬アは豊橋第十八連隊に一九三七年一月に入隊、擲弾筒手とされ、八月には豊橋を出発し宇品から中国に派兵されました。九月上海の呉淞に上陸、呉家上付近で戦死しました。墓は三八年に建てられています。入隊して九ヶ月での戦死でした。

この墓碑は戦争による地域からの青年の動員と空襲の歴史を示しています。兵士は若くして戦争に送られ死んでいます。このような歴史が語りかけているものは、人間の生は国家による戦争のためにあるのではない、ということだと思います。

戦争を正当化し天皇を賛美していた時代の歴史を示す碑は数多くあります。このような碑群に学び、平和に向けての非戦の論理と活動をつむぎあげていくことが求められているように思います。

 

10 三和 慶福寺の「平和と愛」観音像

慶福寺には一九一〇年八月二九日の日本による韓国の併合にちなんで『韓国併合大詔煥発之日』として建てられた「戦役」記念の碑があります。そこには日露戦争での戦病死者と日清・日露戦参加者の名前が記されています。記されている死者は美和辰治・美和良助の二人です。

これらの戦争は日本による朝鮮支配が目的でした。この碑はそのような戦争の目的を地域から示している碑ということもできます。

墓地には陸軍衛生兵とされて派兵され、名古屋の陸軍病院で死亡した美和澤吉の墓碑もあります。

二〇〇四年七月、この寺に観音像が建てられました。その像の横には「平和と愛を 世界が平和で豊かな文化を維持し続けることを願っています」と刻まれています。戦死者と見られる美和八郎(一九四二年死去二三歳)、美和章(一九四五年死去二三歳)といった美和姓の名前が数人刻まれています。

まだ新しい像です。二〇〇四年にはイラクをはじめ各地での戦争がすすみ、日本もイラクへと派兵するようになりました。そのような年に、「平和・愛・文化」の意義を刻み、世界平和を呼びかけるモニュメントがつくられています。

ここでは親族から出た戦争死者の歴史を踏まえ、地域から平和にむけての発信がおこなわれています。この像は、「銃や弾による軍事の行動ではなく、平和で寛容な社会と文化をつくろう」と語りかけているようにも思います。

 

11 中野町 松林寺の戦争碑

寺の入り口に日露戦争忠魂碑、戦役記念碑(一九〇六)、歩兵中尉村越卯平、明治天皇の歌、日独戦碑(一九一七)、「大東亜戦役」記念碑(一九五四)、同忠魂碑、平和塔があります。

一九五四年に建てられた記念碑は、戦争の実体を「破壊と建設の悲しむべき集積」であるとし、「殉国の魂」を尊重する旨が記されています。また恒久平和の先駆として憲法を示し、内外情勢の混沌を嘆き、「国際平和確立の悲願は知らずいつの日に成るのか」と記しています。

この碑文には、戦争一般を批判するような表記もありますが、過去の戦争に対する批判や主権者としての主体的な意思表示はありません。

アジア太平洋戦争期の忠魂碑には、この地域の死亡者軍人一七一人、軍属四人、徴用五人、満州開拓二人、の死者名が刻まれています。軍人の死者名には、飯田・磯部・富田・高橋・村越、小林、佐藤、鈴木といった姓が多くみられます。日露戦争での死亡者は八人です。

新憲法とその平和主義は、地域から二〇〇人近い死者をだした末のものでした。その平和主義には大衆的な支持があったといえるでしょう。この碑群に平和塔がありますが、その趣旨は書かれていません。平和に向けての志を書ききれぬまま、今に至っているともいえるでしょう。

碑の明治天皇の歌は『よとともに語りつたえよ 国のため命をすてし 人のいさをを』というものです。これは中野町の遺族会婦人部が建てたものです。

天皇のために命をすてたことは勇ましいことではありません。それは自己を奴隷化させるシステムへの屈服です。語り継ぐべきは、人の命の重さや戦争を繰りかえさないための行動であると思います。天皇制への服従を打ち砕くことができなかった歴史をこの碑は示しているとみるべきでしょう。

一九五五年に建てられた「顕彰碑」は一九四五年一月二七日に、米軍B二九と交戦して天竜川に墜落した海軍機の搭乗員を追悼するものです。

墓地には戦死者の碑があります。

「台湾総督府巡査杉山愛太郎之碑」によれば、杉山は一九〇八年七月に台湾の桃園忠で巡査となりました。一九一一年四月に新竹廰に出張し「北勢蕃討伐」に従事しました。この攻撃は日本の侵略に抵抗する台湾民衆へのものでした。五月八日、千雨山東方の稜線占領の際の戦闘で戦死しました。二八歳でした。碑は一九三二年に建てられています。

この碑から日本による台湾侵略の歴史の一風景を知ることができます。

幡鎌秀雄は歩兵第十八連隊の第三分隊長とされ、一九四〇年四月に広東に上陸、六月の深拗での戦闘で右下腿部貫通銃創をうけ、従化県松岡里南方で傷によるガス壊疽で死亡しました。二二歳でした。

渥美繁は一九四二年一月に中国中部に派兵され(七三七八部隊)、六月にはビルマに転送されました。一〇月にはソロモン海での戦闘に投入され、基地敵前上陸により戦死しました。二二歳でした。

鈴木康平は一九三四年に補充兵とされ、一九三七年一〇月に第三師団建築輸卒隊員として呉淞に上陸、野戦での建築をおこないましたが、急性脳膜炎となり一九四〇年八月漢口兵站病院で死亡しました。二六歳でした。この碑には康平の上半身が造形されています。

これらの碑から、日本の侵略戦争によって多くの兵士がアジア太平洋地域へと送られ死を強いられたことがわかります。家族は鈴木康平の像にみられるように故人を想い続けたのです。政府の戦争行為によるこのような悲しみを繰り返してはならないと思います。

 

12 中野町 六所神社の玉座跡

六所神社に明治天皇関連の碑が二つあります。ともに天皇がこの地に来たことを記念するものです。玉座迹は一八七八年の訪問を記念して、二〇年後の一八九八年に建てられ、天竜川水利土功会が管理するものとされています。船橋の碑も一八九六年のものであり、ともに日清戦争後、天皇制による国民統合が強化された時期に建てられています。これらの碑は天皇を使っての民衆動員を示す史跡ということができます。