七
新津・三島・龍禅寺・江ノ島・河輪・金折・寺脇・堤
1 新津小 戦争碑
新津小の北西に戦争碑があります。ひとつは「英霊碑」もうひとつは「平和の礎」です。英霊碑は一九五五年に建てられたものであり、そこには日清・日露一〇人、アジア太平洋戦争(大東亜戦争と刻印)二〇七人の死者名が記されています。ここには米軍による浜松への空襲で死んだ人々も入っています。
「平和の礎」は、戦後の一九四五年一〇月に撤去された戦争碑(一九〇六年)を一九五五年に再建したものです。平和と記されていますが戦争肯定の碑です。一九五五年にこのような碑が、小学校の敷地内に建てられています。この碑の再建は、この国が経済の「高度成長」をすすめていこうとする時代において、戦争を肯定する動きが地域で消えることなくあったことを示しています。
2 白脇小 愛国の塔
白脇小の校地のはずれに「愛国の塔」があります。これは戦争死者を追悼するものですが、何も記されていません。戦争賛美の文はないのですが「愛国」と書かれています。校地のはずれにありますが、校地の外にあるようにもみえます。
この塔は一九六〇年に建てられています。安保闘争があった頃の碑ですが、そのような動きがあったことはまったく感じさせない碑です。
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神宮寺には五つの碑が並んでいます。
土屋篤は一九三八年に浜松商業を卒業して中部配電に勤めましたが、一九四一年四月に豊橋の中部六二部隊に徴兵されました。陸軍歩兵とされ、中部二部隊(名古屋・歩兵第六連隊の補充隊)に配属されました。八月に中国へと派兵され、翌年六月漢口で病死しました。二三歳でした。
土屋廣治は陸軍輜重兵として豊橋の第三師団工兵第三連隊に配属され、一九三七年九月一七日に出発。一〇月一日には神戸港を出、一〇月五日上海に上陸しますが、?江碼頭で戦死しました。二二歳でした。篠原の興福寺にもこのとき死亡した兵士の墓があります。
土屋毅は陸軍兵士とされ、一九三八年五月に南京に上陸。三九年五月に湖北省苑庄付近で胸部貫通銃創により死亡しました。二三歳でした。墓は一九四〇年に母が建てています。
伊藤彦松は一九四〇年十二月に陸軍歩兵第三四連隊に徴兵されました。静岡で編成された歩兵第二三〇連隊に入れられ、四月大阪から中国に向かい、広州市文明路万城目で頭蓋骨骨折によって死亡、二二歳でした。
「藤田敏雄君讃歎」の碑は海軍の飛行教官であった藤田敏雄の一九三八年の殉難を追悼するものです。碑は一九三九年のものです。
子を失った母の悲しみは大きかったでしょう。この戦争での日本兵の死者は二〇〇万人を超えますから、この数倍の悲しみがあったということになります。戦死者が靖国神社に戻って「神」となることなどはありません。神格化しても死者は戻ってきませんし、悲しみは消えません。 日本兵によって死を強いられたアジア二〇〇〇万の人々の怒りと悲しみにはさらに大きなものがあります。
4 龍禅寺 被爆阿弥陀如来
龍禅寺の阿弥陀如来像は米軍空襲のときに被爆し、その首を失いました。如意輪観音像も被爆しました。阿弥陀如来像の首はのちに補われていますが、「首なし像」として信仰されたものです。現在は境内の祠の中にあります。いまある如意輪観音像はのちに造形されたものです。
熊野神社の幟立は被爆し倒れました。現在は手水鉢の踏み台として使われています。
龍禅寺での米軍による空爆での死亡は一五〇人を超えます。これらの被爆の跡を示す遺物は当時の空爆を今に伝えるものです。
5 寺島 被爆壁と河合楽器の慰霊塔
寺島地域も激しい空爆を受けました。寺島町の民家には空爆時の被弾の跡を示す壁が残っています。跡はコンクリートで塞がれていますが、壁から被弾しその圧力でひび割れたことがわかります。この壁は爆撃を物語る貴重な遺跡です。
河合楽器の入り口には一九五六年に建てられた戦没者慰霊塔があります。この碑は一九四五年四月三〇日の空爆死者を追悼するものです。
寺島町の鳥追地蔵は被爆後現在地に移転されたものです。鳥追地蔵大菩薩の石柱や秋葉山の夜燈は被爆を経て現在に至っています。
瓜内の六所神社も被爆しました。鳥居の爆撃跡はコンクリートで補修されています。幟立には「講和記念」(一九五一年)と刻まれています。
6 寺脇 般若寺 塞がれた「忠孝」の碑文
一九三五年に建てられた「反省碑」が般若寺に残っています。この反省碑には「忠孝は大日本の二柱」とありますが、その部分はセメントで塞がれています。
この忠孝二文字が示す精神は戦争動員のための道具でした。戦後にその精神的なコントロールを反省して塞がれたのでしょう。裏面には「過ちを気付かは二度なすな」「振り返り見はや私のふむ足の跡」とあります。
この「忠孝」の文字を塞いだ碑は、「戦争を正当化し戦争を支持した過ちを再び繰り返してはならない」「時代の足跡を見つめ、偏狭な国家主義に陥ってはならない」と語りかけていると思います。
誰がどこでどのように死を強いられたのか。そのような死を強要したのは誰なのか。死を名誉とすることで利益を受けたのは誰なのか。これらのことがらは、記録され、追究され続けられねばならないと思います。そうすることがあらたな戦争による青年の死をくい止めることができると考えるからです。
16 米津浜一九三六年墜落追悼碑
米津浜のバス停近くに十九世紀中ごろに江戸幕府の命令で作られた砲台跡があります。この米津浜は戦時中には高射砲部隊の練習場となりました。一九三六年九月四日午後、米津浜海岸で浜松の飛行第七連隊が高射砲第一連隊と連合して演習をおこなっていましたが、九三式軽爆撃機一機が遠州灘沖で墜落しました。
砲台跡の丘の上の碑には「空飛魂雄」「殉難慰霊碑」と刻まれています。死亡したのは荒木・植田の二人の飛行隊員でした。碑は三七年九月、「第四五期航空兵科同期生一同、飛行第七連隊第一中隊将兵一同」の名によって建てられました。
17 中田島 トーチカ跡
二〇〇四年一二月、中田島砂丘にコンクリート製の構造物の残骸が高波の浸食によって姿を現しました。戦争末期、中田島では米軍の本土上陸を想定して何基かのトーチカが作られています。海側に向かって大砲用の穴があけられ、陸側には立ったまま入れる入り口があったといいます。
白脇小には一九四四年九月末から一九四五年一月にかけて岐阜からの津田部隊が展開し中田島に砲台を構築しました。おそらくトーチカを構築したのはこの部隊でしょう。