おわりに

この原稿をまとめていた二〇〇四年末に静岡県立美術館で香月泰男展がひらかれました。

香月の作品に「一九四五」があります。敗戦後、かれは北上する途中、中国の線路の脇に放り出されていた死体をみました。かれはその死体について、中国の人々に憎まれて「私刑で殺された日本人に違いない。衣服をはぎとられ、生皮をはがれたのか、異様な褐色の肌に人間の筋肉を示す赤い筋が全身に走って」いたと記しています。「一九四五」はその赤い屍体のイメージから描かれたものです。

香月は「戦争の本質への深い洞察も、真の反戦運動も、(広島の)黒い屍体からでなく、赤い屍体から生まれ出なければならない。戦争の悲劇は、無辜の被害者の受難によりも、加害者にならなければならなかった者により大きいものがある。私にとっての一九四五年はあの赤い屍体にあった」と語っています(『私のシベリア』一九七〇年)。

香月はかれ自身のシベリアへの連行と強制労働という被害を語るだけではなく、自己の加害性を問います。「この戦争で無数の赤い屍体が出た」「あの赤い屍体の責任はだれがどうとればよいのか」「再びあの赤い屍体を生み出さないためにはどうすればよいのか」とかれは考え、赤い屍体を平和への問いの出立点としています。

このように語っていた香月が一九七〇年に描いた作品に「朕」があります。香月美術館冊子の「朕」の解説には次のように記されています。

「人間が人間に命令服従を強請して、死に追いやることが許されるだろうか。民族のため、国家のため、朕のため、などと美名をでっちあげて。朕という名のもとに、尊い生命に軽重をつけ、兵隊たちの生死を羽毛の如く軽く扱った軍人勅諭なるものへの私憤を、描かずにはいられなかった。敗戦の年の紀元節の営庭は零下三〇度余り、小さな雪が結晶のまま、静かに目の前を光りながら落ちていく。兵隊たちは凍傷をおそれて、足踏みをしながら、古風で、もったいぶった言葉の羅列の終わるのを待った。我国ノ軍隊ハ世々、天皇ノ統率シ給フ所二ソアル・・・・朕ハ大元帥ナルソ、サレハ朕ハ・・・・朕ヲ・・・朕・・・朕の名のため、数多くの人間が命を失った」と。

香月は「赤い屍体」のイメージを反芻するなかで、このように天皇制を問う「朕」を描いていきました。このときまだヒロヒトは生きていました。ヒロヒトが天皇の戦争責任を問われたときに「文学上の問題」と語ったのは香月がこの「朕」を描いてから五年ほど後のことでした。

「朕」の絵には二〇余の死者たちの黒い顔が並べられています。中央には勅語を示す紙が白く描かれ、そのかなたに死者の顔が透けてみえます。その紙に、香月は「朕」「朕」「大元帥」「鴻毛」「股肱」「頭首」といった言葉を荒々しく刻みつけています。朕・ヒロヒトよ、お前はこの言葉とその支配でどれだけ多くの民を死に追いやったのだ・・。そんな想いが刻まれた文字から感じられます。

浜松からも多くの人々が、家族と引き離され、銃を持たされ、殺しあう関係へと追いやられ、場合によっては戦争責任をとらされ、墓碑銘もなく大地に捨てられていきました。「朕」の名により、多くの人間の生が踏みつけられました。

香月のシベリアシリーズのなかには赤く燃える炎を描いた「業火」という作品があります。「必ず生きのびてやろう」「帝国軍人としては死にたくはない」と考えていた香月の生への想いを示すかのような勢いで炎は描かれています。そのような生への想いは帰還への希望を示す青色とともに、平和への熱いメッセージを伝えているように思いました。

これらの香月の表現には、生存と帰還への熱い想いとともに、最前線へと追いやられ加害者の側に立たされた側から戦争を問い直し、戦争責任を問い続ける姿勢があります。その姿勢に共感しました。                        

浜松の戦争史跡の調査は主として二〇〇四年におこないました。ちょうど、日本がアメリカによるイラク戦争を支援するために、イラクへと自衛隊を派兵する時期と重なりました。このような情勢のなかで調査したこともあり、浜松を再び派兵の拠点としてはならないという思いを強く持ちました。

ここで紹介したものは浜松の戦争史跡の一部分にすぎません。読者のみなさんが、ここにはないさまざまな史跡を紹介してくださればと思います。

歴史の真実を覆い隠すことなくしっかりと見つめ、その戦争責任をきちんと果たすことで、国際的な友好が形づくられていくと思います。

 戦争は殺しあいです。それを正当化するのではなく、殺し合わないことを価値とし、生命や環境を大切にし、国境や民族を超えて人々が仲良く暮らすことができる、そのような社会が実現することを願います。

 

 

参考文献

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浜松市石造文化財調査会『浜松市の石造文化財』浜松市教育委員会二〇〇一年

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『袖紫ヶ森』蒲公民館一九九五年

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『楊子町誌』町誌編集委員会一九九五年

『とみつか』富塚公民館二〇〇二年

『汽笛ステーションまちこうば』南部公民館一九九一年

『潮かおる浜の里』新津公民館一九九五年

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神谷昌志編『目でみる浜松の昭和時代』国書刊行会一九八六年

神谷昌志編『写真でつづる浜松市誌』国書刊行会一九八〇年

『浜松市民の八〇年』静岡新聞社一九九一年

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『浜松市戦災史資料』一〜四 一九九五〜九九年 

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引佐町戦没者名鑑編集委員会『名鑑禄』引佐町社会福祉協議会

『平和への誓い』静霊奉賛会一九九六年

二橋正彦編『静岡県内忠魂碑等(慰霊施設)全集』静岡県護国神社一九九一年

加藤幸男『浜松市民の木』一九八九年

兵東政夫『改訂歩兵十八連隊史』歩兵第十八連隊史一九九四年

中村一雄『人柱工兵第三連隊の記録』一九六七年

高射砲第一連隊戦史『高射砲第一連隊概史』一九八七年

高射砲兵史編集委員会『高射砲兵戦史』一九四五年

『未来への架け橋 裁判訴状集』在韓軍人軍属裁判を支援する会二〇〇二年

後藤政二『陸軍高射学校思い出の記』一九八五年

陸軍航空碑奉賛会『陸軍航空の鎮魂・総集編』一九九三年

近現代史編纂会編『航空隊戦史』新人物往来社二〇〇一年

飛行第十二大隊『満州事変記念写真帖』一九三三年頃

伊澤保穂『日本陸軍重爆隊』徳間書店一九八二年

粕谷俊夫『山本重爆撃隊の栄光』二見書房一九七〇年

飛行第六〇戦隊小史編集委員会編『飛行第六〇戦隊小史』飛行第六〇戦隊会一九八〇年

飛行第九八戦隊誌編集委員会『あの雲の彼方に 飛行第九八戦隊誌』一九八一年

角本正雄編『写真で綴る飛行第九八戦隊の戦歴』一九八五年

飛行第十四戦隊会『飛行第十四戦隊戦記 北緯二三度半』一九九四年

久保義明『九七重爆隊空戦記』光人社一九八四年

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飛行第七戦隊史編集委員会『飛行第七戦隊のあゆみ』飛行第七戦隊戦友会一九八七年

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高瀬士郎『第一野戦補充飛行隊』防衛庁防衛研究所図書館蔵

杉山金夫『静岡県社会運動史研究』遺稿集刊行会二〇〇四年

矢田勝「浜松陸軍飛行第七連隊の設置と一五年戦争」(『静岡県近代史研究』十二)一九八六年

村瀬隆彦「静岡県に関連した主要陸軍航空部隊の概要」(『静岡県近代史研究』十八・十九)一九九二・一九九三年

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竹内康人「戦時下の地下工場・飛行場建設と朝鮮労働者動員」(『静岡県近代史研究』十八・十九)「奥天竜鉱山と朝鮮人強制連行」(同二〇)「浜松陸軍飛行学校と航空毒ガス戦」(同二八)「戦争の拠点・浜松一『満州』侵略と飛行第一二大隊」(同二九)