浜松陸軍飛行学校と航空毒ガス戦

 

1陸軍の毒ガス戦研究と浜松の爆撃部隊の設立

2浜松陸軍飛行学校の設立と航空毒ガス戦研究

3中国東北部での毒ガス戦研究

4イペリット雨下訓練

5中国戦線での航空毒ガス戦

6三方原教導飛行団の設立

7敗戦と戦争犯罪の隠蔽

 

 

浜松市三方原には陸軍航空の毒ガス戦部隊がおかれていた。この部隊については関係者による記録として、知見敏「報われなかった部隊」(『陸軍航空の鎮魂』)、岡沢正『告白的「航空化学戦」始末記』、鈴木清「三方原飛行隊の創設と終焉」(『戦争と三方原』)などがある。

またこの毒ガス戦部隊について言及した研究としては、矢田勝「浜松飛行第七連隊の設置と一五年戦争」(『静岡県近代史研究』一二)、村瀬隆彦「静岡県に関連した主要陸軍航空部隊の概要(下)」(『同』一九)、荒川章二『軍隊と地域』などがある。

航空毒ガス戦に関する史料は、吉見義明・松野誠也編『毒ガス戦関係資料U』に数点含まれている(以下引用にあたり『毒ガスU』と略記)。アジア歴史資料センターに収録された史料の中にも航空毒ガス戦関連のものがある。アジア歴史資料センターの史料はインターネット上で検索して閲覧することができる(以下引用にあたり「A史料」と略記)。

 以下、航空毒ガス戦と浜松の航空部隊についてこれらの史料を利用しながらみていきたい。

 

1 陸軍の毒ガス戦研究と浜松の爆撃部隊の設立

 浜松の三方原台地に陸軍の航空基地が建設され、爆撃を任務とする陸軍飛行第七連隊が立川から移駐してきたのは一九二六年一〇月のことだった。飛行第七連隊には軽爆撃機と重爆撃機が配備された。基地建設には多数の朝鮮人労働者が使われた。

 移駐直後、飛行第七連隊の初代練習部長の春日隆四郎は浜松在郷軍人会の総会で「空中防備と飛行機に関する通俗的知識」と題して講演し、ガスの空中散布、焼夷弾、細菌弾について言及している(『文化之浜松』十一月号、荒川章二『軍隊と地域』一七八頁)。

 一九二七年におこなわれた陸軍の「特別陣地攻防演習」の際に配布された『瓦斯防護教育参考書』(一九二七年六月)をみると、瓦斯用法の例として航空機による用法が記され、爆弾と雨下による使用法があるとされている。また『陸軍科学研究所化学兵器講義抄録』(一九二八年)にも化学兵器用法のひとつとして航空機による用法が記されている(ともに清水勝嘉『生物化学毒素兵器の歴史と理論』所収史料 一三〇、一七四頁)。

『浜松新聞』は一九二八年九月二八日、二九日付記事でガス爆弾について説明し、ホスゲン、アダムサイト、クロルピクリン、イペリットなどについて紹介している。一九三〇年七月三日付の紙面では第三師団が航空毒ガス戦を想定して師団演習をおこない、十一月三日付では饗庭野で飛行第七連隊が毒ガス弾を含んだ爆弾を投下する演習をおこなったことを報道している(前掲、荒川『軍隊と地域』一七九頁)。

 一九三〇年に飛行第七連隊が毒ガス弾の投下実験をおこなったことについては紀学仁編『日本軍の化学戦』でも指摘されている(二一頁、以下引用にあたり『紀・化学』と略記)。

 陸軍は一九一〇年代後半から第一次世界戦争での毒ガス戦をふまえて化学戦研究をはじめた。一九二七年にはそれまでの基礎研究をふまえて実戦研究がはじまったという。実戦にむけての研究の開始と飛行第七連隊の設立の時期は重なる。ここで紹介した陸軍の史料や浜松の記事から、毒ガスの実戦研究において航空機からの爆弾と雨下による使用が当初から組みこまれていたことがわかる。

 陸軍は一九二〇年代後半、ホスゲンやイペリットの野外実験をくりかえしている。新設された爆撃部隊はこれらの毒ガスを航空機で使用することも任務としていたとみられる。毒ガス戦研究とともに、飛行第七連隊は長距離飛行訓練や夜間爆撃訓練をおこない、海外での侵略戦争の準備を重ねていった。一九三一年からの「満洲」侵略の際には浜松の飛行第七連隊から編成された空爆部隊が錦州空爆などに参加している。

 陸軍の実戦にむけての毒ガス戦研究は一九三三年八月に陸軍習志野学校が開設されたことで一層強化された。この学校の設立の目的は化学戦の実戦能力をたかめ、各部隊へと派遣する化学戦将校を養成することだった。習志野学校の練習隊では迫撃砲、手撤・車撤などによるガス使用や制毒、気象の研究がおこなわれた。三三年には王城寺原、三四年には相馬ヶ原、富士などで毒ガス訓練をおこなった(『毒ガスU』十四頁)。

 浜松陸軍飛行学校の設立は習志野学校と同じ一九三三年八月のことである。浜松陸軍飛行学校設立に際し、航空毒ガス戦の研究が研究任務のひとつとして組みこまれていたとみられる。

 

2浜松陸軍飛行学校の設立と航空毒ガス戦研究

 

 浜松陸軍飛行学校は飛行第七連隊の練習部が独立したものであり、爆撃教育を主な任務として設立された。現・航空自衛隊浜松基地の司令部がある地区を拠点とした。

 陸軍は一九三二年に九二式五〇s投下きい弾、九二式五〇s投下あおしろ弾を制式化している。両弾とも一九二七年に陸軍科学研究所が制作をはじめた。きい弾は二八年三月に伊良湖と三方原で第一回試験をおこない、二九年七月に王城寺原で静止破裂試験をおこなった。あおしろ弾も同様の経過で審査された(「航空弾薬九二式五〇瓩投下きい弾(甲)及九二式五〇瓩投下あおしろ弾仮制式ノ件」A史料)。きいはイペリット・ルイサイト(びらん性)。あおはホスゲン(窒息性ガス)、しろは三塩化砒素(発煙剤)であり、あおしろはこれらの混合物。

 これらの毒ガス投下弾の試験が三方原でおこなわれたことから、飛行第七連隊が投下を担ったのは確実である。きい弾はその後改良が加えられ、三四年、三七年、四〇年と改良弾が制式化されていく。この改良のための研究や試験に浜松陸軍飛行学校が関与していくことになった。

 陸軍は投下ガス爆弾を制作するとともに毒ガスを雨下して使用することも検討している。

 一九三四年九月二一〜二五日にかけて「瓦斯雨下連合研究演習」がおこなわれた。試験場は天竜川河口の中洲であった。この演習は真毒を使ってのはじめての雨下訓練だった。演習は陸軍科学研究所、下志津陸軍飛行学校、陸軍習志野学校によっておこなわれたが、天竜川中洲での演習からみて雨下の実行に浜松の飛行部隊が関与したとみていいだろう。

 演習は三機編隊で高度一〇〇メートルからイペリットを雨下し、その被毒状況をみるとともに、防毒の効果を調べるというものだった。訓練報告では大規模な雨下演習の実施と雨下防毒具の開発を提言し、毒ガス雨下戦にむけての研究・開発をもとめている(「瓦斯雨下連合研究演習概況報告送付ノ件通牒」『毒ガスU』五一頁)。

 このような演習のなかで、実戦用に三四年にガス雨下器が制式化された。この雨下器は「カニ」とよばれた。また九四式五〇sきい投下弾も制式化されている。

 浜松陸軍飛行学校と毒ガス投下弾のかかわりは三六年に制式化された九六式一五s投下あか弾(ジフェニールシアンアルシン・くしゃみ嘔吐性ガス)の制作経過にもはっきりと記されている(陸軍航空科学研究所「航空機爆薬十五瓩投下あか榴弾考査報告書」一九三七年、『毒ガスU』四一四頁)。

 それによれば第一回と第二回の機能試験は陸軍伊良湖試験場でおこなわれた。そこでは一九三三年九月に十一発、三四年六月には三〇発が使用された。第三回は一九三四年九月に浜松で航空機から投下しておこなわれた(三四発)。一九三五年九月には第四回目の試験が浜松でおこなわれ、集団投下による効力試験、静止破裂による効力試験などが実施された。浜松での試験は浜松陸軍飛行学校の協力のもとでおこなわれた。第四回目の試験内容をみると、軽爆三機が毒ガス弾二〇発を一八ヘクタールに投下。その結果、あか弾が地域内風下数百メートルにわたる地域を制圧し、破片効力は相当なものであり、「殲滅的効力」をもつことを確認している。静止破裂試験では一〇発を一ヘクタール内で使用した。

 投下ちゃ弾(青酸・血液中毒性ガス)の実用にむけての研究も浜松陸軍飛行学校が担った。投下ちゃ弾は九九式が制式化される。その研究経過をみると投下ちゃ弾の第一回基礎試験は一九三五年九月に、陸軍科学研究所、浜松陸軍飛行学校、習志野学校が協同しておこなっている。この実験の結果、効力は「即効的」であり、完成の必要あり、とされた。

 第二回目の試験は一九三六年九月に集団効力試験としておこなわれ、風速三〜四メートル以下で一ヘクタールに一〇〜一五発を投下、「殲滅的効力」があると判定された。

 第三回目は陸軍航空技術研究所、陸軍科学研究所、関東軍研究部が協同して、一九三八年の冬期、「北満」での演習で不凍性ちゃ弾の研究をおこなった(陸軍航空本部「九五式五〇瓩ちゃ弾仮制式制定ノ件」「A史料」、『毒ガスU』四三六頁)。

 投下ちゃ弾の研究はさらにすすめられ、一九四〇年一一月関東軍化学部は白城子で飛行機を使い、五〇s投下ちゃ弾の効力試験をおこなった(『毒ガスU』一四頁)。この中国東北部での試験も浜松陸軍飛行学校が担った。

 このような研究をすすめるなかで、陸軍航空本部は一九三六年九月に航空毒ガス戦にむけてあらたに試験分担をきめている(陸軍航空本部「瓦斯二関スル研究担任ノ件報告」『毒ガスU』五九頁)。任務分担をみると浜松陸軍飛行学校が飛行機によるガス使用法、下志津陸軍飛行学校が毒ガス防護法、陸軍航空技術研究所は航空化学兵器の考案、審査をおこなうというものである。

このような分担の決定以前から、爆撃を任務としてきた浜松の部隊は飛行機による毒ガス投下、雨下の実験をおこなっていた。この分担によって浜松の部隊の航空毒ガス戦研究は本格的なものになっていった。一九三六年一二月には下志津の化学戦攻撃部門は浜松へと移管され、浜松陸軍飛行学校の一角に化兵班がつくられていった(矢田論文一八頁)。

 

3中国東北部での毒ガス戦研究

 一九三五年一月陸軍習志野学校は「満洲」北安鎮付近で「冬季研究演習」を実施した。この演習の目的は野戦ガス隊の運用研究であった(教育総監部「満洲国内二於テ陸軍習志野学校冬季研究演習実施ノ件」「A史料」)。この北安での実戦演習ふまえ、中国東北部で習志野学校による化学戦演習がおこなわれていくようになる。

 三五年十二月から三六年二月にかけての「冬期北満試験」は、陸軍技術本部、陸軍科学研究所、陸軍軍医学校など陸軍の各部から出張しておこなわれた。この試験には浜松陸軍飛行学校からも大槻剛山(陸軍航空兵少佐)、高木清(陸軍技手)が参加した(軍務局兵務課「昭和十年度冬季北満試験研究ノ為出張二関スル件」「A史料」)。

 陸軍習志野学校は一九三六年八月に開山(新潟)でガス雨下実験をおこなった(陸軍習志野学校「秘密書類送付ノ件」「A史料」)。

 同年八月下旬には習志野学校から将校二〜三人が関東軍へとガス教育のために派遣され、約一ケ月間一一〜二ケ所を巡回している(関東軍「関東軍瓦斯教育ノ為教官要員派遣ニ関スル件」「A史料」)。

 陸軍の毒ガス戦研究には海軍からの参加もあった。三七年一月に孫呉でおこなわれた陸軍習志野学校による毒ガス野外試験には陸軍科学研究所での兵学兵器協同研究員である海軍艦政本部部員鶴尾定雄(海軍中佐)、海軍技術研究所所員築田収(少佐)が見学している(海軍省「陸軍習志野学校研究演習見学ニ関スル件」「A史料」)。

 海軍は一九二二年に化学兵器委員会を設立し、二三年には海軍技術研究所内に化学兵器研究部を設置、三〇年には平塚火薬廠に出張所を置き、三四年にはそれが化学研究部となった。相模海軍工廠では化学兵器が生産された。

 新兵器開発実験も中国東北部でおこなわれた。三七年六月上旬から約一ケ月間、雨季にかけ、関東軍は公主嶺で「ケ」装置試験と普及教育をおこなった。そこには陸軍航空技術研究所などからの参加があり、浜松陸軍飛行学校からは村岡信一(陸軍航空兵中尉)が参加した(関東軍「飛行機『ケ』装置試験及普及教育二関スル件」「A史料」)。ここでの「ケ」装置は離着陸制限機である。

 浜松陸軍飛行学校は部隊員を毒ガス研究の演習に参加させるとともに、毒ガス投下弾の実験をおこなったが、浜松・「満州」間の航法訓練もおこなっている。一九三六年四月の訓練は九三式重爆二機が自動操縦装置を用い、夜間飛行を含めた長距離飛行訓練をおこなうというものだった(陸軍航空本部「満洲ニ対スル航法訓練実施ノ件申請」「A史料」)。

 飛行ルートは浜松・大刀洗・平壌・奉天・チチハル・牡丹江であり、往復距離は約三九〇〇キロメートルとなる。飛行することで気象情報の収集、無線通信の使用、ラジオ聴収、満洲空輸会社からの気象情報の収集などをおこなっている。このときの飛行研究の報告が「飛行第七連隊満洲飛行所見抜粋」である。この報告書は浜松陸軍飛行学校が「昭和十一年度召集佐尉官」に向けて示した講義録集のなかに収められている。この講義録集には「図上戦術講義録」(伊藤航空兵大尉、大坪航空兵少佐)などもあり、対ソ戦を想定しての戦術が記されている(陸軍航空本部「秘密書類調整配布ニ関スル件」「A史料」)。

 一九三七年には毒ガス弾の投下研究を経て、九七式五〇s投下きい弾、九七式一五s投下あか弾、九七式五〇s投下あおしろ弾などがつぎつぎに制式化された。さらに投下ガス弾の改良研究もおこなわれた。きい弾、あおしろ弾、あか弾、ちゃ弾の試験研究状況からみて浜松陸軍飛行学校は全てのガス投下弾の開発実験に大きく関与していた。浜松での毒ガス演習は証言や記録によれば、三方原爆撃場や天竜川河岸、掛塚の天竜川河口などでおこなわれている。

 一九三七年の南京攻撃の際、第十軍司令部は第二案としてイペリットや「焼夷」弾による空爆で南京市街を廃墟とする案を示している。この攻撃の利点は味方の犠牲が少ないこととされていた。この戦術は採用されなかったが、毒ガス戦案が第二案として存在したことから、軍中枢に航空毒ガス戦実施への志向が強いものとしてあったことを知ることができる(第十軍司令部「南京攻略ニ関スル意見」一九三七年十一月『毒ガスU』二七七頁)。

 

4イペリット雨下訓練

 投下毒ガス弾の研究とともに毒ガス雨下の研究もすすめられていった。すでにみたように一九三四年九月にはイペリット雨下演習が天竜川河口でおこなわれている。

 一九三七年六月上旬には浜松で「特爆真毒演習」がおこなわれた。その演習用に五月十五日から六月三〇日にかけて防毒被服七〇ケが浜松の部隊へと貸与されている。貸与品目は九五式防毒面、防毒衣、防毒袴、防毒手袋、防毒靴、防毒衣袴用包布などである(陸軍航空本部「防毒被服貸与ノ件」「A史料」)。これらは真毒の実験用に貸与されたものである(この実験は投下毒ガス弾によるもの)。

 一九三八年五月には関東軍へと教育用ガス雨下器が特別支給された(関東軍「教育ノ為瓦斯雨下器特別支給ノ件」「A史料」)。

「第二次関東軍特種演習」は三八年十一月二六日から十二月七日の間、ハイラルでおこなわれた。この演習の目的は浜松陸軍飛行学校によるガス雨下の研究だった。

 演習は関東軍研究部、陸軍科学研究所、陸軍習志野学校の参加のもと、浜松陸軍飛行学校が高空からガスの雨下をおこない、その効力をみた。この演習では真毒が使用され、高度雨下定数に応じての真毒雨下網の設定、一九三七年の三方原での真毒雨下実験の補足研究、航空用ガス攻撃資材の研究などがテーマだった。「双軽二型」の五機を使い、編隊で雨下をおこない、予期命中点、雨下器からの流出時間、擬液の落下時間を計り、到達時間を調べた。この演習のために浜松陸軍飛行学校は雨下器(四)、雨下測定器、検地板、雨下風測器材を用意し、関東軍が真毒を用意した。

 演習指揮官は小川小二郎(中佐)、研究審査官は岡田猛次郎(少佐)、桜井肇(少佐)、許斐専吉(少佐)、安部勇雄(大尉)、渥美光(大尉)、松崎廉(少尉)、高木清(技師)らであった(陸軍航空本部「関東軍特種演習参加並二瓦斯雨下研究演習実施二関スル件」「A史料」)。

 『毒ガス戦関係資料集U』の年表では一一月のハイラル付近の演習は「液体青酸寒地試験」とされている(十四頁)。このとき、浜松陸軍飛行学校はハイラルで液体青酸を含めての雨下実験をおこない、実戦での毒ガスの活用方法を研究していたのである。

 一九三八年は浜松陸軍飛行学校の協力で航空部隊専用の毒ガス戦用資材の研究がさかんにおこなわれた年であった(木下健蔵『消された秘密戦研究所』二八六頁)。

 毒ガス弾や雨下の研究と併行して実戦にむけてガス兵の配置もおこなわれ、一九三九年二月には航空兵にガス兵を支給する記事もみられる(大日記甲輯「航空兵隊演習用小銃弾薬支給定数ノ件」一九三九年「A史料」)。三九年八月には陸軍浜松飛行学校へと九五式防毒面、全防毒具が交付されている(密大日記「防毒被服交付ノ件」「A史料」)。

 ガス防護の研究は水戸陸軍飛行学校でおこなわれた。一九四〇年二月にはきい剤や防毒具の貸与がなされ、同年三月にもあか筒二〇やきい剤四〇〇kg、催涙筒二〇〇などが支給されている(陸軍航空本部「瓦斯教育並二研究用器材貸与ノ件」、同「瓦斯教育用弾薬特別支給二関スル件」「A史料」)。この防護部門はのちに浜松へと移管される。

 毒ガス攻撃と防護の訓練を経て、一九四〇年二月に陸軍航空総監部は『航空部隊瓦斯防護ノ参考』を作成し配布した。この小冊子には毒ガス防護に関して詳細な指示が記されている(陸軍航空総監部「航空部隊瓦斯防護ノ参考送付ノ件通牒」「A史料」)。この冊子作成にあたっては浜松などでの訓練が参考にされたといえるだろう。

 一九四〇年五月には関東軍へとちゃ剤が大量に輸送された。関東軍の化学戦部隊はチチハルに拠点をおいた。ちゃ一号が三〇トン分、五〇s塩素ボンベに二〇kg毎、填実されて、三〜四回にわけて輸送された(陸軍科学研究所「化学兵器下付ノ件」「A史料」)。

 関東軍への化学兵器の支給は増加し、一九四〇年六月にはきい一号(丙)一〇トンをはじめ、あお、あか、きい弾(砲弾)も送られていった(関東軍「試験研究用兵器交付ノ件」「A史料」)。一九四一年七月にはちゃ号二〇トンをはじめ大量のきい、あか弾が送られた(関東軍「兵器特別支給ノ件」「A史料」)。このときの毒ガス輸送は七月中旬にチチハルでおこなわれる予定であった訓練のためである(関東軍「化学戦研究演習用弾薬特別支給ノ件」「A史料」)。大量の毒ガスが関東軍へと送られたが、一九四〇年四月に習志野学校がおこなった毒ガス砲弾試験では中国人三〇人が実験材料とされ、二九人が死亡した(斉藤美夫による、『細菌戦与毒気戦』四四二頁)。

 これらの毒ガスの大量の輸送は関東軍化学部や第一特種自動車連隊(毒ガス車撤部隊)の編成にみられるように、中国東北部での毒ガス戦部隊の強化によるものといえるだろう。

 浜松から「満洲」までの航法訓練も回を増すごとに内容が濃くなっていった。一九四〇年二月の航法訓練には浜松・明野・下志津の飛行学校から参加した。浜松飛行学校の計画をみると、浜松からチチハルに行き、極寒期での日満航法、耐寒研究、在満部隊の研究、資料収集をおこなうとされ、航空兵団の演習にも参加するようになっている(陸軍航空本部「日満航法訓練二関スル件」「A史料」)。このような浜松から「満洲」までの航法訓練の増加は、長距離侵攻にむけての訓練でもあった。

 一九四〇年一一月一三日から一二月八日にかけて、関東軍の「冬季航空研究演習」が白城子演習場でおこなわれた。この演習は浜松陸軍飛行学校と連合しておこなわれ、高空戦闘爆撃、夜間爆撃、航空化学戦を主とするものであった。演習の拠点をチチハルにおき、平安鎮を前進基地とした。

 演習内容をみてみると、七千メートル以上の高空度からの各種爆弾による爆撃効果、部隊によるガス弾投下とガス雨下、凍結地での鉄道施設の爆撃、寒地での爆撃機の高空装備などについての研究となっている。

 この演習の統監は浜松陸軍飛行学校の山瀬少将であり、浜松陸軍飛行学校からは重爆七機、双軽爆五機の各一中隊が参加、第一飛行集団、航空兵団、陸軍科学研究所、陸軍航空技術研究所なども参加した。関東軍化学部からも一〇〇人が参加した。

 関東軍化学部はこの演習で毒ガス兵器の効力の調査研究をおこなった。機密保護と防諜警戒のために憲兵が増加配備された(陸軍航空統監部「浜松陸軍飛行学校連合研究演習見学希望ノ件照会」「A史料」)。

 このような訓練がおこなわれていくなかで一九四〇年四月八日、浜松で誤爆事故がおきている。

 浜松陸軍飛行学校は三方原爆撃場で編隊による高度五千メートルからの爆撃効力試験をおこなっていた。この試験中に三〇s爆弾九発を爆撃場外(浜名郡小野口村新田、現・平口新田)に投下した。そのため住民の即死四人、入院後死亡一人、重傷一人、軽傷五人の被害となった(軍事課「浜松市附近二於ケル爆弾事故二関スル件」「A史料」)。

 一九四二年五月に出された『化学戦重要数量表』(『毒ガスU』八○頁)をみると人と馬の呼吸器・皮膚・眼への中毒度、効力、効果発生時間、回復時間が記されている。ここに示された人に関するデータは人体実験によるものを含むと考えられる。

「投下、雨下二関スル事項」をみると、第二〇表は投下ガス弾の効力(一〇〇式あおしろ弾・きい弾・ちゃ弾)について記され、二一表・二二表には雨下についての事項が記されている。ここに記された投下、雨下に関するデータの多くは浜松陸軍飛行学校の毒ガス戦研究によるものであるといってよいだろう。

 一九四一年には航空部隊用きい剤撒布筒が完成している(一式五〇s撒布筒・『毒ガスU』八五頁)。すでに一九三四年には九四式ガス雨下器が制式化されていたが、この撒布筒はイペリット(含ルイサイト)の雨下器であった。この兵器は浜松にも配備されたであろう。

 浜松陸軍飛行学校は関東軍の本土への中継基地でもあったという(元軍属横山輝一郎氏談二〇〇一年)。横山氏は一九三九年一月に関東軍野戦航空廠の要員として浜松飛行学校に入学し、光学兵器教育をうけた。中国へと送られる爆撃機の装備品は浜松飛行学校の電精工場で整備、供給されていたという。三九年七月、診察のために医務室を訪れた際、イペリットを爆弾に注入する際にこぼしてしまい、両下肢がびらんした少尉を目撃した。

 なお浜松陸軍飛行学校は一九三八年七月、陸軍航空部隊全般の運用に関する教育・研究を担うようになった。一九三九年に浜松陸軍飛行学校鉾田分校が設立されていたが、一九四〇年一二月には軽爆部門を分離して鉾田陸軍飛行学校(茨城県)として独立させた。同年一二月、浜松陸軍飛行学校に落下傘部隊の母体となる「挺身練習部」が設置された。

 白城子陸軍飛行学校は所沢で編成され一九四〇年一月末、白城子へと移駐した。同年八月には航空化学戦に関する教育任務が加えられている(『陸軍航空の鎮魂』総集編二七頁)。白城子は中国東北部における航空化学戦教育の拠点として位置づけられていた。

 西里扶甬子『生物戦部隊七三一』には七三一部隊航空班元軍属の松本正一証言が収められている。松本証言によれば重爆機は細菌培養液の雨下、人員や機材の輸送、軽爆機はペストノミの散布、爆弾投下に使用したという(一四四頁)。

 一九四〇年一〇月の浙?戦での衢州や寧波での日本軍飛行機によるペストノミの散布は軽爆機からのものと考えられる。松本氏は仙台・熊谷で訓練をうけて七三一部隊に入隊しているが、他の飛行隊員のなかには浜松で訓練をうけた者も多かったとみられる。

浜松を出自とする重爆隊の飛行第九八戦隊は一九四一年六月、関東軍特別演習に参加、七月には「平房移動演習」に参加している。この平房での「演習」と七三一部隊との関係は不明であるが、毒ガス弾の投下や毒ガスの雨下演習に浜松陸軍飛行学校が深く関与していたことからみて、細菌弾の投下や雨下にも関与した可能性がある。今後の追及課題である。

 

5中国戦線での航空毒ガス戦

 中国戦線では航空機からの毒ガス弾の投下や雨下もおこなわれている。以下、中国戦線での航空毒ガス戦の実態についてみていく。浜松から編成された部隊と毒ガス戦との直接の関係についてはあきらかではないが、浜松での航空毒ガス戦の訓練は実戦に活用されていったといえる。

 中国側の史料をあつめた『細菌戦与毒気戦』(以下引用にあたり『細・毒』と略記)や『侵華日軍的毒気戦』(以下引用にあたり『侵・毒』と略記)には、一九三七年七月からの日本軍による航空毒ガス戦についても記されている。

 七月二七日、河北省宛平の盧溝橋で日本軍機が二弾を投下、内一発は不発であり毒ガス弾だった(『細・毒』六四九頁)。八月一五日浙江省寧海での空襲で毒ガス弾が投下され(『侵・毒』一八三頁、『細・毒』六五〇頁)、九月二七日には江蘇省江陰で江防要塞に毒ガス弾が投下された(『細・毒』六五〇頁、『侵・毒』一九〇頁)。九月二七日には広東の虎門要塞付近へと毒ガス弾が投下された(『細・毒』六五〇頁)。

 一九三八年の状況についてみると、第一軍参謀部の『機密作戦日誌』(『毒ガスU』二八三頁)には一九三八年四月、山西省での迫撃砲による特種発煙弾の使用についての指示が、第一軍と航空兵団へと出されている。このなかで投下毒ガス弾も使用されていったとみられる。一九三八年六月には山西省離石で軍機から毒ガス弾を投下(『抗敵報』一九三八年六月三〇日、『侵・毒』二〇三頁)、六月二六日には安徽省舒城で毒ガス弾が投下されている(『新華日報』一九三八年六月二七日『細・毒』六五五頁、『侵・毒』二五八頁)。三八年に秋には山西省楡社県河峪鎮輝教村日本軍機が毒ガスを撒いた(粟屋憲太郎編『中国山西省における日本軍の毒ガス戦』一七七〜一七八、二一三頁、歩平 高暁燕 ?志剛『日本侵華戦争時期的化学戦』三九九頁)。年月は不明だが同省武郷県蟠龍鎮でも毒ガスが撒かれた(『中国山西省における日本軍の毒ガス戦』二〇二、二二〇、二二三頁)。

 一九三八年の武漢戦では航空弾として五〇sきい弾一五〇〇発が用意され、上海に一〇〇〇発、南京に五〇〇発が配備された(青木喬大佐「武漢作戦ノ為爆弾集積表」(『毒ガスU』三九八頁)。このように集積された毒ガス弾は実際に使用されたとみられる。武漢戦での江西省星子付近での航空毒ガス戦についてみると、九月十一日東孤嶮、十四日西孤嶮で毒ガス弾を投下(『細・毒』四二一頁、六六一頁、『侵・毒』二七二頁、三六二頁)、九月二〇日には江西省瑞昌・長江南岸?家脳・大脳山陣地への毒ガス弾投下もおこなった(『細・毒』四二二、六六三頁、『侵・毒』二七〇、三六三頁)。紀学仁編『日本軍の化学戦』は武漢戦で日本軍航空兵がたびたび毒剤爆弾を投下したとしている(以下『紀・化学』と略記、八六頁)。

 一〇月二八日、河北省阜平では撤退時に毒ガス弾を使用している(『新華日報』一九三八年一〇月三一日『侵・毒』一六七頁)。

 一九三九年に中国各地へと航空用毒ガス投下弾が配備されていたことについては、以下の史料からわかる。

 第三飛行集団への配備状況をみると、九二式五〇sきい弾(甲)が彰徳に二四六発、運城に二七六発、南京に九〇〇発、九七式一五sあか弾は南苑に一八○○発となっている(第三飛行集団兵器部「北支二於ケル航空弾薬現況調査表」「中支二於ケル航空弾薬現況調査表」一九三九年一一月二五日調、『毒ガスU』四〇〇頁)。

 消費状況は一九三九年七月に華北できい弾六六発、九月に一二発が使われている(第三飛行集団兵器部「北支二於ケル航空弾薬消費調査表」一九三九年一一月末、『毒ガスU』四〇一頁)。

 一九三九年五月の参謀総長閑院宮載仁からの指示には、華北山西省などの僻地に限定し雨下はせずに黄剤などの特種資材を使用してその作戦上の価値を研究することが記されている(「大陸指四五二号指示」『毒ガスU』二五八頁)。

 一九三九年の航空毒ガス戦の状況についてみると、一月二五日、河南省商城・南門外で三機がびらん性ガス弾一〇弾余りを投下(「廖磊致重慶軍事委員会電」一九三九年一月二五日『細・毒』四九六頁、『侵・毒』三二〇頁)、三月末には山西省晋城などで毒ガス弾を投下している(『細・毒』五一八頁)。

 八月二四日には広東省従化羅洞で六機がイペリット弾を三〇余り投下(『新華日報』一九三九年八月三〇日『侵・毒』三四六頁)、一〇月には上海で黒色の毒粉を散布(『細・毒』六五一頁)、一一月一〇日には河南省洛陽付近で窒息性ガス弾を投下した(『新華日報』一九三九年一一月一七日、『細・毒』四九八、六七八頁、『侵・毒』三二二頁)。

 一九三九年一一月から一二月にかけて山西省夏県付近では毒ガス空襲がおこなわれた。このとき不発弾が回収され、米軍の検査により不発弾がルイサイト、イペリットであったことがわかっている(吉見義明「明らかになった日本軍による毒ガス戦」『時効なき戦争責任』二一〇頁)。

 十二月三日の山西省晋城店頭・担山・朱家庄一帯でのイペリット弾の四回の投下により、被災者の顔は赤くはれて水泡ができ、びらんし窒息した(『新華日報』一二月二四日付『紀・化学』二二六頁、『細・毒』五二四、六八二頁『侵・毒』二一九頁)、十二月中旬山西省中条山でも毒ガス弾が投下されている(『細・毒』六八二頁)。

 一九四〇年七月二三日付の参謀総長載仁による支那派遣軍司令官への指示をみると、特種弾の使用を認め、雨下はしないが、使用の事実を秘匿し痕跡を残さないようにと指示している(「大陸指六九九号」『毒ガスU』二六〇頁)。この指示のもとで航空用投下弾も使われていったといえるだろう。この指示以前にも、たとえば桂南戦において一九四〇年一月には広西省八塘、広東省羅定、横県で使用されている(『細・毒』六三三、六八四頁、「新華日報」一九四〇年二月四日『侵・毒』三四七、三五〇頁)。

 一九四〇年二月一六・一七日には内モンゴルの臨河で毒ガス弾が国民党陣地などに投下された(『紀・化学』二二六頁、「中国二於ケル日本軍ノ毒瓦斯戦ノ一般的説明」[『毒ガス戦関係資料』五三一頁]、「新華日報」一九四〇年二月二四日付『細・毒』五四九、六八五頁、『侵・毒』三三一頁)。

 四月一八日には山西省翼城で日本軍機二〇機が空爆、催涙弾を投下(「新華日報」一九四〇年四月二二日『侵・毒』二二一頁)、六月一三日には晋城の外山村付近で三機が毒ガス弾を投下した(「新華日報」六月一七日『侵・毒』二二三頁)。山西省での航空毒ガス弾攻撃は一九三八年六月、三九年四月、一二月につづくものであり、これらの攻撃は抗日根拠地の破壊をねらったものであろう。

 一九四一年一月一日安徽省潜山で軍機二機がびらん性ガス弾を投下(「李宗仁致蒋介石電」一九四一年一月一二日『細・毒』五六六、六九九頁、『侵・毒』二六三頁)、三月一〇日には山西省垣曲で毒ガス弾を投下(「新華日報」一九四一年三月一七日、『侵・毒』二二九頁)、一九四一年三月下旬には江西省奉新の華林白茅山一帯の中国陣地、上西の石頭街に毒ガス弾を投下した(「岡村寧次侵華任内用資料」『侵・毒』二八七頁)。

 一九四一年九月から一〇月の湖北省での宜昌戦では軍機からのイペリット弾が大量に使用された。毒ガス弾は九月中旬には東寺山地区、一〇月八・九・一〇日には茶店子地区や宜昌などへと投下された。とりわけ一〇日の宜昌空爆は三六機による大規模なものだった。このイペリット攻撃によって中国側の死者は四〇〇人をこえたとみられる(「日本軍使用毒気証明書」「新華日報」一九四一年一〇月一一日、『細・毒』四三九、六〇〇、六〇一、七〇六、七〇七頁、『侵・毒』三〇三頁、『紀・化学』一八〇頁)。宜昌戦でのイペリット使用についての報告はアメリカ人記者ジャックベルデンのものもある(前掲、吉見論文二一三頁)。宜昌へは一九四二年五月二日、イペリットが雨下されている(『侵・毒』三〇六頁)。

 一九四一年一一月一五日には河南省鄭州の韓?・胡?にイペリットが雨下された(「新華日報」一九四一年一一月一九日、『侵・毒』三二五頁)。一二月三一日にもイペリットが雨下され、中牟付近の五里鋪の中国軍守備地は汚染され、中国軍第一一〇師第三二八連の七〇人あまりが被毒し、重症者三人が重慶第五陸軍病院に送られた(『紀・化学』一八八頁)。

 一九四二年の浙?戦でも航空毒ガス戦がおこなわれた。五月二六日浙江省建徳の白沙陣地へと八機が毒ガス弾を投下した。また三機が新安江での渡河の際に毒ガス弾を投下して支援した(『紀・化学』一九二頁、『細・毒』五五九、七一五頁、『侵・毒』一八七頁)。六月五日には浙江省衢県東山、前渓口一帯の中国軍第二六師第七六団の陣地に毒ガス弾を投下した(『細・毒』五六一、七一七頁、『侵・毒』一八八頁)。

 一九四三年春の山西省での「大行作戦」では航空機からあか弾(嘔吐性)が投下された。報告では飛行機と歩兵による協同使用が評価され、毒ガス使用の効果は十分とされている(山砲兵三六連隊本部「一八春大行作戦第一期戦闘詳報」『毒ガスU』三七二頁)。

華北での航空毒ガス弾攻撃は一九四三年一月二八日山西省趙城(「三二年度敵軍用毒情況」『侵・毒』二三七頁)、五月三一日内モンゴルの包頭(「新華日報」一九四三年六月一八日、『細・毒』五四一、七二七頁)、一一月下旬山東省沂水(「解放日報」一九四四年一月一七日、『侵・毒』二五二頁、『紀・化学』二六五頁)などがある。

 一九四三年の湖南省・常徳戦でも航空毒ガス戦がおこなわれた。一一月一八日慈利では軍機から四次にわたって中国軍第五八師に対し毒ガス弾の投下がなされ、一一月二七日には、常徳で一二機による空爆と毒ガスの雨下がおこなわれた(「三二年度敵軍用毒情況」「三二年冬常徳会戦倭寇使用毒気調査」『細・毒』七三三頁、『侵・毒』三四二、三四三頁、『紀・化学』二〇五頁)。

 一九四四年七月十一日には湘南省衡陽(虎形山)で飛行機と砲による毒ガス攻撃があった(「新華日報」四四年七月十三日、『侵・毒』三四五頁)。

 日本軍による航空毒ガス弾投下の状況を中国国民党軍政部『抗戦八年来敵軍用毒経過報告書』(一九四六年)からみると、一九三八年二回、一九三九年二二回、一九四〇年一一回、一九四一年三〇回、一九四二年六回、一九四三年七回、一九四四年一回の計七九回となっている(『紀・化学』三二四頁)。

「侵華日軍毒襲兵器使用次数情況統計」(『侵・毒』七一頁)をみると、毒ガス爆弾は一九三七年一七、一九三八年三六、一九三九年四六、一九四〇年四一、一九四一年五八、一九四二年一四、一九四三年一三、一九四四年二の計二二七回となっている。ここで示されている毒ガス爆弾は毒ガス砲弾とは別に集計されていることから、航空機からの投下弾が多数とみられる。

 ここで紹介してきたように、『細菌戦与毒気戦』『侵華日軍的毒気戦』に収められた年表や史料からみても、四〇回ほどの軍用機による航空毒ガス戦の事例をみることができ、なかにはイペリット弾やイペリットの雨下攻撃とみられるものもある。なお両書が毒ガス弾投下の典拠としてあげている史料の調査が課題である。

ここでみてきたように、浜松陸軍飛行学校は航空毒ガス戦の研究を担った部隊であり、実戦と併行して中国東北部で関東軍化学部と協同して研究をすすめていた。中国での投下や雨下を担った隊員の多くが浜松や鉾田で訓練をうけている。浜松の陸軍航空部隊の爆撃や雨下の技術と訓練は航空毒ガス戦という戦争犯罪に使用されていったといえるだろう。

 防衛庁防衛研修所戦史部『中国方面陸軍航空作戦』をみると、宜昌での戦闘で一九四一年九月八〜九日と軍用機による攻撃が加えられ、十一日には「敵の宜昌奪回企図は封殺」と判断されたことが記されている。中国側史料から航空用投下毒ガス弾(イペリット)使用があきらかである。毒ガスの使用が戦況を一転させたのだが、『中国方面陸軍航空作戦』ではその使用について一言もふれていない。同書にある部隊配置からみて、毒ガス弾を投下したのは飛行第七五戦隊(軽爆)とみられる。

 同書の部隊配置記事から、一九四二年の浙?戦では飛行第六五戦隊(軽爆)あるいは飛行第九〇戦隊(軽爆)、一九四三年十一月の常徳戦では飛行第一六戦隊(軽爆)、一九四四年七月の衡陽攻撃では飛行第一六戦隊あるいは同九〇戦隊が毒ガス戦にかかわったとみられる。しかしこれらの部隊による毒ガス弾使用についての確証はなく、今後の調査課題である。

 

6三方原教導飛行団の設立

 

 一九四二年八月、水戸陸軍飛行学校の航空毒ガス戦防護部門は浜松陸軍飛行学校へと移管され、浜松陸軍飛行学校内に攻撃と防護を統合した部隊として化学戦教導隊がおかれた(矢田論文一八頁)。この部隊員には白城子陸軍飛行学校からの移駐者が多かった。隊内には高級将校が多く、下士官は九州出身者が多かった(元軍属[通信担当]鈴木清「三方原飛行隊の創始と終焉」二二〇頁、以下引用にあたり『鈴木』と略記)。

 一九四三年の冬(正月ころ)浜松陸軍飛行学校は饗庭野で擬液を用い雨下実験をおこなった。この実験は雪の上に探知盤をおき、高度差をかえて模擬毒ガス液を散布するというものだった。探知板(約四〇センチメートル平方)の上に何グラム投下されたのか計り、実戦での使用方法を研究した(S氏談)。

 一九四三年三月には三方原爆撃場での「特種研究爆撃」の際に飛行機墜落事故がおきている(『飛行第六〇戦隊小史』一〇七頁)。この「特種研究爆撃」は毒ガス弾の投下研究とみられる。

 一九四四年になると、浜松陸軍飛行学校内の化学戦教導隊は三方原教導飛行団の形で独立し、三方原の飛行場の一角へと移駐して独自の部隊となった(『陸軍航空の鎮魂』総集編によれば編成は六月二〇日)。この部隊は航空毒ガス戦の実戦を担う秘密部隊であった。この部隊がおかれたところは現在、航空自衛隊の官舎となっている。

一九四四年一月二九日付の大陸指第一八二二号指示、大本営陸軍部「化学戦準備要綱」では航空機による攻撃を重視する毒ガス戦の指示を出している(『毒ガスU』二七一頁)。三方原教導飛行団の設立はこの指示と関係が深いとみられる。

 三方原教導飛行団は状況によっては「参謀部」を編成し航空毒ガス戦の実行を予定していた。隊はイペリットを二〇〇リットルドラム管に入れて約二〇トンを保管したという(岡沢正『告白的「航空化学戦」始末記』三五・五五頁。以下引用にあたり『岡沢』と略記)。

 初代団長(一九四四年六月〜四五年二月)は山脇正雄(中将)、二代団長(四五年二月〜四月)は林勇蔵(少将)、三代団長(四五年四月〜八月)は岡田猛次郎(大佐)であった。

 岡田は化学戦研究を担ってきた人物であり、「満州」から配属され、一九四四年の開隊時は副団長だった。飛行隊長は久米(中佐)、教導隊長は知見敏(少佐)だった(『岡沢』三二頁)。

 教導隊長の知見は航空化学戦の重要性を主張してきた人物であり、三方原教導飛行団創立に尽力し、戦後は戦犯容疑で米軍に喚問された(『岡沢』三三頁)。

 三方原教導飛行団には総務部(総務課・人事課・会計課)、教育部(飛行隊・防護隊)、研究室・医務室などがあり、敗戦時には将校五三、准士官四九、兵三九六、軍属若干名など約五〇〇人の将兵がいた。飛行機は一〇機ほど所有していた(『岡沢』三五頁、知見敏「報われなかった部隊」一一四頁、以下引用にあたり『知見』と略記)。

 一九四四年六月、浜松陸軍飛行学校は実戦部隊へと再編され、浜松教導飛行師団となり、同年にはこの師団から陸軍航空最初の「特攻」部隊が編成され、フィリピン戦に投入されていった。

 すでに飛行第七連隊は一九三八年八月、飛行第七戦隊に改編され、四三年には中国からインドネシアヘ、さらにニューギュア戦線へと送られている。一九四四年に入ると浜松へ戻り、九州や浜松で雷撃などの攻撃訓練をくりかえすようになり、フィリピン・サイパン・沖縄などの作戦に投入されていった。

 一九四四年に入り、浜松の部隊は爆撃に加え「特攻」戦と航空化学戦を担う部隊へと再編されていった。

 このような再編のなかで基地内に地下戦闘指揮所がつくられた。現存するこの施設は浜松陸軍飛行学校が戦闘部隊とされ、実戦に投入された時代を示す遺跡でもある。

 三方原教導飛行団から一九四四年一一月から四五年一月の間に、中国・フィリピン・台湾へと化学戦普及教育のための派遣がおこなわれた。中国では徐州・上海・南京・漢口・広東などの各地で司令部の前線部隊将校に数日間の教育をおこなった。中国への派遣機の機長は久米中佐、航法統轄大関中尉、操縦高橋准尉、機関河合・鈴木、通信鈴木清軍属であった。フィリピンヘの派遣機は台湾沖で墜落した(『鈴木』二二二頁)。教育は二〇〜三〇人、四〇〜五〇人毎に教室を持って数日間おこなわれた。イペリットを皮膚につけての体験もあった。

 一九四五年五月上旬に牡丹江の部隊でおこなわれたガス教育についてみてみると、ガスの種類、防毒・撒毒・探毒などの教育をうけている。飛行機からガスが撒かれたときの対応も教育されている(藤家武一郎による、『細・毒』二九五頁)。

 イペリットの教育体験はジャワのマランでもおこなわれた。陸軍航空士官学校出身の尾形憲氏は三方原教導飛行団跡を訪れた際、浜松は重爆、鉾田は軽爆の拠点とされ、友人の多くが「特攻」で生命を失ったとし、反戦反基地の意思表示をしながら、「ここがジャワの第二五航空通信隊に配属され、マランでのガス教育でイペリットをつけたところ」と左腕のびらんの跡を示して証言した(二〇〇〇年六月)。

 三方原教導飛行団では航空化学戦用の教育を年四期にわけておこなった。一九四四年九月に学生として入校した岡沢正は一二月、第一期航空化学戦将校学生の卒業天覧演習に参加した。演習は天竜川右岸(笠井町東方)でおこなわれ、九九式襲撃機によってイペリットが雨下され、それを防毒するというものだった。演習を教育総監部(化学監部)、陸軍第六技術研究所など化兵専門家が見学した(『岡沢』三八頁)。

 この年の秋、三方原では毒ガスを使っての大演習がおこなわれた。年に数回は毒ガス演習がおこなわれ、ネズミ・ウサギ・馬などが実験用に使われた。「満州」では人間を使ったという証言もある(矢田論文一八頁)。

 一九四五年一月ころから部隊の分散疎開がはじまった。現官舎のところに大きな防空壕が掘られ地下司令部がつくられた。疎開先の竜保寺の本堂には通信機の事務書類がおかれ、本堂周辺に壕を掘り、通信用機材を隠した(S氏談)。

 三方原教導飛行団は三方原北方の引佐郡下へも疎開した。引佐郡から浜北方面にかけて「本土決戦」用に第一四三師団(護古部隊)が配備されていったが、飛行団の疎開部隊はこの部隊と連係していたとみられる。

 一九七三年四月の国会で、環境庁は敗戦時に全国一八ヶ所に毒ガスが保有されていたとし、そのうち引佐郡下二ヶ所の毒ガス所在地を示している。ここで示された引佐郡下の二ケ所の毒ガスの所在地は三方原教導飛行団と陸軍技術研究所三方原出張所の疎開先である(「第七一国会参議院予算委員会第四分科会会議録第二号」一九七三年四月六日、「旧軍毒ガス等の全国調査について」)。ここに出てくる陸軍技術研究所は陸軍第三航空技術研究所とみられる。

 第一四三師団が駐屯した引佐郡細江町の出ケ谷には疎開兵舎がつくられ、金指の日赤病院から万城寺にかけて部隊が駐屯した。この部隊は遠州灘に上陸した米軍との戦闘を想定して配置された。『引佐町史』(下)によれば、浜松北方に展開した護古部隊の任務は主力をもって三方原飛行場を守ることにあり、「挺身部隊」として切り込んでいく任務をもっていた(六六八頁)。

 「一九四五年十一月に復員したが、出ケ谷に毒ガス缶を入れていたという建屋があり、中川小学校の講堂には部隊が居住し、理科室では毒ガスの研究もおこなわれていたようだ」と住民は語る(安達礼三氏談二〇〇〇年)。出ケ谷の部隊には三方原教導団も含まれていたとみられ、ここに毒ガスが保管されていた可能性は高いと思われる。

 一九四五年七月、対米毒ガス戦にむけて、三方原教導飛行団西部派遣隊が八尾の飛行場(大阪)へと出発した。気賀駅から二トンのイペリットを一般貨車で輸送した。遠州灘へと米軍陽動部隊が上陸した際には浜松地区への撒毒も考案された(『岡沢』六四頁)。

 北海道の計根別地区も戦争の拠点とされ航空毒ガス弾が配備された。一九九六年一〇月に屈斜路湖で発見された遺棄弾は航空用きい弾であり、戦後に棄てられたものである。屈斜路湖には計根別や美幌の航空基地の毒ガス弾が棄てられたという(大久野島公開シンポジウム『悪魔の兵器からの廃絶をめざして』三六頁)。この計根別へも八尾と同様に三方原からの要員が派遣されていたとみられる。

 教導隊長の知見敏は八月に入り、千葉の海軍洲ノ崎航空隊に行き、航空毒ガス戦用に海軍天山機の使用の許可をえ、八月十五日に横須賀海軍航空隊での毒ガス戦にむけての打ちあわせにむかうが、敗戦となった(『知見』一一四頁)。

 

7 敗戦と戦争犯罪の隠蔽

 

 八・一五敗戦直後の一七・一八日の両日、知見は稲垣少佐に命令し、イペリット一六トン、ルイサイト二トンに及ぶ毒ガスを処分させた。兵器、材料、服や書類などの記録類を焼却するなど、毒ガス戦部隊の痕跡を隠蔽する作業がつづいた。知見は九月一六日まで部隊跡に残っていた(『知見』一一四頁)。毒ガスは浜名湖や飛行団近くの溝に棄てられた。

 八尾でも二トンのイペリットの処分がおこなわれ、信貴山の尼院(朝護孫子寺)の古池に捨てられた。九月下旬、三方原に残っていた黄剤のドラム缶一〇本ほどが佐鳴湖に捨てられた(『岡沢』六九・七二頁)。

 米軍は毒ガス戦についての調査をはじめ、知見は九月一八日、米第八軍化学戦部長チロッグ少将、一九日米軍総司令部ウォーレス中尉のところに出頭、二〇日には米極東空軍バブコップ調査班に出頭し、航空化学戦の沿革や研究について記述した。ここで知見は防護についてのみ示し、攻撃関係については一切を秘匿した。一一月三〇日までに米軍の調査はおわった(『知見』一一四頁)。

 第一復員局史料「陸軍習志野学校状況説明書」(『毒ガスU』一七九頁)をみると習志野学校はガス防護、制毒を主とするものとして描かれ、ガス攻撃(砲撃・撒毒)研究の役割についてはふれていない。

 戦争犯罪の追求に対して日本陸軍の化学戦担当将校たちは防護のみを示し、攻撃については秘匿する形で対応していったことがわかる。

 米陸軍化学戦統括部隊作戦部長ジョン・C・マッカーサー大佐は同部隊長官ウェイト少将にあてた一九四六年五月二九日付の「勧告書」で、日本の毒ガス戦を追及して断罪した場合、米国が今後毒ガスを戦争で使用できなくなり、未来の「自由」を拘束する危険があることを示し、裁判での毒ガス戦追及の中止を働きかけている(吉見義明「戦争犯罪と免責」『戦争責任研究』二六号五頁、前掲大久野島シンポジウム集での粟屋憲太郎氏の発言一九頁)。

 日本側の隠蔽工作と米側の毒ガス免責意図によって毒ガス戦実施の全貌はかくされ、東京裁判では戦争犯罪として訴追されなかった。

だが、浜松周辺に棄てられた毒ガスはその姿をあらわし、真実を訴えつづけたといえる。

環境省が二〇〇三年にまとめた『昭和四八年の「旧毒ガス弾等の全国調査」フォローアップ調査報告書』などから毒ガスの投棄と戦後の発見の状況をみてみよう(引用にあたり『環境省調査』と略)。  

毒ガスは浜名湖に投棄されただけでなく、三ヶ日町大崎の山林にも埋めた。陸軍航空技術研究所三方原出張所はイペリット缶1本を引佐郡中川付近に埋めた(『環境省調査』一五九、一六三頁)。

一九四七年七月一六日、浜名湖に捨てられた毒ガス缶が浮上し、細江の都田川河口でシジミを採取中の農民がイペリットをあびて死亡、治療にあたった医師も被毒した(『静岡新聞』一九四七年七月一七日付)。一九五〇年ころ外浦でドラム缶が浮きあがり、泳いでいた子どもたちが火傷した(江間きみ「館山寺基地物語」『平和への祈り』三二二頁)。

 一九五〇年になって政府は三ケ月間、浜名湖を掃海し、毒ガス缶を遠州灘に再投棄した(『毎日新聞』一九七六年八月四日付)。掃海によって発見されたイペリット缶は一〇〇本ほどという。

 一九五二年六月一日にも浜名湖でイペリット缶による被害者が出た。七月一五日には舘山寺北浜名湖岸にドラム缶一個が漂着した。一九五五年一二月には浜名湖でイペリット缶が見つかった(『環境省調査』一六〇頁)。一九五八年ころ佐鳴湖でドラム缶が浮上した(『岡沢』七二頁)。一九六二年三月、六月に毒ガス缶がそれぞれ二個、一九六三年六月にイペリット缶二個が発見された(『環境省調査』一六〇頁)。

 一九七六年七月三〇日には飛行団の南西部(第97部隊・飛行教育隊跡地)で道路工事中にイペリット缶が発見された(『静岡新聞』一九七六年八月一日付、『環境省調査』一六三頁)。

 

このように毒ガスはその姿を示し、日本軍の毒ガス戦を語り続けてきたのである。

 遺棄され隠蔽された毒ガスはその真相の究明を求めているように思われる。毒ガス攻撃によって被害を受けた人々の尊厳の回復はおわっていない。航空毒ガス戦の歴史を民衆の側の記憶として語りついでいくことは生命の尊厳と戦争廃絶の思想のためにも必要なことであると思う。

毒ガスの研究と実行、航空機による毒ガス爆弾の投下と毒ガスの雨下などについては不明な点が多く、今後の調査課題である。ここでは現在入手できた史料から、浜松陸軍飛行学校と航空毒ガス戦についてその概略を記した。不十分な点は今後の調査で補っていきたい。

 

参考文献

粟屋憲太郎・吉見義明編『毒ガス戦関係資料』不二出版一九八九年

吉見義明・松野誠也編『毒ガス戦関係資料U』不二出版一九九七年

知見敏「報われなかった部隊」航空碑奉賛会編『陸軍航空の鎮魂』一九七八年

岡沢正『告白的「航空化学戦」始末記』光人社一九九二年

鈴木勝「三方原飛行隊の創始と終焉」『戦争と三方原』三方原歴史文化保存会一九九四年陸軍航空碑奉賛会『陸軍航空の鎮魂』総集編一九九三年

防衛庁防衛研修所戦史部『中国方面陸軍航空作戦』朝雲新聞社一九七四年

清水勝嘉『生物化学毒素兵器の歴史と現状』不二出版一九九一年

歩平『日本の中国侵略と毒ガス兵器』明石書店一九九五年

紀学仁編『日本軍の化学戦』大月書店一九九六年

吉見義明「明らかになった日本軍による毒ガス戦」『時効なき戦争責任』緑風出版一九九〇年

吉見義明『毒ガス戦と日本軍』岩波書店二〇〇四年

吉見義明「戦争犯罪と免責」『季刊戦争責任研究』二六・日本の戦争責任史料センター一九九九年

粟屋憲太郎『未決の戦争責任』柏書房一九九四年

粟屋憲太郎編『中国山西省における日本軍の毒ガス戦』大月書店二〇〇二年

矢田勝「浜松陸軍飛行第七連隊の設置と十五年戦争」『静岡県近代史研究』一二号一九八六年

村瀬隆彦「静岡県に関連した主要陸軍航空部隊の概要」下『静岡県近代史研究』一九号一九九三年

紀道庄・李録編『侵華日軍的毒気戦』北京出版社一九九五年

中央档案館・中国第二歴史档案館・吉林省科学院編『細菌戦与毒気戦』中華書局一九八九年

武月星編『中国現代史地図集』中国地図出版社一九九九年

歩平『毒気戦』中華書局二〇〇五年

歩平 高暁燕 ?志剛『日本侵華戦争時期的化学戦』社会科学文献出版社二〇〇四年

木下健蔵『消された秘密戦研究所』信濃毎日新聞社一九九四年

小原博人他『日本軍の毒ガス戦』日中出版一九九七年

アジア歴史資料センター史料(http://www.jacar.go.jp/)

「第七一国会参議院予算委員会第四分科会会議録第二号」一九七三年四月六日

環境庁「旧軍毒ガス等の全国調査について」一九七三年

環境省『昭和四八年の「旧毒ガス弾等の全国調査」フォローアップ調査報告書』二〇〇三年

毒ガス展実行委員会『公開シンポジウム「大久野島から」悪魔の兵器の廃絶をめざして』一九九七年

荒川章二『軍隊と地域』青木書店二〇〇一年

庄内地区戦時体験刊行会『平和への祈り』二〇〇〇年

飛行第六〇戦隊小史編集委員会『飛行第六〇戦隊小史』一九八〇年

戦隊史編集委員会『飛行第七戦隊のあゆみ』飛行第七戦隊戦友会一九八七年

『はままつ』航空自衛隊浜松南基地一九八二年

『浜松陸軍飛行学校の思い出』同思い出会編一九九〇年

『引佐町史』下 引佐町一九九三年

西里扶甬子『生物戦部隊七三一』草の根出版会二〇〇二年

尾形憲『歌と星と山と』上 オリジン出版センター一九九四年

近現代史編纂会編『航空隊戦史』新人物往来社二〇〇一年

 

「浜松陸軍飛行学校と航空毒ガス戦」『静岡県近代史研究』(二八号・二〇〇二年)初出論文に加筆(二〇〇六年)。

 

補足

 

浜松から中国への派兵状況をここでみておきたい(『陸軍航空の鎮魂』総集編四四頁以下、『飛行第六〇戦隊小史』三六頁などによる)。

 一九三一年十一月、飛行第七連隊は軽爆中隊を「満州」に派遣した。一九三二年六月に浜松で編成された飛行第一二大隊(軽爆・重爆)は「在満唯一の爆撃隊」としてハルビン、チチハル、錦州、開魯での戦闘を支援、三四年には公主嶺で第一二連隊へと改編されて重爆隊となり、軽爆隊は飛行第一六連隊となった。この飛行第一二連隊は三七年七月には山海関、錦州、承徳に展開、九月には張家口、大同などを空爆した。三八年八月には飛行第一二戦隊となり、飛行第一二連隊の第二大隊は三八年八月飛行第五八戦隊へと改編される。飛行第一六連隊(軽爆)は三七年七月山海関、天津に展開、三八年八月飛行第五八戦隊となる。

 その後の中国での空爆についてみると飛行第一二戦隊は重慶、蘭州などの空爆に参加、飛行第一六戦隊は河南・湘南作戦などを支援、飛行第五八戦隊は桂林などを攻撃していった。

 三五年一二月に浜松で編成された飛行第一〇連隊(軽爆)は三六年一〇月チチハルに移駐、三九年ノモンハンでの戦闘に参加した。

 飛行第七連隊は三八年八月、飛行第七戦隊となり、四一年には公主嶺に移駐、その後、ニューギェア方面へと送られる。

 飛行第六〇戦隊(重爆)は三八年八月に彰徳で編成されるが、この部隊も三七年七月浜松から派兵された飛行第六大隊を核としていた。三八年十二月には重慶への空爆に参加し、三九年一月には重慶市街への無差別爆撃をおこなう。また蘭州や成都の他、中国各地の空爆をおこない多くの民衆の生命を奪った。独立飛行第三中隊(重爆)も三七年七月浜松で編成され、三七年九月の京漢鉄道や山西省での作戦に協力し、三八年に飛行第九八戦隊へと改編された。三七年七月には飛行第五大隊(軽爆)も浜松で編成され、のちに飛行第三一戦隊となった。このほかにも多くの部隊が浜松の基地で編成され東アジア各地へと派兵されていった。浜松・三方原の航空基地での訓練や研究はアジア民衆の殺りくにつながっていた。