1・30 塩沢忠和弁護士を偲ぶ会

  

2026年1月30日、浜松市内で塩沢忠和弁護士を偲ぶ会が開催され、160人ほどが参集した。塩沢弁護士は1946年に生まれ、2025年10月に亡くなった。79歳だった。

塩沢さんの父は焼津出身、横須賀の海軍に動員され、そこで母と知り合った。1946年生まれの自らの生は日本国憲法と重なるという。2歳で焼津に戻り、静岡高校から東北大学の法学部に進学した。学生時代は70年安保闘争前後であり、学生運動も盛ん、塩沢さんは自治会活動に参加した。20歳の頃、全逓労組東京中央郵便局の最高裁判決(1966年)があった。これは1958春闘の際の職場集会(争議)をめぐる訴訟であるが、公務員の「必要最小限」の争議参加を違法としないものだった。労働者の闘いが争議ヘの参加を一律に違法とする見解をうち破った事件である。

塩沢さんは1971年に司法試験に合格した。仙台で弁護士の講演を聞き、影響を受けてその気になったという。74年に秋田の合同法律事務所に所属し、自由法曹団の弁護士として、女性への賃金差別事件に関わるなど人権救済の弁護活動をはじめた。秋田で弁護士になって10年余、国鉄分割民営化の動きが強まり、国鉄労働組合の秋田地方本部も反対運動をすすめた。しかし国家資本の側の切り崩しによって組合は分断された。塩沢さんは国鉄労組の側で労働弁護士として奮闘した。この闘いの熱の冷めないなか、14年の秋田生活を経て、1988年4月に静岡県に戻った。

塩沢さんは浜松で弁護士事務所を構え、2001年にはままつ共同法律事務所を設立した。浜松でも数々の労働者をはじめ人権救済や環境保全の弁護活動をおこなった。2001年には県弁護士会会長となり、自由法曹団の県支部長としても活動、市民運動にも参加した。

労働関係では、静岡県労働組合評議会解散無効の仮処分申立、中部電力人権侵害の是正訴訟、浜松市職員組合委員長昇任差別の是正訴訟、静岡銀行懲戒処分の無効確認訴訟、丸八真綿リストラ訴訟などがある。そのほかに数多くの過労死やパワハラの訴訟を担った。

特に郵政労働者の人権運動を支え、浜松郵便局戒告処分の取消請求、全逓浜松支部役員配置転換撤回の審理、郵政ユニオン東郵便局配転処分取消の審理、郵政ユニオン更衣時間訴訟などを担当、郵政ユニオンのストライキの現場に来て応援のアピールもした。

学校関係では、養護学級過労自殺公務災害の認定訴訟、新採教員過労パワハラ自殺公務災害認定訴訟などで勝訴した。

自衛隊をめぐっては、浜松基地自衛官人権訴訟(パワハラ自殺)、浜松基地自衛官セクハラ訴訟、小松基地自衛官国賠訴訟などを担当し、勝訴や和解を勝ちとった。浜松基地自衛官人権訴訟で開催された浜松での全国集会ではコーディネーターとして問題提起をおこなった。戦争法反対の市民運動に参加し、戦争させない!9条壊すな!浜松総がかり行動の連絡先になり、共同行動を担った。浜松・憲法9条の会の呼びかけ人となり、集会で講演もした。

環境関係では、かわなゴルフ場建設の差止訴訟、浜岡原発永久停止訴訟などを担当した。浜松での3・11反原発集会に参加し、発言もした。

熱を込めた弁論で勝訴や勝利和解を勝ちとった事例も多い。塩沢さんは、がんばり抜くと神様がご褒美をくれると語っている。はままつ共同事務所の10周年の案内に、アメリカのオリバーホームズ判事の「もし君たちが弁護士として悔いのない仕事をしたなら、君たちは、その時代の苦悩のなかに身を置かなければならない」という言葉が記されているが、塩沢さん自身、時代に苦悩する声の側にたって弁論を続けていた。

資本や権力の論理では敗北していても、苦しい者たちの尊厳の叫びを受けとめ、それを支配に対抗する論理として組み立て、弁論していたと思う。

この10周年の案内には、自由法曹団の規約第2条「自由法曹団は、基本的人権をまもり民主主義をつよめ、平和で独立した民主日本の実現に寄与することを目的とする。団は、あらゆる悪法とたたかい、人民の権利が侵害される場合には、その信条・政派の如何にかかわらず、ひろく人民と団結して権利擁護のためにたたかう」が掲載されている。    (竹)