3・28紀州鉱山朝鮮人追悼碑集会

2010年3月28日、熊野市紀和町で「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑」の除幕集会がもたれ、120人が参加した。

紀州鉱山は石原産業が経営していた銅山であり、1940年から45年にかけて1300人を超える朝鮮人が連行されて労働を強いられた。ここにはイギリス兵捕虜も連行された。紀州鉱山で死亡した朝鮮人の氏名は、この10数年の調査で35人が判明しているが、故郷がわかっているのは6人だけであり、本名がわからないものも多い。調査をすすめる中で、追悼碑をつくる会が結成され、この日の除幕集会を迎えることになった。

除幕集会は春の日差しのなか、テビョンソとケンガリやチンなどの楽器による追悼演奏ではじまった。参加者の黙祷ののち、碑の除幕がなされ、紀州鉱山で亡くなった一人ひとりの朝鮮人の名前が読みあげられた。そのなかで名前を記された石に縛られた紺色の紐が、参加者一人ひとりによってほどかれた。それは、死者の閉ざされた恨を生きる者の側に解き放ち、生きる者が死者の無告の声を聞き取るための行為のようだった。

紐をほどいたのちに、碑文と建立宣言が読みあげられた。建立する会の碑文は、次のようである。

追悼

朝鮮の故郷から遠く引き離され

紀州鉱山で働かされ、亡くなった人たち。

父母とともに来て亡くなった幼い子たち。

わたしたちは、なぜ、みなさんがここで

命を失わなければならなかったのかを明らかにし、

その歴史的責任を追及していきます。

 この碑の横には建立宣言が掲げられ、そこには、1940年から45年までに1300人を超える朝鮮人が強制連行され強制労働させられたこと、これまでに知りえた死亡朝鮮人は35人であること、紀州鉱山では連行朝鮮人によるストライキなどの抵抗があったこと、石原産業が海南島などアジア各地で強制労働をおこなったこと、この追悼碑を起点に、紀州鉱山をはじめ海南島やアジア太平洋各地で日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人々を追悼し、その歴史的責任を追及するという決意などが記されている。

 碑文が読みあげられたのち、追悼の舞が演じられた。白衣の舞は一人ひとりの名前を記した石を前にうつ伏すことから始まった。舞は、音の調べとともに一人ひとりの死者の声を大地の底から紡ぎあげてその姿を形づくり、参列者一人ひとりが死者との魂の対話をおこなう空間をつくるかのようにすすんだ。開かれた体、天に向かって刺される指、閉じられたまなざし、真横に突き出される腕、開かれるまなざし、空を舞う白く短い布、地に落ちた布は拾われ、再び翻る。それは静と動の間に過去と現在とが出会い、語られてこなかった歴史を聞き取り、その継承を約束するかのような表現だった。

さあその姿を現してごらん、命よ輝け、あなたの命の鼓動、あなたのことをわたしは忘れない、あなたをわたしの体のなかに満たす、本当のことを明らかにしよう、あなたの想いを集うものたちに分かち与えよう、このように語っているようにも思われた。

 舞ののち、韓国現地で収集された強制連行された人や遺族の言葉が代読された。それらは連行の強制性を示すものだった。

連行者の証言の紹介を受けて、駐名古屋大韓民国総領事館領事をはじめ、参加者の発言が続いた。韓国から参加した麟蹄郡で調査に関わってきた安浩烈さんは、このような過去が明らかにされるなかで友好が強まっていくと話した。朴成壽さんは、今日を悲しむ日ではなく新たな出発への喜びの日としたいと、日韓の新たな出立の想いを語った。また地元の紀南国際交流会や老人会の代表も朝鮮人の追悼会に賛同する旨を述べた。

主催者を代表して紀州鉱山の真実を明らかにする会の金チョンミさんが、紀州鉱山の朝鮮人の連行と死者の名前については不明なことが多く、碑の建立は新たな出発であるとし、今後に向けての決意を述べた。続いて総連三重、民団三重の代表がメッセージを述べた。

参加者全員が名前の記された追悼の石への献花をおこなった。一人ひとりが花を捧げることで、追悼石はさまざまな色で彩られて輝いた。その輝きは、記されてはこなかった歴史に対して新たな記録を呼びかけるようだった。献花された追悼石を前に、テビョンソの哀愁をもったアリランの音色が響く。

献花ののち、献杯がおこなわれた。追悼の辞の頃から空は曇り始め、献杯の際には小粒の雨が降り始めた。天からの涙を思わせる雨の中、再び黙祷がおこなわれ、集会は終わった。

除幕集会ののちに屋内で集会がもたれ、連行実態やこれからの活動の課題などが提起された。碑を建立する会が提起した課題「これからのこと」を要約すると次のようになる。

追悼集会を秋に年一回おこなうこと、植樹や説明板設置など「追悼の場」を整備すること、死亡者の名前・人数の調査、連行実態の調査、四日市工場の調査など紀州鉱山での強制労働の真実をさらに明らかにすること、石原産業の企業の責任の追及、資料館での展示の追加、行政文書の公開、市史への記述追加などの要請、海南島やマレーシア、フィリピンなどでの調査活動、冊子や映像を作成し普及すること、開かれた事務局会議の運営と資金の確保など。

これらは、全国各地での真相調査や追悼の活動にも共通する課題であると思う。各地で両民族が共に真相の調査と死者の追悼をおこない、歴史的責任を追及することによって、強制労働の現場は新たな友好と共存の場に変わっていく。その意味で、この日の集会は新たな一歩を確認するものであるとともに、近畿・東海地域をはじめ東京や北海道からの参加者に、今後の課題を数多く提起した集いでもあった。                 
    紀州鉱山への強制連行                                    (竹内)

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